TopNovel Index>朱に散る・2


…2…

 

「おい、起きろ!」

 翌朝、まだ日も明け切らぬ頃だというのに表から男たちがどかどかと上がり込んできた。身体を覆う倦怠感で、瞼を開けることすらおぼつかない。そうしているうちに、肩を掴まれ強引に引き起こされていた。

「……うっ……!」

 珍しいこともあるものだと思う。普段ならば昼近くになってから初めて最初の見回りが来るのが普通だ。そんな生活にすっかり身体が慣れてしまい、こちらも明け方にならないと寝付けなくなっている。まだとろとろと休んでから、いくらも経っていなかった。

「ほら、急げ! こっちは時間がねえんだよっ、早くしないと誰かに見つかるだろうが……!」

 なかなか動こうとしないことにしびれを切らしたのか、最後には骸を抱えるようにふたりがかりで持ち上げられる。長いこと使われていなかった通路を進み表口まで辿り着いたとき、彼女の身体は乱暴に板間に投げ出されていた。再び全身に激痛が走り、喉奥から低く呻き声が上がる。

「おい、この通り女を連れてきたぞ。じゃあ、約束のものを渡して貰おうか……?」

 男たちはそんな彼女のことなど気にもせず、戸口の向こうに呼びかけている。どうも、彼ら以外の誰かがそこにいるらしい。おかしなこともあるものだ、法外な報酬でも与えなければ番人も寄りつかぬほどの座敷牢。間違って、足を踏み入れてしまえばその者にまで災いが降りかかるとさえ言われていた。
  ただの戯れ言と笑い飛ばす者はこの土地にはいない。まだまだ妖術もまかり通るような世だ。少しでも気味の悪い事柄からは身を遠ざけなければならぬと誰もが知っている。

 もしや、と思ってその姿を確かめようと面(おもて)を上げれば、霞んだ視界に映るのは見覚えのない貴人であった。

「……あ……?」

 優美な織り文様を施した重ねを見ただけで、この者がただならぬ地位にあるということは分かる。年の頃は……三十、四十にはまだ届かないというところか。幾重にも重ねられた絹も、その全てが特上の品に見受けられた。

 ……でも。

 何よりも彼女を釘付けにしたのは、その者の斬るような眼差しであった。まっすぐに食い入るようにこちらを見つめるその瞳は、しかしひとしずくの優しさも持ち合わせてはいない。広く深く……冷淡な色。

「お前が、螢か」

 その口元はほとんど動かなかったが、それでも確かにそう聞こえた。あまりに久しぶりにその名を呼ばれ、驚きのあまりに再び顔を上げてしまう。だがしかし、彼の視線はもうこちらに向いてはいなかった。

「表に荷車を待たせてある、そこまで人目に付かぬようにムシロにでもくるんで連れて行け。お前たちの仕事はそこまでだ、全てが済むまでは一銭もやらぬぞ」

 見知らぬ男はそれだけ言い放つと、さっさときびすを返してどこかに行ってしまった。残された番人たちは、飛び上がらんばかりに慌てふためき、あちこちを改めている。やがて、ぼろぼろの敷物をどこからか見つけてきて広げ、彼女の身体に巻き付けた。
  そのせわしない手つきから感じ取るものは、確かに昨夕のものとは違っている。何か恐ろしいものに背後から追い立てられているかのような気迫が、こちらにまで伝わってきた。

 

 一体、何がどうなっているのか。

 カビ臭いもので視界を遮られてしまえば、自分がもうどこに連れて行かれるのかすら見当がつかなくなってしまう。そんなはずはない、あのことが明るみに出た後、簡単な取り調べがあっただけであの座敷牢に移された。身体を蝕む廃屋に置かれ、事切れるまで外に出ることはないと言い放たれる。そこに至るまでひとことの言い訳すら、許されていなかった。
 
  次期竜王の側女(そばめ)としての地位を利用し、お仕えするその大切な御方を、さらには王家の名をも汚し陥れようとした大罪人――気付けば自分の身に覚えがないほどの罪状がずらりと並べ立てられていた。確かに、自分のしでかしたことは決して許されることではないと承知している。だが、ここまで救いのない沙汰があるものだろうか。

 今となっては、自分のあまりの甘さに情けなくなってしまうほどだ。どうして見抜けなかったのだろう、あの頃に自分にさしのべられていた手の余りの儚さを。かたちばかりの愛情は、状況次第で容易にその姿を変える。それを信じてすがっていた自分があまりに哀れだ。
  絶望の底に打ち付けられて、もう何の望みも心に浮かばなくなっていたはず。それなのに、どうしてまだあの御方が助けに来てくださるなどと期待したのだろう。

 

 がつんと鈍い音がして、どこか狭くて暗い場所に投げ込まれたことを知る。

 そこには土臭い藁が敷かれていたようであったが、四方を覆われた闇の中ではしっかりと確認することは出来ない。かなり安っぽい造りの車はとても人を運ぶ手段には適しているとは言えず、一度荒々しく動き出せばその振動が直に伝わってきた。
  放り込まれた折りに、頭を奥の柱に強く打ち付けたのだろう。次第に意識が朦朧としてくる。遠く近く車輪の音を聞きながら、さらに深い場所まで導かれていった。

 

………………


 母が亡くなったのは、それからしばらくの後であった。

 かたちばかりの葬儀を終えてしまえば、そこに母が存在したことさえ誰も彼もが忘れ去っていく。行くあてもない身でその後も父の館に留まってはいたが、一日のうちで誰かと顔を合わせるのは三度の食事の膳が届けられるときのみ。その他に、自分の身が顧みられることはなかった。

 ――やはり、母上はどこまでも私を厭わしく思っていらっしゃったのだわ……。

 痩せ細った手首が脈打つ様を見るに付け、そう考えずにはいられない。もしも、ほんのひとしずくでも我が子として自分を愛おしむ気持ちがおありなら、どうしてこのようにひとり残して逝ってしまわれるだろう。
  口惜しくて口惜しくて、涙に暮れるばかり。その当時のことは、あまり覚えていない。自分の心までが知らぬ間に、悲しみを排除しようとしているかのように。

 

「本日お迎えが参ります、早くお支度してお出でください」

 ある朝そう告げられたときも、頭はぼんやりして自分のことを言われているのではない気がしていた。それでも新しく準備された衣を渡されれば、それに着替えるしかない。やがて下女に伴われて庭先に進めば、そこに用意されていたのはかつて見たこともないような大振りの立派な牛車であった。

  言われるがままにそこに乗り込んではみたが、よくよく考えればその行き先も知らされていないままである。小さな子供ひとりには広すぎる空間。一番隅で膝を抱えたままの姿勢で過ごした。不安な胸を抱えつつの数刻の道のり。辿り着いたのは、今まで住まっていた父のお屋敷よりも数段立派な御館であった。
  庭木がびっしりとその枝を連ね、どこまで進めば建物に到着するのかも分からない。何故、自分がこのような場所に呼び立てられるのだろう。訳も分からずに進んだ先に待っていたのは、漆黒の髪を豊かに床まで流した錦絵のように美しい貴婦人であった。

「あなたが露草の娘ですね。早くこちらにお上がりなさい」

 その女性の後ろにはずらりとたくさんの侍女たちが従っている。それを見ただけで、目の前の御方がどんなにか高貴な身の上であるかを知ることが出来た。今までは西南の民にしか会ったことがない。この世には闇の色をした肌の白い女人がお出でなのだとその時初めて知った。
  長い長い渡りをいくつも超えて案内された先は、こざっぱりとした明るい部屋であった。一通りのお道具が揃い、その奥には衣装部屋まであるように見える。何が何だか分からぬまま渡りの端で立ちすくんでいると、先の女性が花の咲いたような華やかな笑みをその口元に浮かべた。

「今日から、ここがあなたのお部屋です。絵巻物やひいな人形などもたくさん揃えましたから、みな自由に使って宜しいのですよ」

 その言葉に促されたかのように、側に控えていた数人の侍女が閉ざされていた戸を立てる。美しく初夏の花が咲き誇る見事な庭園が目の前に現れた。あちらには遣り水が見え、小さな太鼓橋がその上に架かっている。まるで一枚の屏風絵のようで溜息が漏れてしまった。そんな彼女を見つめ、女人はさらに仰る。

「あなたの母・露草はもともとはこちらの館の侍女として仕えていたのです。心ならずも手放してしまったこと、とても後悔していたのですよ。あなたは里にも身寄りがないと聞きました、これからは私を母の代わりと思ってお住まいなさい。……あなたの父上はこちらの館主である私の夫の弟君。姪御にあたるあなたを我が子と思って慈しむのは当然のことですから」

 その言葉には、驚きを通り越して気の遠くなる思いがした。

 そんなはずはない、自分は実の母にすら疎まれていた身の上。このように夢のような出来事が起こるわけもない。きっと明日の朝目覚めれば、今までの薄暗い部屋に戻っているに違いない。

「――あなた、名は何というの?」

 花色の衣を肩に掛けてくれながら、女人はさらに優しく声を掛けてくれた。驚きのあまりに震える身体を留める術も知らなかった彼女も、ようやく温かいぬくもりに触れて我を取り戻す。

「……螢火(ほたるび)、と申します」

 長いこと誰からも呼ばれることのなかった名を、改めて口にする。その瞬間に、ようやく自分の新しい人生が始まる心地がした。

 

 まばゆいほどの夢の館。自分に目を掛けて可愛がってくださる御方は、元は王族の姫君であられたと聞かされた。
  そう言えば前の館にいた頃に下女から聞いたことがある。自分の父である方は西南の大臣家の出身、現大臣様の弟に当たると。そして大臣様の元には王族の血を引く美しい御方が御降嫁なさっているのだと。それこそが、あの貴婦人であられるのだ。そう言われれば合点がいく、あの堂々とした立ち振る舞いも見る者を魅了する圧倒感も。
  お美しい御方の御名は「翠(すい)の君」さまであると聞いた。翠、というのは萌ゆる草木の色である。しなやかに伸びていく枝葉の先に揺れる力強い生命の証。ご立派なだけではない、さらに豊かで深い心根をお持ちである。お目に掛かってから幾日もたたぬうちに、彼女――螢火はその御方にすっかり心を許していた。

 館の女主人であり多くの御用事がおありになるから、そうたびたびはこちらにお渡りになることはない。御自身にもたくさんの御子がおられるのだ、そちらを主に考えられるのが当然だ。
  でも、寂しいと思うのは筋違いというもの。お忙しい御身でありながら、始終心を砕いてくださっているのは子供心にもよく分かっていた。今まで誰からも顧みられることのなかった身なのに、このように恵まれた暮らしをすることが出来る。これも全て翠の君さまのお陰、いくら感謝してもしきれるものではない。

 ――いつか必ず、このご恩に報いたい。

 勧められる手習いごとは必死にこなした。もともと器用なたちではなかったので上手くいかないことも多かったが、そんなときは何度も何度もおさらいして人の何倍も努力すればよい。それに少しでも上達のあとが見えれば、翠の君さまは大変喜んでくださる。そのことが何よりの支えであった。

「螢火はとても賢い子ね、この先どんなにか素晴らしく成長するでしょう。方々でお褒めの言葉を頂いて、私も鼻が高いことよ」

 幸せな時は瞬く間に過ぎていく。気付けば裳着を終え、十五の春を迎えようとしていた。

 

………………


 さらさらと。洗い立てのように清々しい気が頬をなでる。ぼんやりと瞼を開けば、細木を打ち付けた横壁の隙間から明るい光がこぼれていた。

「……うっ……」

 ささくれだったその場所に手を添えながら、ゆっくりと起きあがる。自分に巻き付けられていたムシロはもうすっかりとはがれてしまっていた。長い時間我が身を覆っていた荒々しい振動がいつの間にか止んでいる。休憩の最中なのか、それともどこかに辿り着いたのか。そもそも行き先すら聞かされてはいないのだから見当が付かない。

「起きたのか、ならば降りなさい」

 表から錠を外す音がする。がたがたと動く木戸を身構えながら見つめていると、やがてそこはするりと開かれた。朝、あばら屋の入り口に立っていたあの男である。鳥肌が立つほどの真っ直ぐな瞳でこちらを見つめていた。

「どうした、二本の足があるなら立てるだろう。それとも……誰か介添えが必要か?」

 動かぬ表情がそう告げる。突き放されるようなそのひとことひとことが、光の中に晒された我が身を切り刻んでいくようであった。

 この男は、一体何者なのだろう。まずはそれを訊ねるのが道理であろうが、とてもそのようなことが許される状況ではない。たとえようのないほどの、ひどく張りつめた気が辺りを満たしていた。螢火が観念したように首を横に振ると、男はそのまま背を向ける。草履の音が少し遠ざかった後、ゆっくりと戸口から身を乗り出してみた。

「……あ……」

 乾いた口元から、思わず声が漏れる。目の前には一面の朱野原が広がっていた。さやさやと朱色の波が幾重にも押し寄せてくる。よくよく見ればそれは腰の高さほどの草原。何の種類なのだろうか、夏の盛りというのに燃えさかる炎の如く色づいている。傾きかけた夕刻の輝きがそこに柔らかく光を落としていた。その向こうには高い山が幾重にも連なっている。

 ――ここは、一体何処なのだろう……?

 一度も訪れた記憶のない場所。夜明けと共に出立して、もう夕暮れ。ここに至るまでは、ほとんど一日がかりの道のりであったようだ。すっきりと乾いた気にも覚えがない。自分も多くを知るわけではないが、もとより「西南の集落」という土地は温暖で豊潤だと言われている。作物を育む土壌は水分を多く含み、そこを流れる気も季節に関係なくいつもしっとりと肌に馴染んでいた。

 視界の先を行く男との距離が、だいぶ離れていることに気が付く。遠ざかる足音。こちらを気遣って歩みを止めようという気はさらさらないらしい。
  どうしたものかとしばらくは思案していたが、やはり今はあの男の言葉に従う他はあるまい。そろそろ日も暮れる。見知らぬ土地にひとり残されて夜を明かすのは、茨道を過ぎてきた身であってもさすがに恐ろしかった。

 

 荷車から降り立ってみれば、ぐるりと四方を見渡すことが出来る。

 そびえ立つ山脈はすっぽりと土地を取り囲み、すり鉢の底になった部分に自分はいた。かなりの坂を登ってきた様子で、背後に伸びる山道はやがて森の向こうに消えていく。遠く暮れかけた風景には切り開かれた田畑も見受けられた。そこに暮らしている人々が確かに存在していることを知らしめるように。

 ぼろを羽織っただけの身体。裸足のつま先から、しんしんと冷えが伝わってきた。かさかさに乾いてなびくこともない髪が、背中の後ろでごわごわと音を立てる。こんな姿を人に見られるのは恥ずかしいと思ったが、幸い風景の何処にも人影はない。

 

 しばらく道なりにいくと、さらりと視界が開けた。草原の向こうに生け垣があり、その中にいくつかの建物が確認出来る。

 男はそこに向かっているようだ。何かあちらに声を掛けている。次の瞬間、その門先にちらりと今ひとりの人影がのぞいた。


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