TopNovel Index>朱に散る・15


…15…

 

 初めは運針の基本を学ぶところから始まった。
  衣の手入れなどは一通り習得していたが、今までに扱ったものはどれもすでにかたちになったものばかり。自分よりもかなり身分の低い女子たちが針を使うのを間近で見る機会は多くあったものの、道具そのものに触れたことも数えるほどしかない。想像以上の扱いにくさに、かなり驚かされた。
  ただ機械的に手元を動かせば良いと言うわけではない。その手順には言葉では言い表せない勘のようなものが要求される。動かすのは針を持つ方の手ではなく、布地を送るもう一方の手であることも言われて初めて気付いた。縫い代を目立たぬように折り返す「きせ」のやり方にも部位により幾通りも使い分ける必要がある。

  荻野は楡の話によれば、なかなかの針上手であるらしい。他の仕事がなければ、正月用の晴れ着なども彼女ひとりで難なく仕立てることが出来るという。その言葉通りに休むことなく動かす手元はどこまでも正確で、きっちり揃った針目には寸分の乱れもなかった。
  その腕を買われて、今までにも幾度となく村娘たちなどに手ほどきをしてきたのだろう。彼女の教え方はとても分かりやすく的を射ている。こちらが上手く行かずに行き詰まったときなどにもどこが悪いのかすぐに気づき、的確に指摘してくれた。言われたとおりにやり直せば、驚くほどにすんなりと進んでいく。

  一通りのやり方を覚えると、今度は扱いやすい木綿地で肌着を仕立てることになる。
  素肌に直接身につけるもので人目に触れるものではないため、運針を学んだばかりの初心者が一番先に手がけるものとされているとのこと。真っ直ぐに縫うだけで難しいところもないように思われたが、肌に縫い代が付かないよう袋縫いにするところなど普段身につけていても全く気付かなかった心遣いを知ることが出来た。

「とても初めてとは思えない素晴らしい仕上がりですわ。今宵は早速こちらを身につけられては如何です? ええ、やはり自分で手をかけて仕立てたものは格別ですから」

 慣れれば半刻足らずで裁断から仕上げまでを終えてしまうと言うそれを、螢火は三日もかかってようやく仕立てた。肌着は腰半分を覆うほどの丈であるから、広げてみると丁度幼い子供の普段着の長さである。傍目には大した仕事ではないと知りながらも、こみ上げてくる嬉しさを隠せなかった。
  今まで手がけてきたあまたの手習いであっても、練習に練習を重ね自分の腕が上達していくさまを実感するときは格別であった。だが、これはまだ始めて六日七日といったところ。それだけの期間で実際に日常身につけるものを仕上げることが出来るとは。

 

 手にする瞬間までは長い間の教えが邪魔をして触れることを躊躇う針道具も、扱い始めれば気に病むような抵抗も感じない。それどころか、何とも懐かしい温かい気持ちになれるのはどういうことか。
  今日も楡は領地の見回りで一日留守にしている。主のいない向こうの居室遠く見て、季節を忘れるほどの暖かな日和を楽しんでいた。

「ああ、本当に素晴らしいお天気ですこと。私も昼餉あとはいくつかの用足しがございますの。螢火様も少し手を止められませんか。せっかくですからお庭を歩いて気分転換をなさるのが宜しいですわ。このところ、昼間もずっとお部屋に籠もりきりでお疲れになったことでしょう」

 自分用の肌着を二枚続けて仕上げたあとは、女物の薄物に取りかかっていた。小袖と袴を身につけた上から何枚か重ねてかけるもので、身分のある者の装いには欠かせない品である。その色の合わせ方でかなり表情も変わり、また時代ごとに丈や素材なども少しずつ変わっていく。一番上に羽織る重ねならば母親の娘時代のものを譲り受けることが出来ても、間に着る薄物だけは仕立て直しが必要になると言われていた。
  その名の通り向こうが透けて見えるほどに薄く、ふわふわと柔らかい布地は針を嫌がって滑ってばかりいる。昼間での二刻ほど必死で格闘していたせいか、腕や肩がずしりと重くなっていた。

「これからもっと寒さが本格的になれば、このように暖かな日も滅多になくなります。こちらでの冬の荒れは相当なもの、昼間でも外に出歩けないほどになりますのよ。ああ、そろそろ中の炊事場も使えるようにしておかなくては。煙突の修繕も手配しなくてはなりませんわ」

 手の掛かる教え子がいると言うのに、仕事の速い荻野はあれからすでに三枚の重ねを仕上げてしまった。柄の入り組んだ反物ともなれば模様を合わせるだけでもかなりの技量がいると聞くが、彼女に掛かればほとんど瞬間芸のようである。鋏を入れるその時にも少しの迷いもない。全ての手さばきの見事なこと。どんな道にも「名人」と言う者があると言うが、荻野こそがその称号を与えるにふさわしい存在だと思った。

「中の……炊事場があるのですか?」

 これも初めて聞く話であった。火を使うかまどや流し場は井戸に近い屋外に造られているのが普通である。それは高貴な御館でも庶民の家でも同じことであった。囲炉裏や火鉢以外の火気を屋内に入れるのはかなり危険である。螢火の反応があまりにもまともすぎたのだろう、荻野はくすくすと声を立てて笑った。

「ええ、前にも申しましたでしょう。地面も凍り付いて外は歩くのも大変な程になります。日中でもそれが溶けずにいる日も多くございますのよ。皆、冬ごもりの獣のようにひとつの部屋に籠もって過ごすことになります」

 そのような厳しい気候条件であるからこそ、この辺りは大臣家の直轄地となっているのだと荻野は付け足した。言われてみればその通りである。冬場の数ヶ月を氷漬けで過ごすようでは、他の地と同じだけの禄高は望めない。何らかの優遇措置がなければ、治める者も実際に耕作する者もとてもやりきれるものではない。

 かなり難しい顔をしていたのだろう、荻野は辺りを片づけながらいつもの明るい口調で言った。

「そのようにご心配なさらずとも、私どもは例年のことですから慣れております。備えは万全でございますし、螢火様にご不自由な思いはさせませんわ。それに……そのような厳しい季節を越えるからこそ、やがて訪れる春は格別に美しく思えます。早く花盛りの御庭をご覧に入れたいですわ、きっと驚かれますよ」

 さあ、それでは昼餉をととのえましょう。そう言い残して荻野は立ち上がる。ひとり部屋に残された螢火は、また部屋奥をぼんやりと振り向いていた。

 

………………


「春」という言葉を耳にしても、感慨を覚えることはない。すでに世の中から捨てられた身の上で、季節を楽しむことなど二度とないと思っていた。
  ―― 否。もともと螢火には季節の移ろいを楽しむ心など持ち合わせていなかったと言い切ってしまった方がよい。ただただ、自分の隣を通り過ぎていく全ての事柄に巻き込まれることなく過ごすことだけが大事であった。
  西南の大臣家にあって畏れ多くも翠の君さまより格別のお引き立てを頂いて過ごしていた頃でも、必要以上に我が身を飾ったり人より秀でることを良しとしなかった。手習いごとについても同様である。同じ師についていることで、何かに付け比較の対象となってしまうのが怖かった。上手に出来れば確かに翠の君さまが誉めて下さる。だが、あまりに頑張りすぎれば、大臣様の姫君様方よりも勝ってしまう。

 ―― 居候のくせに、大きな顔をしないで欲しいわ。

 御館にいらっしゃるのは大臣様のお子様だけではない。跡目と決まった息子様、つまり亜樹さまと同じく翠の君さまがお産みになった長子様もすでに正妃様だけでなく多くの側女を囲む身分であった。やはりそちらにも多くの御子がいて、螢火とあまり年の違わない姫君もいらっしゃる。ご本人はさほど気にしていらっしゃらないとしても、お付きの侍女からあからさまに嫌みを言われることもあった。

 荻野に針を教えてもらうようになって、何の気兼ねもなく自分の出来る限りの力を出せることがこんなに心地よいことなのかと驚いた。父の館にあって、大臣家にあって、……そして都の竜王様の御館にあって。いつでも多くの期待を背負い、その一方で貼り付くような妬みの眼差しを受けていた気がする。
  当時はそれが当たり前だと思っていた。だが、こうして離れてみれば無数の鎖にがんじがらめになっていた自分に改めて気付く。一体、どこで道を違えたのだろう。何故あれほどまでに身動きの取れないままにもがき苦しんで過ごしていたのだろうか。少なくとも、それは自分の希望ではない。どんなときにも誰かの役に立ちたくて、期待に応えたくて必死だった。

「ほら、ご覧下さい。こうやって並べてみると、よくお分かりになるでしょう。衣を一枚仕立てるごとにどんどん針の腕は上達します。螢火様は格別に筋が宜しいので、私も教え甲斐がございますわ」

 手習いとは何も他人と比べるものではない。いかに自分自身が日々技術を習得していくかなのだ。新しい発見に、螢火の目の前が明るく拓けていく。―― そして、その次の瞬間。また、ハッと我に返るのだ。

 ―― 馬鹿みたい、こんな風にしていられるのも今だけなのに。

 さりげない温かなやりとりに、ふと忘れそうになる。自分はあくまでも囚人の身。このように牢を破り身を隠したところで、どうなるものではない。破滅はもうすぐそこまで来ている、そしてその運命から自分は逃れることは出来ないのだ。今までの人生がすべからくしてそうであったように。

 荻野や楡に対して抱いている感情も、未だ複雑である。最後にいい夢を見せてくれたと、素直に感謝するべきなのか。いや、そんなはずはない。あの座敷牢にあって、ぼろぼろに朽ち果てた身で番人たちの慰みものにされていた。人らしく生きることをようやく忘れかけていたと言うのに、このように俗世に引きずり出されては迷惑以外の何者でもないだろう。

 ―― まずはご自分から始められるのが宜しいかと思われますよ?

 それがいとも容易いことであるように、荻野は言った。だが、実際はどうであろうか。楡にとっては、この身はあくまでも厄介者。誰かに請われて、仕方なく世話をしているだけの存在だ。そうでなかったら、あのように冷たい眼差しを向けるわけはない。世の中には優しい顔をしながら他人を欺く者も多くいる。誰もが楡と同じように分かりやすく接してくれれば、こちらは惑うこともなかったとすら思う。
  あくまでもここは仮住まい。やがて来る終焉に向けて自分は真っ直ぐに歩き続けている。春など永遠に訪れるはずもない、この身は枯れ野に朽ち果てるだけだ。

 

 縁から草履を履いて庭に降りる。

 頑丈に冬囲いを施した壁伝いにぐるりと居室を回ると、いつもの裏手の丘に出た。相変わらず、ひとりでいるときに表庭に出るのは躊躇われる。人目に付かない場所だと安心出来なくては、ゆっくりくつろぐことも出来なかった。

 暖かな日差しの中、藁に包まれた若木が佇んでいる。先日見つけた無数の小さな芽は、日に日に伸びて今では以前と変わらないだけの葉を茂らせるまでに回復した。瑞々しいほどの生気が辺りにみなぎって、これから訪れると言われる季節をしばし忘れさせる。荻野の話でもこの分ならば二度と葉を落とすことなくこの地で冬越えが出来るだろうと言うことだった。

「……良かった」

 物言わぬ若木に語りかけ、その枝に指で触れる。自分の人生は何もかも無駄ばかりであった。だが、こうしてたったひとつの命だけは守ることが出来たのだと思えば嬉しい。最後にひとつ良いことをするために、ここまで辿り着いたのだろうか。
  車を降りて初めて見たのは血の色をした朱野だった。今はもう葉も落ちて見る影もなくなったが、あの時の光景は今でも瞼の裏にありありと残っている。ぼんやりと日々を過ごし、いつしか季節の移ろいすら見送ることになった。あまりにも長く生きすぎたのだと思う。……だが、それも今少しの辛抱だ。

 いつでも、落とせる命だった。楡が用意してくれた懐刀を鞘から抜いて我が胸に突き立てれば、最後の望みはいとも簡単に叶うはずである。ひとりになれる時間はたくさんあった、思い悩むほど難しいことではなかったのだ。

 だが、その一方で心の端が未だに引っかかっている。どうしてなのかは分からない、もしも自分がこのように気にしていることに気付けば、彼はどんなにか嫌な思いを抱くであろう。それを知っていたから、どうにかして最後まで隠し通したかった。言葉にすれば「そんなはずもない」と冷たく突き返されて終わりだろう。だから、……それ以外のかたちで、感謝の心を伝えることが出来たらと願った。

 不思議な話である。
  改めて、自分のような縁もゆかりもない第三者が気に病むことではないと知っている。それでも、……やはり心を残したまま自由にはなれないと思った。
  楡は何かを自らの心に押しとどめているような気がしてならない。三十路を迎えていくらかを過ごしたとは言っても、あのように自ら老人のように老け込んだ姿で世捨て人のように過ごすのはどうであろう。恵まれた道を歩んでいる身で、あまりにももったいないと思う。
  余計なお節介だとは分かってる、楡もそんな風にされることを望んでいない。だが、気付いて欲しい。彼には荻野の娘やその赤子に向けたような笑顔で始終過ごせるような生き方が必ずあると言うことを。自分は願ってもそこまでは辿り着けない。すでに何もかもが遅すぎた。だから、せめて楡には行き着いて欲しい。

 ―― あの瞳は、どこかで見覚えがある。

 その答えはある日鏡に映った自分の顔を見て分かった。きっと楡は否定するだろう、それどころか馬鹿げた物思いもたいがいにせよと大声で罵倒するかも知れない。だが、間違いない。あれは……あの瞳は自分のものと同じ色だ。
  いつも愛されたかった、誰かの役に立ちたかった。それだけを必死で頑張って、それでも何もかもが上手く行かなかった果てに絶望の底に落とされた。もうひとりの自分が目の前にいた、だからこそ恐ろしいと思ったのか。
  浅はかな女子が考えそうな世迷いごと、そうやって軽蔑の眼差しを向けられるに違いない。それならそれでいい、でもこの命と引き替えにでも何かが変わってくれたなら。

 針を習い始めて分かった。どうしてあまたの女子たちが、愛する者に衣を仕立てようとしたのか。幼少の頃から西南の暮らしにどっぷりと浸かってきた螢火には信じられない光景であったが、都ではまだ恋人でもない男に女子の方から衣を贈る行為が日常的に行われていたのだ。あの頃は奇異の目で見ることしか出来なかったが、今になれば彼女たちの心内が少しだけ理解出来る。
  そう……針目には言葉ではとても伝え切れない想いまで残さず込められるのだ。仕立て上がった衣をまとう姿を想像しながら縫い進めれば、そこには魂まで宿るような気がする。

「……?」

 ゆっくりと枝を辿り、その先端まで来て視線を止める。そんなはずはないと幾度となく確かめて、しかし最初の予想通りだと分かった。だけど……本当に、こんなことがあるのだろうか。

 ごくり、と息を呑んだその時に背後で草履の音がした。ああ、支度を終えた荻野が声をかけに来たのだと思う。だから、躊躇いもなく叫んだ。

「荻野さま、荻野さま……! こちらにいらしていただけませんか、ご覧下さいあちらを――」

 今日の日和に心まで温められたような、そんな明るい声が出ていた。嬉しくて嬉しくて仕方ない、こんな奇跡が本当に起こって良いのだろうか。

「――何事だ、騒々しい。荻野なら、今し方出掛けたぞ」

 刹那、思わず駆けだした足が止まる。頬に浮かんだ笑みも瞬時に凍り付いた。

「少し身体が良くなったと思えば、すぐにこれだ。また不用意に冷たい気に当たって体調を崩せば、荻野の手を煩わせることになる。少しは身の程を考えろと言うのが分からないのか」

「あ……、その。申し訳ございません」

 迂闊であった、一日仕事になると聞いていたからまだこの男が戻るはずはないと勝手に信じ切っていた。こんなに見苦しくはしゃいだ姿を見たら、どんなにか気分を害したことであろう。無事の帰還をねぎらう言葉も忘れ、螢火はうなだれた。

「で、どうした。何をそんなに慌てている」

 ちらりと一瞬だけ、面倒くさそうに向けられた視線。上目遣いに確認しながら、おずおずと口を開いた。

「ええと、……その。あの若木に、花芽を見つけたので。荻野さまにそれをお伝えしようと……」

 消え入りそうな声を途中まで聞いて、楡は真っ直ぐに歩き出した。そして螢火が指し示すその場所を一瞥して、すぐにくるりときびすを返す。背後から再び足音が近づいてくるのを知りながら、振り向くことすら出来なかった。
  朝餉のあとに念入りに香油を塗り込んだ髪が、艶やかに頬に掛かる。その姿も、彼の目には疎ましく映るのだろうか。

「――愚かなことだ、咲くはずもない蕾を付けて」

 確かに耳に届いた言葉。脇をすり抜け遠ざかっていく草履の音に顔も上げられず、螢火は自分の落とした影ばかりを見つめていた。


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