TopNovel Index>朱に散る・10


…10…

 

「あら……、これは」

 宵の口までは華やかな賑わいに包まれている竜王様の御館も、夕餉が済んで昼間の使用人が引き上げる頃には物音を立てることも憚られるような静けさが訪れる。さらに今宵は天の光のない夜であった。薄暗い渡りを進み行き、角を曲がったところで突然声を掛けられる。思いがけないことに螢火の身体がきらびやかな装束の内側でびくりと波打った。

 心内を悟られぬように呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは予想通り。勝ち気そうな顔立ちで佇む同郷の女子であった。

「このような夜更けに如何なさいましたか? この辺りも陽が落ちれば大変物騒ですのよ、早くお部屋にお戻りくださいませ」

 そろそろ寝の刻になろうというのに、艶やかにひかれた紅。その血のような赤さに、はらわたがえぐり取られるような威圧感を覚えた。この女子は、自分と同じ南所の侍女である。その名を「秋茜」と言った。他の侍女たちは新しく亜樹さまの元に上がった螢火を遠巻きに見つめるばかりであったが、この者だけはあれこれと口うるさくて敵わない。
  何故このように偉そうに振る舞うのかと不思議に思っていたが、その理由はすぐに分かった。この者は亜樹さまが元服されてすぐ、誰よりも早くお側に上がったのだと言う。長い間この地に留まっていることで、他の者からは一目置かれている様子であった。さらに、聞くところによればその生まれも他の者たちとは格が違う。母親が大臣家の血筋を引く者、正確には現大臣・邇桜様の妹君に当たると言うのだ。
  しかしそのもっともらしい肩書きも、螢火にとっては片腹痛いような馬鹿げたものに思えてくる。もちろん、表向きはそのようなことはおくびにも出さずしおらしくはしているが、もうその勝敗は明らかであると内心ほくそ笑んでいた。

 ―― それが、何だというのかしら。その母親と言う御方も所詮は側女腹の子、あの方にしても里にいた頃には庶民と同じ暮らしをしていたそうじゃないの。父親の方は臣下の者だって聞いてるし、その程度の身の上で威張り散らすなんて身の程知らずもいいところだわ。

 何かというとこちらのすることに口を挟み、あれこれと小言を言うこの女子が嫌で嫌で溜まらなかった。どうにかして遠ざけたいと試みたのだが、年期があるだけに美莢さまの覚えもめでたく一筋縄ではいかないようだ。たまにちらりと嫌みを言っても、するりと余裕でかわされてしまう。

「ご心配には及びませんわ。明日の衣装合わせに先立ちまして、今一度御衣装の確認をするようにと美莢さまから申しつかりましたの。……これはわたくしが任された仕事ですから」

 その瞬間、相手の顔色が変わるのを見た。あまりの小気味の良さに、悟られぬように笑いをかみ殺す。いくら南所の侍女頭を気取ったって、そこまでだ。今のこの状況を見るがいい。誰の目にも自分が一番亜樹様に愛されている側女だと映っているじゃないか。年季だけで全てが決まると思ったら大間違いだ。

  それにしても、まあここにいる秋茜ほどの女子とやり合うくらいが好ましい。長いこと大臣様のお屋敷で息をひそめて暮らしていた。今、ようやくここに来て自分らしく生きていくことが出来る。女子同士のいがみ合いなど、自分に掛かれば造作のないことだ。

 

 幼き頃に我が身を切り刻み続けた屈辱的な言葉たち、当時は何も言い返すことが出来ずにどんなに口惜しい思いをしたことか。だが、それも無駄ではなかった。あの時受けた傷の分だけ、今やり返すことが出来る。それどころか、以前は自分を顧みることもなかった者たちまでが、そろいもそろってひれ伏してくる。それが楽しくて仕方ない。

 その時、螢火は生まれて初めて水を得た魚のように伸びやかな清々しい気分でいた。

 自分を押しとどめるものなど何もなく、思う存分振る舞えば振る舞うほど聞こえが良くなる。亜樹様は眩しいほどに自分を可愛がって大切に扱ってくださる。そのお優しい眼差しを向けられるだけで、胸に秘めた一番の野望が果たされるその日も遠くないと思えてくるのだ。

 

「お前の行く手を塞ぐ者があれば、全て引きずり落としてやるからな? 今となってはお前だけが頼みだ、本当に父であることを誇りに思っているよ。晴れて国母(こくも)となった時は、私が竜王様の御祖父様ではないか、そのためになら何でもしよう」

 あの父までが、そんな風に言ってくれる。どんなにかこの日を待ち望んだことだろう。ああ、これなら大丈夫だ。亜樹様の寵愛を受け、御子を授かったその時にはきっと、翠の君さまのお心も取り戻すことが出来るに違いない。こちらに上がって程なく月のものを見た。あの背徳な営みを証明するものもこれで消え失せたのである。ああ、何と有り難いことか。

 

「香の調合についての詳細を記した文書……にございますか?」

 かすれるような声で父の言葉を反芻する。音もなく頷く人は、ようやく大仕事を終えたように晴れやかな表情となった。

「でも、そんな……。門外不出の重要なものを、わたくしなどが借り受けることが叶うのでしょうか……?」

 父の頼みとは、やはりただ事ではなかった。竜王様の御館でも神座にほど近い場所、客座の一番奥の納庫と呼ばれる場所には、決して触れてはならない引き出しがいくつもある。初めに美莢様に御館のことを詳しく伺ったときにもそのことはきつく言い渡されていた。

「何をうろたえておるのだ、お前は今や次期竜王・亜樹様の寵妃ではないか。飛ぶ鳥を落とす勢いの女子に出来ぬことはない。多少のことなら、もみ消してもらえるに違いない。それに……確か、ご婚礼の御衣装は納庫に収めるのではなかったか? それならば、持ち出して書き写すことなど容易いことではないか」

 父の励ましを聞いていると、初めは無理だとばかり思っていたことも難なくこなせるような気がしてくるから不思議である。ほんのわずかな間の御館務めではあったが、亜樹様のお供で立ち歩くことが多い分、様々なことが分かってきていた。

 それに「香」については螢火自身も以前から不思議に思っていたことでもある。何故、その材料となる草木の栽培からその精製までを全て北の集落が請け負っているのだろうか。確かに原料となるものが涼しい地域での栽培に適しているというのもあるだろう。だが、それだけなら精製だけでも他に任せればいいのに。
  都に上がって驚いたのは、他の集落とは比較にならないほどに北の集落の勢いが強いことである。竜王家とのつながりから考えれば、どう見ても西南の集落の方が分が良さそうなものなのにどうしたことなのだろう。実際、名だたる官僚の椅子も北の集落の者たちがせしめ、さながら一人天下。あれでは今後の亜樹様の行く末も案じられるばかりだ。

「ああ、それもだな。全ては横暴な北の集落の奴らが悪いんだ。あいつらは、莫大な富を独り占めするために、竜王様に掛け合ってそんな馬鹿馬鹿しい規律を作ってしまった。何しろ奴らは悪知恵だけはよく働くからな、私服を肥やすことでさらに都での勢力が膨れあがっていくと言うものだ」

 父はこうも言った。

 もしも螢火が持ち出した文書が無事に西南の地に渡ることとなれば、それは西南の民にとって大変な力となるだろうと。もちろん正規の方法で売りさばくことは出来ないが、何も日の当たるところだけが確かなものではない。

「大臣である兄上は、私から何もかもを取り上げようとする。どうにかして認めて欲しいと、これまでも骨を折ってきたが、どれもくたびれ損に終わってきた。もう後がない、ここで失敗すれば、私の財産の全ても兄のものになってしまう。こんなことがあっていいのか、あまりにも口惜しいではないか……!」

 父の話はところどころ、よく分からないこともあったが、その嘆きも十分理解出来ると思った。そうなのだ、同じ大臣家に生まれながら、総領である邇桜(ニオウ)様ばかりが得をしている気がする。父などは実の弟でありながら、臣下のひとりに成り下がっている有様だ。大臣家でのあの横暴な振る舞いを見れば、いきり立たない方が不思議である。

「香料の栽培と……精製に関する文書だけを抜き出せば宜しいのですね?」

 

 快く承諾してみたものの、それがいかに難しいことかはすぐに悟ることとなる。

 いくら納庫には衣装棚があり比較的自由に出入りが出来るとは言っても、それは衣装あわせのわずかな時間だけ。それも日中に限られている。そして周囲には自分の他にもたくさんの使用人たちがいて、とても目的の引き出しに手を掛けることは出来なかった。
  それならば人気の消えた夜はどうかと言えば、それも容易くはない。客座の扉の前には寝ずの番をする者が始終張り付いていて、人目がなくなることなどなかった。

 ―― 一体、どうしたら良いのだろうか。

 助け船を出してくれたのは、やはりあの父であった。彼は西南の大臣である兄の命により、螢火の周辺を探るお目付役として都に遣わされていたのである。頼りになる肉親が側にいてくれるほど心強いことはない。
  お陰で自分の恋敵となる側女たちを次々に里に戻すことも難なく出来た。ただ目障りな女子の名を告げるだけで、父はあることないこと理由を付けて大臣家に伝えてくれる。己の手をひとつの汚さぬままにどんどん居心地が良くなるではないか。こんなに愉快なことがあっていいものなのか。

「何を躊躇っているのだ、お前は亜樹様にお仕えしている侍女なのだろう。それに乳母である美莢さまの覚えめでたい立場を利用しない手はない。今や美莢さまと言えば、都でも竜王様すら意のままに動かすことが出来ると言われるほど力を持った御方だ。その方の御名を出せば、扉番など震え上がって鍵を開けるだろうよ」

 そんなことが本当に可能なのだろうか、もしも口から出任せを告げたことがご本人に知れてしまったら……? 父にいくら強く促されても、なかなか実行に移すことが出来ない。そうしているうちに、螢火はある巧妙な案を思いついた。

 ―― そうだわ。取りに行くのではなく、返しに行けばいいのだ。

 婚礼の儀の式服を手入れするのは、何も衣装あわせのその時だけではない。何しろ、式典は三日三晩続くとされている。その式次第によって、次々に御衣装を替える必要があり全ての衣を整えるのは大変なことである。それこそ御館の侍女たちが総出で作業に当たっているのではないかと思われるほど、昼間の客座は賑やかであった。
  そのような混乱した場所ならば、粗相をするにはかえって好ましい状況ではないだろうか。螢火は前もって密かに用意しておいた染料で、下に重ねる薄物の端にシミを付けた。

「……まあ、いけませんね。でも失敗は誰にでもあること、それにこの程度であれば目立たずに済ませることが出来るはず。……急ぎ染み抜きをして、人気のなくなった頃にでもこっそり戻しに行けばいいでしょう」

 神妙な面持ちで自分の失態を詫びれば、美莢さまは笑顔でそう仰ってくださった。素直にお言葉に従っていれば、この御方はとても扱いやすい。もちろん染料は色は派手であるがすぐに落とせるものを選んだので、持ち帰っての作業は簡単であった。

 

………………


「……南所の者です。美莢さまから言付かって、こちらの衣を返却に参りました」

 先ほどの秋茜と同様であった。その御名を耳にした途端、訝しげにこちらを見上げていた扉番も、ぱっと顔色を変える。ああ、愉快なこと。まるで自分自身が偉くなったような錯覚すら覚えてしまう。

「そうか、ならいいだろう。あまり時間を掛けるなよ? 本来ならば、竜王様の許可がなければここを開くことは出来ないのだからな」

 もったいぶった手つきで、扉番は錠を開ける。ぎりりと留め金のきしむ音を、その時初めて聞いた。

 

 日の中の賑わいなど信じられぬほどに、夜更けの客座は闇に沈んでいる。

 灯りを手に歩めば、己の回りだけがほんのりと明るく照らされ、どこまでもどこまでも続く永遠の空間のように思えた。時折灯りをかざして、今自分のいる位置を確認する。一番奥の納庫までの道のりが、とてつもなく遠く感じられた。

 ――大丈夫、わたくしには父上が付いている。美莢さまも亜樹さまも……西南の大臣様までがわたくしの味方。それなのに、何を恐れることがあるのだろう。全ては皆のためなのだから。

 納庫には扉などは取り付けられておらず、その入り口はぱっくりと開いた大男の四角い口のようであった。中には螢火の身丈よりさらに高い棚が林のように奥までぎっしりと置かれている。手前の方は近日執り行われる婚礼の儀のための御衣装が詰まった衣装棚であったが、その奥の床が一段低くなった場所が問題の蔵書庫になっていた。

 壁に手をつきながら、慎重に慎重に奥へと進んでいく。だがしかし、何百もある引き出しの中から、目的のものが潜んでいるひとつを探り出すことなど本当に可能なのだろうか。闇雲にひとつひとつ改めていては埒があかない。大切なものならば一番奥にあるのではないかという予測も残念ながら外れた。落胆を繰り返すたびに、焦りの色が濃くなっていく。

 

「ほほう……、なかなか勇敢な盗人だな」

 その瞬間まで、気配ひとつしなかったというのに。

 突然の呼びかけに、螢火の手元が止まる。すぐにごとりと鈍い音がして、引き出しのひとつが床に落ちた。薄茶に変色した古い文書が辺りに散らばっていく。春の頃を迎えたとは言っても、深夜はかなり冷え込む。まとわりつくほどに濃くなった気が手足を拘束していく気がした。

「あんたのことはよく知ってるよ、新しく上がった亜樹さまの側女だろ? なかなかのべっぴんで俺の好みだと思っていたんだがなあ……まさかまさか」

 すでに逃げ場は塞がれている。こうなってしまっては、覚悟を決めるしかない。耳に届いたその声にはなんとなく覚えがある。唇を噛みしめて振り返れば、そこに立っていたのはやはり先ほど扉を開けてくれた男であった。

「……」

 今更何と申し開きをしたところで、どうなることでもない。ああ、こんなことならすぐに引き返せば良かったのだ。いくら後悔したところで始まらない。

 蒼白な顔のまま見上げれば、男はにやにやと頬を歪ませている。すぐに騒ぎ立てられるものとばかり思っていたので意外な気がしたが、だからといってこちらの行いが気付かれていないはずもない。手前の衣装棚に用事があった者が、こんな奥の方まで立ち歩く必要などないのだから。

「そんな怖い顔をするんじゃねえよ、せっかくの綺麗な顔が台無しだぞ。……さあ、でもどうするかなあ。俺の立場からすれば、すぐにでもあんたを役人に差し出さなくちゃならねえんだが……」

 そこまで言うと、男はまた忍び笑いをする。その粘着質な気配がたまらなく不気味であった。

「どうだ、ここはひとつ取引といかねえか? ――俺は何も見ていない、お前さんのしていたことも全く知らねえ。……だから、さ」

 ぐい、と肩を掴まれる。恐怖のあまりにそらした耳元に、熱い息を感じた。

「分かるだろ? お前さんだって、夜な夜な亜樹さまの前で大股広げてよがっているんじゃないか。だが、その実、もの足りねえと思ってたりしてな。あんななよっちい身体じゃ、女を存分に悦ばすことなんてェ出来ねえだろうしなあ……」

 

 すでにこちらには選び取る権利など残されていなかった。

 最初のうちはそれでもどこかに躊躇いの気持ちがあったに違いないが螢火が抵抗しないと分かったのだろう、男は次第に大胆な行動に出る。すすけた手が小袖の胸元を強引に開き、こぼれ落ちた片方のふくらみを鷲づかみにした。

「……っくうっ……!」

 その時こぼれた自分の声に、螢火は愕然とした。このような低俗な男の手に掛かることなど決して許されることではない。自分は次期竜王になられる亜樹さまのものなのだ。それなのに……どうして。

「へえ……、こりゃいいや。この反応は予想外だな」

 押し殺したつもりであったが、男はすでに螢火の変化に気付いていた。いやらしい笑みを浮かべると、手元にあった灯りを棚の上に遠ざける。

「あんたも顔に似合わずすげえ女だな。こっちの方もかなりの上玉と来てる。……楽しませてもらうとするか」

 

 やはり呪縛は解かれていなかったのだと、絶望の中で思い知った。

 西南の大臣様に刻まれた官能のひだに、新しい熱が次から次へと宿っていく。心がどんなに拒絶しても、身体はそんな主を嘲笑うかのようにどんどんたかみに押し上げられてゆく。指で中を確認するのもそこそこに、男は自身を螢火に突き立てる。その瞬間、無意識のうちに腰をすり寄せ、さらに求めようとする自分がいた。

 

「……ま、これからもお互いのために一番いい方法を考えようぜ? 悪いようにはしねえよ、俺もあんたを気に入ったしな」

 それが生き地獄への序章と知りながら、断ることは出来なかった。父のために、西南の民のために、自分は果たさなくてはならないことがある。その手助けをしてくれるとこの者が言うのならば、これくらいの屈辱に耐えられなくてどうする。

 

 引き返すことはいつでも出来た。

 だが、それを自分は選ぼうとしなかったのである。ひと月足らずの出仕、奈落の底に堕ちるその日まで、螢火はそれでも明るい場所を求めてあがき続けていた。


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