TopNovel Index>朱に散る・13


…13…

 

「ああ、その女子(おなご)ならば私どもの娘にございましょう」

 それから程なくして戻った荻野の言葉で、瞬く間に謎は解けた。

「春に生まれた赤子もだいぶしっかりしてきたとのことで、我が夫にひと目見せようと里帰りをしてきたのです。昼過ぎに村にたどり着くと申しておりましたので丁度いいと思いましたら、うっかりとどこかで行き違ってしまった様子ですね」

 あっという間に仕事着に改めた彼女は普段通りの明るい口調でそう告げると、手にしていた布包みを開き、買い求めてきた細々した品をひとつひとつより分け始めた。色とりどりの美しい糸は、これからの新年の支度に使われるものなのだろう。
  針や鋏、また鍋や器などの普段使いの道具たちも古くなったものは新年の訪れと共に買い換えることが多くなる。取り替えの時期などいつでも構わないと思いがちだが、やはりそうではない。年の瀬までに身の回りを一度改めてすっきりと新しい年を迎えることが出来るよう、古来よりの人々の心構えなのであろう。寝具などの綿の打ち直しも、本格的な冬が到来する前にやり終えなくてはならない。

「かなり見苦しくはしゃいでいたのではありませんか? 娘もご主人様とは生まれてすぐの頃からのお付き合いですし、とても可愛がって頂きましたから未だに馴れ馴れしくて困りますわ。大切な御衣装を赤子が濡らしたりしていなければ宜しいのですけど」

 今はもう家の方に戻っているのでしょうと付け足しつつ、彼女は恥ずかしそうに口元を緩めた。

「そう……だったのですか」

 ぼんやりとした受け答えになってしまったが、それも昼前の作業の疲れと思ってもらえるのだから幸いである。実際、肘置きに寄りかかったまま、身体を動かすことすら出来ないままでいた。

 ――あれが、荻野さまの……。

 そう知ったところで、別段何らかの想いが湧き上がることはなかった。実際のところ、あれが楡の女子であったと告げられたとしてもすんなりと納得していたことであろう。いや、むしろその方が良かったかも知れない。人並みな所帯を持ち幸せに過ごしている男だと知らされれば、自分と全く違う人間として切り離すことも出来るのだから。

「いけませんね、お膳も少しも進んでいらっしゃらなくて。それほどまでにお疲れになりましたか? もしもお辛いようでしたら、薬師様をお呼びした方が宜しいのでは……お顔の色も優れないご様子ですし」

 この地では、食事については朝と夜に重きが置かれ、昼の膳はそのつなぎとして軽めに考えられている。特に農村部では遠方の田畑まで仕事に出ることも多く、そうなれば一度昼に家まで戻るのは面倒になってしまう。そこで握り飯などを朝出掛けに持ち、夕刻まで持たせることが普通であった。
  荻野が用意してくれた昼餉の膳も小さめの握り飯がふたつに漬け物と煮豆。幼子でもあっという間に平らげられるほどの量である。同じような弁当の包みを、楡も今どこかの茶屋で開いているかも知れない。

「いえ……そのまま置いておいてください、夜まで掛かればどうにかなります。それに本日はもう、荻野さまはお家の方に戻られた方が宜しいのでは……?」

 彼女の振る舞いに普段と違うところは少しも見られない。だが、遠く離れて暮らしているのだという肉親が久方ぶりに戻ってきたのであれば、今すぐ飛んででも戻りたいと思うのが人情であろう。特に急いでやらなくてはならない仕事もないなら、尚更である。自分がここにいるために引き留めていると言うのなら、心苦しいばかりであった。

「あら、そのようなことはございません。私としてはむしろ娘に夫の世話を任せられますから、気兼ねなくこちらのお務めにかかれると喜んでおりましたのに。まだ日も高いですし、これから新年のお道具などもすべて開けて、改めようと思っておりましたのよ。少しの間、縁の辺りが見苦しくなりますが、どうかお気になさらずお休みになっていてくださいね」

 荻野はきっぱりとそう言いきると、その言葉通りに次の作業に移っていった。こうなってしまっては無理に突き放すことも出来ない。もしもこれが荻野なりに気を遣っての行為であるなら、むしろひとり静かに捨て置いて欲しかった。誰からも相手にされず過ごすことには慣れている。ぼんやりと過ごす時間の方がずっと心地よいのに、そう告げることすら出来ない我が身が忌まわしい。

  次々と並べられていくお道具は、さすがに趣味の良い品々ばかりであった。かなり古めかしい造りのものもあるが、丁寧に手入れされているようで少しも痛んだところがない。これだけの格式のある家なのだ、代々受け継がれてきた伝統の品も多いのだろう。

 その向こうにはすっかりと冬支度の済んだ庭が広がっている。温かい日差しが中庭を満たし、まるで季節を違えて春を感じさせる程であった。

 

 ――新年なんて、わたくしの元には永遠に訪れるはずのないものなのに。

 

 何もかもが場違いな、自分らしくないものばかりに囲まれているように感じられていた。今更新しい年を祝って、その前途を幸多きものにしようと願うなど有り得ないことである。胸の鼓動は続いていても、心の鼓動はすでに停止しているのだ。全ては自分に関係のない蚊帳の外の出来事。それをあの男もすでに承知しているに違いない。だからこそ、この身を突き放すような視線で見つめるのだ。
  すでに分かっていたはずだ、この瞳に映るものだけが真実ではないと言うことを。どんなものにも表と裏がある。むしろ自分の知らないところに大切なものが潜んでいることの方が多いのだ。そう……それが分かっていたはずなのに、何故これほどまでに我が心は沈んでいるのだろう。

 やはり、罪を犯してしまった女子であるから、このような扱いを受けるのだ。あの楡という男は本心では自分のような厄介者を任されてどんなにか忌々しく思っているのだろう。口ではそうではないと言うが、実際は最初に考えたとおり、誰かに頼まれて仕方なくこの身を囲ったに違いない。
  ならば見て見ぬふりをしてあの座敷牢を通り過ぎてくれれば良かったのに。もう程なくこの命はついえたはずだ。今更問われるまでもない。誰が手を下すことがなくても、自分は死を望んでいた。そして今、このように中途半端に生きながらえたところで、一体何になると言うのか。

 誰からも望まれることなく生を受け、己が望んでも死を迎えることが許されない。そんな理不尽なことがあっていいものだろうか。自分の始末くらい、自分で付けたい。それをさせてもらえないのは、やはり今ここでこの命が消えることで、あの男に不都合なことが起こるからであろう。
  そう考えてしまえば、こうして始終そばにいて世話を焼いてくれる優しい侍女も、ただこの身を監視している番人のように思えてならない。そうなのだ、誰も彼も本心など知らせてくれはしない。皆、自分の都合で生きているだけなのだ。

 

 はっきりと思い切れば、その瞬間から自由になることが出来る。螢火は、ひとつ大きく息を吐くと、元の通りに行李を片づけた荻野の背中に声を掛けた。

「もう……一区切りが付いたら、今日は宜しいですから」

 あちらは、陽の当たる場所なのだと思った。当然のように幸せに生まれ、幸せに暮らしていける者も存在する。思惑も打算もなしに、ただ愛に包まれて生涯を過ごすことが出来る者とそうでない者との違いは何であろう。

  こうしているうちにも、明るい笑い声とそれに応えるような静かな微笑みが脳裏に蘇ってくる。決して手に届かないもの、望んではいけないもの。あの瞬間に、自分の奥底から芽生えたたとえようのない感情を打ち殺すため、螢火は心の中で葛藤を繰り返していた。

「明日の朝も、いつもよりもごゆっくりで構いません。わたくし、自分の身の回りのことは何でも出来ますし、それほど荻野さまの手を煩わせることもございませんわ。……ですから荻野さまも、もっとご自由になさってください」

 厄介者を抱えて身動きが取れなくなっていると思われるのは心外であった。そこまで我が身を陥れたくはない。もしも自分の娘や孫が戻ってきているのなら、すぐに会いに行きたいと思うのは当然だ。そして、その心を荻野が押し殺す必要などどこにもないのだから。
  それにこのまま過ごせば、何も知らないあの女子に毒々しい想いを抱いてしまいそうな予感がした。これ以上惨めな女子にはなりたくない。全てを自分から切り離すことで、ひとり殻に閉じこもることで、それをどうにかして阻止したかった。

「……螢火様……」

 出来る限り感情を殺した声で告げたつもりであった。それでも顔に何かの想いが浮かんでいたのであろうか、覗き込むその視線に息を呑む。しかし、一瞬の間を置いて、荻野は静かに微笑んだ。

「困りましたね、私はいつでも自分のしたいように自由に振る舞っておりますわ。もしも許されることならば、こちらに泊まり込みでお世話をさせて頂きたい程ですのに。そのように突き放さないでください、悲しゅうございますわ」

 ふわりと、床に置かれた自分の手のひらが温かくなる。見れば、荻野がたとえようもないほど愛おしそうな手つきで我が手をしっかりと包み込んでいた。

「この居室に螢火様をお迎えすることを心待ちにしていたのは、何もご主人様おひとりではございませんよ? そのことを、どうかお忘れにならないで下さいね」

 伝わってくるぬくもりを、ただぼんやりと感じていた。この者が、どうしてこんな風に告げるのかそれが分からない。自分はもう誰からも見捨てられてしまった存在のはず。今更情けを掛けたところで、何の得にもならないのだ。

 ……ならば、何故?

 では、今日のところはお言葉に甘えておいとま致しましょう、と静かに手が解かれる。庭向こうに遠ざかっていく背中をいつまでも見送りながら、螢火はたとえようのない不思議な感情に包まれていた。

 

………………


「ご主人様も、初めからあのように娘と打ち解けていた訳ではございませんよ。とにかく気難しい御方ですから、最初の頃は大変でした。それでも、何しろ幼子ですからね。何度邪険にされても全く懲りずにまとわりついて行くのですよ。夫も私も冷や冷やと見守っておりましたが、仕舞いには――さすがに驚きましたね」

 こちらが何か訊ねたわけではない。だが、荻野の方から何の気なしにと言うように、そのような話が出てきた。驚いて顔を上げてみたが、彼女にとってはただの世間話のような他愛のない話題なのだろうか。手仕事の手を休めることなく、その視線も針目に向かっていた。

「私と致しましても、ご主人様とは乳兄弟とはいえ昔から無口で感情をあらわにしない御方でしたし、両親からこのお務めを受け継いでからはかなり難儀致しましたわ。あまりうるさく言ってご機嫌を損ねては大変ですし、腫れ物に触るような扱いをしていたものです。でも、娘の一件からは色々と学ぶところが多くありました」

 それは意外な言葉であった。

 荻野は難しい表情で押し黙っている楡に対しても、全く臆せずにどんな話題も投げかけてしまう。だから以前からそんなやりとりが当然のことのように行われていたのだと信じていた。

  すでに出来上がっている人間関係の中に、あとから異分子として付け加えられる心地悪さ。それは何も今始まった話ではない。いつの時もどんな場面でも、螢火はひとりきりであった。どこにも身の置き場がないままに、ただ身体を小さくして過ごしていたのである。そんなとき、とても周囲を眺める余裕などはなかった。
  思えばこのようにひとりの人物と親密なやりとりをしたこともない。褒めそやしたり可愛がってくれる者たちも中にはいたが、その誰もが何か裏に想いを潜ませていた。

 それからしばらくも、鮮やかに動く荻野の手元をぼんやりと眺めていた。話を向けられたところで、自分からは何も応えることもない。傍目から見れば、その話が耳に入っているか否かも判断出来ないような態度に思えることだろう。

「――螢火様」

 ぱちっと小さな音がして、ピンと張りつめた糸が途切れる。今繕ったばかりの縫い目を何度も何度も確かめながら、荻野は静かな声で言った。まるで、自分自身に言い聞かせているかの如く。

「まずはご自分から始められるのが宜しいかと思われますよ? ご主人様はあの通りの御方、待っていても何も変わることはないでしょう。このまま引きこもっていても、いたずらに時が過ぎていくばかりです。それではおふたりにとっても良くありませんわ」

「……?」

 一体何を言い出すのかと思った。だが、何か言葉を返したくても、なかなか上手く言い表すことが出来ない。どうしてそんな話に行き着くのか、意味不明であった。そもそも、荻野は最初から何かをはき違えているような気がしてならない。

 ゆっくりと。荻野がこちらに向き直る。母のようにも姉のようにも見える、柔らかい表情。何もかもを包み込んでしまうような温かさに、気を抜くと取り込まれそうになる。頑なに差し出される手のひらを振り払うのは、胸の痛む行為であった。

「螢火様がいらっしゃれば、ご主人様もすぐに打ち解けられるものだとばかり思っておりましたわ。思いがけずに真面目なご気性の女子さまで驚きました。……不思議なこともございますのね、だって――」

 そこまで言いかけて、彼女はハッとしたように口をつぐんだ。どうしたのだろうとその表情を見守ると、そのまま視線をそらしてしまう。そして、いつになく慌てた仕草で辺りを片づけ始めた。

「……あ、いえ。何でもありませんわ。とにかく、このたびの御出仕からご主人様がお戻りになられましたら、螢火様の方から、お声を掛けて差し上げてくださいませ。きっと、ことのほか喜ばれることとおもわれますよ?」

 

 そのようなことが出来るはずもないではないか、そう言い返したかった。

 だが、何故か荻野は自分さえ気付いていないことを察している気がしてならない。深く見透かされているように思える瞳に、己の意志すら揺らぎ始めていた。

 

………………


 夕闇の迫る庭に高いひづめの音が響き渡ったのは、それから幾晩かを過ごしたのちであった。

 この場所まで馬で一気に駆け上がってくる者はただひとりしかいない。あれ以来、荻野との間でその話題が口にされることは二度となかったが、それでも何となく表ばかりが気になる日々を過ごしていた。

 

「――荻野、荻野はこちらにいるのか?」

 馬の手綱を手にしたままやってくるその姿が、何やらこの間までとは違って見えてくる。部屋奥から縁まで静かに歩み出て、螢火は柱に手をついた。障子戸は開け放たれているのだから、向こうからもこちらの全てが見えているはずである。そうは思っても、これ以上どうしていいものか分からずじまいであった。

 ――「お帰りなさいませ」と言えばいいのだわ。簡単なことよ、たったひと言じゃないの。

 頭では分かっている。でもそれを実際に行動に移すとなると話は別だ。数日ぶりに見る男のきらびやかな衣装に夕日の残り陽がとまる。袖の動いたあとに浮かび上がる残影にくらりと目眩を感じた。

「あら、……まあ。お帰りなさいませ、ご主人様。すぐにお召し替えを……」

 そうしているうちに物音を聞きつけたのか、荻野が裏の炊事場から飛び出してくる。腰に巻いた前掛けで濡れた手を拭きながら、楡の前に進み出て膝をつき頭を深く下げた。

「それには及ばない。これから、村長の家に呼ばれているから、すぐに出掛ける。衣装もこのままで構わぬだろう」

 全て言い終える前に、もうきびすを返して馬をあちらに向き直させている。あまり時間がないのだろうか、ひどく急いでいる様子であった。

「今夜の膳は必要ない、夜も遅くなるだろうからお前たちは先に休みなさい。――これを」

 刻一刻と闇が流れ込んでくる庭を向こうに歩きながら会話しているのだろう、男の声がだんだん遠ざかっていく。その姿もほとんど見えなくなるほどになったところで、大きな影がゆらりと揺れた。その次の瞬間に、ひづめの音が辺りに響き坂向こうに遠のいていく。

 その時になっても、螢火はやはり縁の際に立ちつくしたままであった。

 

「――ま、……まあっ! これは、……螢火様……!」

 白く浮かび上がる荻野の姿が、足早にこちらに向かってくる。何かの包みを両手に抱え、その足はいつになく慌ただしく感じられた。

「何と言うことでしょう……! こちらをご覧下さいませ。素晴らしいですわ、何て美しい織りなのでしょう……!」

 荻野は包みを縁にそっと置き、すぐさま震える指先で中を開く。その仕草からも、かなり興奮していることが分かる。こちらに語りかけるその声も途切れ途切れだ。

 

「……」

 濃紺の包みの中から現れたのは、すでに仕立ての終わっている晴れ着。しかも下に重ねる薄物までが何枚も重ねられていた。
  光り輝く純白に金粉が舞い、その上に花びらがびっしりと描かれている。それはまるでいつか迷い込んだ天寿花の林のように、はらはらと散りゆくさまが手に取るように感じられる見事な筆遣いであった。

 刺し文様の衣装を許されているのは王族とそれに準ずる立場にある御方だけ。それ以外の者たちがまとう衣装の中での最高の品と言えば、このように手描きで一筆一筆丁寧に染め付けられたものに他ならない。だが、長い時間を西南の大臣家で過ごしてきた螢火であっても、ここまでの素晴らしい仕上がりの衣装を見たことがなかった。

 

ひと目で若い女子のものと分かるその品を前にして、ただひとことの言葉すら思い浮かばない。手をついた柱が、まるで心の軋みのようにぎしと小さく音を立てた。


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