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「私が大臣家に尾を振る間抜けな犬かと思ったのか、人を馬鹿にするのもたいがいにしろ」 男はそれだけ言い捨てると、草履も脱がぬままこちらに背を向けて縁に腰掛けた。衣の乱れを整えたその肩先から、静かな憤りが感じ取れる。 「ま、まあ……これはご主人様。お早いお帰りで……今、お茶の支度をして参ります。こちらにお上がりにはなりませんか?」 敷物を手に駆け寄る荻野に、彼は小さく首を横に振る。 「良い、……もう疲れた。茶を貰ったら、部屋に帰って休むとする」 それきりこちらを振り向こうともせずに、男はただ黙って庭を見つめている。荻野が下がってしまった後も、その姿は変わらなかった。几帳の影から覗けば、やはり丁寧な仕立ての晴れ着である。しかるべき場所に出仕したあとに違いなかった。 「食事もろくに摂っていない様子だな。都の贅沢な味に舌が慣れすぎて、田舎料理などは口に合わぬのか?」 突然話を振られて、ハッとする。もしや背を向けた姿勢でも、このように覗き込んでいる自分の姿が分かってしまうのだろうか。誠に訳の分からぬ男である。 「あまり荻野に心配を掛けるのではない。こうたびたび文が届いては、務めに差し支えるではないか」 その声は鋭く斬り込むように、螢火の胸に届いた。ただ淡々と情の欠片もなく紡ぎ出される言葉は、彼の心というものを全く投影していない。きっと今もあの冷たい眼差しのままでいるに違いないと思う。彼が戻りたくて戻ってきたのではないことはよく分かった。 「――お前はとんだ思い違いをしているようだな、私は誰かに頼まれてこのような手段に出たのではない。あのままのたれ死ぬ運命だったお前を救い出してやったのではないか。命の恩人を前にして、感謝の言葉のひとつも出て来ぬとは、やはりどこまでも愚かな女だな。自分の立場もわきまえられないようでは、先が思いやられるというものだ」 「ま、……まあ、ご主人様……! お茶をお持ち致しましたのに」 荻野の声に面を上げれば、男はもう庭先まで歩み出ていた。その時になって初めて、螢火は自分の両手が固く握りしめられて膝の上にあることに気付く。何もかも放り投げて無気力に過ごしてきた日々、とっくの昔に忘れ去っていた「怒り」という感情がにわかに胸の内にこみ上げてきた。 「――あの、……」 気付けば立ち上がって、縁の端まで駆けだしていた。先に荻野が、続いて男が振り返る。柱に手を置いて息を整えながら、螢火は必死に次の言葉を探していた。 「わたくしは……あなたに買われたのですか?」 あの朝の牢屋番たちの言葉が蘇ってくる。確かに彼らは何か大きな恐怖に怯えながらも「法外な報酬」を目当てに行動に及んでいる様子であった。もしも正式な沙汰があったのなら、あのように取り乱すこともなかっただろう。
「牢破り」……何と恐ろしいことなのであろうか、追っ手が来ればただで済まされる訳もない。 自分は竜王家を欺いた極悪の謀反人なのである。その罪は重く、決して許されるものではなかった。もしも男であればその場で斬り殺されても必然だったであろう。女子の身だからと言う理由だけで、あのような座敷牢に幽閉されたのである。刃を向けられることはなく、だが再び人として生きることは永遠に許されることはないはずであった。
広がった髪がさらさらと床へ落ちていく。人形のようにただ身体にあてられた衣が、妙に重々しく感じられた。 一体、何としたことであろう。そのような酔狂なことを考える者があるものか。胸が内側から激しく打ち鳴らされ、その痛みが全身へと広がっていく。もうすでに、恐怖はすぐそこまで来ているのではないだろうか。そう思えてならない。 「……愚かな女子が考えそうなことだ。悪いが、私にはそのような趣味はない。自分の立場が分かったのなら、飯ぐらいはちゃんと食え。それが館の主としての命令だ」 男はそれだけ言うと、さっさと自分の居室に戻ってしまった。荻野は茶の支度をした盆を持ちしばらくは途方に暮れていたが、やがて観念したようにその後を追う。茂みの向こうにふたりの姿が消えてしまうまで、螢火は縁に立ちつくしたままであった。
………………
置かれた立場は不安定なものであったが、それでも大臣家の姫君の末席に加えられている。畏れ多いことだとは思ったが、翠の君さまがそう望まれるならば立派にお役目を果たさなくてはならない。大臣夫婦の胸の内にある野望など、感じ取る余裕もなかった。
「わたくしが……都に、でございますか?」 それまでは季節ごとの挨拶の折りに一同で集まる他は足を踏み入れることなどなかった大臣様のお部屋。そこに呼び立てられただけでも驚いてしまうのに、さらに大臣様ご本人のお口から直々に聞かされたお言葉には耳を疑ってしまう。 「そうですよ、螢火もどこに出しても恥ずかしくないほどの女子になったのですから。あなたのような存在が息子の側にいてくれれば、私たちもどんなに心強いでしょうか」 一段高くなったお席、大臣様のお隣から翠の君さまも優しくお言葉を掛けてくださる。お部屋に面した中庭ではようやく春が萌え始めた頃。明るい日の光が遣り水をキラキラと輝かせていた。
次期竜王様候補であられる亜樹様の側女――表向きは「侍女」としての立場となるが、それだけで済まされるはずもない。今までにもこの西南の大臣家からは何人もの女子を都へと送り込んではいたが、未だに亜樹様は子宝に恵まれないままなのである。大切なご子息を幼くして竜王家に差し出した大臣様ご夫婦の胸の内が穏やかではないのは当然ではなかろうか。 現竜王であられる華繻那様とこの大臣家との確執を知らぬ者はいない。今を遡ること十数年前、かつてより約束されたこちらの姫君との婚儀をあちらの一存で白紙に戻されたのだと言う。およそ殿上人とは思えない思慮の浅い振る舞いである。そして今、亜樹様の許嫁となっているのが、他でもない当時華繻那様を陥れた女子の娘。聞けば今は亡き母御は何の身分もない異郷の者と言うではないか。
「あなたにはこれから急ぎ支度を整えて、半月後にはあちらに移ることになるでしょう。色々と周りが騒がしくなるでしょうが、これはまたとない名誉ですよ。私も育て親として鼻が高いことです」 この話が紛れもない真実であると知っても、まだ螢火は夢心地のままであった。 大臣様ご夫婦の末のご子息・亜樹様とは幾度か直接お目に掛かったこともある。自分よりも三歳ほど年長であると聞いていたが、とても物腰の柔らかい温かいお心の御方と感激した。こちらにご滞在中は何度もあちらの対に呼ばれ、夜更けまでご一緒させて頂くことも幾たびもあったほどである。 ――わたくしが……あの方の元へ。 この年まで大臣家のお世話になってきたのだ、いつかはご恩返しがしたいと願ってきた。それがこのような幸運と共に訪れるとは。亜樹様の側女となれば、ゆくゆくは御子を産み上げ国母(こくも)にものぼり詰めることができる地位。それを果たすことが出来たなら、翠の君さまはどんなにかお喜びになることであろう。 「み……身に余る光栄にございます。お役目、必ずや立派におつとめさせていただきます」 もし、己の人生の中で幸せの頂点という場所があるのだとしたら、きっとあの瞬間であったと思う。輝かしい希望に胸を躍らせながら部屋に戻った後も、しばらくは興奮して食事も喉を通らないままであった。
その日の夕餉の後のことである。 何の前触れもなく、翠の君さまが部屋までいらっしゃった。突然のお越しではあるが、昼間は十分なお礼も言えずじまいだったので嬉しく思う。急ぎお席を整えさせようとすると、その必要はないと言われる。 「この先は……この者の指図通りに。いいですか、誰にも悟られることのないよう、お気をつけなさい」 翠の君さまはそれだけ仰ると、さっさとお戻りになってしまった。気が付けばお部屋の中にも入って頂いてはいない。とんだ失礼をしてしまったと後を追おうとすると、前に控えた老齢の侍女に制された。 「ま……、無理もないことで。これだけのお美しさですからなあ」 目立たない色目の衣で渡りに出る。行き先も告げられぬままに辿り着いたのは、何と湯屋であった。このような場所に足を踏み入れたことなどかつてない。この地で風呂を使うのは、春を売る女だけなのである。大病をした後でもない限り、固く絞った手ぬぐいで身体を清めるに留まっていた。 「あ、あのっ……わたくしは――」 何を訊ねようとも、老婆は何ひとつ答えてはくれない。途方に暮れたまま、螢火はただ彼女の後に従うしかなかった。もともとこの者の言うことに従えと翠の君さまは仰った。異を唱えることなど許されることではないのだから。
「こちらです。……頃合いを見て、お迎えに上がります」 渡り奥の部屋の前に螢火を残し、老婆はさっさと行ってしまった。取り残されたこちらは困り果ててしまう。一体どうしたものかと思っているうちに、目の前の戸が内側から開いた。 「……あ……!」 強い力で部屋の中に連れ込まれて、面を上げる。その次の瞬間、螢火の目に映ったのは、想像だに出来ないあった人物であった。 「これは……大臣様。……どうして」 あまりの恐ろしさに、それ以上の言葉が出て来ない。これは紛れもなく翠の君さまの夫君にあられる御方、この西南の集落を治める誰よりも尊い方である。他人のそら似などであるはずもない、つい先刻お顔を拝見したばかりで見間違えるはずもないではないか。 「ふふ、何をしておる。早う、こちらまで来るのだ。おお、どうした。怯えておるようだが……」 抱きすくめられた腕が酒臭く、その奥には何とも言えない男の香りがあった。まさかこんなことがあるはずもないと自分を納得させようと試みるが、どうしても上手くいかない。西南の大臣様と仰る方は、この上なく好色な方と言われている。気に入った女子があれば、見境なくお手にされると聞いていた。でも、……まさか、このようなことが……! 「いっ、嫌っ……! 離してください……、わたくしは――」 捕らえられた小鳥の如くもがいたところで、大柄の大臣の力に勝るはずもない。それどころか、その動きがかえって衣を乱れさせ、男の腕を易々と懐に忍ばせてしまった。 「困るではないか、このように何も知らぬままではあの小娘に蹴落とされてしまうぞ。これから儂が男と女のことをとくと教えてやろう、ほらそのようにあらがうではない、何も恐ろしいことなどないのだから」 ――まさに、悪夢であった。 この御方がどんなにか恐ろしい御気性の持ち主であるかは館の誰もが知っていることである。仰ることがどんなにか人の道を外れた理不尽なことであったとしても、大臣様の仰ることが真実と塗り替えられる。そんな出来事は日々当然の如く行われていた。少しばかり腹の虫の居所が悪いだけで、女子であっても簡単に刃を向けられることも珍しくないと言う。 灯りを落としたしとねの上。我を忘れて抵抗を試みたところで、すでに結果は見えていた。贅を尽くした暮らしの中ででっぷりと肉を付けた浅黒い身体が野獣の如く襲いかかってくる。長い髪を鷲づかみにしてこちらの自由を完全に封じ込めると、荒々しい手つきで寝着の腰ひもを解いてしまう。そして、いきなり何の準備も整っていないその場所に我がものを突き立ててきた。 「――っ……!」 およそこの世のものとは思えない残虐な行為。すでに人としての部分を失ったように見える激しさで、何度も何度もその部分を打ち抜かれた。まるでその部分が大きな空洞になってしまったかのような、もう再び元の姿には戻れぬのではないかと絶望したくなるような、たとえようのない感情。それが頭の中だけではなく、身体中を駆けめぐっていく。
「ほら、起きろ。すでに迎えが来ておる」 どれくらい時間が経ったのだろう。乱暴に揺り起こされて、ぼんやりと瞼を開く。頬には涙で張り付いた髪がこごっていた。投げ出されたままの身体じゅうが痛くて、起きあがることすら出来ない。すでに白んできた視界に浮かんだ肌には無数の痣が浮かんでいた。 「まったく、……翠も小癪な真似をしてくれる。もっと早くにお前のことを知っていたら、都になど差し出すこともなかったものを。もともとはな、お前の母は儂が目をつけていた女子であったのだ。思いがけずに愚弟に横取りされてしまったのが、今でも口惜しくてならぬ。だが、やはり神は儂の味方であったのだな。……このような粋な再会をくれるとは」 迎えに来たのは、やはり昨夜の老婆であった。動けぬ身体を無理矢理に引きずられて、部屋に戻される。元のように衣を整えられた後、耳元に低い声で囁かれた。 「――今宵、またお迎えに上がります。このことは、決して他言はなりませぬぞ」
もしも許されることならば、すぐさま懐刀で胸を突き果ててしまいたかった。 だが、すでにそのようなものは手に届く場所には残されていない。部屋を出ようにも全ての出口には見張りが付き、身動きの取れない状態にあった。表向きは亜樹様の元に召される自分を警護するという意味合いなのだろう。だがその実は……。
絶望のうちに一日が終わり陽が落ちれば、渡りの向こうからあの老婆が訪れる。そしてまた、背徳の長夜が始まるのであった。
Novel Index>扉>朱に散る・4
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