TopNovel Index>朱に散る・8


…8…

 

「……どう……して」

 絞り出す声がかすれて耳に届いた。

 身体中を空虚なものが覆い尽くし、その場に立っていることすら難しい。がくんと膝は折れ、そのまま頼りない身体は前のめりに倒れ込んでいた。地面に顔を打ち付けられる寸前のところでかろうじて我が身を腕で支える。流れる髪はそのままにおもてを上げて、改めて目の前の変わり果てた光景を見つめた。

 願いを込めて移植した細い若木、それが無惨にも一夜のうちに姿を変えている。青々と茂っていたはずの葉は残らず落ちて、ようやく腕を伸ばし始めた枝のいくつかも、途中から折れ曲がっていた。かろうじで幹だけは残っているが、もうすでに命を無くした枯れ木の姿ではないか。確かに昨夜の野分の風はひどいものであったが、それにしても信じられない。
  そう言えば、風避けの囲いをした方がいいと荻野に言われた気がする。何故昨日のうちにそれを施してやらなかったのだろう。時間はたっぷりあったのに、怠けていたのは他の誰でもない自分自身だ。もう悔やんでも悔やみきれるものではない。
  今日は日の中であっても荒れ狂う気は留まりそうになかったが、もう我が身をそれから守ろうという気も湧いてこなかった。

 

「いけませんわ、螢火様! どうぞお部屋にお戻りくださいませ、ご主人様のお留守にもしものことがあっては、私がお叱りを受けてしまいます……!」

 気付けば、また日が暮れようとしている。とうとう夜明けからずっと、この場にうずくまったまま動けないでいた。
  初めのうちこそは優しい言葉でたしなめてくれた荻野も、あまりの強情さにとうとう業を煮やしたのであろう。こうなったら力尽くで、と言った様子で強引に腕を引いた。しかし螢火としてもその言葉に従うつもりはさらさらない。骨と皮ばかりの身体でも、こちらにも意地がある。何があってもここを動くわけにはいかなかった。

「嫌っ……、触らないで! もうこれ以上は放っておいて……!」

 館主である男は領地の見回りに出掛けており、この先も夜更けまで戻らぬ様子であった。ならば良いだろう、さすがにあの者に強く言われればこちらも大人しく従うしかない。そうならずに済むならば幸いである。もちろん、食事も喉を通らない。空腹を感じることもなく、どこまでも体と心が大きな穴の中に吸い込まれて行くようだ。

 ――やはり、わたくしの存在など。あの座敷牢で儚く散ってしまえれば良かったのに。このように生きながらえても新しい罪を重ねるだけだ。そう、わたくしのせいで、あの若木は死んでしまった……!

 そう。もしも、あのまま元の場所に置けば、このように姿を変えることもなかったかも知れないのだから。ああ、出来ることならこの命を代わりに差し出したい、この願いが大地の神に聞き届けられることがないものか。
  荒れ狂う気が、容赦なく我が身に襲いかかってくる。そのたびに長い髪は根元から引きちぎれるほどに大きく乱れた。遠目に見ればやつれた老婆が丘の上に座しているように見えるであろう。もはや朽ち果ててしまった若木をそれでも身を挺してかばいながら、螢火は涙に暮れた。

  悔やんでも悔やみきれない。そうだ、いつもこうなのだ。初めにこの世に魂を宿したその瞬間から、自分は厄介な存在でしかなかったのだから。

 

「もう、あちらに行って。気が散って針が進まないではないの」

 元々が大人しい方だったから、その口調も決して荒々しいものではなかった。だが、振り払ったその手は容赦なく螢火の腕を打ち、幼子の柔らかな肌に赤い痕を残す。一文字に結ばれた口元からはもう新しい言葉は二度とこぼれることもなく、一瞬だけちらりと向けられた冷たい眼差しも手仕事の針目に落とされた。

 ――違う、わたくしはただ、母上のお側にいたかっただけなのに。

 忘れ去られた存在の側女(そばめ)であっても、いくつかの決められたお役目は与えられていた。時折この離れ対まで届けられる繕い物もそのひとつで、その時ばかりは薄暗い奥の部屋が華やかな織物で埋め尽くされた。
  何とも美しくまばゆいばかりの衣たち。そのほとんどが自分の実の父であるこの館の主がまとうものであることは知っていた。そのお顔も忘れてしまうほどに足の遠のいている御方ではあるが、やはりかけがえのない存在である。父上の衣ならば少しでも間近で眺めてみたかったし、許されることならばそっと指先でその手触りを確かめたいとさえ願った。

 ……しかし。そんなふうに我が子が求めていることも、母には伝わらなかったのであろうか。どんなときも同じように自分を厄介者として扱い、お優しくしていただいた記憶もない。螢火の身の回りの世話は全てお付きの女たちに任せきり、ご自分でなさろうとはしなかった。

  それでも。そこまでされてもなお、母への思慕の心が失せることはない。どうすればお側に置いて頂けるのかそればかりを考え、思い当たることは手当たり次第に試してみた。だが何ひとつとして母が喜ぶことが出来ない。美しい花枝も綺麗な小石も、母にとっては何の価値もない存在だったのだ。

 

………………


「まあ、……これは。聞いていた以上に美しく成長されましたね。あなたのお出でを今か今かとお待ちしておりましたよ。懐かしいですね、もうどれくらいお目に掛かってなかったのかしら……?」

 磨き込まれた艶やかな柱、見上げればそこには錦絵を施した天井がある。何もかもが、絵巻物で見た情景と同じ。誰もが憧れる都、竜王様の御館は想像以上のすばらしさであった。
  それまで住まっていた西南の大臣家もそれはそれは立派な御館であったが、ここはもう規模が違う。何て広々とゆったりした造りなのだろうか。一体どれくらいの人々がお仕えしているのだろう、そして皆を従えている竜王家の人々とはどんな御方なのか。そう思うだけで知らず身体は震え、もう立っているだけでやっとである。

 早速お目通り頂いた美莢(みざや)さまは、亜樹さまの乳母であられる御方。幼くして都に上がった亜樹さまに始終つきそい、その絶対的な信頼は揺るぎないと言われている。そんな方がこのように手放しに喜んでで迎え入れてくださったことで、訝しげにこちらをうかがっていた者たちの視線が瞬時に変わった気がした。

「すぐに亜樹さまを呼びに行かせましょう……ええ、すぐに昔のように打ち解けられると思いますよ。何しろあなたは特別の存在ですから。どうか西南の民のためにお尽くしくださるよう……何事においても亜樹さまを第一にお考えになり誠心誠意を込めてお仕えなされませ」

 そのひとことひとことが、絶望に乾ききっていた螢火の心に染みこんでいった。
  何と有り難いことだろう、こうしてまだ自分を必要としてくださる方がいらっしゃったのだ。美莢さまは翠の君さまがこの上なく頼りにしている方だと聞いていたから、今回の西南の大臣様と自分とのこともすでにご承知のことかと恐れていた。だが、そんなことはなかったらしい。それだけで涙が出るほど嬉しかった。

 程なく昼前のお務めを終えられた亜樹さまが、お住まいである「南所」と呼ばれるこの対へお戻りになる。緊張してご到着をお待ちしていた螢火であったが、ひとめお会いすれば懐かしさで自然に頬がほころんだ。

「やあ、……驚いた。まさか君が……」

 前もって新しい側女が誰であるかを知らされてはいなかったらしい、亜樹さまは螢火を目の前にしてかなり驚かれたご様子にあった。昔の記憶を必死に辿るようにこちらに向けられた眼差しが恥ずかしくて仕方ない。でも、それを越えるほどの満ち足りた嬉しさが胸を占めていた。
  ああ、なんとお美しくご立派になられたことだろう。最後にお目に掛かったのは元服を迎えられる前であったか、あれ以来ご公務がお忙しく西南へのご実家へのゆっくりとしたお戻りもなかった。
  もちろん竜王様の名代として大臣家を訪れることはあったようである。だが、その時もお役目が済めばすぐに退出され長く留まることはされなかった。忘れ置かれた居候の身の上では、お出でになったことさえ耳に入らない。あとから話を伺って、寂しく思うことも多くあった。

 次期竜王様となられることが、ほぼ確定した御方である。そのような身の上であるから、すでに亜樹さまにはたくさんの側女が上がっていた。その者たちは、予想通りに螢火を値踏みするような眼差しを向け、遠巻きにうかがっている様子である。しかしそのようなことは、少しも気に留める必要もない。数日のうちには、自分が誰から見ても特別の地位にいることが確信出来た。

「まあ……あれが、新しい……。噂通りのお美しさね、あれでは南所の御方がご執心なさるのも当然のこと。あのように並んで歩かれるとこの上なくお似合いで、羨ましいばかりだわ」

 亜樹さまに伴われて御館の中をあちらこちらと歩けば、必ずどこからかそんな囁きが聞こえてきた。辺りは間近に迫った竜王家の姫君と亜樹さまとのご婚礼の儀の準備でごった返していたが、そこに何とも白けた雰囲気が漂っていることもすぐに分かる。
  大臣様のお屋敷にいた頃に聞いていたとおり、この縁組みに心から賛同している者などどこにもいやしないのだ。ただ、厄介者の姫君の落ち着く先を探すために民衆の意志を無視して取り決められたまで。当のご本人である亜樹さまですら、一連の行事には気の進まないお顔である。

 ――まあ。亜樹さまは、このたびのご婚礼を快くは思っていらっしゃらないのだわ。

 それは螢火にとって、嬉しい誤算であった。いくら自分が亜樹さまと旧知の仲だとはいえ、あちらは幼少の頃からずっと共にお育ちになった姫君。その御方と張り合うにはいささか分が悪すぎるだろうと思っていたのである。
  何と言うことなのだろう、亜樹さまのお抱えになる他の側女たちは取るに取らない存在ばかり。そして肝心の姫君も初めから競い合うこともない遠い場所におられる。こんなにも簡単でいいのだろうか。もっと過酷な状況を予想していただけに、あまりのことに気が抜けてしまう。

 お忙しいさなかでいらっしゃるからだろう、なかなか閨へのお召しが無いことが唯一の気がかりではあった。だが、何も急ぐことはない。このたびのご婚礼の儀は海底国をあげての大切な行事。それをつつがなく終えられることで、亜樹さまは次期竜王の座をさらに確実なものとされるのだ。
  すでに竜王教育も滞りなく進み、そろそろご政務の一部を任される程だと聞いている。自分はそのような御方を背の君にすることが出来るのだ。お目に掛かった姫君はどこか頼りなく儚げな御方。とても女子の争いごとに耐えられるようなご気性ではない様子だ。大丈夫、自分は必ず翠の君さまのために立派にお役目を果たすことが出来る。

 美莢さまのはからいもあり、亜樹さまが南所にお戻りになったときには始終お側で身の回りのお世話を仰せつかった。さらに誰かを伴ってご出仕なさるときにも必ず自分がそのお役目に選ばれる。そのような場面を繰り返すうちには、南所に仕える他の侍女たちはもとより御館中の者たちが螢火を美莢さまに次ぐ存在だと認めざるを得なくなったようであった。

  何もかもが自分の追い風になってくる。まさしく順風満帆の中にいたそのとき、思いがけない来客が螢火の元に訪れた。

 

………………


  他の侍女たちと共に、夕餉の膳を御台所(みだいどころ)に下げに行った帰り道。気付けば皆が先に行ってしまい、自分ひとりが残されていた。このように仲間から外されることはいつものことであったから、今更腹を立てるまでもない。かえっていらぬ気を遣わずに済むと喜んで、気楽な散策を楽しんでいた。

  竜王様の御館はその建物も素晴らしいが、もうひとつの見物はその前に広がる御庭である。どこまでもどこまでも果てしなく続いていくその広大さは小さな集落なら丸ごとすっぽり入ってしまう程だと言うから驚かされるばかりだ。折しも春の花の盛り、特に竜王様のお住まいである「東所」は春の庭と言われその溢れるばかりの美しさは言葉を尽くしても語りきれない。

「……どなた?」

 刹那。がさっと、あちらの植え込みが動いた。次の瞬間には己の懐に手が行く。ほとんど反射的なその行為は、この地に暮らす女子としての当然の心得であった。胸元に忍ばせた懐刀は己の心と身体を守るもの……幼き頃からそう教えられている。こうして主を持つ侍女という立場になった今、その刃はさらに大切な御方のお命をも守る大切な役目があった。

「久しぶりであるな、……そのような物騒なものは必要ないだろう」

 ――どこか覚えのある声。

 螢火は夕闇の中、ぼんやりと縁取られたその顔を改めて見上げた。旅装束に身を包んだ相応の身分のありそうな男である。まじまじと見つめ、やっと記憶の隅からその存在を思い出した。

「……あ……!」

 思わず上げそうになった声をかろうじて抑えたのは、前にいる男が素早く己の口元に指を一本添えて静かにするように促したからであった。
  しかし、何と言うことであろう。全く驚くばかりである。感慨深げにこちらに微笑みかけるその人は、すでに螢火の心の中では過去の存在となりつつある者であった。

「こっ、これは。大変ご無沙汰しておりました。その……このような場所ではいけません。どうぞ、対までお越しくださいませ」

 申し訳ないことであるが、ひどく他人行儀になってしまう。だが、それも仕方ないことだと思われた。

「いや、……ここでお暇しよう。あまり目立っても良くないであろう、私などが出しゃばってお前の出世にさわりがあっても良くない。いや、本当に立派になってくれた。お前にこうしてひと目会えただけで十分だ、父としてこれ以上の喜びはないぞ」

 

 若い頃は艶やかに色めいてその道ではかなり有名だったと聞いている。
  だが、今となって見れば、何ともやつれてみすぼらしくさえ思えてしまう。それでもこの人が自分の父親なのである。幼き日に甘えたくともなかなかお目に掛かることも出来ずに胸を痛めたお人に違いない。
  西南の大臣のお屋敷や都に上がってから見聞きしたもので、すっかり自分の中の感覚が変わってしまったのだろう。最後にこのようにお声を掛けられたのがいつかも思い出せない。季節ごとの一族の集まりに同席することはあっても、そのときも直接お言葉があるわけではなかった。

 今回、このように都に上がることが決まってからも、何の沙汰もなかったではないか。出立の朝には見送りに訪れてくれるかと密かに心待ちにしていたが、とうとう姿を見せることもなかったというのに。 

 

 知らず身構えてしまう娘をどう思っているのだろうか、一通りの挨拶を終えると父はさらに声を落とした。

「実は……こうしてわざわざ参ったのにも訳があるのだ。お前に頼みがある、どうかこの父の力になってはくれぬか?」

 何事かとその顔を覗き込むと、その瞬間に父の瞳がはっきり見て取れるほどに輝きを変えた。


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