……その後の菜花と岩男くん・2
「はちみつ日和」のから半日、夕方のお話。
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洗い立てのシーツでベッド・メイキング。 うわー、両手を必死で伸ばしても端っこに届かないよーっ! 白木のベッドヘッドがあるだけで、どこまでもシンプルな造りのダブルサイズ。映画に出てくるメイドさんのように、シャッシャッと仕上がると思ったのになあ……現実はあっちこっちにシワが出来て、全然美しくないの。何かそれだけですっごいショック、落ち込んじゃう。 「は〜っ、疲れたぁ〜っ!」 ばふっ。 もういいや、シャワー浴びてないけど。真っ白な海へ、思い切りダイビングしてしまう。うーん、ふかふか。新しいお布団って、本当に気持ちいいなあ……! 実家で使っていたあたしのベッドってもちろんシングルサイズだし、それでも足下の方がだいぶ余って予備の布団置き場になっていた。でもこれからは、こんな風に大海原のようなサイズでも「大きすぎる」ってことは絶対にないと思う。身長差は30センチ、体重に至っては彼の方が5割り増し。そんな人と毎晩一緒に使うんだもんね。
お引っ越しから、一夜明けて。 今日も一日色々忙しかった。大家さんやご近所へのご挨拶とかは昨日のうちにふたりで済ませておいたからいいんだけど、それでも後から後から雑用があふれかえっている。ただですら、まだ完全には紐解いてない荷物たち。これを所定の位置に全部収める日が本当に来るのかしら。 夕ご飯の買い出しに出掛けてみれば、初めてのスーパーで「ポイントカード」の申し込み手続きをにこやかに勧められる。少し考えてから、「杉島菜花」って名前で登録。震える手で書き終えたとき、身体中からどっと汗が吹き出していた。だって、きちんと入籍した後で登録変更なんて面倒だもん……そんな風に自分に言い聞かせてはみたものの、とてもむずかゆい気分になってくる。
一緒に暮らし始めたんだし、早いとこ入籍を済ませてしまった方がいい――そんな風に話はまとまりつつあるの。佐野と埼玉のお祖母ちゃんちにはお正月にご挨拶をしたし、あとは大安吉日とか選んで。そうよねえ、戸籍に記載される日付だから、どうしても迷うわ。絶対に忘れないような日がいいなとか……そんな風に悩んでいたら、いつになっても決まらないよね。 「やだな、お姉ちゃん。他の何かと一緒の記念日なんて良くないよ、ふたりだけの特別な日なんだから」 年の暮れ、引っ越しの荷物をまとめながら何気なく切り出したら、妹の梨花にそう言われた。 あたしたちの部屋は、アコーディオンカーテンで仕切ってあるお隣同士。ふたつの部屋は対照的な家具の配置になっていて、真ん中に大きなテーブルをどんと置けるくらいのスペースがある。そこでたまーにふたりで秘密のお茶会をしたの、楽しかったな。
ちょっと前のことなのに、ひどく懐かしい気分。ああ、色々思い出しちゃうな。 三つ違いの姉妹って、なかなか微妙なポジションなの。ちっちゃい頃は一方的にあたしが面倒を見てあげている感じだったけど、いつの間にかお互いそれぞれに性格の違いも出てきて変化していった。 梨花は身内であるあたしから見ても、とにかくしっかり者。決められたことはきちんと守るし、忘れ物をしたり夏休みの宿題を溜め込んだりすることはあり得ない感じ。自分から「やる」と決めた柔道はとうとうずっと続けていたし、ご近所から頼まれた犬の散歩のバイトだってきっちりこなしてきた。それもがむしゃらに必死でやっているって感じじゃないのよね、いつもちゃんと余裕があるの。 そんな目には見えないとげとげが、梨花にも伝わっていたんだろう。ずっと長いこと「空気の入れ換えに」って昼間ママが開けたカーテンも、どちらかが部屋に戻るとぴっちり閉められていた。いつの間にか自分が抱えているのと同じだけのわだかまりが相手にもあるような気がして、もしかしたら永遠にこのままかもなーって諦めに近い境地になったりして。 ふたりの間に「変化」が生まれたのは、一昨年の秋だったかな? その頃、梨花に初めての彼が出来たの。もちろん梨花はもともとすごーい美人だし、あたしが男だったら「絶対にゲットしてやるーっ!」って鼻息荒く突進してしまったと思うほどよ。特定の相手がいないなんて、その方がずっと不思議だった。 「ふたりだけの特別な日」なんて言葉が梨花の口からこぼれてくるなんて、新鮮な驚き。
――ああ、何だろ。 たった一日、実家を後にしただけなのに、何かすごく気持ちが不安定になってる。今までだって、出張とか旅行とかで数日家を空けることはあったし、その時は何の感慨もなかったのにどうなってるんだろう? 梨花のことだけじゃない、弟の樹やパパやママ。みんなのことが、たくさんたくさん頭の中に溢れてくる。楽しかった思い出とか、当たり前の日常とか。日当たりのいい丘の上のお家。幼稚園の頃にお引っ越しをしてからずっと過ごした全ての記憶があの場所に繋がっていく。……なによう、車だったら30分の距離じゃない。あっという間に戻れるのに。 鼻先がじーんとして、白い天井がぼやける。その瞬間に、あたしの携帯が音を立てた。
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大塚愛ちゃんの「Happy Days」が今の着うた。だって、何となくそう言う気持ちなんだもの。仕事中はちゃんと音源を切ってるから支障ないし。 ごそごそと起きあがって、サイドテーブルに置きっぱなしにしていたそれを手にした。電話口の相手はディスプレイにちゃんと表示されてる。便利よね、コレ……でもその反面、瞬時に色々と想像もしちゃう。 「もしもし?」 ざーざーって、何かが流れる音がバックで響いている。ああ、そうか。道路沿いなんだ、きっと。夕焼けに染まった壁に掛かっている時計は4時半。携帯を握りしめた手が、ちょっと汗ばむ。 「なあに? ……どうしたの?」 だって、岩男くんが今までに用事もなく電話してくることなんてなかったもん。最初の「え? 何で」と感じた想いがどんどん悪い方向に転がりだして、止まらなくなる。そして、考えられる「最悪」のパターンを思い描いてみたりして。
――え、もしかして? 「今日は遅くなる」とか、「夕ご飯いらないよ」……とか、そういうの? えええ、もう下ごしらえしちゃったんだけどなぁ。何か、ますますしょぼくれちゃう。
そりゃ、有り得ないことじゃないと心の隅では覚悟を決めていたつもり。何しろ研修の初日だし、メンバーの親睦を兼ねてご飯を食べに行くとかありそうだもん。やっぱさ、そんな風に「同じ釜の飯を食う」みたいな間隔が互いの距離を縮めると思うのよね。これから一緒に仕事をしていく仲間だったら、特に大切なことだと思う。同級生でもあたしの方が社会人の先輩だもん、分かるよ。 でもっ、……でもなあ。 こんなんじゃ、未来の奥さん失格って言われちゃいそう。だけど、今夜はやっぱり一緒にいたいの。もうちょっとしたら、またしばらくは離ればなれの生活が始まるんだし。もうちょっと、密に「ふたり」を満喫したいって思うのは欲張りかな。 状況から言って、新婚旅行とかもずーっと先になりそうだもん。もう欲求不満でイライラしちゃいそう。……あ、ううん。「欲求不満」って、そう言う……意味ではないからねっ!
「うん、別に用事もないんだけど……」 電話口の岩男くんの声は、いつもより他人行儀。もごもごと口の中で何か呪文のように繰り返してる。 「今ね、大通りのところのコンビニにいるんだ。あと5分くらいで戻れるんだけど……菜花ちゃん、家にいるかなって」 じゃあ、すぐあとでねって。あっという間に電話は途切れた。
……ふう。 いつの間にかあたしは、ベッドの上に座り込んでいた。通話時間が28秒だと告げる画面を眺めて、小さく溜息をつく。しばらくは頭がぼんやりとしてしまって何も考えられなかったけど、そのうちに不思議な感情が胸の奥から湧いてきて、思わずくすっと笑ってしまった。 ああ、何かすごく可愛いかも……! いやん、どうしようっ! すっごく意外だった、岩男くんがこんな風に連絡を入れてくるなんて。いつもあんなに落ち着いていて、崩れることなんて本当に稀な人なのに。 何か、胸の奥がじわーっと温かくなって、顔が知らない間ににこにこしてくる。えへへへーっ、とか岩男くんの前では絶対にしないような可愛くない笑い方をしたりして。顔の筋肉がゆるゆるになって、うわあ、どうしようっ!
――とと。 車のエンジン音が、すごく近くで止まる。お玄関のすぐ先にガレージがあるの。と言うことは、やだっ、のんびりと腑抜けているうちにもう岩男くんがご到着……!? ひー、こうしてはいられないわっ!
慌ててベッドを降りて、転がるようにお玄関まで走る。 でも途中でハッと気付いて、一度2階のキッチンまで戻って。そうよ、新妻の必須アイテムの「ふりふりエプロン」はお出迎えには欠かせないのっ! 後ろ手にウエストのリボンを結びながら階段を駆け下りて、お玄関のドアが開くのにギリギリに間に合った。 「……菜花ちゃん、どうしたの?」 小さな目をまん丸くして、岩男くんは開口一番そう言った。 まあ、無理もないか。何しろ、ものすごい勢いで階段を下りてきたし……どたばたという音がドアの向こうまで丸聞こえだったんだろうなあ。ああん、恥ずかしいっ。テラスハウスっていいなと思ったけど、やたらと階段を上がったり降りたりするのが面倒だわ。 「え? ……ううん、何でもないの。お帰りなさい、岩男くんっ!」 かたちの歪んでいた肩のフリルを慌てて直したから、きっと分かっちゃっただろうな。なかなか段取りが上手くいかなくて、嫌になる。もう、このエプロンはお玄関のハンガーに掛けておこうかしら……? 呼吸をどうにか整えながら、それでも恥ずかしくて俯いてしまう。後ろ手にドアを閉めた岩男くんは、そんなあたしににっこりと微笑みかけてくれた。 「……ただいま、菜花ちゃん」
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手渡されたかばんを受け取って、えっちらおっちら運びつつあとに続く。南向き日当たり良好のベッドルームは1階でもふわりと柔らかい空気に満たされてる。レースのカーテン越しの明るさ、日没後しばらくたっているのにまだ照明がいらないくらい。もしかしてこういうのも「地球に優しい」ってことになるのかもね。 「……ふう」 岩男くんは小さい溜息のあとで、ゆっくりと上着を脱いだ。何となく腕を差し出すと、ちょっと躊躇ったあとで手渡してくれる。ずしっと、かなりの重み。 うわあ、こんなのを一日じゅう着ていたら、すっごく肩が凝りそうね。研究所に直接出勤するようになれば白衣姿が当たり前かもだけど、今は研修中。この上着は今日一日、岩男くんと一緒に頑張って仕事したんだ。
「――あ、そうだ。岩男くん……」 クローゼットのドアにあるフックに上着を掛けた後で、あたしはようやく気付く。その頃には岩男くん、ネクタイをゆっくりと外すところだった。その手を途中で止めて、うん? ってこちらを振り向く。何か当たり前のはずのひとつひとつのやりとりがとても新鮮で、いちいちどきどきしちゃうな。 「ええと……その。ご飯とお風呂、どっちを先にする? 少し早いけど、温め直せばもう夕ご飯も用意出来るよ」
あああ、何度も練習したはずの言葉が上手く出て来ない。 そりゃあさ、あたしはずっと岩男くんのお嫁さんになりたかったし、だから色んな夢があった。もう半端じゃないと思うよー。疲れて戻ってくるだんな様をどんな風にお出迎えしたらいいのかなとか、ドラマとかでそんなシーンがあるたびにチェックして参考にしてきた。 あたしのパパとママ。結婚して20年以上経つのに、未だにらぶらぶなの。 今でもあんなだったら、一体新婚さんの時はどんなだったのか、とても想像が付かないわ。毎晩、仕事帰りのパパをお出迎えするママも長年の間にすっかり頭の中にインプットされてる。でも、そのシーンには必ずあたしや妹の梨花、弟の樹が一緒にいたのよね。そんな第三者の目がないふたりっきりの世界、ああ、どんななんだろう……? ――でも、これからはちょっと違うよね。確かにあたしにとって岩男くんは、岩男くんにとってあたしは、やっぱり世界で一番大切なかけがえのない存在であり続けると思う。だけどこれからはそれだけには留まらない。こうしてふたりで作っていく新しい「家庭」で、ゆっくりと一日の疲れを癒して明日に向けて羽ばたいて行く。 「衣・食・住」という三つの柱を確かなものにして、その間に温かい心を満たしたいなって。今までみたいに、岩男くんに寄りかかってばかりでいちゃ駄目。甘えん坊になりたい気持ちを抑えて、ちゃあんと強くならなくちゃ。岩男くんが困ったときには、一番にあたしのことを頼りにしてくれるように。
あたしの言葉に。 岩男くんは一度大きく目を見開いて、それから解いたネクタイのシワを伸ばしながらくすっと笑った。それをネクタイ掛けに収めてからゆっくりとこちらを振り返る。片手でワイシャツのボタンをひとつふたつと外してく。 「……菜花ちゃん」 まだこみ上げてくる笑いを必死でかみ殺しながら、岩男くんはあたしに向かってお出でお出でをした。 「夕食よりもお風呂よりも先に、欲しいものがあるんだけど……分かる?」
一瞬の沈黙。 不思議な気持ちいっぱいであたしが見上げた先にあるのは、いつもの大好きな笑顔なのに。
「え……?」 ごめん、全然分からない。もしかして、ビールとか? 一日気が張っていて疲れたから、アルコールで憂さ晴らししたいとかいうのかな……。うう、もしかして、あたし試されてるの? これから岩男くんの奥さんになるんだから、言葉にしなくてもお互いにきちんと気持ちが通じ合わないといけないとかいうのかな。えええ、ヤバイよ。本当、分からないんだけど……!? どうしようかと思っているうちに、岩男くんの方がゆっくりとこちらに歩いてきた。 もうちょっとで目の前、ってところで、そのままベッドに腰を下ろす。あたしにとっては広すぎてもてあましてしまう大きさも、岩男くんだとしっくりくる。ほどよいスプリングが、岩男くんの周りに柔らかくくぼみを作って。 何となく、自然に。あたしもその隣に座った。それほど勢いをつけたわけじゃないけど、それでも少しベッドがきしむ。バランスが崩れて、岩男くんの方にこてっと寄りかかってしまった。ゆっくりと、肩に回る腕。 「今日は、一日お疲れ様。だいぶ、片づいてきたね?」 自然に胸に抱きかかえられる格好になって、あたしは腕の中からもぞもぞと岩男くんを見上げていた。え? どうしてって、かなり意外な気分。だって、それってあたしが岩男くんに言うべき言葉でしょ? 何で一日家にいたあたしが「お疲れ様」……なの? 「朝、出掛けたときよりも、ずっと部屋の中が落ち着いた気がする。借りたての部屋って最初は他人顔だけど、こんな風にだんだん自分たちらしくなっていくのかも知れないね。……自分は何もしないのに色々変わってるのって、とても新鮮だな」 そう言うと、岩男くんはやさしくやさしく抱きしめてくれた。背中に回る腕、髪の毛を梳いてくれる指先、何もかもがくすぐったくてあったかくて。あまりのこそばゆさに首をすくめたら、顎に手が掛かってゆっくりと上向かせられる。 「……んっ……」 今日、初めてのキスがあたしにねっとりと舞い降りる。最初は唇が探り合うように触れあって、そのうちに滑らかな舌先が入り込んで来た。あたしの口の中なのに、岩男くんは自由自在に動き回る。毎度のことではあるけれど、言葉で言い表せないくらい艶めかしくて、もうこれだけで身体中が岩男くんのものになってしまった気分になるの。 「ふふ、……菜花ちゃん」 岩男くんの唇が、いつか首筋に降りてきてびっくりする。その頃にはもう服の裾から入り込み始めてた手のひら、その手首を無意識のうちに押さえ込んでた。 ……え? ちょっと待ってっ!? ええと、ええと……あのっ? 「欲しい」って……まさか。 「いっ、岩男くんっ……!? ええと、あのっ……、だって」 うわ、ちょい待ちっ!? だってさ、別にこういうのって、いつやろうと自由だとは思うよ? でもでも、まだ帰宅したばかりで、そのっ、ご飯とか食べてないしっ。まだ外は明るいし……! 「何言ってるの、色々済ませたあとだとまた寝ちゃうかも知れないでしょう? 明日は菜花ちゃんも仕事だし、そんなに夜更かしも出来ないしね。いいでしょう……?」 とか言いつつ、すでに押し倒してるしっ。 気が付いたらあたしの服も、あちこちはだけてるしっ……!? や〜ん、こんなの怪しげだよって思うけど……。 「あんっ、……岩男くんっ! あ、……はぁん……っ!」 もう駄目だ、身体と心がバラバラになってる。 だって、岩男くんの手のひら、すごく気持ちいいんだもん。あたしが感じるところはみんな知っていて、それこそどんな記憶力なんだろって思うほど的確に攻めてくる。存分にもみほぐされた胸のてっぺんに吸い付かれた頃には、もう軽くのぼりつめてしまうほど。ふうっと鼻先を抜けていく吐息、がくんと身体の力が抜ける。 「……可愛いよ、菜花ちゃん」 えっちのときの岩男くんって、いつもよりハスキーボイス。かすれた声色がすごく色っぽいの。逞しく鍛え抜かれた肩先に光る汗、鼻先にちゅっとキスされる。
そこまでで、岩男くんはいっぺんあたしの上から離れる。 どうしたのかなって、乱れた呼吸のままでその行く手を追っていたら、さっきあたしが受け取ったかばんを開けてるの。そこから出てきたのはおなじみのコンビニ袋。 「……?」 出てきた長方形の箱が何なのか、すぐに見当が付いた。でも、何となく意外な感じがして、喉の奥で言葉が詰まってしまう。あっという間に準備を終えた岩男くんが、ゆっくりと再び身体を重ねてきた。
「……今までは透さんにお世話になりっぱなしだったけどね。これからは、こういうの自分できちんとしなくちゃって、思ったんだ。ふたりのことは、きちんとふたりで決めなくちゃね……?」 くぅんと、鼻が鳴る。あたしの中を一気に隙間無く埋め尽くす存在感、奥まで進んだ岩男くんはそのあとなかなか動き出さなかった。 「――どうしたの?」 あんまり沈黙が長かったので、思わず訊ねちゃったよ。今の状況を考えると、こんな風に自然に問いかけるのはすごく恥ずかしいんだけど。お互いがしっかりと繋がったままで、何かを探り合うあたしたち。ちょっとでも動くと身体の方はすごく気持ちよく反応しちゃうから、ちょっとぎりぎりの感じよね? 「色々考えたんだ、オレもまだこれから仕事を始めるところだし。まずは菜花ちゃんとの毎日をゆっくりと楽しみたいなって。……おばあさんのこととか考えると、申し訳ないけど。それでいいかな?」 色んな想いが見え隠れする瞳。でも、こうしてきちんと向き合っていれば、分かる気がする。岩男くんが何を迷っていて、どうしたいのか。これからは難しい選択肢も、こんな風にふたりで選び取っていくんだね。 「あたしも……、まずはふたりがいい。こうしているだけで、すごく幸せ」
どちらからともなく唇が重なり合う。 ゆっくりと動き始める岩男くんが起こす波に、あたしはいつか巻き込まれていった。一番大切なこと、それがいつもあたしたちの中にある。ふたりで選び取る確かな未来。あたしのこと、こんなにも大切にしてくれる岩男くんをずっと支えていきたい。 「ああっ、……菜花ちゃんっ、菜花ちゃん……!」 きゅっとあたしの中が収縮して、そのあとを今までにない大波が押し寄せてくる。おひさまの香りの残るシーツに顔を埋めて、あたしは深く深く岩男くんを感じていた。
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カーテンの隙間から差し込んでくる月の光が、ベッドに細く筋を付けていた。シワだらけのシーツの上、起きあがる。傍らの岩男くんも眠そうに目をこすった。
あのままふたりして、眠っちゃったんだね。こんな風に時間を無駄に使ったり出来ちゃうのがすごいなって思う。確かにまたしばらくしたら離ればなれの生活が始まるわけだけど、こんな風にふたりのお城が出来た今、何にもなかった頃とは違うなって気がしてる。 何て言ったらいいのかな……、ふたりの目指す方向がきっちり同じ場所に定まったみたいな、すっごい安心感があるの。ただふたりでひとつの部屋を借りただけなのに、どうしてこんなに落ち着けるんだろう。やっぱ、パパに感謝しなくちゃかもね。
「……あ、見て?」 すっごい、偶然。 あたしの左手に、ちょうど伸びてきた月の光が、薬指を輝かせる。何にもないはずのそこが、とても熱く感じてどきどきした。
すぐに消えちゃう、ひとときだけの夢。 初めはあたしたちもそんなふたりだった。たくさんの季節をくぐり抜けたときに、こうして確かな絆があることに気付く。あたしたちは、夜が明けてもずっと一緒。
「そろそろ本物を買いなさいって、天からのお告げかな?」 岩男くんは恥ずかしそうな笑顔でそう言ったあと、もう一度あたしをやさしく抱きしめてくれた。 |
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