TopNovel Index>朱に散る・6


…6…

 

 何かにつけ、挑発的な物言いをする男。囲われた身であるのだから、それは致し方のないことだとは思う。ただ何よりも腹立たしいのは、その言葉に己の心が愚かにも反応してしまうことであった。

 ――何故、自分はこんなことをしているのだろう。  

 荻野が用意してくれる日に三度の膳は、それほど山盛りにされているわけではない。どんなに食の細い者でも無理なく平らげることの出来る量だと思われた。以前なら、これくらいの食事は普通に摂っていた気もする。しかし、萎み切ってしまった胃袋には、ほんの少しの固形物でさえ上手く受け入れることが出来なかった。箸で小さくちぎったひとかけらですら、すぐに戻しそうになってしまう。

「……そのように、ご無理はなさらずとも。少しずつ量を増やしていけば宜しいかと思われますが」

 さすがの荻野も心配そうに声を掛けてくれる。彼女がくれる優しさに偽りはないと分かってはいたが、だからといってそれに甘えてしまうわけにはいかなかった。何としてでも、懐刀は手に入れなくてはならない。こうなったら意地というものだ。一刻以上かけてもほとんど箸を進めることは叶わなかったが、それでも螢火は諦めようとはしなかった。

 

 楡(ニレ)と名乗った男は、あれからは遠方に出掛けることもなく、外出しても夕暮れには戻ってくる生活を送っている様子であった。荻野に言われているのだろう、渋々と朝晩の食事時にだけこちらの居室を訪れる。あの仏頂面を見るだけで、ただでさえ乏しいこちらの食欲がもっと減退するので正直有り難くないのだが、荻野にはそれが全く分からないらしい。

  双方に会話もないまま重々しい雰囲気が漂っているというのに、彼女ひとりが楽しげに今日のあれこれを話している。庭先に咲いた花を手折りふたりで水盤に挿したこと、簡単なほころびを繕うために自分が初めて針を手にしたこと。ようやく艶を取り戻した爪を磨いてかたちを整えたことまで。殿方にとっては退屈きわまりない話題ばかりだ。
  楡の方も聞きたくもない話をまくし立てられてはたまらないのであろう。まだこちらが一口か二口しか口に運んでないうちに、気付けば全てを平らげてしまっている。あれでは味など分からないのではないかと、他人事ながら心配になってしまう程だ。

  毎日のように自らが手綱を取り出掛けて行くのは、領地の見回りであるらしい。いくら扱い慣れた者であっても、これだけの斜面で馬を使うのはよほど気を遣うに違いない。むっつりと押し黙ったその表情からは疲れすら見て取れないが、本人としては早く衣を緩めて楽になりたいと思っているのではないか。

「今年の稲の具合は如何ですか? そろそろ収穫の時期にございますね」

 とっくりの中身を確認しながら、荻野がさらに話を進める。秋の訪れが早い山間のこの土地では、作物の収穫も平地よりはずっと早まって行われるらしい。初めはそのようなことに興味も関心もなかったが、こう繰り返して話題にされれば、だんだん話題について行けるようになる。もちろんこちらから話しかけることなどはなかったが、知らず耳は傾けていた。
  男も気のおけない侍女との会話は楽しいらしく、聞かれることには面倒がらずに答えている。行く先々で顔を合わせた者たちとのやりとりなどから推察するに、かなり土地の者とも親しい付き合いがあるらしい。どこの娘が嫁入り先で子供を産んだとか、あちらの老夫婦の元に出仕していた息子が戻ってきたとか、かなり細かいところまで承知しているようだ。
  民の暮らしに自らが溶け込み慕われている理想的な官僚の姿が自ずと浮かび上がってくる。だが、だからといってこの者が自分をこうして囲っている理由にはならないと思う。もしも相応の情けがあるのであれば、どうしてここまで冷たく接してくるのだろう。

 麓をいくつも越えた山々、彼の治めている領地はかなりの広大な面積であるらしい。丘陵地に拓かれた不安定な土地の割には禄高も多く、かなりの豊かな蓄えがあるように見受けられる。直轄地を管理するだけならば、一役人と考えても差し障りのない身分だと思われるが、とてもそうは思えない暮らしぶりだ。
  もっとも身につける衣類や毎日の食事に不相応な金を掛けて派手にしている訳ではない。だからもしも大臣家からの使者が訪れたとしても、田舎官僚の佇まいだと信じて疑わないであろう。

 だが、違うのだ。幼き頃から父の住まいや大臣家の館、さらには都の竜王様の御館にまで上がった身となれば、些細なことからその豊かさが本物であるか付け焼き刃であるかは見て取れてしまう。たとえば出会ったばかりの者であっても、服装や身のこなしをちらとかいま見ただけでだいたいの身分とその実家の盛衰がうかがい知れるのだ。

 ――ご主人様はご立派な御方です、全てをお任せすれば宜しいのですよ。

 荻野は確かにそう言った。それはこちらに向けられた言葉と言うよりも、もともと彼女の中に確信としてあったものだと思われる。これだけの険しい土地にありながら、日々の暮らしを憂うことなく過ごせるとは一体どんなからくりがあるのだろうか。
  西南の大臣の取り立ては目に余るほどに執拗であり、そこに情け容赦はひとしずくもないと言われていた。その年の禄高には関係なく、土地から上がるほとんどの作物を差し出すように命じられる。だから、豊かな実り多き土地であっても、そこに暮らす者たちに還元されることはないのだ。しかも上に逆らえば、ますます取り立ては厳しいものになる。
  螢火が世話になっていた大臣家にも、年貢代わりに差し出された者たちが多く仕えていた。誰も好きこのんで悪評高い館に出仕してくるはずもない。中にはすでに人としての扱いをされてない者もいて、あまりの残酷さには目を覆うものがあった。

 しかし、ここはどうであろうか。初めの日、夕暮れの野に降り立ったとき、辺りを流れるゆったりした気が感じ取れた。潤いのある土地にどっしりと根を下ろした木々、すくすくと育つ作物たち。
  館に出入りする土地の者たちの姿を遠目に伺うことも出来たが、一様に表情が明るくとても肌つやが良いことに驚いた。身につけているものも普通の野良着ではあるが、丁寧な仕立てが身体に馴染み着心地も良さそうである。しばらくを過ごした都ですら、ここまでの豊かさを感じ取ることは出来なかったというのに。

「まあ……例年と変わりはないであろう。ただしばらくは人の出入りに気をつけなければならない、毎年のことであるから麓の者たちも心得たものであるが。何事も用心に越したことはないからな」

 なみなみと注がれた酒を一気に飲み干すと、楡は低い声でそう言った。その鋭利な輪郭を見つめながら、不思議な心地がしてくる。
  初めてこの者の姿を見たとき、その落ち着きぶりから初老に近い年齢だと見当をつけた。だがこうして普段着を着崩している様は、精悍とした若々しさすら感じさせられる。細面ではあるが、薄衣の下に隠されているのは相当に鍛えられた体躯だと思われた。まあ、乳兄弟だと言ったこの侍女の娘が自分と同い年だというのだから、やはり相応の年齢ではあるのだろう。

「左様にございますね、こちらも気を引き締めて参りましょう」

 互いに心を許しあったふたりの会話を、とても遠い出来事のように聞いていた。何もかも、自分には関係のないこと。明日のことを望むことも、すでに忘れている。己を取り巻くものは、いつでも儚いばかり。最後に残った希望だけを胸にこの命は繋がれている。

 その日、螢火が口にすることが出来たのは、いつもの薬湯とふた匙の粥、それから白身の魚を二口であった。男はそれを確認する気もないように、半刻ほどの後にそそくさと席を立った。

 

………………


  滞在も半月が過ぎる頃には、身体を巣くっていた気だるさがいくらか解消されたような心地がしていた。初めの頃はなかなか進まなかった食事も、苦痛なく迎えることが出来る。半分ほどの量を平らげることが出来るようになり、朝の目覚めもだいぶすっきりしたものに変わってきていた。荻野の手を借りずとも身支度を調えられる日もある。

「まあ……さすがにお目が高いですわ。こちらの紅葉の重ねは白地でございましょう、どのように薄物を重ねたら落ち着くか思いあぐねておりましたの。襟元が明るくなって、まるで秋の川面のようですわ」

 こちらは私が、と螢火の手から櫛を取り梳き始める。座敷牢に幽閉されてからすっかり手入れを忘れていた髪も、ここに来てから毎日香油を使い今では以前のような輝きを取り戻しつつあった。顔回りが明るくなるから、衣を当てるのも楽しくなる。あまりにも行李の数が多いのでいちいち改めるのが初めは面倒に思えたが、今では時を忘れて没頭してしまうほどである。

 思えば幼い頃からこのようなひとり遊びが何よりも好きであった。……否、好きと言うよりは気楽であったと言った方が良かろう。父の館では、遊び相手もなかったのだから。
  人形たちの衣を替えながら、色々と話しかけてみる。そうしているうちに、まるで人形たちが本当に心を交わしてくれているような心地までしてきた。もしもそばに誰かがいたら、おかしな娘だと気味悪がられたかも知れない。誰にも顧みられることのないひとりの生活だからこそ、そんなひとときが持てたのだ。
  大臣様のお屋敷に移ってからも、衣の合わせ方ではお褒めのお言葉を頂戴することがたびたびあった。まあそのほとんどの手柄は着替えを手伝ってくれた侍女たちのものとなってしまったが、そのようなことにいちいち腹を立てても仕方ない。結局は自分の考えが認められたのだからと、我が心を納得させていた。

 

 朝餉の膳は青菜を入れた粥と、野菜汁であった。始めに薬を溶かした葛湯をすすり、身体を温める。そうしておいた方が、食が進むのだと言うことも分かってきた。

「今朝は少し、顔向きが良いようだな」

 それまで無言で汁をすすっていた男がいきなりそんな風に切り出したので、持ちかけた箸を思わず落としそうになってしまった。きちんと食事を摂るようにと持ちかけられたあの日以来、まるで冷戦状態のようにふたりの間には全く会話というものがなかったのである。さすがに不自然に思ったのか、荻野が何度も男に働きかけていたが、そんなときも面倒くさそうにちらりとこちらを振り返るだけであった。

「ええ、……ええ。だいぶお食事も進むようになられたので、私も腕がなりますわ。今日もこれから麓まで出掛けて、あれこれ調達して参ります。ああ、山にきのこや木の実なども探しに出たいものです」

 差し出された男の器を受け取り、荻野はもう一杯の粥を盛る。青菜の種類も多く、味わいも舌触りも様々なので飽きることのないものになっていた。もともと螢火には食べ物の好き嫌いがない。そのような我が儘がまかり通るような暮らしをしてこなかったのだから当然と言えば当然であるが、薄く食材の風味を生かした荻野の手料理は今までのどんな贅沢な食事よりも美味しく感じた。

「――そうか」

 楡は一度言葉を切ると、暫くは何かを考えている様子であった。特に気にも留めずにその姿を見守っていた螢火であるが、次の言葉には我が耳を疑ってしまう。

「ならば、山の方はこちらで引き受けよう。荻野、……螢に野歩きはまだ難しいか?」

 奥歯でかみ砕くことも忘れて喉に流し込んでしまった芋の欠片がつまり、軽く咳き込んでしまった。胸に手を当ててやり過ごしてから再びおもてを上げると、男はもう素知らぬふりで汁をすすっている。

「まっ、……まあっ! それは宜しゅうございますわ、お食事の後に早速お支度を致しましょう。このようにお部屋ばかりにいらしては、気も晴れませんからね。辺りはもう色づき始めて、それはそれは美しい眺めですわよ」

 荻野はまるで自分のことのようにはしゃいでいる。だが、野歩きと聞いた瞬間に、螢火の心は凍り付いていた。何と恐ろしいことだろう、いくら山頂近い場所であっても日の中であれば人目がある。見ず知らずの女子が歩いていれば、必ず噂になるだろう。ただ人ならそれでも構わない、しかし自分は……。

 青ざめた頬をひんやりと気がなでていく。だから、あの場所から出たくはなかったのに。今更何もなかったかのように過ごすことは出来ないのだ。今頃、自分が脱獄したことを知って、役人たちが血眼になって行方を捜しているに違いない。もうあの番人たちは全てを白状してしまった頃かも知れないのに。

「案ずることはない。――近くの村の者たちは朝から麓まで刈り取りの手伝いに出ている」

 言葉とは裏腹な冷たい声に顔を上げれば、男はすでに背を向けて縁を降りていくところであった。

 

………………


 朱野はますます色づき、まだ日も高いというのにすでに夕暮れであるような錯覚を覚える。さやさやと互いの葉を揺らし合い、まるで会話を楽しんでいるかのようだ。

 長く伸ばした髪を首の後ろで結んで貰い、外歩き用に衣を改めている。久しぶりの草履が足に馴染まず歩きにくかったが、思いがけないほどに足さばきは軽やかであった。いつの間にここまで体力が回復したのだろうか。前を行く人は相変わらずこちらを気遣う様子もなく、ただ己の歩調でどんどん遠ざかってゆく。

 森の奥には泉が湧いているのだろう、そこから流れ出た小川がゆったりと続いている。そのほとりには色とりどりの秋草が可憐な花をつけていた。その間を飛び回る羽虫たち、遠く近くに鳥の声。
  幼き頃から館奥での生活を続けてきた。狭い部屋に閉じこめられ、自由に庭に出ることすら出来ない。近くの野山を散策することも稀であったことを今更ながら思い出す。こうして広々とした野に立てば、何もかもが物珍しく戸惑うばかりであった。

「こちらは……宜しいのでしょうか?」

 柔らかな苔の上に生えた茸はしっとりと滑らかな肌をしている。そんなことにすら初めて気付いた。名前も知らぬ木の実や茸ばかりで、どれが口に出来るものかも分からない。中には毒を持ったものもあると聞いたので、どうしても間違えるわけにはいかなかった。
  恐る恐る訊ねてみれば、造作ないこと。男はいつもの沈黙が嘘のように、ひとつひとつを丁寧に教えてくれた。その表情はやはり厳しいものであったが、それでも螢火にとっては意外なばかりである。このように言葉のやりとりが行えるのだとは思っていなかった。
  元来口達者なたちではない。孤独な幼年時代に己を押し殺す術を身につけてしまった後は、大人しすぎてどこにいるのかも分からぬような存在になってしまっていた。ここへ来て荻野との言葉のやりとりはあるが、それは大抵において彼女からの働きかけにこちらが応じるというかたちである。自分が投げかけた言葉が邪険にされることなく受け入れられることを、とても不思議に感じていた。

「この薄茶のものは、荻野の夫が好きな茸だ。土産にすれば喜ぶだろう」

 気付けば髪や衣が地に着くのも構わずに夢中になっている。男がその場を離れて森の奥を散策している間も、飽きることなく手を動かしていた。いつしか持ってきた籠はいっぱいになっている。やがて、そろそろ戻ると声を掛けられた。

 

「……あ」

 立ち上がりふと見ると、崖の際に一本の若木が生えている。森から少し外れたその場所は谷底から吹き上げてくる気流にさらされ、細い幹はしなるほどに左右に揺れていた。ひとつふたつと葉はつけているが、何とも心許ない様子に見える。近くまで寄ってみれば、丈はこちらの肩先ほど。簡単に手折れてしまうほど細い幹だ。
  籠を持ち前を歩いていた男も、螢火がいつまでたっても付いてこないのに気付いたのだろう。しばらく歩いてから、こちらを振り向いた。

「この辺では見かけない木だ、葉が厚く大きいから南峰で育つ種ではないかと思うが」

 その言葉に、蛍火は目を見開いた。この細木は鳥にでも種を運ばれて、ここに根付いたのであろう。だが、暖かい地に育つものが、このような吹きさらしの場所ではこれからの季節を無事に過ごせるとは思えない。見ればせっかくつけた葉も根元にばらばらと落としている。言葉を持たぬ木が、悲しげに何かを訴えているように思えた。

 胸底から突き上げるかのように湧き上がってきた欲求。気付けば勢いは留まることもなく、口元から確かな音になってこぼれ落ちていた。

「あの、……楡さま。こちらをお庭の隅に運んでも宜しいでしょうか?」

 初めて、声に出して男の名を呼んでいた。だが、そのことにも気付かぬほどに螢火は夢中だった。

 何故、そんな心地になったのかは分からない。ただこのまま見過ごすことだけは出来ないと思った。朽ちていくのもこの若木の運命だと言えばそこまで。だが、せめて。せめて、今少し暖かい場所に植え直せば、生きる力を取り戻すのではないだろうか。

 案の定、男は呆れたような表情になった。そして吐き捨てるように言い放つ。

「……勝手にしろ。そのような些細なこと、いちいち私に断るまでもないであろう」

 広い背中はどんどん遠ざかっていく。そのまま螢火をひとり残し、男は朱野の向こうに消えていった。


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