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わずかばかりの望み。あの瞬間、心に芽生えた喜びをなんと表現しよう。 ああ、そうか。自分はまだ、こうして誰かの役に立つことが出来たのだ。翠の君さまに見放されてしまったと思い知ったとき、言い尽くせぬほどの絶望が我が身を襲った。だが、再びこのように幸運は訪れるのだ。他の誰でもない、血を分けた実の父上がわたくしをこんなにも必要としてくれるなんて……!
ちり、と冷たいものが頬を流れていく。 見上げれば凍えた天が遠く、そこを冷え冷えとした光が覆っていた。いつか嵐は止み、静けさが戻っている。もうかなり夜が更けているのだろうか。丘の下を覗いても、民家には灯りが見えなかった。 「何だ、起きていたのか。ならば、さっさと立ち上がれ。……いい加減に部屋に戻りなさい」 凍てつくような声が、背中に突き刺さってくる。それが誰のものであるのか、思い出すまでにしばしの時間が掛かった。 ――ああ、また。わたくしはあの頃の夢を見ていたのだわ。 夜露に濡れた地面。手のひらからしっとりとした湿り気が伝わってくる。頬をこぼれていくしずくは、知らずに溢れた涙だと気付く。それを袂で拭いながら、ゆるゆると顔を上げる。視線の先に立っていたのは、いつもと同じ冷たい瞳の男であった。 「荻野の手を煩わせるのもたいがいにせよ。少しは人の迷惑というものを考えたらどうだ? ……ほら、立て」 こちらがいつまでも動こうとしなかったからだろう。いやいやといった感じで、男はこちらに手を差しのべてきた。その姿によく似合う、無骨な手のひら。そこは相応の年を確かに重ねたことを物語っていた。 「……やっ……」 掴まれそうになった腕をかろうじて払う。こごった髪が、顔の周りでがさがさと揺れた。たいそうに露を含んだのであろう、いつものようには辺りに広がっていかない。 「も、もう嫌ですっ! あなたの言うことなんて聞きません……! いいです、このまま捨て置いてくだされば……」 初めから何も望んではいなかったのだ。それをここにいる男が勝手に連れ出したのではないか。あのまま座敷牢で朽ち果てるのが我が身によく似合う行く末であった。 ――これ以上は、もういい。誰の言葉にも従うものか。生きていて、生きながらえて、何の得があると言うのだ。頼りない若木ですら、この身の愚かさを教えてくれるというのに。 「いつから、そのように口答えをすることを許したのか。――私にはそんな覚えはないが」 こちらの強い言葉などものともせずに、男はさらに強く言い放った。揺らぎ無い厳しい視線が、真っ直ぐに突き刺さってくる。 「……全く。愚かな者をつけ上がらせるとろくなことがない。荻野も荻野だ、猫かわいがりするだけでは駄目だと言いつけているのに――付いて来い」 それだけ言い捨てると、男は螢火をその場に残したまま立ち去ってしまった。一度こちらに背を向けたあとは二度と振り返ることもない。規則正しい歩幅のまま、その姿はやがて居室の向こうに消えた。 「……?」 自分の意志とは関係なく、ふわっと身体が軽くなった気がした。見えない糸にでも引っ張られているかのように、ゆっくりと立ち上がる。そして足は男が辿った通りの道のりを音もなく歩み始めていた。
………………
「――上がる前に、足を洗いなさい」 こちらから顔を背けたまま、あまり動かないので眠っているのかと思った。突然の言葉に驚いて見れば、縁の上がりには水桶と手ぬぐいが用意してある。言われたとおりに縁に腰を下ろし草履を取った足を片方ずつ浸す。それはまるで今汲んできたばかりのように冷たかった。また注意されても面倒なので念入りに洗い上げていく。そうしている間、男は何も言わずに待っていた。 「もう今夜は遅いので、荻野には家に戻って貰った。着替えなどは用意してあるから、あとは自分でどうにかしろ。あの者には病で長く伏せっている夫がいるのだぞ、いつまでもお前が強情にしていればどうなるか少し考えれば分かりそうなものを」 男の言葉はかなり厳しいものであった。腹の内ではかなりのものが溜まっているのだろう、こうして間近で見ればいつもよりも緊張したものを感じ取れる。だが、どんな風に思われようと螢火にとってはどうでもいいことであった。男がどんなにか立腹したところで、知ったことではない。元はと言えば、全て男自身が蒔いた種ではないか。今更こちらの責任にされても困る。 「これを……」 そう言って差し出されたのは、両方の手のひらに収まるほどの布包みであった。夕暮れの天の色をそのまま写し取ったかのような、鮮やかな紅。座したままで受け取れば、中にはごつごつと固い手触りが感じ取れた。もしや、と思い、慌てて開いてみる。現れたものをひと目見た途端、全ての感覚がそこで止まった。 ――何故? どういうことなの、これは……? 気の流れも感じられないのに、目の前がゆらゆらと揺れていく。慌てておもてを上げれば、男は先ほどまでと少しも表情を変えずこちらを見ていた。 「愚かなのは私も同じか。お前のような馬鹿者のために、わざわざ用意してやったなど情けない限りだ。どうだ、希望のものはそれでいいか?」 確かに、あのとき「懐刀が欲しい」と告げた。だが、どんなものがいいとまでは具体的に伝えていなかったはず。まさか……でも。どうしてこれがここにあるのだ。たった今咲きこぼれたばかりのような橘の花。鞘にも柄にもそれがびっしりと彫り込まれている。そうだ、違いない。これこそが役人に捕らえられたあのときに、取り上げられたもの。もう二度と手に入れることは出来ないと諦めていたのに。 そんなことが、あるものか。どうしても、信じられるはずがない。 目の前にいるこの男は、生きて再びそこを出ることが許されていなかった座敷牢から自分を逃がした。それだけでも大事だというのに、今度はその牢破りの罪人の所有物だった品を探し求めたと言うのか。それではまるで自分を疑ってくださいと周囲に頼んでいるようなものである。一体、何を考えているのだ。 「――待て」 鞘を抜いて中身まで確かめようとしたとき、その動きを強い口調で制される。 「その懐刀はお前に確かに預けよう。……だが、しかし。螢、お前はまだ私との約束を果たしてはおらぬ。それが果たされる日まで鞘を抜くことは許さない、――分かったな?」 もう他に用はない、そう言わんばかりに。男は大股で部屋を横切ると、縁から自分の居室へと戻っていった。
………………
翌日、目覚めると身体が少し重く感じられた。どうにか起きあがり身支度を調えているところに荻野がやってくる。すぐに顔色が悪いことに気付かれ、強引に寝所に戻されてしまった。額に手を当てられると、ひんやりと気持ちいい。しかし熱を感じ取った荻野の表情は曇った。 「ま……まあ。それでは粥などを軟らかく煮てお持ち致しましょう。ええ、大事はないですわ。食欲がおありになれば、すぐに回復されますよ」 少し元気が出た背中をぼんやりと見送る。荻野は昨日のことを決して咎めたりはしなかった。そして何事もなかったかのように接してくれる。何故、あのようにあたたかく接してくれるのだろう。確かに彼女は言った、遠くに嫁いだ娘が恋しくて自分の世話をしているだけで心が晴れると。だが、それだけのことで説明がつくだろうか。 荻野が居室を出たのを確かめてから、枕の下に隠していた昨夜の懐刀を取り出してみる。別にこのようにこっそりとする必要もないのだが、何となく後ろめたい気持ちはぬぐい去れなかった。 ――母上……。 あの頃、どんなに愛情が欲しくても、どんなにか望んでも、母は決してそれを与えてはくれなかった。特別なことではない。ただ側に置いて慈しんでくださればそれで良かったのに。何故、あのように邪険にされたのだろう。やはり自分が望まれない子供だったからに他ならない。 それから先の大臣家での暮らしの方が長くなり、いつしか記憶の奥底に母との思い出は忘れ去られていた。だがこのように心細い立場に戻った今、思い出すのはあの寂しさの中にあった幼き頃の自分ばかり。あの頃母を求めて伸ばした腕を鮮明に思い出す。同じように求めてみたところで、もうあの方はこの世のどこにもいないのに。 人気のない暗い部屋で。時折母はこの懐刀を取り出して、ぼんやりと見つめていた。あのとき、彼女の胸にあったのはどんな想いだろうか。そして、この懐刀は何を知っているというのだろう。
「だいぶお疲れなのでしょう、しばらく養生なさればお元気になられますよ?」 この館に連れてこられてからずっと、館主である男と荻野以外の人間には会っていなかった。薬師を呼んだと聞いたときも、思わず身構えてしまったほどである。だが、初老の穏やかな瞳のその者は、見たこともない娘を前にしても少しも顔色を変えることはなかった。 「宜しかったですわ、詳しく診て頂いてもひどく悪いところもないご様子で。飲みやすい薬湯なども処方して頂きましたから、どうぞ召し上がってくださいね」 手を借りて身を起こし、温かい器を手にする。ゆっくりと立ち上がっていく湯気、静かな水面に自分の顔が映っていた。 ――ああ、やはり似ているわ。 記憶の中に漂うおぼろげな輪郭を辿ってみる。自分も気付けばあの頃の母と変わらぬ年頃になりつつあった。若くして父に見初められ側女(そばめ)になったと聞いている。それまでの暮らしも己の心すらも捨てて、母は父の元に上がったのだ。
飲み干した薬湯には眠りを促す作用があるらしく、すぐにとろとろと睡魔が訪れた。久方ぶりに夢を見ることもなく、深く深く沈んでいく。柔らかく温かいものが身体を包み、もう何も恐れることはないと思った。
………………
中の幾日かは遠出のため表の居室に戻らないこともあるようであったが、その間も毎日こちらの様子は荻野が伝えていた様子である。日に何度か文使いが表にやってきて、何か言付けていくのに気付いていた。
「もう、起きあがれるようになったのか」 言葉こそはこちらを気遣っているように感じられるが、その表情は相変わらず冷たい。すぐにでもそこから立ち去りたい気持ちが縁に腰掛けたその背中からも感じ取れる。だが、しばらく用足しに出掛けて来るという荻野に留守居を押しつけられ仕方なく留まっている様子であった。 「はい、……色々とご心配をお掛け致しました。申し訳ございません」 自分でも驚くほど素直に、頭を下げることが出来た。男に対して深い恩を感じているわけではない。だが、ここまでして貰ったのだから、こうして礼を述べるのが正当であると思った。 ここ数日も天候の悪い日が続いていたが、今日は久方ぶりに心地よい秋の風景が広がっている。螢火が伏せっていた間にも、ゆっくりと季節が庭を塗り替えていた。すんなりと長く伸びた茎の先に可憐な花を付けた秋草が、気持ちよさそうに気の流れに漂っている。 「どうか、――少し歩いてみるか?」 しばらくして、男はそう切り出した。思いがけない言葉に螢火はすぐには返答が出来ないほどである。こちらがそんな風にぐずぐずしている間に、男はさっさと立ち上がり、居室をぐるりと回って行ってしまった。 「……あ」 慌ててあとを追うが、男はすでにかなり遠くまで行ってしまった様子。あれ以来初めて庭を歩くわけであるのだから、こちらはなかなか足取りもおぼつかない。前を行く男には、相変わらずそれを気遣う素振りすらなかった。
居室の裏手の丘も数日のうちにさらも秋の色が深まった様子である。 昼下がりの心地よい日差しが辺りを包み込み、何もかもが優しく温かく見えた。男のうす青の衣がゆっくりと振り返る。そして硬い表情は崩さぬまま、螢火の傍らまで足を進めた。すれ違う刹那、彼は歩みを止める。そしてこちらに視線を向けないまま、低い声で告げた。 「……見ろ。お前が思うほど、軟弱ではなかったようだぞ。せいぜい、あれに負けぬようにするのだな」
足音が背後に遠ざかっても、螢火はその場所を動くことが出来なかった。 誰の手によるものかは知らないが、風よけのための頑丈な囲いをされた若木。しっかりと天を目指して伸びたその枝先に、柔らかい若芽がいくつも付いている。自慢げに身体を揺らすその姿は、まるでこちらに何かを強く語りかけようとしているようであった。
Novel Index>扉>朱に散る・9
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