TopNovel Index>朱に散る・7


…7…

 

 固い岩場に根を張った木を、女子ひとりの力で掘り起こすことはやはり不可能であった。その日は仕方なく手ぶら出戻り、荻野に相談してみる。すると翌日には村の者を頼んで、庭先まで丁寧に運び植え直して貰うことが出来た。

「こちらなら日当たりも宜しいかと存じます。ただ……これから朝晩は冷え込むようになりますから、周りに何かの囲いをしてやった方が良いですね」

 手伝いの者が去ったことを確認してから、螢火はそっと庭に出てみる。それまでも敷地内は自由にしていいと言われてはいたが、やはり日の中に外に出るのは恐ろしく思えてならなかった。幸いなことに、若木は居室の裏手に植えられている。これならば、表に使いの者が来ても容易に身を隠すことが出来るだろう。

 すでに辺りは、暖かな秋の日和にあった。そのような場所に自分が立っていることが、とても不思議でならない。記憶のどこからかをずっと夢見のうちに過ごしているかのような、そんな心地までしてくるのだ。
  若木は他の庭木たちからは少し離れた場所に、恥ずかしそうに佇んでいる。螢火は間近まで寄ると、その根元に膝をついた。

 ――ようこそ、もう大丈夫。どうか元気に根付いてね。

 樹木ならば、人よりもずっと長い時間を生きることが出来る。この細木もやがては大樹となり、遠くの山々を臨めるようになるだろう。そうであって欲しい、滑らかな幹に触れて瞼を閉じれば、遙か遠い日のその姿が浮かんでくるようだ。何と安らかな気分だろう、このような穏やかな日はとうに忘れていたのに。

 

「……まあ、まだこのような場所に。もうそろそろ日も暮れますのに。どうぞお部屋にお戻りくださいませ」

 いつしか辺りは朱に染まっている。そのことにも気付かずにぼんやりと過ごしていたようだ。慌てて立ち上がると、自分よりも少しばかり小柄な侍女がこちらに歩み出て微笑む。夕日に照らし出されたその指先がが優しげに螢火の髪へと降りてきた。

「あら、こんなに花びらが。風流ではございますが、お部屋にお戻りになる前に、一度櫛を入れた方が宜しいですね。……ああ、良い香りですこと」

 その言葉は柔らかく、責め立てている様子もない。それでも螢火は恥ずかしくて、ただ俯くことしか出来なかった。身繕いまで他人任せにしているとは、まるで女の童(めのわらわ)の様ではないか。
  朽ち果てることを望まれた座敷牢での日々。絶望の中にもまだ人らしく最期を迎えることへの希望があった。張りつめるものが何もなくなったあの瞬間から、自分はすでに抜け殻と化している。こうして悪戯に命を燃やし続けても、何の得があるものか。

 優しい声にいざなわれながら居室に戻ろうとする刹那、螢火はもう一度振り向いた。朱に染まる細い枝先、その先端についたきらめきをあと何度この眼に映すことが出来るのだろう。

 

………………


 身体に付けられた傷などはたいしたことはない。それに気付くまでに、余計な時間は必要なかった。

 必死の抵抗の末に、身体についた無数の痕。だがそれも夕刻にあの老婆が部屋の前に立った頃には、ほとんどが癒えていた。みずみずしく柔らかい色をした肌は、昨夜の荒々しさなどどこにも残してはいない。その事実は螢火の心に、新しい絶望の影を落とした。

 ――もうわたくしは、二度と翠の君さまとはお目に掛かることは出来ないのだわ。

 一寸の光もないほどに墨色に塗られた心でも、その事実だけはしっかりと感じ取ることが出来た。もしもお声が掛かったとしても、どうして受け入れられるだろう。こちらとしては選択の余地など与えられていなかった。そうはいっても、あの御方の背の君を寝取ってしまった事実は消滅することはない。
  この館に上がった幼き日から、もったいないほどのお心づくしで慈しんでくれた誰よりも尊い御方。この上ない憧れを抱き、いつかこのご恩に報いたいと切に願ってきた。その希望がようやく叶おうというところであったのに。

 自分の存在は、もはやあの御方を傷つけ悲しませるものでしかない。この先、どんなに努力しようともあのお優しい微笑みは二度と向けられることはないのだ。
  それを思うとき、熱いものがあとからあとからこみ上げていく。それは美しくおしろいを塗られた頬に次々と雫の跡を付け、まばゆいばかりの装束の上にこぼれ落ちていった。

 西南の大臣・邇桜(ニオウ)様の今回の立ち振る舞いについても、信じがたいばかりであった。次期竜王の座を確実にする御方の側女(そばめ)と決まった女子に、どうしてこうもやすやすと手を付けることが出来るのであろう。これこそ、竜王家に対しての冒とくに他ならない。さらにその御方は御自身の血を分けたご子息なのだ。何故そのような行為に及ぼうとお考えになるのか。

「何を申すのだ、そのようなことは気に病むまでもないであろう」

 幾夜めのことだろうか。ようやく恐ろしさを振り切って申し上げたというのに、邇桜は必死の訴えをあっけなく打ち崩した。 

「お前がもしも儂の胤を宿したとしても、同じことではないか。むしろ早く跡目を授かれば、この西南の集落にとってはまたとない好機。我が一族の血を引く者がこの国をまとめていくことには変わりないのだからな。そのように難しく考えることなど、何もないのだ」

 何としたことであろうか。すでに人としての当然の心などどこかに捨て去ってしまっているように思われる。当然の道徳心がこの者には残っていない。これでは、ただ我が欲のために生きている獣ではないか。

 

 大臣様のお召しはその後も途切れることはなかった。数えきれぬほどの女子を欲しいままにしてきた男が、何故か何の得も後ろ盾もない小娘に溺れていく。彼の方も初めはただの気まぐれのつもりであったのだろう、御自身の中の変化にご自分で戸惑っているようにすら見えた。
  それでも日中に決まった政(まつりごと)がある日ならばまだ良い。少しでも身が空く時間があれば、合間を縫ってお声が掛かるほどの執着である。ひどい日などは一日中あの部屋に押し込まれたままで過ごすこともあった。

  女子のことはこの地の誰よりも知り尽くしたと豪語する男である。何も知らないままの咲きほころんだ若い身体を自在に操ることなど、造作ないことだったのであろう。心がどんなに悲痛な叫びを上げようとも、次々に植え付けられていく官能の炎を螢火はどうすることも出来なかった。

「……やっ、もう……お許しくださいませっ……!」

 卑猥な水音が部屋の壁に響いていく。ほとんど光の差し込むことのない場所で、淫らな行為は続いていた。初めの数回ほどは嫌がる螢火の肢体をしとねに縫い止め我を忘れて行為に耽るだけで満足している様子であった彼も、次第にそのやり方を変化していく。その時になって初めて、螢火は痛みと共に過ぎ去る嵐など大したことがないのだと思い知らされた。

  これは多分、今までこの男に関わった全ての女子が味わった屈辱であったのだろう。邇桜にとって、女子を抱くと言うことはその心までも容易く支配することだったのだ。
  鬼よりも恐ろしいと言われている男に、どんなに欲があろうとも望んで身を差し出す女子はいないと思う。少しでも気にくわないことがあれば、誰彼構わずその場で切り捨てるような残酷な一面を持ち合わせているのだ。もしも粗相があったときのことを考えれば、どんな野望も瞬時に萎んでいくというものである。
  それなのに一度閨に上がってしまえば、それまでのことが嘘のように女子たちは順応していく。あの翠の君さまに人でなしと蔑まれようとも、自分からその地位を降りることなど考えられない様子である。それが幼心にもとても不思議であった。

「何を言う、そのように可愛らしい声で啼きおって。ほら、もっともっと悦ばせてやるぞ。どうだ、お前のここはもう男根が欲しくてひくついているではないか」

 いくら好色な男であっても、寄る年波には勝てないのであろう。彼は自身で女体を味わう前に、ねっとりと絡みつくような愛撫をそれこそ気が遠くなる時間続けていた。それにより、何度も何度もたかみに押し上げられる。身体中を戦慄が駆けめぐり、脳髄が震え上がる瞬間を幾たびも越えてもうへとへとになっている。それでも自分のその部分がびくびくと震えているのが分かって、もう消えてしまいたいほどだ。
  女子の身体はどんなに憎い男であろうと難なく受け入れることが出来るように造られていると聞いていた。そうでなくては、やっていけない世の中なのである。自分よりも高い立場にある方からお召しがあれば、それを拒否することは出来ない。たとえ恋人や夫がいても、あらがうことなど許されなかった。
  ざらざらとした舌が、螢火の敏感な部分をゆっくりと味わっていく。両方の股をしっかりと抱え込まれ、顔を突っ込まれるその体勢は人としての尊厳の全てを否定されるようで悲しかった。花芽をつつかれ、潤った穴に無骨な指を数本差し込まれる。掻き出されるたびに溢れてくる雫が股にしとねに流れていく。
  もうこれ以上は耐えられないと思う、でもここで留まることは出来ない。もっと大きな波を自分はすでに知っている。身体がとろけて消滅してしまうのではないかと思うほどの熱さ。それが身体の内側から波となって湧き出していく。

「どうだ、……可愛い女子はここで自分から欲するものだ。今の心を言葉にしてみろ、それによりさらに男は燃え上がるのだ。いいな、いつでも巻き込まれる振りをして巻き込んでいけ。お前の身体はそれだけのものを持っている、臆することなどないのだからな……」

 ちろりちろりと舌先だけでつつかれては溜まらない、もっともっと大きな衝動がなくては気が狂ってしまいそうだ。何故このような心地になるのだろう、このように男に溺れることなどあってはならなかったのに。ああ、もう翠の君さまのことすら気遣ってはいられない。あの御方がどんなにか嘆かれようとも、自分の欲求を止めることは出来ないのだ。

「ああ、お願いしますっ……! 邇桜様……っ、早くっ……!」

 自ら腰をすり寄せ懇願する姿を、もうひとりの自分がどこまでも空虚な気持ちで見つめていた。ああ、もう駄目だ、このように自分は壊れてしまった。もう元には戻らない。二度と、普通の身体にはなれないのだから。この熱を冷ましてもらうまでは、どうしても願い続けるしかない。喉を鳴らし、声をほとばしらせ、男の欲望の全てを受け入れていく。その眼に映る表情が、どんなに冷酷なものであろうとも……。

「全く……翠も無粋なものよ。このようになっても、お前を都に上がらせようとする。すでに決まってしまったことなのだから覆せないと、どこまでも頑なな態度だ。おお……、いいぞっ! 何と、心地よいのだっ……!」

 都への出立が少し遅れたのにも、そんな夫婦の攻防があったらしい。螢火の心と身体はその間にバラバラに引き裂かれていた。

 

「……すぐに宿下がりの許可を出させよう。いや、その前に息子の婚儀のために都に儂が上がるのだったな。それまでの辛抱だ。いいな、あいつの方も宜しく頼むぞ。何、お前の色香に掛かればひとたまりもないだろう。……そのために存分に仕込んでやったのだからな」

 その朝、すっかりと旅装束を整えたあと。お忍びで螢火の部屋を訪れた西南の大臣・邇桜は一通りの挨拶を述べたあと人払いをして耳打ちした。ぞくりと冷たいものが背筋を流れていく。すでに自分を絡め取っている瞳は妖しげに光った。そして、さらに彼は思ってもみなかったことを言い出す。

「表向きは南所の侍女であるからな、あまり仰々しく出立せずに済ませるものなのだが……このたびは翠のはからいで、雉子也(キジヤ)を同行させることになった。あれでいて腕の立つ息子だ、道中も安心であろう」

 螢火は思わず目を見開いていた。その時もとうとう翠の君さまにお目に掛かることはなかったが、心の深い部分で始終気に掛けていた。きっとどんなにか嫌われてしまったことであろう、でも自分の中ではやはり尊い何者にも代え難い御方なのである。詫びる言葉すら浮かばないが、変わらずにお慕い申し上げていこうと心に決めていた。
  それが、……何と言うことであろう。雉子也さまと言えば、これからお側に上がることになっている亜樹さまの兄上様のおひとり。もちろん、翠の君さまがお産みになった嫡流である。そんな尊いお方をわざわざ共に付けてくださるというのか。しかも翠の君さまが直々に仰ってくださるとは、なんと有り難いことだろうか。

「お心遣い……誠に有り難く存じます。お方様にもくれぐれも宜しくお伝えくださいませ」

 

 再び顔を上げることは出来なかった。こぼれ落ちる雫が床についた手の甲に落ちていく。やはり、あの御方は素晴らしいお心映えでいらっしゃったのだ。ああ、少しでも疑ったりした自分が情けない。この先はどうしてもご恩に報いたいものだ。

 その朝、見慣れた中庭で揺れていた朱い花を、大臣家の最後の記憶として心に留めた。

 

………………


「ふうん、徒歩(かち)でも造作ないことだな。あっという間に都だ、いつも大袈裟にしているからどんなに遠い場所かと思っていたよ。ああ、あそこに竜王家の犬となった奴が住んでいるんだな」

 季節ごとの顔合わせでも、隣を歩くこの雉子也さまとは言葉を交わしたこともなかった。自分は大臣家の中でもただの居候としての身の上だったし、とても直にお言葉を頂くような立場ではないと控えてしまっていたのである。思っていたよりもずっと気さくな方で、数刻の道中も少しも退屈しなかった。
  ただ、時折舐めるようにこちらに向けられる眼差しが気になってはいたが。それに一緒に連れてきた下女も先に行かせてしまい、残ったのはふたりきり。気のせいか歩みものんびりしてきたようだ。

「竜王家の犬」――その言葉は亜樹さまのことを指しているのを知っている。大臣家のお子様方はお生まれになってまもなくして乳母と共に都に上がってしまった末の弟君に対しあまり良い印象をお持ちではない様子であった。言葉の端々にもそれはあからさまにあらわれていたし、何よりお里帰りをなさったときですら余所者扱いであったのだから。
  ただ、皆様のお心内も分からないではない。いつも遠く離れた環境で過ごしていてはお心を通わす機会も訪れないのだ。まあこれからはそれぞれに成長されて都とも自由に行き来が出来るようになる。螢火としても西南の集落の侍女として、良き橋渡し役になれればと考えていた。

「ああ、……向こうに伝えていた刻限よりもだいぶ早くなってしまったな。どうだ、少しあちらで休んでいかないか? この辺りはのどかで西南ではあまり見ない風景だなあ」

 とうとう草履の音が止んでしまい、その場で雉子也さまは大きく伸びをした。西南の大臣様のご子息とは言っても、こちらは跡目でもない気楽な御立場。そのひょうひょうとした人なつっこい感じが、御身分を忘れさせるようだ。それなりに女遊びなどはなさっている様子であるが、まだ正式に奥方様もいらっしゃらずそれも身軽さの一因であろう。

「でも、あまりのんびりしていては失礼になりますわ。あちらでは美莢さまもお待ちになっていると聞いておりますし……」

 このようにわざわざ時間を割いて付き合ってくださったのだ、あまり邪険にしてはならないだろう。そうは思うが、こちらにも立場というものがある。出来るだけ柔らかい言葉で辞退したつもりであった。……しかし。

「何だよ、この女狐が。偉そうな口をきくんじゃない……!」

 刹那。彼の眼差しが豹変する。街道に人影がないことを確認すると、あっという間に螢火の身体を軽々と持ち上げ、林の中へと入っていった。そして木の根元に乱暴に振り落とされる。

「なっ、……何をなさいますっ! お止めくださいまし……!」

 きっちりと着込んだはずの旅装束。だが、それが難なく解かれていく。あっという間に衣の前ははだけ、とてもそのままでは人前に出られないような格好になっていた。抵抗する間もなく、男は蛍火の股の間に身体をねじ込んでくる。そして次の瞬間、力任せに頬を叩いた。

「けっ……! お前が何を言えるんだ。悪いがな、このことは母上もすでにご承知くださっている。俺が前々からお前に目を付けてたのにってぼやいたら、この役を申しつけてくださったんだからな。有り難くも、盗人女を存分にいたぶってやれと仰せだ。ほらっ、親父にしたように啼いてみろっ! この淫乱女……!」

 力任せに胸を鷲づかみにされ、いきり立ったものを入り口に押し当てられる。腰を引こうにも、背後は太い樹の幹。もう逃げようがなかった。

 

 ――何故、このようなことになるの……!? ……誰かっ、助けて……!

 大臣家から出立して、ようやく悪夢が覚めるのだと思った。だがそれは違ったのだ、場所は変われど自分は変わらない。すでに染みついてしまった全てが、どこにいても自らを貶めていく。

 

 気がついたとき、すでに男の姿はどこにもなかった。

 衣に付いた泥を払い、近くの小川で顔をすすぐ。水面に映った女子の姿が、見たこともないほど遠い存在のように思えた。

 

………………


 その夜、荻野が夫の元に戻ったあと。夜半に木戸を打ち付ける程の荒れが丘の上の居室を襲った。

 前からこの季節には良くあることだと聞いてはいたが、それでも恐ろしくて仕方ない。上に掛けた衣をしっかりと握りしめ、がくがくと震えながら外が明るくなるのを待っていた。自分がすでに知っているのとはまた違う恐怖。時の経つのがあまりに遅く、とうとう一睡もすることが出来なかった。

 

 ――そして。

 ようやく明け方に静寂が戻り、ハッと我に返る。慌てて庭先に出た蛍火は、居室の裏手に回ったところで足を止めた。


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