TopNovel Index>朱に散る・11


…11…

 

 ――西南の大臣家のこと、お前の父君のこと……色々調べさせてもらった。

 突然のお言葉が投げかけられた夕べ。別人のように冷たいその瞳からは、すでに親愛の色も消え失せていた。一体、何としたことであろうか。この都にあってどんな修羅場であろうと乗り越えていこうと誓った螢火も、すぐにはそれを真実のものと受け止めることが出来なかった。

 

 そんなはずはない。全ては自分の思い通りにことが進んでいるとばかり信じていた。

 あの病的なほどに色が白く存在すらもおぼろげな姫君が数日前から行方知れずになっていることは、すでに都中に知れ渡っている話である。お住いであった「東所」の者たちはどうにかそれをひた隠しにしようと画策しているようだが、そのような悪あがきも長くは続かないであろう。
  その御方のお部屋は扉を固く閉ざされ、何人もその中を覗くことは許されていないと聞く。重い病に伏せっていると言えばもっともらしい理由にもなるが、されど国を挙げての御婚礼の儀式に一度もお顔をお見せにならないなど高貴な姫君とはいえ決して許されることではない。

 このあっけないほどの幕切れには、螢火にしてみてもいささか拍子抜けと言った感じであった。こちらが直接手を下すまでもなく、何とも頼りないことであろう。やはり最初に見た印象がそのままに、自分の敵となる相手ではなかったのだ。遠巻きに自分を監視する侍女たちは残らず里に突き返して、すでにひとつの障害も残ってはいない。
  そう……、これで全ては上手く行く。西南の大臣様に、翠の君さまに嬉しいご報告をする日もそう遠くはないであろう。早朝から深夜まで、ほとんど寝る暇もないほどの式次第を今日まで三日間もこなし、次期竜王・亜樹さまのお顔にもお疲れの色が見えていた。だが、それを癒し温かく包み込むのは他の誰でもない自分の役目である。
  それが証拠に客人を全て見送ったあとに「南所」に戻れば、すぐさま寝所へと上がるようにと告げられた。今宵こそは閨へのお召しがあるに違いない。そう信じて念入りに身支度を調えてきた。しかし、いきなり告げられたお言葉には、さすがに面食らってしまう。

 

「一体……どういうことでしょう? 突然の仰りよう、わたくしには何のことかさっぱり……」

 青筋の立った険しいお顔を前に、ぼんやりと取り繕うことが出来た。亜樹さまが仰る言葉の意味が、本当にまるで分からなかった訳ではない。だが、その時はまだこの場を切り抜けることは容易いと信じていたのだ。自分にはあの父がいる、そして西南の大臣家の方々もついている。全ては皆のためなのだ、それがお分かりにならないような御方ではとても人の上に立つことなど出来ぬであろう。
「事実」などと言うものは、その時の状況であっけないほどに容易くその色を変えていく。永遠に変わらぬものなどどこにもない、お上が「右」と言えば皆がならって「右」を向くではないか。

 しかし、こちらが何と申し上げようと亜樹さまのお心が和らぐことはなかった。せめて慈悲にすがろうと歩み寄れば、汚らわしいものを見るような目で振り払われる。何故自分がこのような仕打ちを受けるのか、あまりに激変する状況についていけずにうろたえた。どうして、一番お側にいて大切にされるはずの自分の言葉が届かないのだろう。それが分からない。
  姫君のお姿が公の場から消えた前夜、その夕べもいつものように馴染みの扉番の手を借りて納庫を改めていた。その現場を今度は他の誰でもないかの姫君に見つかってしまう。頼りないばかりだと高をくくっていた御方も、このときとばかりは気丈に振る舞われていたが、こちらとて後に引くことは出来なかった。その時も偶然に近くを通りかかった亜樹さまが助けてくださったではないか。

  そう……そうなのだ。このような仕打ちはとても考えられることではない。亜樹さまも大層お疲れであるから判断力が鈍っていらっしゃるのだろう。ゆっくり休まれれば、必ずや今のお言葉を撤回してくださるはず。それまでの辛抱だ。

 しばらくは自室で謹慎するようにと言われたが、その晩のうちに御館付きの役人たちが荒々しく乗り込んで来る。ここはどうにかして美莢さまにお取り次ぎをと願ったが、それもついに果たされることはなかった。

 

 冷たい眼差し、振りほどかれた手のひら。

 気付けば、誰もが自分の周りから遠ざかっていた。まるで打ち寄せた波が静かに引いていくように、気付けば元通りにひとりきり。悪い夢でも見ているような心地がした。
  ぼろをまとった薄汚れた身体を後ろ手に縛り上げられ、見せ物のように手車で引かれていく。沿道に集まった村人たちの罵声、嘲笑う声。投げられた小石が頬に当たり、それを避ける気力すら残ってはいなかった。

 その先に待ち受けていたのは、想像を超える厳しい取り調べ。しかし、最後まで螢火は何も語ることはなかった。自分が口を開けば、他の誰かを陥れることになる。全てはひとりで考えて実行したこと、そういうことにしておかなくてはならない。

 自分から取引を申し出たあの扉番までが、「この女が全て悪いんだ」と泣きながら証言した。男は心底悔いているのだという憐れな顔をして、自分は螢火に誘惑されただけなのだと言う。恐ろしいことだと何度も思い直そうとしたが、相手は高貴な女人。下手をしたら自分の首が飛んでしまうと嫌々ながら関係を続けていたとのたまった。
  役人たちもそんな男の言葉を全て鵜呑みにする。そのことに絶望を感じるよりも、むしろ当然のことだと納得している自分が可笑しかった。

 

 ――だから、求めてはならなかったのに。

 

 いつまでも口を割らない女囚人に業を煮やし、詰め所の者たちもその対処に困り切っている様子であった。何しろ、いくら揺るぎない罪状が上がっているとはいえ、一度は亜樹さまの側女に上がった者。その扱いを一歩誤れば、己が身が危うくなる。しかも元は西南の大臣家で実の娘同然に扱われていたと言うではないか。もしも手を下した後で難癖を付けられたら取り返しが付かない。
 なかなか答えのでない苛立ちのはけ口は、やはり螢火に向けられていく。かばい立てをするひとりの存在も保たぬ女子は、ここでも身の安全を保障されることはなかった。普段から行われていたことなのか、このときだけが特別だったのかそれは分からない。しかし、手足を拘束されたままで繰り返し受ける屈辱は人としての尊厳を全てはぎ取ってしまうほどのものであった。

 その場所には若い者も年寄りもいた。だがそのひとりずつを確認して区別していたかというと、それは定かではない。その後、都での拘留はひと月ほど続いたが、螢火にとってはそれが半年にも数年にも思える長い長い時間に思えた。

 

 次に連れて行かれたのは、ほんの数ヶ月前に旅立ったばかりの懐かしい地であった。

 やはり西南の囚人は西南に戻そうと言うことで話がつき、螢火の今後の処遇は西南の大臣に一任されることになる。王族の機密文書に手を付けようとしたとはいえ、それは未遂で終わったのだ。まだ年も若くいくらでも更正の出来る年頃、あまり残忍なことは出来ないと言うのがその理由である。

 ……だけど、それはいい口実でしかないわ。

 我が身を貪っていた男たちの間で、繰り返し諍いが起きていたのことに気付いていた。あまりに規律が乱れると恐ろしくなった詰め所の長が、口から出任せにそう告げたのである。当の本人もかなり頻繁に螢火の元を訪れていたと思うが、立派な装束をまとって前を行くその者にちらりともその面影はない。
  男とはどこまでも化ける者、そしてまず一番に自分の保身ばかりを考える者――我が身に新たに刻みつけられた憎しみよりも、そんな蔑みと諦めの気持ちが先に出ていた。

 それでも、生きて再び懐かしい故郷の土を踏めるのは嬉しい。ここまで来ればもう大丈夫、きっと自分は生き返ることが出来る。大臣様も表立ってはかばってくださらないだろうが、それは致し方ない。どんな場末でも構わない、もう一度人として生まれ変われるならばそれでいい。
  それに……、あの父にしてもどんなにかこのたびのことでは心を痛めているだろう。すぐにでも飛んできて詫びてくれるに違いない。

 

 しかし、その望みはすぐに打ち砕かれた。

 ――場末の座敷牢がいい、あそこにぶち込んでしまえ。生きて再び橋を渡ることがないよう、しっかりと見張っておるのだ。あれは我が集落の恥、我が息子の元に仕えた者でなければ今この場で斬り殺してしまえるものを。

 他の誰でもない、西南の大臣様が仰ったのだというその言葉を人づてに伝えられながら、螢火は静かに目を閉じ俯いた。すべては終わったのだ、もう自分には何も残ってはいない。嘆くことすら、許されない身になってしまったのだ。

 

 父はとうとう最後まで、憐れな娘の元を訪れることはなかった。

 

………………


「……本当に、書も琴も……何もかもが素晴らしいばかりです。これだけのお手並み、すでに私がお教えすることなど何もございません。逆にこちらが手ほどきを受けたくなるほどですわ」

 荻野の言葉に、楡は不機嫌そうに顔を歪めた。返答するのも億劫だと言わんばかりである。差し出された茶を一杯あおると、早々に席を立とうとした。つい半刻前にこの居室を訪れたというのに、何とも気の短いことである。まあ、この男については何もかもがそんな風で、ゆったりと構えていることがない。いつでも何かに追い立てられているような張りつめたものが彼の周囲を取り巻いていた。

「あらまあ、ご主人様。お待ちくださいませ」

 辺りを取り散らかしたまま、取るものもとりあえず荻野は後に続く。これももう幾度となく見てきた日常的な光景であった。
  床に伏している時間の方が多い生活ではあったが、ふと気付けばこの地に連れて来られてからひと月が過ぎようとしている。辿り着いてしばらくは追っ手のことばかりが不安で生きた心地もしなかった。その恐怖もこの頃ではだいぶ薄れてきたように思われる。
  顔を合わせる者も増えることはない。通いの物売りや文使いくらいしか丘を上がってくる者はなく、その彼らからも身を隠していた。村でも一番の奥になるこの館に住人がひとり増えてことを承知している村人が果たして幾人いるだろうか。

 

 ――まるで、……これでは亡霊か何かのようだわ。

 思えば長い間、あちらこちらに流されるだけの人生を送ってきた気がする。そのどの瞬間にも自分自身の「意志」というものは皆無であった。そして今、この地でしばしの休息を送る。だが、またいつか新しい流れに押し流されるのであろうか。

 一体、自分という人間は何のためにこの世に生まれてきたのだろう。母を不幸のどん底に突き落とし、どこにいても余所者扱いで自分の居場所などはついに存在しなかった。きっと、この先どんなに生きながらえたところでそれが変わるはずもない。

 昼間はまだいい。荻野が側にいてあれこれと世話を焼いてくれるのだから。だが、こうして日がな一日ぼんやりと過ごしていれば、寝の刻に床についてもなかなか眠りに就くことが出来ない。固く閉ざした瞼の裏側には、次々と忘れ去りたい出来事が浮かんでは消えていく。その瞬間に覚えた痛みまでが鮮明に肌の上をかすめていくのだ。
  およそ人のものとは思えない、数々の苦行。ふわっと浮き上がった瞬間に、打ちのめされるその屈辱。この次は今度こそはと夢見た分だけ、その先に続く絶望が深くなった。もしや、この身はこの心は、隙間のない程に傷つくために存在しているのではなかろうか。

 ひとり取り残された縁の際で、ぼんやりと自分の手を見つめる。陽の民と呼ばれ、血色の良い肌色が特徴的な西南の血を両親から受け継いでいるはずなのに、何てみすぼらしい白さであろう。青く細い血管が浮き出るほどに痩せ細り、若い娘らしい美しさからはほど遠い。頬もこけ、髪も細くやつれている。

 ――やはり、あのまま朽ち果ててしまうのが正しい道だったのだ。

 あの、楡という男が許せない。今少しの辛抱で自分は何からも自由になれたのに、どうして見捨ててくれなかったのか。骨と皮ばかりになった廃人に手を差しのべたところで、彼自身にどんな幸運が訪れるとも思えない。それこそ偽善と言うものだ。事実、この瞬間に自分はあの男に対して強い憎しみを抱いている。
  雨露をしのぐ住み処を与えられ温かい食事や柔らかな衣を手に入れたところで、それが何になると言うのだ。そのようなもの、すでにこの身は欲してはいなかったのに。ただただ、静かに朽ちていくことだけを望んでいたのに。

 荻野は優しい。いつも変わらぬ温かさで接してくれる。いくらその中に浅ましいものを見つけようと試みても、包み込むような柔らかな笑顔にかわされてしまう。しかし面には出さずとも、面倒な居候を新たに囲ったのだから、色々と面倒ごとは増えているはずだ。その内心にうずたかく積もったものは計り知れない。

 いつか、……そう遠くないその瞬間に、自分はうち捨てられてしまう。それを承知しながら、どうして行動を起こすことが出来ないのであろうか。

 

「まあ……、もうおしまいになさいますか? ようやく勘が戻ってきたところではありませんか、もう少しお続けになれば宜しいのに」

 しばらくののち、荻野は向こうの居室から一抱えほどの衣を手に戻ってきた。もともとはこちらの建物は全て納屋のように使っていたと聞いている。奥の部屋には今もうずたかく行李が重ねられていた。楡という男は身の回りを出来る限り簡素にすることを望むようで、あちらの部屋にはほとんどものがないと言う。毎朝、一揃えの衣を整えて彼の元に運ぶのはただひとり仕える侍女・荻野の役目だった。
  もともと螢火は誰からか要求されなければ、身を動かすこともなく半日でも一日でも過ごすことが可能である。自発的に何か起こすという欲求もなく、ただただ人影に隠れるようにして生きてきた。しばしの都暮らしでそれが少し改まった気がしたが、あっという間に後戻りである。
  昼餉の前から爪弾いていた琴も、荻野がどうしてもと強く言うので仕方なく嗜んでいただけだ。西南の大臣家に住まっていた頃に、一通りの手習いは受けている。だが、この三月ほどはそんな暇もなく過ごしていただけに、簡単な旋律さえたどれなくなっていた。何とも情けないことである。もどかしく思いながらも幾度か繰り返し、ようやく指が昔を思い出して来たところであった。

「……いえ、もう。騒がしくしては、楡さまにご迷惑になりますし」

 昨日は急なお召しで大臣家に出仕し、夜更けに戻ったと聞いている。そして、夜明けと共に領地巡りではいくら強靱な身体の持ち主でもたまらないであろう。知らなかった、何と地方官僚は忙しい身の上であることか。このように立て込んだあとは、陽の高いうちから一刻ほど横になることもあるらしい。もしも気の流れに乗って琴の音など聞こえたら、耳障りだと思うに違いない。

「まあ、そのようなことはございませんわ。とても美しい音色ですもの、かえって心地よい子守歌にもなりましょう」

 静かに首を横に振った螢火に応える荻野は、しかしこれ以上の無理強いはせずにさっさと辺りを片づけた。そして今持ち帰った衣をそこに広げる。すでに水通しをして綺麗に整えた夏装束。これからの季節に不要なそれはまとめて新しい季節を待つことになるのだ。もちろん、楡のような身の上になれば同じ衣を何年も着続けることはないだろう。手持ちの半分ほどは入れ替えて古着にするに違いない。
  しっかりと丁寧に織り込んだ布地である。かなり優れた腕前の職人の仕事だと窺い知れた。だからといって、必要以上に華美なところはない。ただ悪戯に飾り立てることなくしっとりと仕上げることが、実はとても難しいのだ。

 大臣家の直轄地とはいえ広大な土地を治め、先祖代々の役職をしっかりと守り続けている。ことに西南という地はあざとい心の官僚が多いことで知られていた。少しでも気を抜けば、あっという間に足をすくわれる心休まる暇もない状況に置かれ、それをこなしていくのはかなりの知恵の持ち主だと思われる。
  だが、彼自身はそれをただ淡々と与えられるままにこなして行くのみ。すでに何もかもを投げ捨てているような、寂しさすら覚えてしまう。

 一体、あの男は何者なのだろうか。何を思って、自分のような罪人を囲おうと思ったのだろう。とても自分が知っている姿だけが彼の全てではない気がする。

「あの方は……他にどこか居住まいがおありになるのですか?」

 ふとそんな言葉が口元から転げ落ちていた。傍らの荻野の手が止まる。衣を畳みかけていた手を膝に置くと、彼女は静かに向き直った。普段通りの笑顔に、いくらかの驚きが宿っている。その表情を見て取って、初めて自分がとんでもないことを訊ねてしまったことに気付いた。

 だが、どう考えても不思議なばかりなのである。楡という男は、この屋敷にはほとんど寝に帰るだけのように思えていた。大臣家に出向けば、二日三日と戻らないことも少なくない。所詮こちらは仮の宿と心得え、どこか他にしっかりとした住み処があるのではないだろうか。これだけの立派な身の上なのである。正妻はもちろん、他に幾人の女子を囲ってもおかしくないはずだ。

「さあ、余所様でのことは私も詳しくは存じませぬが。……如何致しました? そのように気になるのでしたら、直接ご主人様にお尋ねになれば宜しいのに」

 そこまで告げると、荻野は何を思ったのかこちらの顔を覗き込んでくすくすと笑い声を上げる。そしてしばらくののち、ようやくこみ上げてくるものを制して口を開いた。

「全くお二人が双方でいつまでもそのようにかしこまっていてどうします、お側にお仕えしている私の身にもなってくださいませ。まあ――亡き両親よりご主人様の身の回りのお世話を引き継いだときから、季節の衣替えもお道具の手配も全て私がひとりで取り仕切っておりますわ。余所様がいらっしゃると分かったならば、とっくにお任せしておりますのに。そろそろこのお役目もきつくなってまいりましたわ」

 螢火が慌てて視線をそらしてしまったので、もうそれ以上荻野は深追いをすることはなかった。元の通りに衣の手入れを再開したのであろう、柔らかな衣擦れの音が耳に届く。

 

 ――己が身を俗世に留めようとする全て、それを余計なしがらみと言わずに何とする。

 

 秋もだいぶ深まり、肩から掛ける衣も薄く綿を入れたものに変わっていた。だが、季節が移ろい彩りを変えたところで、新たな喜びなど湧くわけもない。

 茜に染まった裾に触れた指先は、やはり痛々しいほどに痩せ細ったままであった。


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