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…澄みゆく秋へ…

 

 

 

 日が傾いて、ひんやりとした気が流れ込む谷間の村。あの丘の上から、初めてこの地を見下ろしたときはささやかな集落全体が水底に沈んでしまっているかのように思えた。全てがゆるやかに密やかに。何か大きな腕が包み込んでいるかのように感じられる。

 川面に群れ飛んでいた赤蜻蛉の姿もいつか消えて、あかあかとした夕陽にくっきりと縁取られたススキが頭を重く垂れている。ふわふわとした綿毛は光が透けて金色にきらめいていた。後ひと月もすれば、この地は白いものに覆われる。それが鈍色に空を覆う「雲」からもたらされる自然の産物であることも、昨年初めて知った。

「『雪』はこの地にしか降らないものなのですよ……」
 北の集落の民を示す漆黒の瞳の村人は、ぽつりとそんな風に言った。

 手に乗せるとふんわりと溶けていく泡のような氷片は、南国育ちの狼駕にとっては初めて見る不思議な存在であった。海底の国が北と南では気候もそこに暮らす民の風習もだいぶ違っていることは知っている。だから、色鮮やかな南の花々が北の者たちには珍しいように、この白いものもまだ知らぬ異境の地ならば当たり前なのかと思っていたのである。

 ――そうか、そう言えば……そうかも知れぬ。

 もう遠い昔の出来事のように思えるあの頃。凍てつく西の果ての地をひとり彷徨っていた。あの時、足元に広がっていたのは氷の大地であり、頬を打ち付けていたのは鋭い氷の粒であった。余りの寒さに気が凍り付き、それが乱れ飛ぶ。ごうごうと叫び声を上げながら襲いかかってくるものたちを跳ね返すだけの気力があった頃。

 

「ここは……一体、どのような場所なのだろう……?」

 それが踏み込んではならぬ話題とは知りながらも、やはり気になって仕方ない。妻に至っては、そのような疑問なども湧かぬようである。誰に訊ねるのが妥当かとあれこれ思案したのちに、隣に住まう自分と近い年頃に思える男に切り出してみた。

「いけませんよ、狼駕さん」
 男は穏やかな微笑みを口元に浮かべたまま、しかしぴしゃりと話を終わらせた。

「初めから承知してはおりましたが……あなたは少し賢すぎます。何かことを成す前に、一通り頭できちんと段取りを掴まないと落ち着かないたちなんでしょうね。まあ……それぞれに事情がありますから、致し方ないことなのでしょうけど」

「それは――」

 長きに渡り、領主の跡目として始終緊張の中に身を投じなければならなかった過去がまとわりつくからだ。外ばかりではない、家の中にも敵がいる。そう思えば足元をしっかり固めなければならぬのが常であった。

「いえ、……それ以上は」
 男は自らの口元にそっと指をあてる。

「もう、過去は切り離してしまわなくてはならないでしょう? 色々と考えすぎると、いつか穴に落ちますよ。あなたが何を一番に想い、大切にしていくのかと言うことを心に留めておかれなくては」

 初めの頃は寡黙なたちと思っていたが、なかなかにしてこの男は饒舌である。ただべらべらといたずらに論ずるわけではなく、一番必要とされる言葉だけをするりと胸の内から取り出してくる。
 こちらと大して変わらぬ造りの小屋に、十を頭に五人の子がいる。ひと目で西の者と分かる妻を持ち、その者もあれこれと狼駕の妻に世話を焼いてくれる。妻も西の血を強く受け継ぐ者であったから、遠目に見るとまるで姉妹のようにうかがえた。

「それは……そうなのだが」

 あまりにも正論を突きつけられ、それでもまだ諦めきれない心地がする。そんな狼駕を見て、男はまた微笑んだ。

「幸せなことではありませんか、狼駕さん。私たちにはもう何も残っていない、けれどひとつの無駄もない。ただ、地に足をつけてゆっくり踏み出すことです。それだけでいいじゃありませんか」

 

 いつの間に流れ着く者があり、また知らぬうちに煙のように姿を消す者がある。だが、それらを誰も気に留めることはない。ただ、花が咲き散っていくように、自然の摂理のひとつのように捉えているようだ。

 まあ、……この我が身にあっても。こうして今、二本の足で立っていることそれだけでも信じられぬ心地がする。

 

 家路を急ぐ足取り。長く伸びた影の先端に、乱れた髪の頭が乗っている。

 慣れない山仕事で今日は疲れ果てていた。だが、老齢と思える者たちが自分の倍ほども働く姿を目の当たりにして、ふがいなさを覚えずにはいられない。必死になって鍬を振れば、手のひらには豆が出来て潰れ、ひりひりと痛んだ。

 それでも得たこともある。汗を流し労働すると言うことは何と心地よいのだろう。また妻にひとつ土産話が出来たと思った。きっとあどけない微笑みのままで、今日一日の当たり前の話を聞いてくれるに違いない。

「……すず、帰ったよ?」

 夕餉の支度をしているのだろう、他の家と同じようにうっすらと白い煙が裏から上がっている。表で声を掛けると、すぐにこちらに急ぎ足でやってくる草履の音がした。

「あ……、との」

 長く伸びた鶸の髪を後ろできりりと結い、たすきがけをして前掛けを付けている。丸みを帯びた輪郭をもしもここに双葉がいて見たら、何と言うだろう。毎日飽きずに見つめていても、妻の内側からは新たなる美しさが湧き上がって来るかのようだ。

 妻に見とれているうちに、今度は膝の辺りがほんのりと温かくなった。

「ととちゃま! おかえりなちゃいまち、おちゅかれになりまちたか?」
 視線を下げると、金色の髪の幼子が、菫の瞳をくるんと開いてこちらを見上げている。ようやくに転ばずに駆け回れるようになった頃なのに、何故か舌ばかりがくるくると良く回るのだ。

「はやく、こちらへ! あちをちれいにちて、おあがりになって」

 ぐいぐいと強い力で手を引かれて、狼駕はもうなされるがままだ。肩越しに振り向くと、自分の台詞を全て持って行かれた妻がそこに立ちつくしている。彼女は困ったように微笑みながら、ふっくらしてきたおなかをゆりあげた。

 

◆◆◆


 誰もが容易く思い描くことの出来る当たり前の風景。

 そのひとつとして自分が存在する。繰り返す日々、緩やかに過ぎゆく季節。だが――ここに来るまでの道のりは狼駕にとっても妻にとっても、決して平坦なものではなかった。

 

 妻の住まう里まで辿り着いたとき、狼駕の身体は芯からぼろぼろに朽ち果てていた。そして一度横になったが最後、二度と起きあがれなくなってしまう。近所に住む薬師(くすし)が呼ばれ診てくれたが、そう簡単に治るような症状ではないと険しい表情で告げられたそうだ。

「心の強い御方だ。さもなくば、ここに辿り着く前に闇の魔物に喰い殺されていたであろうに……」

 そんな低い声を聞いた妻の心中はいかほどであっただろう。夢や幻にまで見ていた妻の姿を再びこの眼に焼き付けたのもつかの間、狼駕は再び朦朧とした意識の中に漂うことになった。

 

「との……、との」
 どこか遠くで愛おしい人の声がする。必死の思いで靄をかき分け瞼を開くと、今にも泣き出しそうな瞳がこちらを見つめていた。

「……、ず」
 すず、と呼んだつもりであった。しかし、言葉は半分ほどがかろうじて音になっただけ。すぐに喉が焼け付き、胃には何も入っていないはずなのに、それでも吐き気を覚えた。胸を押さえつつ、身体を横にしてどうにか上体を起こそうとする。だが、長年連れ添ったはずの身体が少しも言うことを聞かない。妻の細い腕が伸び、そのわずかばかりの力で制されてしまった。

「だめ、お休みにならないと」
 そうして額に絞った手ぬぐいを置いてくれる。ぼんやりした視界では今が昼か夜かすら見当がつかぬ。しかし、傍にはいつでも妻がいる。それだけが確かだ。

 気付けのためにと処方された薬湯を飲んだ夜は特に身体がきつくなり、我が身に触れた指で火傷をするのではないかと思われるほど身体全体が熱くなる。苦しくて辛くて、思わず声を上げようとすると、すぐに妻のひんやりとした手のひらが身体をさすってくれた。

 あの頃はあんなにも儚く頼りなく思えた存在であったのに、必死で守り抜こうと決めた女子がしなやかに強い心根を見せる。申し訳ないと思いつつも、世話になるしか生きる道はなかった。
 もしかしたら、このまま枕の上がらないまま廃人のように生涯を送らねばならぬのではないか。そう思うと恐ろしくて仕方ない。もしも自分ひとりしかないならば、何もかもを投げ出してしまいたくなったであろう。

 そして、もうひとり。我が命を確かに受け継いでくれた幼子が同じように隣のしとねに寝かされていて、病床の暮らしを和ませてくれていた。
 初めて見たときは、まだ頼りないばかりの存在だったはず。それが瞬く間に内側から生命の息吹を激しくほとばしらせるように、どんどんしっかりしてくるのだ。手足をバタバタと自由に動かすようになったと思ったら、なにやら猫のじゃれつくような甘い声を出すようになる。自分の手や足を眺めながら、飽きることもなく遊んでいる様は微笑ましくてならなかった。

 

 赤子がその辺を自由に這い回るようになった頃、ようやく粥の上澄みを口に運べるようになった。そしてそれがひと匙ふた匙と増えていくごとに、自分でも感じ取れるほどに身体がしゃっきりとしてくる。

 そうなればもう、身体は他の疼きを感ずるようになっていた。

 

◆◆◆


「……すず?」

 辺りはやわらかな闇色の気に包まれていた。小屋の外もしんと静まりかえり、夜の更けゆく頃を感じさせる。やわらかな春の月明かりが天を染め、その輝きが天窓から差し込んでいた。

「ん……、との?」

 粗末な衣をあるだけ掛け合って、まだ春浅い底冷えの夜をしのいでいた。贅沢は出来ないため、凍てつく冬でも夜更けは火をおこさない。寄り添う互いのぬくもりだけが、全てだった。
 けだるそうに妻が目を開ける。そして、いつものように不安げにこちらを見上げた。夜中に急に揺り起こされるのは、どこか具合が悪いのだと察しているのだろう。

「……との……!?」

 いつになく強くかき抱いたために、全てを察したのであろう。ようやく捉えた細い身体が狼駕の腕の中で暴れた。

「駄目、……との、駄目っ……!」

 乱れた髪をかき上げて、細い首筋に口付ける。強く吸い上げると、妻は悲痛な叫びを上げて、なおも逃れようとした。

「もう、良いではないか。俺はもう待てないぞ、すずが欲しいのだ……応えておくれ」

 脈打つ頸動脈、寝着の袷の奥からは以前と少しも変わらぬ甘い花の香りがした。傍らに愛おしい者を置きながら、我がものに出来ない日々は苦痛の他の何でもなかった。喉が渇くのと同じように、妻の身体を欲する。ひとつになることで、何かが変わるのだと強く感じた。

「嫌、嫌っ……、駄目ぇ……!」

 しかしながら、どんなに働きかけようとも妻は頑なに拒んだ。とうとう最後には身体をふたつに折ってうずくまったまま、泣き出してしまう。ほろほろと珠のような雫をこぼしながら、いつまで経ってもたどたどしい言葉で必死に思いをほとばしらせる。

「駄目っ……、とのが、とのが死んじゃう。とのが壊れてしまう。だから、まだ駄目。許して……!」

 そう叫んで、ようやく面を上げる。翠の瞳の奥が消えそうな瞬きを見せていることに狼駕は気付いた。

 

 正直、再びことに及んだとき、このように拒まれることなどないと信じていたのである。胸を震わすこの想いは、とても言葉では言い尽くせない。身体全体で妻を包み、唇で手のひらで、そして自分自身で愛したい。浅ましいと思いつつも、それが真実であった。

 あの、南峰の館で。妻と過ごした泡沫の日々は、決して平坦なものではなかった。何度も心がすれ違い、互いを互いに想い合いながらも傷つけ合った。幾度となく拒絶され、頑なな心で打ちのめされ、こちらまで意固地になったこともある。
 だが、一度打ち解けてしまった後は、深い愛情だけがふたりを支配していた。互いを見つめ合い、ぬくもりを分け合い、身体を重ね合うことでようやくひとつになれる。言葉を持たぬ妻を知るためには、ささやかな反応を感じ取るしかなかったのだ。

 

「との、嫌ぁ……。とのが、死んじゃう。許して、とのがいなくなるのは嫌っ……!」

 震える唇から想いが溢れ出す。細い指先が伸びて、狼駕の頬を辿り、やがて首筋にすがりついてきた。彼女の動きから遅れて、辺りに舞い上がった鶸の髪がほのかな光の中ゆらゆらと泳ぐ。そのきらめきの行方がいつか見た美しい錦絵のように感じられた。

「すず、……おお、すず。すまぬ……泣くな、分かったから。もう泣くな……!」

 我が身に絡みつく腕の強さに、目眩を覚えた。それは懐かしい日々をそのまま思い起こさせる感触。そして、気付く。妻の真実を。押し殺した嗚咽を上げながら、大きく肩を震わせる。その細い身体の内側に何があるのか。

 そっと背をさすってやる。よく妻がぐずる赤子にしているように静かにそれを繰り返すと、ようやく腕の中の呼吸が徐々に凪ぎて行くが如く穏やかになってきた。

 

「許せ……すず。すまなかった」

 互いの身を元通りにしとねに横たえ、髪を撫でてやる。しっとりと巻き付いてくる妻の腕は、狼駕の身を再び熱くしたが、ここはもう耐えるしかない。こうして、巡り会えただけで良いとしなければならぬのだ。焦って何になる。妻はこんな風に使い物にならなくなった男に尽くしてくれる。その心を信じずにいかにするか。

「すず、……俺が欲しいか?」

 静かにそう訊ねると、妻は予想したとおり、怯えた眼で見上げた。狼駕はそれに静かな微笑みで応える。

「……案ずるな、今この時にどうするとは言わぬ。だが、これだけは知りたいのだ。お前は……こんな何もなくなった男でも、良いのか?」

 妻の唇が、かすかに震える。何かを伝えようとして一度つぐみ、そっと身を寄せてきた。

「とのが……好き。とのがいれば、それでいいの。とのは……あたしだけの、もの。あたしも……とのの、もの」

 想いをほとばしらせる身体がにわかに熱を帯び、かすれる声が必死に心を辿る。伝えよう、伝えようとするまっすぐな心根だけがしっとりと狼駕に届いた。

「そうか、……そうか」
 そう告げる狼駕の頬にも、熱いものが静かに流れ落ちていた。

 何時明けるとも知らぬ夜も、ここではふたりを包むやわらかな真綿のしとねに変わっていく。指先に宿る力を信じようと、強く思った。

 

◆◆◆


 菜っぱと雑穀が同量の割合で入っている雑炊と煮豆の小鉢。それに川魚の干物でも付けば上等。初めは病人食だからこうなのかと思っていた。だがしばらくして、周囲の家でも日常は皆、これと似たような膳を味わっていると知る。
 すっかりしぼんでしまった内臓には十分な量ではあったが、これが庶民というものなのだと身をもって感じていく。

 

 一歳の祝いを待たずに幼子がとことこと歩き出した頃、狼駕もようやく病人としての生活を終えようとしていた。こちらに辿り着いた頃は夏も盛りの頃であったはず。いつの間にか指先の凍える冬も過ぎて、水がぬるんできた。窓辺に春を告げる野の花がつつましやかに活けられ、甘い香りを放っている。

「こすずが、みんな口にしてしまうから。用心しなくてはなりませんね」

 妻は飾り紐を作る仕事の他に、近所の繕い物を引き受けて生計を立てている様子であった。

 それほど贅沢をしているわけではないが、赤子と病人を抱えていればそれなりに物いりである。それほど法外な額ではないと言うが、それでも薬師に払う銭もいるのだ。ようやく一日の仕事を終え、寝支度を整える。棚に置いた小さな行李を手にする頃はもう夜も更けていた。

「……お前の名は、何というのだ」

 愚痴ひとつこぼさず、口元には淡い笑みさえを浮かべて、せっせと手を動かしている。南峰の館で暮らしていた頃から、手先の器用な女子だと思っていた。今ではその指先もカサカサに白く粉を吹き、ひびも切れるという。薬師が分けてくれる軟膏ではとても間に合わず、糸で血を滲ませていることもある。妻の手が止まり、静かに面を上げた。

「まことの名があるだろう? いつまでも偽りの名で呼ぶのは忍びない、教えておくれ」

 

 自分が娶ったのは、山持ちの豪族の娘。そう信じて疑わなかった自分である。だから、妻と打ち解けたあと、親しみを込めて「すず」と呼んだ。だが、それは妻の真の名ではない。
 あの頃も、それがどんなにか妻の心を傷つけてきたことであろう。高貴な姫君の名で呼ばれるごとに、己が形代であることを思い知らされる。いつかは「本物」に取って代わられてしまう儚い存在。何も知らずにいたから仕方ないとは言え、可哀想なことをしてしまったと今でも心が痛む。

 我が身を持ち直すことだけに必死で、大切なことが後回しになってしまった。こうして身体が元に戻りつつある今、もう一度ふたりの暮らしを一からやり直したいと思う。妻は何もなくなった自分のことを、こんなにも深く想ってくれる。その心根に報いたい。これからはお互いの手と手を取り合って、同じ足取りで進んでいける。妻がそれを望んでくれるのであれば、狼駕にとって、もうこれ以上の幸福はない。

 

「……との?」

 妻はしばらく何かを思案しているようであった。

 ぼんやりとしたその様子はあの頃から変わらない。喉を潰すほどの強い薬のために、身体を蝕まれていたと言うだけではなく、妻はもともとが大人しい気性であったらしい。母親とふたり、根無し草のように村から村へと点々とする暮らしを続けていたという。他に頼る者もなく、話をする相手も母親しかいなかった。
 語彙も恐ろしく少なくて、こちらがひとつひとつ言葉に色を加えてやるような感じで過ごしているが、そのやりとりはまるで小さな子供に対しているようである。新しい言葉をひとつ覚えるごとに、妻は嬉しそうに頬をほころばせた。

「あたしは、『すず』でいい。……とのがくれた名前、だから」

 もっと他に言いたいこともあるだろう。だが、妻にはそれを表現することが出来ない。全く答えになっていない返答に、狼駕の胸は熱いものでいっぱいになってしまった。

「おお……またそのように申して……。いいのだよ、もう全てを解き放て。お前は偽りの姫ではない、俺の大切な妻だ。分かるな……、分かっておくれ」

 妻の心はいつも痛いほどに伝わってくる。それがたまらなくなる。やさしい言葉ばかりで包んでくれる人を、肉の落ちた頼りない腕で抱きしめた。

 

 他の者とのやりとりならば、そこにいくらかの体裁を感ずることもあろう。上辺だけの言葉は、狼駕の過去の生活において当たり前のことだった。こちらを喜ばせ、気持ちよくさせるために相手は持ち上げてくる。――全ては巡り巡って、自分に有利になるように。分かっていながら、素知らぬふりで過ごす。何とも味気なく、実りのひとつもない日々であった。

 妻がこのままでいいと言うのであれば、無駄な物思いはこの際必要はないであろう。だが、それでは狼駕の気が済まぬ。たかだか、呼び名ひとつと申せど、それがとても重く感ずるのだ。もう妻の母はいない、だから腕の中にいる本人から真実を導き出すしかないのだ。

 

「との……、あたし、一度死にました」

 幾度も言いかけてはやめることを繰り返したあと、妻はたどたどしい言葉でようやくそう告げた。細い腕が背に周り、衣を握りしめる。何かを辛く、思い出そうとしているようだ。

「母さまが、亡くなったとき。あたしも死のうと思いました。……ううん、もう、心は死んでいたと思う。母さまがいないなら、あたしもいない。身体の力も抜けて、母さまが呼びに来てくれるんだって、思った」

 

 それは、必死に絞り出す妻の嘆きであった。初めて妻が、自分に触れてきたとき。衣の裾を握りしめるだけの行為ではあったが、妻の気性からすればそれがどんなにか大変なことであったか今は分かる。あの頃の妻は、あと二日三日気付くのが遅れれば、儚く逝ってしまいそうな朽ち果てた姿であった。

 あの時の骨と皮ばかりの腕を思い出すと胸が締め付けられ、狼駕は次の言葉を失ってしまう。ただ、抱きしめる腕に力を込め、やさしく鶸の髪を梳いてやることしか出来なかった。

 

「とのが……あたしに命をくれたから。あたしは、あの時から、もう一度生きた。とのが、いたから。……だから、とのがくれたのが、あたしの名。……それでは、駄目なのですか……?」

 妻の手のひらが狼駕の背に周り、衣を握りしめる。ぬくもりを感じ取り、ようやく安堵する妻の顔を日に何度も見てきた。いつまでそのように不安を抱えているのだろう。もう、他に戻る場所などないのに。もしも、妻が自分を見捨てたら、狼駕には生きる希望もない。情けない話ではある、だがそれが真実であった。

「あたしは……とのが好き」

 何もかも、捨ててきた。もう何も残っていない。あるのはこの身体と心だけ、生まれ落ちたときに天から授けられたものだけに戻った。かつて己を巣喰った欲は、時折波のように狼駕を苦しめる。粗末な衣をまとい野ネズミの如く働く妻を見れば、何とも情けない気分に襲われてしまう。

 

 ――もしも、かつてのように富を自由に出来る身分であったなら、もっと楽をさせてやれるのに。

 

 だが、そのように後ろ髪を引かれる想いも、妻のやわらかな眼差しが癒してくれる。こうしてふたりで寄り添っているだけで、どんなにか満たされることか。これこそが己の望んだ全てだ。やはりこの人なのだ、この人しかいなかったのだ。

 それがようやく狼駕の中で実を結んだ、たったひとつの真実。もう、躊躇いはしない。

 

「……俺で、いいのだな?」

 言葉を区切り、確認するように耳元に告げた。そして、ゆっくりと呼吸を整える。はやる気持ちを必死に押さえるように。

「と……の?」

 こちらは急いでいるつもりはない。だが、妻の瞳の色がにわかに変わった。ぴくりと肩を震わすと、寄り添っていた身体を慌てて剥がそうとする。

「駄目っ……、との。また、そのようなことを。だってお身体が……まだ、駄目。待って……!」

 必死に抵抗する余り、細い指先の爪が狼駕の腕を掻いた。しかし、こちらにはもう迷いはない。出来る限り、優しく諭す。久々に、父親の心地が戻ってきたような気分だ。どうにかして逃れようとする腕を掴み、こちらに強く引き寄せた。

「もう、大丈夫だ。今日、きちんと薬師様に確認したから。……俺も明日からは普通の村人として生きていける。この先はすずと共に、ここで長く生きていきたいのだ。……分かるな、お前が俺の妻だと言うことを教えておくれ?」

 領主の跡目として何不自由なく暮らしてきた身の上であった。そんな自分がすんなりと庶民の暮らしに馴染めるとは思わない。最初は上手くいかぬこともあるだろう。正直、心を決めたつもりでも、まだどこかに不安が残る。明日に向かう勇気を、己に植え付けて欲しい。それが出来るのは妻しかいない。

 妻は絶え間なく震えていた。何かに強く怯えるように。重く辺りを満たす夜更けの気が、鶸の髪の乱れを受け止める。ようやく顔を上げた妻は、きゅっときつく結んでいた口元を少しばかり震わせた。

「や、……そんな。いきなりは駄目、……支度、出来てない。今日は駄目、綺麗じゃないから」

 たどたどしくそう告げながら、しかし妻が降りかかる恐怖にも屈することなく何を求めているのかは分かった。だが、それと同じくらいの強さで妻の中の何かが彼女を制している。寄る波と返す波。荒い呼吸が行き交う。狼駕の指先は、その思いをじんじんと感じ取っていた。

「……な、何を申す。先ほど、こすずと一緒に身体を拭いていただろう。あれで十分ではないか、何をそんなに支度がいる……?」

 このように拒まれるとは心外だ。何故、こだわっているのだ。

 もともと、この地に入浴の習慣はない。毎日湯をふんだんに使うのは、春を売る遊女だけだ。だから、過ぎるのはかえって蔑まされる行為である。ことに庶民にあっては、毎夜釜に残った冷めた湯で身を清めるくらいだ。

 だが、こちらが強く出れば、同じくらいの力で妻は拒絶する。何がそんなに彼女を頑なにさせるのか、狼駕には分からなかった。

「だって、……だって。違うから、とのはがっかりなさる。それは嫌、とのが可哀想……!」

 妻はほろほろと涙の雫をこぼしながら、何度も何度も繰り返した。言葉のひとつひとつが柔らかい矢になって、狼駕の胸を突く。そのたびに、たとえようのない深い痛みを覚えた。かつて言葉を持たぬこの妻と暮らしたことで、その深い想いを感じ取る術に長けてしまっていた。他人には造作ない響きですら、狼駕にとっては熱く重く感ずることが出来る。

 

 ――とのが、可哀想。

 やはり、妻は己を責め続けていたのだ。そう考えさせるような態度は取った覚えもないが、それでももし自分がいなければ、と考えてしまうのは仕方のないことだろう。夫となった男は今もあの南峰の館に跡目として住まっていたのだと思えば、それこそ身を切るような辛さに違いない。

「あたし……、お姫様になりたい。一度だけ、……最初だけ。……だから、待って」

 そう告げながら泣きじゃくる人の真の想いが伝わらぬほど離れている心ではない。これ以上、言葉はいらない。今、狼駕に託されているのは、たったひとつの行動だ。妻に、この想いをしっかりと伝えるために。もう一度、ふたりが始まるために。

 

 他に音のない浅い春の夜。

 ささやかな部屋の壁に、静かな衣擦れの音が響いた。身にまとう衣を、一枚一枚剥ぎ取っていく。いつもどのようにそれをしていたのか覚えがないが、今宵はまるで静かな舞のように指先が動いた。

 最後の一枚が床に放たれたとき、狼駕はほうっと安堵の吐息を吐いていた。

「……すず、面を上げなさい」

 静かにそう告げると、妻は泣き濡れた頬のまま、ゆっくりとこちらを見上げた。そして、己の目に映ったものに驚いて、すぐにまた顔を背けてしまう。震える頬が茜の色に染まっていた。そんな初々しい姿に、狼駕は喉の奥で少しだけ笑ってしまう。

「何を今更、そのように。……お前も早く、こちらにおいで? 衣など、いらぬ。そんな心を飾り立てるような無駄なもの、馬鹿馬鹿しいとは思わぬか。――それとも、すずの愛したのは、美しい衣をまとった男であったのか……?」

 閨で愛を語るときに、衣が邪魔になるのは何故であろう。

 確かに、薄暗い部屋では、そうはっきりとお互いを見ることは出来ない。それでも、肌のぬくもりを直に感じ合い、その鼓動をたかまりに汗の滲む肌を重ね合うことで、互いをより強く知ることが出来る。そんなことも、妻が教えてくれた。閨の真実も、それまでの狼駕には分かっていなかったのだから。

 ――初めての夜、妻の心に触れたいと思った。お互いの後ろにあった様々なしがらみなど、最初から必要なかったのだ。

「あ……」

 もしも、ここがあの頃の館であったなら、妻は几帳の向こうに身を隠すことも出来ただろう。だが今、ふたりに許された距離は、互いの腕を伸ばしあってようやく指先が触れ合うほどのささやかな距離だけだ。無理に組み敷くことも難しくはない。しかし、ここは待ちたかった。もう一度、最初から始めるのだ。今度は妻の方からゆっくりと心を寄せて欲しい。

 身体を少し斜に構え、視線は朽ちかけた部屋の壁に合わせた。しんしんと冷えてくる夜の気など、もう敵ではない。

 

「との……、あの」

 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。もしかすると、ほんの一瞬の間合いであったかも知れぬ。狼駕が誘われて面を上げたとき、妻は静かに自分の衣の腰ひもを解いた。するりとそれが頼りない紐に戻ったとき、草木染めのささやかな野良着が、ふわりと宙に舞い上がる。

 ――まるで、蝶の羽化の如く。そこから飛び出してきたのは、天女の如く美しい、幾度となく夢にまで見た姿であった。

「お……、おお」

 言葉では言い尽くせない懐かしさが、胸に押し寄せてくる。必死で腕を伸ばすと、胸の中にしっとりとしたぬくもりが飛び込んできた。辺りに散らばる鶸の流れが、さらさらと音もなく後を追う。

「同じ、……とのと、同じ」

 妻はようやく自分の中にひとつの答えを見つけたのであろう。嬉しそうにそう言った。その瞬間に、ふたりは長い旅に終わりを告げる。彷徨い続けた魂は、ようやくあるべき場所に戻ることが出来たのだ。幾度となく口づけ合い、ふたり同じ色の涙を流す。次第に色づいていく妻の肌は、記憶の中よりもいっそう甘い香を放ち、言葉よりも先に狼駕を誘う。

 壁に映るふたつの影が、ゆっくりと床に落ちていった。

 

 手のひらに感じ取るぬくもりは、以前よりもいっそう愛おしくかけがえのないものに感じられる。こちらに辿り着いてから、解毒の措置を受けて、妻は瞬く間に普通の身体を取り戻すことが出来たという。ほっそりとした手足は以前のままであるが、丸みを帯びた女子の部分が温かな母親らしい造作に変わっているのがとても嬉しく思えた。

「やっ……、との。そんな……!」

 白い柔肌に、ひとつ、またひとつと花色のあとを付けていく。そのたびに、妻の口元から以前にはない恥じらいの声が漏れ出でる。それが嬉しくてならない。無理矢理押さえつけ、特に強く感じるその部分に吸い付くと、いやいやと首を振りながら衣に顔を埋めてしまった。

「お願い……、との。ひどくしないで……あたし」

 潤んだ瞳でそう訴えてきても、どうして頷くことなど出来よう。さらなる波を呼び起こそうと、狼駕は奮い立った。妻のことなら知り尽くしている。それを呼び戻してやればいい。造作のないことだ、ふたりの行き着く場所が同じであるなら、戸惑いなどいらない。

 己の中にある激しさを、妻も持て余しているのであろう。絶え間ない愛撫に幾度となく軽いたかみにのぼりつめながら、なおも恥ずかしそうに身をよじる。ぴくりぴくりと痙攣する曲線は、たとえようもなく艶めかしく、ぞっとするほど美しかった。

「……との……」

 翡翠の耳元に唇を寄せれば、熱い息と共に燃える瞳がさらなる奥地へといざなう。

「そうか、もう待ち切れぬか」
 応える狼駕も、もう耐えきれる状態ではなくなっていた。

 

 妻の柔らかい部分に己を埋め、新たな熱を何度も何度も伝えていく。

 鶸の輝きがうねり、ふたりを閉ざし始めた。まるで生きているように思えるその流れが、狼駕の想いをさらにたかめてくれる。指に絡め取ると、唇を寄せ、懐かしい花の香に酔った。

 互いの想いを確かめ合いながら同じ場所までのぼりつめるとき、狼駕の瞼の裏に一瞬過ぎったのは、忘れもせぬあの日の白の舞であった。

 

◆◆◆


「……望むことは出来ぬのであろうか」

 ある夜、愛し合ったあとの肌を寄せ合いながら、じんじんと湧いてくる余韻に身を預けていた。以前のように、貪るように愛し合うことは病み上がりの身体では望めなかったが、それでも慈しみ合うごとにさらに深まる愛情に、あの頃にはない満ち足りたものを感じることが出来た。

 妻の髪を梳きながら、ふと、狼駕は独り言のように呟く。

「すずの子が欲しい。……こすずはとても可愛らしいが、あれはどこから見ても俺の子だ。願わくば、小さなすずを愛でてみたいものだが……」

 西の民は、己を未来に伝えない種族だ。交わる相手を鏡に映したような子を産むと言われている。それを妻は産み落とした我が子で証明していた。

 だが、それでは淋しすぎる。これから、長い時間を添い遂げようと思う自分たちであるが、どんなに強く願ってもいつかは終わりが来るであろう。遙か遠い未来まで、妻の面差しを伝えることは出来ぬものか。南峰の民としての姿には誇りを持っていた。しかし、時折、己も西の者であったならと願ってしまうことがある。

 互いに支え合い生きていくのに、これでは申し訳ないばかりだ。妻の子はいくらでも欲しかったが、己の化身ばかりを増やすのもどうかと思っていた。

 

 妻はしばらく何かを思案するように無言でいた。しかし、やがて静かに身を起こすと、美しい身体を窓から差し込む天の輝きに晒しながら答える。

「強く念ずれば、叶うかも知れません。こちらは……そんな場所のようですから」

 新しい命が妻の中に宿ったのは、それからしばらくしてのことであった。

 

◆◆◆

 
「おお、今日は可愛らしい衣を着せて貰っているのだな」

 妻が夕餉の膳を整えてくれている間、幼子を膝に抱きぼんやりとまどろむ。一頻りおしゃべりをしたと思ったら、もう寝息を立てている。はしゃぎすぎて疲れたのかも知れない。膝がとたんにしっとりと重くなり、全身を預けられた豊かな心地に一日の疲れも吹き飛んでいく。狼駕にとってなにものにも代え難い、幸せなひとときであった。

 くるくると金の髪はやわらかなウェーヴを描き、ようやく生えそろってきた。長く伸ばせば、どんなにか美しくなるだろう。朱色の地に小花をたくさんちりばめた布は、まるで特別にあつらえたようによく似合っていた。

「夕さまに、頂きました。たくさんあるから、使ってって。こすずが可愛くなって、嬉しい」

 自分たちをそっとうかがう妻はいつも穏やかな微笑みを浮かべ、やはり与えられた日々を心から愛おしんでいるのが分かる。

 

 初めの頃こそは、人から恵んで貰う生活が、あの辛い放浪の日々を思い起こすようで哀しかったが、ようやく馴染んできた。
 それを情けないと思わなければいいのだ。自分に出来る十分を持ち寄って、ささやかに幸せを紡ぎ出す。この村に暮らすために必要なのはそれだけだ。もしも、新たな導きがあらば、そちらに行けばよい。一生をここで過ごす者もあれば、姿を消す者もある。

 今日は珍しく野良仕事の手伝いなどをしたが、普段の狼駕は村の子供たちに手習いや算術を教えることを生業としていた。妻の手仕事と自分の働きで、どうやら人並みの生活が営んでいける。人にものを教える仕事が自分に向いているかどうかも分からないが、色々と考えた末、出来ることはこれだけだった。
 毎日、小さな子供たちに囲まれていると、時間があっという間に過ぎていく。時には手の込んだ書き物などを近所の者から頼まれることもあり、小さなかたちばかりの文机で墨をすりながら夜なべすることもある。妻もこの頃では、仮名文字などは覚えてきたので、書き損じなどを手にしては得意そうにとびとびに読んでいく様も可愛らしい。

 

 時折、うち捨ててきたはずのあの日々が脳裏に浮かぶことがある。父は、懐かしい者たちは、その後どうなったであろうか。息災であればよいが、それを望むのはいささか虫が良すぎるようにも思える。あの頃、もはや、闇は迫っていたのだ。それを知りながら、大切な場所を守ろうとしなかったのは自分自身であるのだから。

 後ろを向いては駄目なのだ、それは分かっている。前を見て、足元を確かめつつ、進んでいけばいい。道は己の歩む方向に、必ず現れる。

 

 もうじき、この地を優しく包み込む「白」。それが消える頃、新しい家族がこの小屋に増える。その日を待ちながら、今年の冬支度が始まるのだ。

「素敵、これで新しい綿入れが作れますね」

 今日の収穫は、痩せた土地にかろうじて実った綿の実。いっぱいに詰まった麻袋を覗き込んだ妻が、労をねぎらうようにあたたかな微笑みを浮かべた。



了(040725)

 

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