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ぬかるんだ坂道を登っていた。 日の当たらないその場所は、今が昼か夜かも判別出来ぬほどに薄暗く、すぐ下の足下すらおぼつかない。それでもひと息つく間も与えられてはいなかった。立ち止まれば、すぐさまずぶずぶと足首からふくらはぎまで泥に沈んでいく。辺りを満たす気はどこか生臭く、ぬらぬらと肌を濡らす様もおぞましい。 もうどれくらい、こうして登り続けているのだろう。自分がどこに向かって進んでいるのかすら、思い出せなくなっていた。だが、歩みを止めれば、あとは転げ落ちるだけ。どこまでもどこまでも、奈落の底まで堕ちていくしかない。 ――それも、いいのではないだろうか。 自分の内側から、そんな声が聞こえてくる。何故、あがいているのか。今更こんなことをしていても、再び日の当たる場所になど、辿り着けるはずもない。それならば、いっそのこと……。 喉よりも心が渇きを覚える。目の前が霞んで、次第に視界も不確かになってきた。それでも、また一歩、足が前に出る。上から流れてくる泥に押し戻され、そのわずかな歩幅すらすぐになきものになってしまうのに。分かっていても、進むしかない。自分に教えられたやり方はそれしかないのだから。 嘆くことも請うことも許されてはいない。差し出す腕すら、空を切る。 ああ、どこかで鐘の音が響く――……。
………………
ぬらり、影が動く。しかしそれが人であるのか獣であるのかも確かめることが出来なかった。湿った板間に仰向けに投げ出された身体。まとっていたはずのわずかな衣は全てはぎ取られ、この地の者としては白すぎる肌にねっとりと気がまとわりついていた。 じめじめとした沼地にあって、大地から吐き出された水分が浮遊しているのだと言う。衛生状態も悪く、およそ人が住むにはふさわしくない場所。長く留まれば、やがて身体は内側から病んでいくと言うことを土地の者なら誰もが承知していた。 「おお、おお。さすがにお上が心を奪われたと言うだけある上玉だ。ぼろをまとっている姿だけでもそそられたが、こっちのほうも絶品だぜっ!」 ぎしぎしと、背中の下の板間が揺れる。もともと建て付けもぞんざいならば、このような土地ではすぐに朽ち果ててしまうのは当然のこと。元は名のある官僚の別宅であったと聞いているが、今ではその面影すらない。 「おいおい、介っ! てめぇばかりが楽しむんじゃねえよ、さっさと終わりにしてそこを替わりなっ!」 二本の細腕は頭の上で、押さえつけられている。そんな風にするまでもなく、こちらにはもう抵抗する術も残っていないというのに。辺りに散らばる朱い髪は、以前はどれほどに美しかったのだろうか。櫛を入れることもなくその艶を忘れた今でも、豊かな流れが在りし日を彷彿させる。足は付け根から左右に大きく開かれ、股のところでがっちりと抱えられていた。 久しぶりの女子(おなご)の肌に歓喜した男たちは、まだ日も暮れる前からこの有様だ。ひとりが果てればもうひとりがのしかかり、休むことすら忘れている。昼に前の者たちと係を変わったばかりの番人たちでだった。今宵は気の済むまで愉しもうということなのだろう。 「ああ、吉の兄貴からここの話を聞いたときは正直気が進まなかったが、引き受けて良かったな。やることといったら、ただひとりのこの女子が間違いを起こさないように監視するだけ。こんな楽な仕事が他にあるかってことよ、しかもとびきりに給金がいいときてる」 「おうよ、女がくたばらなければどうしても勝手というのもたまらないぜ。しかも、コイツはただのタマじゃねえ、ほんのちょっと前までは都でお上の閨に上がってたって言うんだからなあ……。こっちは渡りの遊女だって好きには出来ねえような身の上だ、これぞ天からのお恵みって奴だろ?」 滑稽なくらいはしゃいでいるふたりは、口も動きも一向に止まらない。罪人を孕ませることは御法度であるから、前もって強すぎる薬湯を無理矢理飲まされていた。それのせいもあり、頭が朦朧として感覚がひどく鈍っている。 「……ぁ、はぁっ……!」 それでも身体は無意識のうちに、のぼりつめようとする。自分の意志とは関係なく男を悦ばせる様を刻み込まれてしまった身体が、永遠の悪夢から解放してくれない。びくびくと背中をのけぞらせて果てた瞬間に、汚らしい指に顎を押さえつけられた。 「おお、いいねぇ。こんな風に啼いて、高貴な御方を虜にしたのか。でも、どうだ? 俺様の方がもっと良かっただろう……? 今の締め付けは最高だったぜ、食いちぎられるかと思った」 ふたりの男を判別する視力も残ってはいなかった。薄目は開けているものの、見えるのは黒い影だけ。それが入れ替わったところで、何も違いはない。いつもそうだ、男などどれも同じ。それぞれに特色など見いだせるはずもないのだ。この身体を組み敷くことで自分が偉くなったように錯覚している愚かな者たち。 ――だけど、それはこの身とて同じこと……。 かすかに漏れ出でる喘ぎが、生命の糸を繋いでいる。たったひとり、何も持たない女子として生を受けた。だから、また最後のこのときに女子としての自分が亡骸として残るのか。 耳を塞ぎたくなるような浅ましい会話も、いつか耳に届かなくなる。薄れていく意識、その途切れる瞬間に震える指先が何かを求めた。
………………
――どうしよう。曽矢(そや)を呼んだ方がいいかな……? ふとそんな想いが過ぎる。母上のお身体がひどくなれば、責め立てられるのは身の回りの世話を任されているその人だ。自分は何も悪くないのに全く迷惑なことだと吐き捨てるように言う。未だに腰ひもを後ろ手にひとりで結べないほどの幼子であっても、自分たち母子が館の誰もから疎んじられていることを知っていた。 ――でも、駄目。私がお側に行けば、母上の具合はもっと悪くなる。 せめて額の手ぬぐいを換えて差し上げたいと思う。だが、それも望まれたことでないと知っていれば無理に自分の思いを通すことは出来ない。普段の時でも必要以上の会話はなく、始終塞いでいるような御方。そんな側女(そばめ)の元に、父の足が向くはずもなかった。お渡りがなければ、さらに身の置き場がなくなる。 母は稀に見るほどのお美しい方であると思う。気弱で儚い雰囲気ではあるが、この館に住まうあまたの女子に少しも引けを取ってはいなかった。だからこそ、しっかりした後ろ盾のない侍女という身分で父の元に召されたのだろう。ささやかではあるがこうして部屋を与えられ、働かなくても生活を保障されている。 父が気まぐれで買ってくれた美しい手鞠。とても大切にしていたのに、ちょっと目を離した隙に何者かの手でずたずたに切り裂かれていた。我が身が傷つけられるよりも、よほど辛い仕打ち。庭の隅に転がったそれを拾い上げ泣きながら母に訴えると、無表情なその頬が少しだけ動くのを見た。 「……愚かなこと。そのように大声で嘆いては、相手を喜ばせるだけですよ」 泣くなら声を上げるな、決して悟られることのないようにしろと教えられた。何事にも逆らってはいけない、ただ流されていればよい。 鞠を切り裂けば、その無惨な姿が残る。でも心がいくら切り裂かれたところで、誰がその痛みを知るだろう。目に見えないならば、なかったことと済ませることが出来る。初めから余計なものを持ち合わせていなければ、傷ついた姿を人目に晒すことはないのだ。 ――このまま、母上が死んでしまったらどうなるのだろう。わたくしも、死ぬのかな……? 先日訪れた薬師(くすし)が、曽矢に向かって難しい顔をしていたのを見てしまった。きっと戻る故郷もないのだろう。そうでなかったら、母がここに留まっている理由はない。側女としてのお役目を果たせぬ者は、その時点でお払い箱になるのだから。戻るべき場所さえあれば、生き恥を晒してまで残ることはないのだ。里の話など、ついに聞いたこともない。 五つまでを過ごした館。そこは、人の心の裏側を余すことなく教えてくれた。
………………
「……うっ……」 なるべく負担を掛けぬように身を起こしたつもりではあったが、それでも身体のあちこちに痛みを覚える。それに気付いたとき、痩せ細った女子の口元から不似合いな笑みがこぼれた。 ――ああ、まだ生きていたのだわ。 我が身を蔑み物笑いの種にしてくれるような輩すら、ここには存在しない。俗世から捨てられた身としてここに存在している。それすらも、もはや自分の意志とは遠いものであった。誰にも望まれてはいないと知りながら、この世に踏みとどまっている。 ふたりでひと組の番人が幾日かごとに顔ぶれを変えるほかには、出会う相手もいなかった。この場末の座敷牢での生活も早いものでひと月を迎えようとしている。天からの輝きで昼間よりも明るく照らし出された庭に、彼女は降りていった。 何もしなくても、汗が肌に浮き出てくるような気候である。あのように男たちに扱われた後ではどうしても身が清めたくなった。幸い、朽ち果てた庭には水場が残っており、山の方から流れ込んでくるせせらぎがこの場に似つかわしくないほどの清らかさをたたえている。肩に掛けた衣を置き、手ぬぐいを手に足を浸す。指先からしみ通ってくる冷たさに身が震えた。 落ちたしずくが水面を揺らし、どこまでもどこまでも広がっていく。立ち枯れた木々の向こう、遠くに広がる山々。あの向こう、どこまでゆけば懐かしいあの場所はあるのだろうか。 遙か彼方に押しやられた記憶、だがあれはほんの数ヶ月前まで確かに自分はそこにいた。まばゆいばかりに光り輝く女子たちの衣装、夢殿のような御館、華やかにさざめく笑い声。そこで揺るぎない未来を約束され、誰よりもときめいていた自分。何もかもがこの手中に掴めると信じていた。そう……、どんなことをしても手に入れたいと願っていた。 ……だけど。 痩せ細った手のひらをどんなに透かしてみたところで、今ここに残るものは何もない。指の先に絡みつく幻影がさらに絶望を募らせる。ここで自分が消えても、何ひとつ変わることはないのだ。だが、それを承知してもなお、目に見えないひとしずくが我が身をこの場に縛り付ける。 「……?」 何か気配を感じて、彼女は後ろを振り向いた。それまで聞こえていた梟の声がぱたりとやみ、さらにひっそりとした静寂がそこにあるだけ。見張りの男たちが戻ってきたのかとも思ったが、そうでもないらしい。今頃はどこかの酒場で酔いつぶれているのだろうか。 ――もう少し、……もう少しだから。 両手にすくい取った水を飲み干すと、空っぽな胃の壁がひりひりと痛む。見張りの者たちの目を盗んで、食事をこっそりと捨てる術をようやく身につけていた。三度三度、そう上手くいくことはないが、彼らも自分たちの務めがおしまいになる頃になれば監視の目を緩める。どっちにせよ、自分たちの任されたその間だけ、ここにいる女囚人が生き延びていればいいのだから。 そこら中がほころびた衣をもう一度身にまとうと、彼女は元のあばら屋に静かに戻っていった。
Novel Index>扉>朱に散る・1
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