TopNovel Index>朱に散る・14


…14…

 

「ああ、やはり素晴らしいですわ。まるでこの部屋だけが、一足早く春を迎えたよう。……真冬を迎える前に花見が出来るとは、何とも風流でございます」

 久し振りに三人で囲む夕餉の席。

 荻野は相変わらずひとりではしゃいでいるが、話を向けられた楡もそして螢火も無言のまま箸を進めていた。しかし、彼女にとってはそのような状況にあっても全く構わない様子である。

「やはり、ご主人様の見立ては確かにございますね。このような晴れ着はただ派手派手しく仕上げたものも多く、飾り物としては結構でも実際に身につけるととんでもなく滑稽に思えるものも多くありますわ。でも、こちらならば申し分ございません。それに螢火様のお顔の色にも誠に良く映りますわ」

「――そのような大層な品ではないと言っただろう。ただ顔なじみの物売りに売れ残りを押しつけられただけだ」

 黙っていれば、延々と話が続きそうだと考えたのだろうか。楡はむっつりとした表情のままでそう告げると、荻野に汁椀を突き出した。

「特に誰のものと品定めをした訳でもないのだから、お前がどうしようと勝手だ。気に入らぬのなら、さっさと余所に回してしまえば良い」

 肩の凝る出仕先での疲れもあるのだろう。相変わらずの仏頂面は、さらに険しさを増している。昨晩はかなり遅くまで村長の家で過ごしたらしく、今朝は朝餉の席にも顔を見せなかった。夕刻、荻野に急き立てられるように縁より上がってきた楡は、部屋奥をちらと見て眉をひそめる。予想通りに光景に肝を冷やしたが、それ以上は何も起こることはなくどうやらやり過ごした様子であった。

 

 ――こんな素晴らしいお品を、このまま仕舞い込んでおくのはあまりにももったいないことです。

 昨夕。楡から手渡された包みの中身を改めた荻野は、きっぱりとそう言いきった。そして、すぐさまどこからか大振りな衣紋(えもん)掛けを出して来ると、慣れた手つきで竿を外し衣の袖を通してしまう。大鷲が双の羽根を大きく広げたように見事に飾り終えると、彼女はそれを表庭からもよく見える部屋奥に設置した。

  確かにそうして広げて見せることで、手がけた職人の心意気までが伝わって来るようである。柔らかな流れを描きながらゆっくりと舞い散っていく花びらは、散り際の一瞬の美しさを布の上に閉じこめたように思えた。さらさらと枝葉のこすれ合う音すら、耳に届きそうな気がする。
  だが、そうは言っても。無駄に飾り立てることを良しとしない主人の気性を知りながら、何故このように出来るのか分からない。もしも自分が命じてやらせたことだと思われたら、どうしたらいいのか。そう思うと、今日は一日気が気ではなかった。

 

「んまあ……そのようなこと、滅相もございませんわ!」

 主人の言葉に眉をつり上げた荻野は、次の瞬間に大きく身震いをした。

「やはりこれだけの御衣装ともなれば、衣も身につける御方を選ぶものです。こちらはまるで、螢火様のためにあつらえられたお品のよう。とても他の者になど渡せません、そのようなこと私が決して許しません……!」

 時折、荻野という女子のことが分からなくなることがある。何故ここまで真っ直ぐに信念を貫けるのだろう。何て恐ろしいこと、自分だったら到底無理だと螢火は思っていた。 
  楡の方も、これ以上やり合うのは無駄だと判断したのだろうか。その後は話を蒸し返すこともなく、自分の膳を片づけることだけに集中していた。

 ……やはり。かなりお疲れなのだわ。

 ちらと眺めた横顔は、出仕の前よりも少し骨張って見える。その昔、大臣家に上がる地方役人を遠目に眺める機会も多かったが、見た目の華やかさとは異なりその内情はかなり厳しいものがあるように感じていた。ある者は取り込もうとし、またある者は足を引っ張ろうとする。ねじ曲げられた真実や嘘で固められた言葉が横行する世界。少しでも隙を見せたら、そこで運も尽きると言うことだ。

 のろのろと箸を動かしながら、どうしたものかと考える。昼間も荻野から再三にわたり念を押されていた。このように立派な衣装を買い求めてくれたことに、きちんと自分の口から礼を告げなければならないことは分かっている。でも、こんな張りつめた雰囲気の中、どうして切り出すことが出来るだろう。それに……楡本人はそんな言葉など少しも求めてはいないのに。

 衣は確かに非の打ち所のない立派な品である。もしも、本当にこのまま自分のものに出来るのなら、どんなにか素晴らしいだろう。だが……それを期待すること自体、自分にはあってはならないことのような気がしてならなかった。この上に、新しい何かが起こるとも思えない。もうすでに何も求めないと決めた。心のやりとりですら、今は煩わしく感じられる。
  楡の素っ気ない態度に、心のどこかで胸をなで下ろしている自分がいた。期待されていないと分かっているから、無理な気負いもなくなる。すでにこの心は純粋に相手を信じる幼子ではないのだ。だから決して傷つくことはない。初めから欲する何もなければ、失うひとつもないのだから。

 そうしているうちに楡の食事が先に終わり、こちらを待つこともなくさっさと自分の居室に戻っていく。慌ててあとを追っていった荻野の手で遠くに見える窓に明かりが灯るのを確認して、螢火は初めて真っ直ぐに衣の方を向き直った。

 

………………


 どこからか、見つめられているような気がしてならない。

 一日のほとんどを過ごしている次の間で、いつも背後に気配を感じていた。純白の衣とは、これほどに存在感があるものなのだろうか。視界に捉えていないその時にも、華やかなまばゆさが辺りに漂っていくようである。そして振り向けば、そこに広がるのは白き世界の花の宴。

 ――どうして、あなたがここにいるの?

 凛として佇む輝きは、まるでそう問いかけているようであった。もちろん、螢火にその返答が出来るはずもない。このままではせっかくの衣装が可哀想だ。何故、好きこのんで罪人の持ち物になる必要があるのだろう。

 

「あら、もうおしまいになさいますか。……まだ宵の口にございますのに、ご主人様も困ったお人ですわ。せっかくお戻りになったのに、なかなか落ち着かなくいらっしゃって」

 そんな風にぼやきながらも、荻野はさっさと膳を片づけ始める。皿や器のほとんどが空になったこの館の主人のものと、半分ほどが残った螢火のもの。何も当てつけのように箸を置いたわけではない。楡の帰館を喜んだ荻野がいつもよりも品数を増やしたために全体の量が増えてしまったのだ。

「やはり、ひとりきりの食事は味気なくございますから」――そのように荻野は繰り返すが、当の螢火としてはその意味もよく分からなかった。思い起こしてみれば、誰かと共に膳を囲んだ記憶など数えるほどしかない。日に三度の食事とは、ただひとりで冷たいものを頂くのだと理解していた。
  それは幼き頃に父の館に住まっていたときからそうであったし、その後移り住んだ大臣様の元でも同様であった。もちろんそれなりの身の上であったから、給仕してくれる者は側に控えている。だが、その者があれこれと話しかけて場を和ませてくれることなど皆無であったし、ただただ手を煩わせないように慌ててかき込むのが常であった。
  都に上がっていた頃も、他の侍女たちと共に寄り所で食事をしたのはほんの数回。すぐに亜樹さまの毒味役を仰せつかり、別室に移された。それまでは美莢さまが直々に行っていたお務めを引き継いだのだからとても栄誉なことではあったが、あの時の食事ほど恐ろしかったことはない。周囲は敵ばかりであったから、いつ毒を盛られても不思議ではない状況だった。

 そんな感じであったから、こちらに落ち着いてだいぶ経った今になっても他人の箸使いを目の当たりにするだけでひどく緊張してしまう。確かに賑やかではあると思うが、それほど好ましい雰囲気とも思えなかった。

「さあ、まだ少し時間がございますので、こちらを広げさせて頂いても宜しいでしょうか? そろそろ本腰を入れて新年の支度に入らねばなりません。ご主人様の御衣装はこれからお仕立てしなくてはならないものが幾枚もございますし、せっかくですから螢火様にも新しく袴や小袖を新調致しましょう。こうして上掛けが先に出来上がっていれば、色を合わせるのも容易いですわ」

 そんな風に話を進めながら、彼女はすでにいくつかの行李を運び込んでいる。もともと針仕事は陽が落ちてから手がけることが好ましいとされていた。もちろん、日の中は外仕事の方を片づけたいということもあるだろうし、だいたい明るすぎる日差しでは絹が眩しすぎる。どうしても急ぎの仕事があるときなどは、椅子に座って角度を変えるか、わざわざ薄暗い部屋奥で行うこともあった。
  特に正月用の晴れ着ともなれば、それを身につけるのは宴席が主になる。燭台の灯りに一番映える品を選ぶためにも、この時間を選んで仕事するのが得策であった。

「螢火様もどうぞご覧くださいませ。今年は特に良い品が揃いましたのよ、ご主人様にお似合いの色目をご一緒にお選び下さいませんか? 是非、お知恵を拝借致したいですわ」

 荻野がそのように話すのも無理はないと思った。次々に広げられていく絹は、それぞれに織りも色目も異なり、描かれた文様までが甲乙付けがたい仕上がりになっている。物売りもそれなりに品定めをして運び込んでくるのであろう、一目で安物と分かるような軽々しい品はひとつも見当たらない。どれもかなりの熟練の腕で仕上げた逸品であった。

「こちらの絹も落ち着いた色合いで素晴らしいと思ったのですが、晴れ着ともなりますともう少し華やかさがあっても宜しいかと……。そうとは言ってもこちらでは、装飾が過ぎる気もします。ああ、如何致しましょう。大臣様の新年の宴に間に合わせるには、急ぎ仕立てに回さなくてはなりませんのに……」

 荻野の話によれば、晴れ着の全てを彼女が仕立てるわけではなく、扱いの難しい品は職人に任せているようであった。その分を頼んでしまってから、新年に新調する他の衣を順に手がけることになるらしい。
  初めのうちは乗り気でなかった螢火も再三の働きかけに、渋々と品定めに加わるしかなかった。そうとはいえ、慣れているわけではないから咄嗟には名案も浮かばない。広げてあるものを遠巻きに見るだけでは埒があかず、気付けばひと品ずつ手にとって見比べていた。

「そちらの、艶やかな方で宜しいのではございませんか? 下に重ねる薄物を落ち着いた色目にすれば全体が引き締まってそうおかしくもないと思われます。大勢がお集まりになる宴席ならば、それくらいで丁度いいかと……」

 このような作業をしていれば、どうしても身につける当人のことを思い浮かべずにはいられない。楡は上背もあり、その割に引き締まった体躯をしているように見受けられた。もちろん衣の上から伺った印象であるから実際のところは分からないが、あれならばどんな品をまとっても衣装負けをするということもないだろう。
  それどころか、本物以上に品物を良く見せてしまい大勢の中で目立ちすぎてしまう危険性の方が大きい。いくら晴れやかな席とはいえ、主賓の大臣様よりも立派に見えてしまうのはどうだろう。その辺りの頃合いが難しいところだ。
  一体楡という男は、大臣家でどのように振る舞っているのだろうか。ひとことに官僚の出仕と言っても、その内容は様々。大臣様のお側近くにお仕えする重役から外回りの警護まで、細かく分かれている。そのほとんどが世襲制であり、いくら当人が優れた気質を持っていても確かな後ろ盾がなければ重要な地位にはつけないと言われていた。
  その者の置かれた立場によって身につけるものも自ずと違ってくるのだが、とてもそこまでは訊ねる気にはならない。下手に興味があるように取られては、あとあと厄介なことになる。そうでなくても荻野は自分と楡との間にとんでもない思い違いをしている様子になるのだから。ここは出来る限り平静を保って切り抜けるしかない。

「もしも、そちらの落ち着いたお色になさるなら、思い切って明るい色の袴を合わせられると宜しいかと。裾文様の入ったものなども今風で良く用いられております、この頃ではかなり年配の方でも普通に身につけていらっしゃいますから、無礼に当たることもないと思われますわ」

 何とも不思議な心地がした。このように様々な色目の品を目の当たりにするのは久方ぶりのことである。あまりにもしつこく促されるので嫌々加わったはずが、気付けば夢中になってしまっていた。艶やかな反物は指先で触れると思いがけずに柔らかくしっとりと馴染んでいく。男物ならば張りがあり堅苦しい印象があったが、そうではなかったのだと知る。
  この地での衣は幾重にも重ねて身につけるものであったから、その組み合わせを少し変えるだけで全く違った印象になる。それ一枚でも完成された美しさを持つ衣が他の衣と重ねられることで互いに共鳴し、得も言われぬ輝きを放つようになるのだ。

「まあ、……仰るとおりですわ。どちらもそれぞれに素晴らしくて、ひとつに決めることなど出来ません。ああどう致しましょう、ここは思い切ってどちらとも仕立ててしまいましょうか。でも、あまり仰々しくしてはお叱りを受けてしまいますし……」

 言葉では困り果てている様子であるが、そう告げる荻野の表情は明るい。自分の中ではもうすっかり二枚の上掛けを職人に任せるつもりになっているようで、先ほどの反物は全て元通りに納めてしまった。明日にでも荷車を使う者を呼び寄せて運ばせることになるのだろう。

 

「ああ、宜しかったですわ。これでひとつ厄介ごとが片づきました。あとは新年に向けて仕立てる衣を選ぶだけですわ。
  ……ああ、そうですわ。良い機会ですから、螢火様にも御針をお教え致しましょう。あまり手がけたことがないのではございませんか、私のような者でお力になれるかは分かりませんが、身につけておいて無駄になることはありませんよ」

「……え……」

 その思いがけない話には、ただ驚くしかなかった。

 確かに、自分は翠の君さまの元で一通りの手習いは身につけていたが、針仕事だけは未だに手元もおぼつかないまま。このようなことには土地柄もあるのだろうが、西南の地にあっては、針仕事は使用人の手がけるものだと決まっている。それなりの身分のある家の子女が針が達者であることは、かえって聞こえが悪くなるとすら言われていた。
  一部の例外があるとすれば、将来都に出仕する予定がある者くらいだろうか。それ以外の良家の女子には針箱すら与えられてないのが普通であった。特に竜王様の姫君であられるその御方がかなりの針上手だという話が知れ渡ったあとは、さらに低俗なものとして蔑まれるようになっていた。
  螢火も母親の身分はともかく大臣家の縁続きには違いない。だから、かつて自分に針を持たせようなどと考えた者はひとりもいなかった。

「あらあら、そのようなお顔をすることはございませんわ。何事も器用にこなす螢火様ですもの、すぐにお上手になられます。ええ、このような素晴らしい晴れ着を見立てて頂いたのですから、今度はこっそりとご主人様にお仕立てになるのも宜しいのでは? きっと、ご主人様もことのほかお喜びになられますよ」

 こちらは返答などしていないのに、荻野は自分の思いつきにすっかりひとりで盛り上がっている様子である。扱いやすい生地をいくつも取り出し、その中から気に入った一枚を選ぶように言われてしまう。だが、こちらとしては全くやる気のない話であるから、とても乗り気にはなれない。だいたい、正月までのわずかな時間で、自分に一枚の衣が仕立てられるとは到底思えなかった。

 あれこれと問いかけは続いていたが、疲れた振りをして視線をそらす。ぼんやりと肘置きにまどろもうとしたその時に、視界の隅に鮮やかなものが映った。

 ――あれは……?

 それは目の覚めるような若草色の反物であった。他の品とは区別された隅の一山に入っている。だが、変わり織りのその文様もなかなかお目にかかれないほど手の込んだものであったし、何より燭台のほのかな灯りにすら、まばゆいほどの輝きを放っていた。これから芽吹き、伸びていく命のしなやかな強さ。その全てが一枚の中に閉じこめられている。

 螢火の視線に気付いたのだろう、荻野が慌てたように取り繕った。

「ああ……こちらにございますか? お気になさらないでください、物売りがついでにと置いていった物ですわ。どう考えてもご主人様にはお似合いにならない軽々しい色目ですから、扱いには困り果てておりますの。品物は確かですが、……このまま引き取り手がなければ娘の夫用にでもしようかと諦めていますわ」

 

 ――いえ、そのようなことはないわ。きっとお似合いになるに違いない。

 

 不意に心に湧き上がってきた感情、それを押しとどめる術を螢火は知らなかった。

 確かに楡は落ち着いた物腰の立派な官僚だとは思う。だが、その印象で衣を決めつけていては何とも堅苦しく形式張ってしまう気がしてならない。軽々と馬を扱い、山道をものともせずに領地を渡るその姿は精悍な若人のもの。ともすれば派手な色合いは必要以上に着る者を老け込ませることもあるが、そのような心配も感じられなかった。
  下に重ねる衣を深い色合いにすれば全体が引き締まり、そうおかしくはならないはずである。どこにそんな確信があるのか自分でも分からなかったが、どうしても引き下がる気にはなれない。

 

「こちらなら、是非一枚仕立ててみたいと思います。荻野さま、わたくしに衣の仕立て方を教えて頂けますか……?」

 手にした反物はずしりと重かった。荻野はそれからもしばらく、あれやこれやと言葉を投げかけてきたが、すでに螢火の耳には届かない。今あるのはひとつの希望だけ、それを叶えてみたい。自分の存在は彼にとって疎ましいだけのもの、だったら何かにかたちを変えて辿り着けばいい。

 

 ――ええ、わたくしはもうしばらくだけこの世に留まっているわ。

 その瞬間、彼女の脳裏にはまばゆい光の中で佇む男の姿がはっきりと思い浮かんでいた。


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