TopNovel Index>朱に散る・5


…5…

 

 ――もしや、あの男は全てを承知しているのではないだろうか……?

 そんな思いが浮かんだ刹那、忘れられるはずもない屈辱が蘇ってくる。すでに過去のほとんどの記憶がうっすらとしか思い描けなくなった頭でも、残酷に身体に刻まれた夜だけが消えない痛みと共に胸奥に突き刺さっていた。

 

「まあ……、そのように薄着でいらしてはお身体にさわりましょう。もしまだこちらにお出でなら、一枚上に重ねられた方が宜しいですよ」

 縁の柱にもたれかかって、ぼんやりと過ごしていた。ひどい物思いをしたせいか、額の辺りが重くて仕方ない。だいぶ時間が過ぎたように思われるが、一抱えほどの衣を手にした荻野がいつの間にか戻ってきていた。これから洗濯に出すのだろう、先ほどまであの男が身につけていた装束も見える。
  上に重ねる衣はよほどのことがない限り水通しはしない。特別の薬品で染み抜きなどの手入れをした後に風に当てて乾かすのだ。直接触れる肌着などはこまめに洗うことになるのだが、何処の土地にも方々からの洗濯を引き受けそれを生業としている者たちがいる。これくらいの大きな家となれば、洗い物はその者たちに任せるのが当然のことであった。

「ああ、そうですわ。ちょうど良いですから、秋物の衣にお袖を通されては? あれこれ広げてありますから、お好みのものなど選んで頂けると宜しいですわ。お顔写りなども、確認致しましょう」

 こちらの返答も待たずに、彼女はさっさと自分の思いつきを行動に移す。外に広げて干した衣のいくつかを取り込んできては、奥の座敷に広げていくのだ。磨き込まれた板間は、すぐさま色とりどりの花畑へと変化した。秋物だからであろう、朱や橙などの紅葉を思い起こさせる色味のものが多い。どれも品の良い丁寧な仕立てであった。
  下に重ねる薄物も、くすんだ色が多い。このように衣やしつらえを替えて季節を味わうのが、この上なく風流とされていた。幼き頃から当然のことのように習得し、一通りの色目を学んだ後は自分なりの新しい組み合わせを考えるのも日々のささやかな楽しみのひとつになる。
  春には淡く優しい色味、夏には鮮やかな萌えるような華やかに……そのひとつひとつを深く心で味わいながら装ってきた。だが、それも過去のこと。今の自分には何もかもが不似合いである。

 ふわりと翻った絹の流れ。その藤色を目にしたときに、別人のように自分を蔑んだあの御方の瞳が脳裏に蘇った。

「……やっ……!」

 新しい衣を当てようと伸ばされた荻野の手を、知らぬうちに乱暴に振り払っていた。ぞくぞくと冷たいものが背中を流れ、心の奥深くまでが墨色に染まってゆく。

「やめてっ、こんなことしないで……! 放っておいて……!」

 がくがくと大きく震える身体を引きずるように移動し、やがて几帳の裏にうずくまった。

 ああ、何と恐ろしいことだろう。あの男は簡単なことのように言ったが、牢破りがそのように容易く行われる訳もない。しかも、あのような軽々しい者たちの手を借りたのだ、あっという間に足が着くであろう。すぐに追っ手がやってくる。その時には自分だけでは留まらず、あの男もそしてここにいる優しい人もどんなに厳しい沙汰を受けるか知れぬ。

「助けてなんて、頼んでないのにっ……! どうしてっ、こんな恐ろしい……」

 罪人をかくまっているというのに、何故このように平然としているのだ。もしやこの侍女はやはり自分の身の上について何ひとつ知らされてはいないのではないか? そうとでも思わなかったら、このような立ち振る舞いに説明が付かない。これが事実であるなら、さらに罪深いことだ。何の関わりもない者を巻き込むことなんてしたくない。

 

 竜王家を欺く大罪人として捉えられ、厳しい尋問を受ける。なにひとつ口を割らずにいたというのに、気付けば数えきれぬほどの罪状が並んでいた。自分を都に送り出してくれた大臣家も、そして実の父からも見捨てられ、誰も彼もが口汚く罵り、大声で嘲笑う。瞬く間に、螢火は母を失ったあの瞬間と同じようにたったひとり取り残されていた。

 もう何の望みもなかった。だから、あの座敷牢で静かに朽ちていくのを待っていたというのに。何故、今更日の当たる場所に引きずり出したりするのだろうか。

 

 几帳の向こうで、ふうっと小さな溜息が漏れた。

「……ご心配には及びませんわ。こちらにいらっしゃれば、何も案ずることはございません。ご主人様は決して危うい橋を渡るような御方ではございませんよ。いつの時でも確かな勝機があるからこそ、ご決断なさるのですから。どうぞ大船に乗ったおつもりでいらしてください」

「……荻野……さま?」

 螢火の声に、また彼女は低く喉の奥で笑った。

「困りますわ、私はあなたさまにお仕えする立場にございますのに。どうか、荻野とお呼びくださいませ。でも嬉しゅうございますわ。なかなかお口を開いてくださらないのですから、寂しく過ごしておりました。本当に可愛らしいお声ですこと、こちらまで華やいだ心地がいたしますわ」

 そのあとも一頻り、くすくすと笑い声を上げている。こちらの物思いなど、微塵も伝わっていないように。それからゆっくりと、几帳の端から顔をのぞかせた。

「螢火様は、本当に何もご存じないのですね。失礼ながらあのような仰りようでは、ご主人様がご立腹なさるのも当然ですわ。何も案ずることなどございません、今までのことなどは全てお忘れになってお心安らかにお過ごしくださいませ。ご主人様はご立派な御方です、全てをお任せすれば宜しいのですよ」

 何事もなかったように微笑むその姿を、螢火は信じられない面持ちで見上げていた。

 何とまあ、どっしりと大地に根を下ろした大木のような心根を持った女子なのであろう。しっかりと土地に根付いた者とは皆がこのように逞しいのか。紅葉のように頼りない心地の女子しか知らなかった螢火には、未だにこの荻野が何処までも未知の存在に思えた。
  この館に長く仕える者と言うが、主人であるあの男に対しても対等に渡り合っているように見える。長年の付き合いだからと言うだけでは済まされぬほどの重さが感じ取れた。

「こちらは、西南の大臣家の直轄地になります。丁度、あちらの御館から南東にずっと下がった辺り、すぐに集落の境界がありますわ。街道からも遠く山深い土地にございますから、余所者はほとんど訪れません。昔ながらの土地の者だけで、静かにささやかに暮らしておりますわ。ご主人様はこの辺りを治める由緒あるお血筋。土地の者たちも心から信頼して尽くしております」

 その言葉には少しも傲ったところは見られず、ゆったりと流れゆく水面のように静かに螢火の心に注ぎ込んできた。ああ、そうか。聞いたことはある。西南の集落は東西に長く横たわる地形で、西側の広大な平原はいくつかの領主が分けて治めていた。しかし東南に広がる険しい丘陵地を始めいくつかの土地は大臣家の直接治めるところとされている。
  直接に大臣家より命を受けた地主が土地を治め、秋の収穫から決められた分を献上する。間に人が立たないことで、見通しの良い管理が可能であった。

「さあ、お急ぎなされませ。ご主人様も今は旅の疲れからあちらでお休みになっておられますけど、夕餉のお膳はこちらでご一緒にとお願いして参りましたから。おひとりではお食事も味気ないものにございますもの、きちんと召し上がるようにと仰るのならそれくらいはして頂かないと」

 さらにそのような言葉を告げられ、仰天してしまう。何故、あの男と自分が一緒に膳を囲まなければならないのだ。きっと自分以上にあちらの方が嫌がるに違いない。荻野は給仕は手伝ってくれるものの、食事そのものは夫の待つ居室に戻ってからとると言っていた。だからといって……、ああなんたること。

「そんな、……だって、あの方は」

 あの射るような冷たい瞳。全身から漂う拒絶の心。側に寄ることさえ汚らわしいと音なき声で告げられているような気がしていた。
  また、先ほどのことでどんなにか腹立たしく思っていることだろう。顔を合わせればまた、あれやこれやと罵られるに決まっている。ただですら食事など摂る気もないというのに、このようなお節介をされてもこちらは困り果てるだけだ。

 螢火の心内を見て取ったのだろう、荻野は柔らかく微笑む。

「ご案じなさらずとも……。こちらの居室も御衣装もお道具も、全てはご主人様があなた様のためにお揃えになったものばかりなのですよ。今はこのようにお若くお美しい女子様を前にして、慣れないことに照れていらっしゃるだけですわ。すぐに打ち解けてくださることでしょう」

 

………………


 荻野の言葉はどれももっともらしく聞こえるが、何処までが真実なのかは計りきれない。夕餉の膳が整い席に着くように言われて、螢火は心からそれを実感していた。

 後ろから押し込まれるような感じで、どうにか座敷まで上がってきた男であったが、そもそもこちらを見ようともしない。むっつりと口を一文字に閉じたまま、あれやこれやと訊ねる荻野の言葉を鬱陶しげにはねのけていた。冷や酒の器を水のようにあおり、皿の上のものを食するためだけに口を開く。がつがつとその全てを片づけるまでにはいくらの時間も掛からなかった。

 

「――やはり、田舎料理は食えないと言うのか」

 自分の膳が空になったところで、男はようやく声を掛けてきた。その時まで、螢火は箸を上げる素振りも見せず、ただただ俯いたままで過ごしていたのである。目の前の男は食事さえ済めばさっさと引き上げるものだとばかり思っていた。

「……」

 言葉など、浮かんでも来ない。食べられないのかと問われれば、そうだと答えるしかないだろう。

 

 あの座敷牢での地獄のような日々。浅ましい男どもに身体を開きながら、どうにかしてこの命が早く尽きる方法を考えた。初めの三日ほどは辛かったが、それが過ぎると食事そのものを疎ましく思うようにすらなる。次第に体力も落ち、一日のうちに何度も気を失うようになったが、それだけおしまいが近いと思えば嬉しかった。
  あの遣り水のなれ果てで溺れることが出来ないかとも考えたが、悲しいかな知らぬうちに身体が助かろうと浮かび上がってしまうのだ。何かが強く、自分をこの俗世に引き留めようとする。もっと長い時間を辛く過ごせと言う。それが口惜しくて仕方なかった。

 ようやく先が見えてきたというのに、何故このようにして引き戻そうとするのだ。自分は助けてくれなどと頼んだ覚えもない。この先、どんな面を下げて生き延びようとするものか。世を恨み人を恨んで死んでいくのだ。それが本望というもの。

 

「では、……何か褒美と引き替えにするか。すぐにとは言わぬ、膳の全てを綺麗に平らげられるようになったら、お前の一番欲しいものを何でも与えようではないか」

 苛立ちを含んだ声で、男はそう吐き捨てた。その振る舞いに、荻野が語ったような立派な地主としてのものはない。気短でこらえ性がない、いつも何かに腹を立てているような男にしか見受けられなかった。

 

 ―― 一番、欲しいものを……?

 

 しかしこちらを蔑んだ言葉であっても、その中に螢火はひとつの光を見た。ああ、やはりここにも神はいたのである。あのときに手放してしまったものがもう一度手にはいるのだとしたら、そのためなら何でもしよう。

「か、……懐刀を」

 振り絞るように発した声に、男と荻野が同時に振り向く。その突き刺さるような視線を肌で感じながら、螢火はさらに言った。

「わたくし、都を追われましたときに懐刀を取り上げられてしまいました。あれはたったひとつの母の形見、是非手元に戻したいものです。そのものが無理であれば、似たようなものでも……」

 橘の花が彫り込まれた柄と鞘。幼き日、父の館を去るときにこの手にしっかりと握りしめていた母の遺品であった。鞘から抜いた刃の根元には花びらが彫り込まれている。今でも瞼を閉じればありありとその全てが浮かんできた。
  ひとことひとこと、言葉を区切りながら告げていくだけで身体中から力が抜け落ちていく心地がする。全てを言い終えたとき、床に手をついていないとそのまま倒れ込んでしまいそうなほどに憔悴しきっていた。

「……懐刀……を?」

 もっとも、この男とて愚かではない。手にした刃で螢火が何を試みようとしているのかはすでに承知したのであろう。それでも、彼は顎に手をやると思案するように首をかしげた。しばらくの後、彼はきっぱりと告げる。

「承知した、それが望みとあらば叶えよう。ただし、まずはこちらの言葉に従って貰おうか。魚も菜も全てを残さず食するのだぞ。一口でも食い残せば、そこまでだ。せいぜい努力するのだな――それから」

 見上げた螢火と男の視線が、一瞬だけ絡み合う。そして、男の方が先に顔を背けた。

「私の名は、楡(ニレ)と言う。……まだ、教えていなかったな」

 

 後の酒はあちらで飲むと告げて、男はさっさと縁を降りていった。その背中を慌てて追う荻野の姿も朝方のそれと同じである。

 辺りをいつか包み込む藍色の闇。こぢんまりと造られた趣のある庭も今はそのとばりの向こう。ぼんやりとふたりを見送る螢火の髪を、涼やかな夜の気が通り過ぎていった。


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