TopNovel Index>朱に散る・12


…12…

 

「そろそろ、新年に向けて晴れ着を調えなくてはなりませんね」

 夕餉の席でそんな話題を荻野が持ち出したときも、螢火は他人事のようにぼんやりと聞き流していた。その日の午後に物売りがかなり値の張る反物を荷車に積んでやって来たのである。彼らにとってもすでに毎年のことであるらしく、商談も滞りなく終わった。そして運び込まれて来たのは、行李にふたつ分ぎっしり詰まった品。見たこともない新しい変わり織りもいくつか見受けられた。
  直接触れてみたい衝動に駆られたが、どうにかやり過ごすことが出来た。それでも無造作に部屋の隅に置かれた行李の蓋を夜中にこっそり開けてしまいそうで恐ろしい。出来るだけ心静かに過ごしていたいのに、何故外側からこのように働きかけられてしまうのだろう。

「例年通りにしてくれればよい、全てはお前に任せる」

 楡は面倒くさそうにそれだけ告げると、もうこの話は終わりだと言わんばかりに汁をすすった。これからの季節に、なるべく身体の温まる食事をと心がけているのだろうか。ほんのりと甘い香りのする粕汁は、味噌仕立てにされていた。彼の傍らに置かれた酒も二三日前から燗になっている。

「まあ、……それでは困りますわ。今年は螢火様の分もご準備しなくてはなりませんから。ご主人様もしっかりと心得てくださらなくては」

 突き出された茶碗を受け取って二杯目の粥をよそいながら、荻野はきっぱりと言い切った。このような場面では、毎度のことながら楡は面倒くさそうに投げやりな態度に出るのだが、彼女はそれを見ても少しも臆するところはない。必要なことは全て腹に残さず言い切らなくては済まされない様子だ。

「いつもの反物屋では、ご主人様のお品ものしか揃いませんでした。もう少し華やかなものが手に入らないかと訊ねましたら、もうすでに品切れだと申すではありませんか。全く、気の利かない者ばかりで困りましたわ。里まで下りたところで、とても螢火様にお似合いの反物が手に入るとも思えません。一体どうしたものかと途方に暮れるばかりです」

 それは仕方のないことだと、螢火は胸の奥でひとり思っていた。
  この館に自分が囲われていることを知る者は極端に少ない。商売に必要のない余計なものを運び込むには、ここまでの坂道はきつすぎる。それに、人前に出ることもない自分には、そもそも年が改まるからといって新しい衣などはいらないだろう。晴れ着とはいわば、見る人に己の地位や権力を知らしめるものなのだから。

 このまま黙ってやり過ごすことも出来た。だが、しかし。荻野が楡に対してこのように申し上げれば、螢火自身が晴れ着をねだっているのだと誤解されかねない。罪人と知りながらこうして囲ってもらっていることに恩義を感じるどころか、さらに浅ましい物乞いをしていると思われては心外である。螢火は手にしていた箸と器を膳に戻すと、意を決して震える唇を動かしかけた。

「何だ、あまり進んでないようだな。あれほどしっかり食すようにと言ったのに、お前はどこまでも物わかりの悪い女子だ」

 しかし。覚悟を決めたその心も、楡のひと言に遮られる。彼は凍り付くような冷たい視線を螢火の膳に向けると、そのままくるりと縁の方に向き直った。

「まあっ、……そのような仰りようはあんまりですわ。螢火様はまだ体調が万全になっておられないのですから、仕方ございません。それでも、病み上がりからのこの数日で、だいぶ多く召し上がれるようになってますもの。ここはむしろ、誉めて差し上げても宜しいのでは?」

 そんな荻野の訴えを振り切るように、楡は席を立つ。彼はそれきり何も告げず、庭を渡ったところにある表の居室に戻っていった。

 

………………


 山を深く分け入った先にあるこの地では、何かにせかされるように秋が日を追うごとに濃く色づいていく。

 だが改めて思い起こせば、自分がこの地に降り立ったのはまだ夏の終わり。それからまだひと月であれば、山を下りた地上ではようやく気の流れが秋めいた頃であろう。

  暦の上で十月を迎える前だというのに、こうして気も早く正月の晴れ着の心配をする。庶民から見たらいささか滑稽にも思えるその情景も、高貴な身の上の御方となれば当然のこと。正絹を丁寧に仕立てるには熟練の腕を持つ者でもおいそれとはいかず、それを幾枚も仕上げるとなればいくらでも早く始めて構わないのだ。

 実際、螢火が竜王様の御館に上がった頃、すでに冬物の準備が始まっていた。これから春爛漫を迎えようとするその頃に、夏物でも秋物でもなくその次の季節の御衣装を仕立て始める。さすがにここまで念入りにされるのは王族とそれに準じる御身分のある方のみであったが、お仕えする者たちは皆当然のようにその作業に当たっていた。
  折しもご婚礼の儀を間近にして辺りが慌ただしく過ごしている頃である。しかし、そのような中にあってもお上の身の回りのお支度に抜かりがあってはならない。お仕えする侍女たちの誰もが張りつめた意識の中であちらこちらをせわしなく動き回っていた。もちろん新入りである螢火にあっても例外ではない。特に亜樹さまのお側近くに仕える者として、仮縫いのお支度などには必ず同行した。
  畏れ多くも次期竜王と決まった御方が身につける装束である。その美しい絹の流れには、びっしりと刺し文様が施され、さながら夢殿の様な情景。逞しい肩先にそれが掛かれば、そのまばゆいばかりの輝きに神々しさすら感じられた。

 ――いつか、必ずわたくしもこんな御衣装をまとう日が来るのだ。そして、亜樹さまのお側で、一生幸せな時を過ごすのだわ。

 やがて亜樹さまの寝所に召されて寵妃となり、御子を授かる。「国母(こくも)」と呼ばれる身分になったその時に、自分自身も臣下を離れ王族に準ずる立場となることが出来るのだ。古よりそのようにしてお上に愛された側女は幾人もいるのである。何もそう珍しいことではない。しっかりと大切な御方のお心を掴んだ者こそが、勝利者なのだから。

 そう、あれからいくらの時も過ごしてはいないはずなのに。

 こうして思い起こしてみても、都での出来事の何もかもが夢物語のように感じられる。いや、都のことだけではない。西南の大臣家で過ごした月日も、それより幼く父の館で過ごした日々も、全てが霧の向こう。ぼんやりと霞がかって、はっきりと思い起こすことが出来ない。

 柔らかく懐かしい思い出と今の間に流れている、どす黒い河。ふたつの記憶を隔てる闇の空白が、今もなお螢火を苦しめ続けていた。いくら考えても、自分がそれほどの悪事を働いたとは思えない。ただ父に言われるがまま、全ては亜樹さまと西南の民のために立ち回ったまで。それをどうして誰も分かってくれないのだろう。……しかし、それをどんなに思い嘆いたところで、現状が大きく変わるとも思えない。

 ――ああ、亜樹さまはお健やかに過ごされていらっしゃるだろうか。

 あの頃、まさしく自分は次期竜王妃としてふさわしい身の上にあったのだ。最後に見たそのお顔がどんなにか恐ろしいものであったとしても、やはり懐かしさは募る。そんな想いが心を過ぎったその時に、天高く鳥の鳴き声が響いた。

 

「そろそろ、お疲れになりましたか? でもたまには気分転換も必要でしょう、あのように部屋奥に籠もっていらっしゃっては、いつまでもお加減が良くなりませんわ」

 がさり、と音を立てて、目の前の植え込みが大きく揺れる。肩程まで育った樹木の向こう側から、いつもの優しい声が響いた。その瞬間に、螢火の中にあった物思いが振り払われる。

「では、こちらをお持ちになってください。そして反対側から私に紐の先を渡してくださいませ。そう、……もう少しそのままたるまないようにさせていてくださいね」

 藁で木々の周りをぐるりと囲い、その上からしっかりと縄で結び止める。そんな作業をもう一刻ほど続けていた。ほとんどの仕事は荻野がするが、やはり紐を渡したり藁が倒れないように支えたりするにはもうひとりの助けが必要になる。普段なら庭師を呼ぶのだが、やはり季節柄向こうも方々に呼ばれていて多忙である様子。そこで、今回は螢火に声が掛かったのだ。

 数日来の激しい荒れの天候も収まり、青く塗り替えられたかのような天の色。温かな気がゆっくりと流れ、日の中の作業にはまたとない日和である。自分がここにいることが、あまりにも場違いに思えるほどのまばゆさ。柔らかな輝きが指先に落ちて、さらさらと音もなく崩れていく。
  大きな植木はすでに数名の職人の手によって綺麗に囲いが終わっていたが、中庭にある低木がそのままの姿で残されていた。ぬくもりを求めて自由に動き回れる動物に対して、樹木は自分が根付いた場所で必死にその生涯を過ごそうとする。こんな風に藁で囲ったからと言って、寒さがそれほどしのげるとも思えないが、少ない働きかけでもするとしないとでは大違いだと荻野は言い切る。

「夫が病に倒れる前は、こちらのお庭を全て任されていたのですけど。なかなかこちらまで来てくれる職人もいませんし、大変ですわ。それでもご主人様はどうしてもこの館にこだわられるので仕方ないのです」

 荻野の話では、先代が領主であった頃にはもう少し山道を降りた村人たちが住まう集落とは目と鼻の先に館を構えていたらしい。それが、楡の代になってから突然ここまで遠ざかってしまったのだと聞いた。もともとこの場所は夏の間の別宅であったという。だから広大な土地を任された領主の館にしては、驚くほどの簡素な居住まいになっているのだろう。
  ふと振り向けば、螢火が住まう居室もその周りを幾重にも茣蓙(ござ)や藁束で囲われている。そうなっても、この先の凍てつく冬がいかほどのものか、温かい地で生まれ育った螢火には想像も付かなかった。荻野の話ではしっかりと暖を取ればそれほど大変なことはないと言うが、さだかではない。

 一体、あの楡という男は何を考えているのであろう。このように人里離れた寂しい土地に庵のような我が家を構え、村人との密な交流さえ断ち切っているように感じられる。だいたい、領主ともあろう者がただひとりの侍女しかそばに置かないというのはどういうことだろう。西南の大臣家とは格が違うとはいえ、これほどの家柄になれば、それこそ何十人もの使用人を雇っていても当然である。
  まるで、何もかも自分の周りから排除しようとしているような、そんな冷たい心が彼の体内には宿っているように思えた。しかしどうして、何故ゆえにそのような振る舞いをするのだろう。とんでもない変わり者だと言えばそこまでだ。それに自分より倍も多く生きているような男の裏側を探るなど、到底無理な話である。

 初めて出会ったあの瞬間の、突き刺さるような視線が忘れられない。真っ直ぐにこちらを見つめながら、だがしかし楡の瞳には感情というものが一切見られなかった。無色透明なガラス玉に己の姿が映っているような、不思議な感覚。
  自分をあんな場末の座敷牢まで訪ねてくるなら、その相手は懐かしい父に違いないと思っていた。他の誰にも無惨な扱いを受けようと、血を分けたあの人ならきっと憐れな娘を気遣ってくれるはず。そんなささやかな希望が湧き上がって来ただけに、見上げた先にあったあの瞳の冷たさは印象的だった。

「ご主人様も戸惑われていらっしゃるのでしょう。慣れないことに照れておられるのですわ。あのように素っ気ない態度をとられても、お心内はどうでしょう。このように何もかもを整えて、螢火様のお出でを心待ちにしていらっしゃったのですから」

 荻野は折に触れ、そんな風に励ましてくれた。こちらを慰めるつもりであれこれと言葉をかけてくれるのだろうが、時と場合によってはそれが予想に反した効果になることを彼女は知らないのだろうか。
  確かにまるで自分が来るのを知っていたかのように、この居室には全てが整っていた。そのどれもがとても急な揃えとは思えない品々である。熟練の手によって丁寧に作られたお道具、四季折々の美しさを織り込んだ衣装たち。簡素な庭のしつらえすら、見る者を楽しませるような趣向が施されていた。

 ――でも、……それは何故?

 ゆっくりと静かに朽ち果てていくことを何よりも強く望んでいる。その気持ちは今も変わることはないのに、無機質なほどに冷たい男の存在が螢火を俗世に繋ぎ止めていた。全てを閉ざしてしまった凍る瞳、その奥に息づいているものは果たしてなんであるのか。

 心こそ、一番先にうち捨ててしまいたいと思っていた。何かに焦がれる気持ちがあるから、いくつも道を踏み外すのではないか。期待してはいけない、また裏切られる。それを知りながらも、優しい言葉を掛けられればすぐにすがりつきたくなってしまう。
  幼き頃、一番欲しかった母の愛。今もなお、それを求めてさすらっているのだろうか。いくら望んでも手に入らないものだからこそ、夢中になって求めてしまう。

 しかし、楡には最初から情愛と呼べるものが存在しない。荻野とは一通りの世間話などもするが、その物言いはぞんざいで片づけ仕事のように思える。
  初めはこちらが頑なな態度をとるから、相手もそれに準じているのかと考えていた。だがそれは多分、違う。彼は心のほとんどをどこかに置き去りにしているのだ。喜びに胸を躍らせない変わりに、どんな哀しみにも痛めつけられることがない。そして誰に対しても、変わらぬ態度で接するのだ。
  全ての望みを奪われて、それでも生きながらえよと言われる。そうしたことで、彼には何ひとつの得もないというのに。

 ふと見やれば、しんと静まり返った表の居室。昼過ぎからはまた大臣家への出仕だと聞いているが、その支度を調えているとも思えない。

「さあ……これで一通りは仕上がりましたね。それでは私はしばしお暇を頂いて、用足しを済ませて参りますわ。薬師様のところにも言付けがありますし、ご主人様がお持ちになるお品も受け取りに行かなくては。昼餉までには戻れると思いますが、お膳の支度はすでに済んでおりますので」

 たすき掛けを外しながら、荻野が言う。

 ふっくらとした体型に似合わず、彼女は身体を楽にしていることのほとんどない女人である。いつもてきぱきと仕事を片づけている姿はとても気持ち良く感じられた。地に足をつけて歩いている庶民の暮らしとはこのように生き生きとしているものなのか。今まで周囲にいた者たちとは全く違うので最初はひどく戸惑った。
  だが今では、羨望に近い想いで彼女を見つめている。楡と荻野、その全てが異なるふたりを前に、螢火はそれぞれに感慨深いものを抱いていた。

「お疲れになられたことでしょう。ささ、おみ足を洗って、ごゆっくり休まれて下さいませ」

 急き立てられるように背中を押され、居室へと導かれる。その時も表の居室はやはり静かに、人の住まう気配すら感じられなかった。

 

………………


 ……どこかで、人の声がした。

 ぼんやりと肘置きから身を起こす。知らぬうちにうとうととしていたようだ。ただ、庭に立っているだけで大した仕事もしていなかったはずなのに、心地よい気だるさに包まれている。
  空耳かと思ったが、そうではないらしい。ゆるやかな気の流れに乗ってそれは途切れ途切れに聞こえてくる。荻野が戻ったのだろうか、表の方が騒がしい。

 ――一体、どうしたのだろうか。

 静かに立ち上がり、縁の側まで進み出た。未だに、見知らぬ者と顔を合わせるのは恐ろしい。いつ何時、追っ手がこの地を訪れるか知れないのだから。荻野が不在であるこんな時は、どうしても用心深くなる。障子戸の隙間から、覗き込むように庭先に視線をやった。

「……あっ……!」

 かすれた呻き声が、喉から漏れ出でる。しかし、それはあまりに儚く、表にいる人影には届かなかったようだ。この居室に自分がいることすら、未だに気付いていないのかもしれない。

 

 そこにいたのはひと組の男女であった。

 女子の方は見覚えのない顔である、今までこの館を訪れた物売りにも村人にもあのような者はいなかったと思う。年の頃は、16,7……自分といくらも違わないように思われた。柔らかな赤毛は腰を過ぎた辺りまで、身につけている衣から見てそれほど高い身分ではないと思われる。その腕にはまるまる太った赤子を抱いていた。――そして、男の方は。

 

 ――嘘、……これは一体。

 

 もしや、まだうたた寝が続いているのだろうか。そうとしか思えない光景に、螢火はこくりと息を呑んだ。すがりつくように掴んだ障子戸がカタカタと揺れている。

 年若い女子に笑いかけ、ついには彼女の腕の赤子をも抱き上げる。乱暴に揺り上げられてはしゃぐ子に目を細めながら見守るのは、他でもない。今この瞬間まで、何人に対しても凍てつく表情しか持ち合わせていないと考えていたこの館の主その人であった。


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