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大王と莉子の本当の出会い、それは十年以上遡ったある日……

   

 ひらひらと舞い落ちる薄紅の花びら。
  ほとんど白く見えるそれが窓際に置いた手の甲を次々とかすめていくのも構わず、彼はただひとつの場所を見つめていた。柔らかく吹き抜けていく風が彼の長い髪を揺らして通り過ぎ、また静寂が戻る。その間にも窓の下ではざわざわと賑やかな人波が続いていく。
  そして、また見上げる満開の桜。
  それはさながら、もこもこの泡のように枝にこんもりと盛られ、晴れやかなさざめきに色を添えている。
  ―― また、この花の季節がやってきたのか。
  髪の先に貼り付いた花びらを指で軽く弾いたとき、彼の記憶は十年以上前の春へと舞い戻っていた。

 その日の公園でも、満開の桜が咲き誇っていた。
  空が白く煙るほどの花吹雪に、人々の間から歓声が上がる。しかしそんな賑わいを横目で見つつ、リュック型の鞄を背負った彼の心は晴れなかった。
  背中の鞄の中には、意味のわからないアルファベットが綴られたテキストが入っている。この春から半ば無理矢理通わされることになった英会話教室。週に二回のその時間が苦痛以外の何者でもなかった。
  でも肌の合わないからといってすぐに辞めるわけにはいかない。これは剣道場に通うのを許してもらう代わりに与えられた条件なのだ。せっかく念願叶って竹刀を握れるようになったのに、その幸せな時間をフイにすることはどうしてもできない。
  ―― どうして英語なんて。あたりをいくら見渡したって、この街には日本人しかいないのに。
  心の中でぶつぶつ繰り返しつつ、車止めの前を通り過ぎる。そのとき、彼の足がぱたっと止まった。
  公園の入り口、桜の大木の下。エプロンドレスの裾を大きく広げて花びらを集めて回っている小さな女の子がいる。髪が薄茶でくるんくるん、肌の色も見たことがないほど白かった。まん丸い目も茶色っぽくて今までに見たことがない雰囲気。
  ―― あれは、外人だ!
  初めて間近で見るその生き物に、彼の目は釘付けになっていた。薄茶の髪は春の日差しにキラキラと輝いて、光の加減では金色に近くなる。くるんと巻き上がってまつげも他ではお目にかかれないものだった。ちょこんと小さな口元は桜貝の色に染まっている。
  とにかく、すごく可愛い。従妹の家で見た着せ替え人形なんて目じゃない、その十倍、いや百倍も千倍も可愛い……!
  どれくらい長い時間が過ぎただろう。ぼんやりとその場に立ちつくしていた彼は、三時を告げるスピーカーのメロディにハッとする。それと同時に花色のワンピースの少女もどこかに消えていた。
  次の日も、そしてまた次の日も。
  幼稚園が終わると同時に、彼は走ってその公園に向かった。
  もちろん、目的はあの女の子に会うため。でも公園に行けば顔なじみの近所の仲間がいて、すぐに遊びに誘われてしまう。だから不用意に敷地内に足を踏み入れるわけにも行かず、物陰からこっそりと覗くしかなかった。
  日によって、その女の子はいたりいなかったり。ひとりだったり、友達がいたり。話し相手がいるときの彼女はとても楽しそうで、笑顔が眩しすぎて胸がドキドキした。
  どんな声なんだろう、あまりにも遠すぎて彼女の声が聞き取れない。隣にいる子がすごく羨ましく思える。きっと英語で日常会話ができる子なんだ。外国帰りだったりすると、たまにはそんな子供もいる。
  たぶん、あの子は自分と同じくらい。もしかしたら一歳か二歳年下かも知れない。今まで出会ったどの女の子よりも可愛い。ああいうのをきっと完璧な美しさと言うんだ。
  ああ、どうしてもっと早く英会話教室に通っていなかったんだろう。気軽に声を掛けられるほどの英語力が身に付いていたら、こんなに躊躇うこともなかったのに。
  見たことのない制服、自分とは違う幼稚園だ。真っ赤なベレー帽に同じ色のジャケット、チェックのスカート。彼女はどんな姿をしていても可愛い。
  そして、半月後。
  彼にとって、待望の出来事があった。英会話教室で「はじめまして」「ご機嫌いかがですか」「ごめんなさい」という、簡単な会話を教わることができたのだ。アメリカ人の先生からも発音がとても綺麗だと褒めてもらう。ああ、嬉しい。これであの子に声を掛けることができる。
  次の日、幼稚園が終わるとすぐに彼はあの公園に向かった。敷地内ギリギリのフェンス伝いに植えられた桜はすっかり散って、その枝からは若葉が伸びてきている。花壇では春の花が心地よさそうに揺れていた。
  車止めを飛び越えるように敷地内に飛び込む。でも、あの女の子はどこにもいなかった。
「今日は来ないのかな……」
  これまでだって、こんな肩すかしは何度もあった。だけど、あまりにも意気込んで来ただけに今日の落胆は大きい。
  しゅんと大きく肩を落としたそのとき、彼の視線の端にちらりと映ったものがあった。
  ―― あれは……!?
  真っ赤なベレー帽、後ろ側に黄色い鳥の縫い取りがしてある。これはきっとあの子のもの、名前らしきものが書いてあるが、それは漢字だから読めない。どうしたんだろう、落とし物だろうか。こういうのも交番に届けるべきなのかな……?
  金茶の髪がこの帽子からほろほろと見え隠れしていた後ろ姿を思い出し、また胸が熱くなる。ああ、早くあの子に会いたい。今度はきちんと声も掛けられるし、そしたら友達になってもらうんだ。毎日待ち合わせをして、この公園で遊ぶ。想像しただけで、顔がにやけてしまうほど嬉しい……!
  と、そのとき。
  彼の背後から小さな足音が風のように近づいてきたと思ったら、何かがどんと背中に当たった。それほど強い力ではなかったから、こちらは足下もよろめかない。でも、ハッとして振り向いた彼はそこでごくりと息を呑んだ。
「……あいたたたた……」
  そこには尻餅をついたあの子がいた。頬がバラ色になっていて、それがまたすごく可愛い。一瞬は何が起こったのかわからなかったが、そのあと彼女が自分にぶつかって転んだのだと思い当たった。
「え、ええと……エクス、キューズミー……」
  咄嗟のことに、練習したとおりには上手に言葉が出てこない。でも間違ってないはず、人にぶつかってしまったときには「ごめんなさい」を言えばいいと習った。
「―― え?」
  体育座りで、しかも足を大きく開いたまま呆然としてる彼女。ひらひらのスカートがめくれ上がって、小花模様のパンツが丸見えなのだが、本人はそのことに全く気づいていない。
「そっ、そのっ……エクス、キューズミー」
  どうしよう、困ったな。もしかしたら、全く通じてないのかも知れない。そう思いつつももう一度同じ言葉を繰り返してみたが、目の前の彼女は大きな目をぱちぱちと何度も瞬きするばかり。
  でもそのうちに、何かにハッと気づいたようにぽんっと一度手を打った。
「あーっ、もしかしてあなたって、ガイジン!? へえ〜っ、びっくり! あたし、本物のガイジンって初めて見た! 本当に英語しか、しゃべらないんだね〜!」
  そして彼女はその乙女な外見からは想像もつかないほどに豪快に立ち上がり、ふわふわに広がったスカートをポンポンとはたいた。
「あたし、莉子っていうの。よろしくね!」
「え、ええと……」
  どうして彼女が普通に日本語をしゃべっているのか、そのときの彼には全く理解できなかった。外国人のような外見をしていれば、外国語を話すのが当然。何しろ子供だから、そんな風にしか考えられなかったのである。日本生まれのアメリカ人、とかいう存在があることも知らなかった。
「まっ、いいや! 遊ぼ、遊ぼっ! 今日は明里ちゃんも翼くんもいないからたいくつだなと思ってたんだ。……ねっ、あっちの山までかけっこだよ〜!」
  その後はまるっきり彼女のペース。いつの間にかこっちは外国人という設定になっているから、不用意に日本語をしゃべる訳にもいかない。そんなわけで、わかったようなわからないような顔をしたまま、日が暮れるまで一緒に遊んだ。
「あーっ、そろそろ帰らなくちゃ! じゃ、またね。また明日、遊ぼうね!」
  女の子はゴム鞠のように走りながら、何度も何度もこちらを振り向く。最後まで自分の名前を告げることもできなかった彼は、その後二度と彼女と出会うことはなかった。

「あら、どうしたの? 珍しいわね、衛がぼんやりしているなんて」
  背後の引き戸ががらがらと建て付けの悪い音を立てて開き、その向こうから長い黒髪の和風美少女が現れた。彼女はちょうど自分のところまでたどり着いた春風をゆっくりと受け止めつつ、悠然と微笑む。
  衛、と呼ばれた窓際の彼は、鈴の転がるような声の主の方を面倒くさそうに振り向いた。
「その話し方は止めろ、楓。気色悪すぎて、虫酸が走るぞ」
  ぴしゃりとはねつけられたというのに、彼女の方はおやおやと肩をすくめるばかり。
「まあ、それがお前の本来の姿というならいいだろう。俺は人の趣味にまでとやかく言わん」
  それきりぷいと横を向いてしまった彼を嬉しそうに見つめて、楓、と呼ばれた美少女は微笑みの表情をキープしたままゆっくりと歩みを進める。
  ここは普通教室の半分くらいのスペースしかない部屋。以前は物置として不要なものが山積みになっていたその場所を片付け、今では風紀委員の待機部屋として使っている。とは言っても、メンバーは彼ひとりきり。
「ひどいわねえ、そんな言い方しなくたっていいでしょう。もしもあのときの勝負で私が勝っていたら、今頃は誰がこの役を引き受けていたかわかってる? それを考えたら、もう少し感謝してくれてもいいと思うけど」
  さらさらと流れる髪は華奢な背中のほとんどを覆っていた。学年でも指折りの才媛であり、生徒会役員でもある。入学当初からその魅力で学園の全生徒をハートを鷲づかみにした彼女は、今なお不動の人気を誇っていた。本人もそのことは十分に承知しているらしい。
「―― 過ぎたことをくどくど言うな」
  そらした視線の先にさらに回り込まれ、彼は煩わしそうに身体の向きを変えた。
  元警視庁のお偉方であったという祖父を持つこのふたりは従兄妹同士、休み時間も放課後もツーショットでいるところを数え切れないほど目撃されている。
  地獄の門番である「閻魔大王」の異名を持つ彼と、清らかな大和撫子である彼女とではあまりに住む世界が違うと囁かれながらも、ふたりが付き合っていることは今や公然のこととなっていた。
「何だよ、衛。今日はいつになく大人しいな」
  いつもならこの辺で肘鉄のひとつもお見舞いされそうなところなのにと呟きつつ、彼女はひらりと身をかわした。刹那、その表情が凛々しい少年のものに変わる。
「わかった、わかった。冗談はこの辺で終わり、お嬢様ごっこは一時中断するから」
  それから彼女はふうっとひと息ついて、頭に乗っていたウイッグを外した。するとその下からは、ツンツンに切りそろえられた短髪が現れる。一瞬前までの美少女の面影はもはやなく、そこに立っているのは端正な顔立ちの高校生男子だった。
「―― あれ?」
  楓は窓の下を通り過ぎていく人波に視線を落とし、すぐに何かを見つけたようだ。
「あの巻き毛ちゃん、特別枠入学の子だよね? 受験の日、昇降口階段から派手に転がり落ちていた―― 」
  再会は、十一年後。あの後すぐに父親の仕事の都合で遠方へ引っ越していった彼女は、中学三年生になってこの街に戻ってきていた。そしてまさか、ふたりが同じ学園で学ぶことになるとはいったい誰が想像しただろう。
「ふうん、けっこう可愛い子だね。俺、さっそく唾つけちゃうかな?」
  思わずはり倒してやりたくなったが、その怒りはどうにか鎮める。
  まだだ、まだ。ようやくこの日がやってきたのだから、これからゆっくり再会の喜びを噛みしめればいい。彼女が自分のことを覚えているとは到底思えない、でもそれならそれでいいじゃないか。もう一度、最初からやり直すだけだ。
「さあ、さっさと仕事を始めるぞ。今日の服装検査の結果は持ってきただろうな」
  くるりときびすを返す肩先に、舞い降りた花びら。それを払うこともなく、彼はいつも通り自分の椅子へどっかりと腰を下ろした。

 

おしまい♪ (101001)
>> ちょこっと、あとがき


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