-------------------------------------------------------------------その2★槇原菜花 ――へええ、意外。彼もあんな風に緊張するんだなあ……。 フェンスの際にずらっと一列に植えられているひまわりの向こう側、ちらちらと見え隠れするひと組のカップル。なかなかこっちにやって来ないんだもん、思わず仕事の手を止めて「お出でお出で」しちゃったわ。 まあ、彼がこんなに遠目に見てもかなりうろたえている理由は分からないではない。 あたしだって、庭先に出て滅茶苦茶焦ったわよ。何、この辺り一面の青紫色のオーラは……! 突き抜けるようなピーカン青空の下、どうしてこんなに背筋が寒くなるのか不思議だわ。ちょっと抜けているように見えて、あちらの彼はかなり直感力に優れているのかもね。 「おい、菜花。野菜はまだ用意出来ないのか。焼き具合が違ってくるから、あまり時間を掛けないでくれ。ほら、またタマネギと椎茸の位置が違っているぞっ!」 うわー、手がお留守なの気付かれたか。パパお手製の備え付けかまどでは、すでに「焼き」の作業が始まっている。もうすっかり板に付いたエプロン姿のパパは、頭に共布の三角巾。うーん、ここまで徹底するとギャグなんだけどなあ。そのまんま「慎吾ママ」を連想しちゃうわ。やってる本人大まじめだけど。
何しろ、パパのバーベキューにおけるこだわりは半端じゃないからね。 あたしがちっちゃい頃から、アウトレジャーと言ったらいつもバーベキューだった。その頃はお家にこんなかまどなんてなかったから、色んな施設まで足を運んで楽しんでたの。営業所の所長さんでお仕事が忙しい頃だったのに、今考えるとすごいパワーよ。 ……ああ、そうよ。間違っても、こんなにとげとげしてなかったわ。お料理を始めたパパがいきなりきつい顔になってこだわりやさんに変身するのはいつものことだけど、やっぱ今日は異様だよ。だいたいお野菜の順番なんて、どうしてそんなにこだわるのよ。パパの美的センスって、イマイチ信用出来ないし。 そう思いつつも、余計なことを言わずに出来上がった分の野菜串を差し出す。 またここで私が口を出せば、もっとこじれるのは分かってる。パパの脳の老化防止のためには愛娘とのそんなやりとりも大切かも知れないけど、今日はお客様の手前だし、やめておこう。これ以上、岩男くんに気を遣わせたくないしね。
「やっぱり……、オレのせいなのかな? 今日の透さん……」 さっき、食材を取りに行ったキッチンで、岩男くんはぽつんとすまなそうに言った。大きな背中を丸めて、クマさんがしょぼんとしてるみたい。すっごく可愛いなと思ったけど、ここで笑っちゃったら申し訳ないと必死で堪えた。でもなー、違うと思うよ? 今朝の岩男くん、朝ご飯を済ませて8時過ぎには来てくれたけど、その時点ではもうこんな感じだったもん。少しは関わりあるにせよ、直接の原因ではないと思う。 ――どうもね、岩男くん。 就職の内定を貰ったその足で、ウチまで来たらしいの。全く、人に相談もなしにひどいわ。スーツ姿がばっちり決まっていてすごく格好良かったってママは言うけど、平日で勤務中だった私は口惜しい限り。どうして気付かれないようにぱちりと写真に収めてくれなかったのか、残念で仕方なかった。……とと、それはいいとして。 とにかく、岩男くんにとっては。こっちで就職を決めて戻ってくることが、あたしとの仲を新しい段階に進めるためには不可欠だと思っていたらしいのね。向こうでも希望にあった就職口はいくつもあった様子だし、大学に残って研究を続けたらどうかとも打診されたみたい。そんな風にたくさんの人から認められちゃう彼が、やっぱすごいなと思うよ。でも最終的に岩男くんが選んだのは食品会社の研究員だった。 そうかあ、あたしと岩男くん、やっぱりちゃんと繋がっていたんだなあ……って嬉しくなった。 あたしは短大の家政科で食物学を専攻してたの。今はアパレル業界にいるから、ちょっと信じられないかもだけど。ゆくゆくは岩男くんのお嫁さんになるんだし(もう、あたしの中ではそう決定してた)、きちんと栄養面まで考えたご飯を作ってあげるんだって思って。えへへ、献身的でしょ? 偉い、偉い。 「こちらで就職が決まりました、春には戻ってきます」 ……って、しっかりした口調で岩男くんは言ったらしい。ああん、もうっ! ママはずるい。ひとりでそんな美味しいシーンを眺めていたなんて……! もうデジカメじゃなくて、ビデオを出動させないと駄目だったわね。ううう、口惜しい。まあメカ音痴のママだから、預けたところで天井しか映ってなかったかもだけど。 ――で、パパは。 しばらく無言で、じーっと岩男くんの顔を見つめていたらしい。そのシーンがまるで大相撲の立ち会いシーンみたいだったと、またもママのコメント。ううう、それじゃ格好いいんだかギャグなんだかさっぱり分からないーっ! 緊張が過ぎ去ったあと。パパは視線を窓の外に移してぽつんと言ったんだって。「じゃあ、夏に戻ってきたときにはバーベキューをしようか?」って。 その話をあたしが聞いたのは、帰宅途中の駅のホーム。岩男くんにしては珍しく、携帯なのにすごく長電話だったの。声が震えていて、泣いてるみたいだった。とんぼ返りで大学に戻ってしまった彼とはその時は会えずじまい。それでも、……そんな風に一番に伝えてくれたことがとっても嬉しかったな。 まだね、その後具体的に話が動き始めたわけではないの。 だいたい、岩男くんはこれから社会人になるんだし。最初は仕事になれるだけで精一杯だと思う、彼の性格から言っていい加減なことは出来ないはずだしね。あたしの方だって、まだまだ駆け出しの状態。すっごくやりがいのある仕事だし、出来ることなら寿退職はしたくない。将来子供が出来ても、どうにかやりくりして続けたいなって思ってる。 でもっ、やっぱりうきうきするよ。こんな風にふたりの目標が、きちんと同じ方向に向き出したんだもの。今までお互いに自分自身の足場を固めることに必死だったけど、これからは違うよね? あたしたちは、あたしたちなりに、幸せな未来を作っていくんだ。ひとりじゃ難しいことも、ふたりで頑張れば出来そうな気がする。だって、岩男くんが相手だもん。絶対に絶対だよ?
……ぷつ。 オクラ、なす、ししとう、カボチャ、パプリカ、固ゆでしたトウモロコシ。昨日は一日お店を閉めて、パパが佐野のおばあちゃんちまで収穫に行った産地直送のお野菜。大きめにカットされたそれを、凶器になるくらいキラキラに磨かれた串に刺していく。そんな作業を再開しつつ、あたしはまた「青紫オーラ」の方向を見た。 この位置から見ると、元山岳部で鍛え抜いた身体が邪魔でよく確認出来ないんだけれど。実は禍々しいオーラを発しているのはパパひとりじゃないのよね。煉瓦かまどの向こう側、もう一カ所じゅうじゅうと煙の上がっている地点がある。その前を陣取るのは弟の樹。昨日から仕込んでいたお肉の塊らしきものを大汗かきながら焼いていた。 串に刺された直径20センチ、長さもそれくらいの円柱形のお肉。見た目は塊肉だけど、実は下味を付けた薄切り肉をどんどん串に刺していったものなんだって。ドネルケバブって言う、トルコの屋台料理を真似っこしたらしい。本当は宙づりにして専用のロースターで焼くようだけど、そんなのないし。仕方なく網の上でごろごろしてるみたい。表面の焼けたところからナイフでそぎ落として食べるんだと言う。 焼きに使用しているバーベキューストーブも、彼がバイト代で購入したばかりのもの。別に今回の人数ならパパのかまどで十分なのに、わざわざこうやって対抗する辺り何なんだろーって感じよね? 「WEBER社のバーベキューケトル」って言えば、通の間ではなかなかの人気らしい。直径は57センチ、リンゴ型の丸いかたちの黒いホウロウの焼き台に、三脚みたいなすらりとした足がついてる。全部あわせてあたしのウエストよりもかなり高い位置になるから……1メートル弱、くらいかな? 今朝もキッチンに入れなくて、セルフサンドイッチだったのよ。名前だけは格好いいけど、ようするに冷蔵庫からハムやマーガリンやマヨネーズ、レタスなんかを出してきてテーブルの上で各自が自由にチョイスするの。本当はゆで卵も付けたいところだったけど、ガス台まで進むのは至難の業だったしね。 ――張り切るのは分かるんだけどさー、少しは年長者に対して遠慮をするもんだと思うんだけどな……。 すでに樹が小学校6年生の頃には、身長を抜かれていた。あたしは5年半も年上のお姉ちゃんなのに、口喧嘩でも全然敵わなくなってる。梨花の言うことなら結構素直に受け入れるのに、どうしてあたしだと駄目なのかしら……?
その時。 気のせいか背後から涼しげな風が吹いてきた。何となくその方向を振り向くと、カットしたフルーツをトレイに乗せたのを運んでくるママの姿。あたしよりも先にそれに気付いてたパパがぱっとかまどの前を離れて、駆け寄っていった。 「駄目だよ、千夏。こんなに重いものは君が運んじゃ危ないじゃないか。今日はこんなに人間がいるんだし、遠慮しないで誰かに頼めばいいんだよ?」 そんな風にトレイを取り上げて、すぐそばにある木のテーブルの上に置く。いいんだけどさー、そのいつもながらに必要以上にすり寄るの、やめた方がいいよ? 仮にも家族以外のギャラリーの目もあるんだしさ。
……それに。パパ、ちょっと声が大きすぎ。
いっつもこんな感じだから、ご近所さんたちからは何度も「おめでたですか?」って誤解を受けてるんだよ、この夫婦。まあ、そうなっても不思議じゃないほどのらぶらぶあまあまぶりではあるけど……ちょっとは自分たちの年齢も考えて欲しい。 ママは恥ずかしそうに頬を赤らめて、「少し休憩した方がいいんじゃないかしら?」なーんて優しくパパを気遣ってる。タオルで額の汗を拭ってあげたりして。 分かってるのかな、ママ。 そんな言い方すると、パパはますます張り切っちゃうんだよ? どうするの、ふたりの大男がそれぞれ自分の腹分量で人数分仕込んだお肉とお野菜。この分だと、お隣の田辺さん御一家をご招待しないと食べきれないと思うわ。
そんなことを考えていたら、いつの間にか作業は終了。それと同時に牛歩の歩みで近づいてきてた梨花とその彼氏くんが、ようやくあたしたちのいる場所までたどり着いた。……あ、梨花がパパのこと呼んでる。 「パパ、紹介するわ。こちら上條聖矢くんよ?」 ぴーんと透き通った声。あたしは思わず舌を巻いてた。 すごーい、梨花。全然声が震えていないよ。昨晩だってお泊まりで戻ってこなかったよねえ。こんな風に連れ立ってやってきたら、どこに泊まってたかなんて一目瞭然。それなのにここまで落ち着いて構えられるって、素晴らしいわ。あたしなんて、初えっちのあとは本当にどぎまぎして大変だったのに。 ママと「ふたりだけの世界」を作っていたパパも、慌てて振り向いて「やあ、こちらこそ初めまして」とかかしこまってる。もちろん、帽子、もとい三角巾を頭から外して。にこやかな笑顔を浮かべつつも、きらりんと光った眼差しが彼氏くんの頭のてっぺんから足のつま先まで吟味している感じ。うわー、怖いっ。別にあたしがどうこうされてるわけじゃないのに、全身鳥肌で震え上がってしまうわ。
とてもそれ以上は直視出来なくて、あたしは正面に向き直った。 野菜串の乗ったお皿をパパの作業台の方に移動しようと持ち上げたその時。ネイビーと白のマリンボーダーのTシャツ姿のいまひとりの人影が、ひまわりの向こうに見えた。
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