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初めは運針の基本を学ぶところから始まった。 荻野は楡の話によれば、なかなかの針上手であるらしい。他の仕事がなければ、正月用の晴れ着なども彼女ひとりで難なく仕立てることが出来るという。その言葉通りに休むことなく動かす手元はどこまでも正確で、きっちり揃った針目には寸分の乱れもなかった。 一通りのやり方を覚えると、今度は扱いやすい木綿地で肌着を仕立てることになる。 「とても初めてとは思えない素晴らしい仕上がりですわ。今宵は早速こちらを身につけられては如何です? ええ、やはり自分で手をかけて仕立てたものは格別ですから」 慣れれば半刻足らずで裁断から仕上げまでを終えてしまうと言うそれを、螢火は三日もかかってようやく仕立てた。肌着は腰半分を覆うほどの丈であるから、広げてみると丁度幼い子供の普段着の長さである。傍目には大した仕事ではないと知りながらも、こみ上げてくる嬉しさを隠せなかった。
手にする瞬間までは長い間の教えが邪魔をして触れることを躊躇う針道具も、扱い始めれば気に病むような抵抗も感じない。それどころか、何とも懐かしい温かい気持ちになれるのはどういうことか。 「ああ、本当に素晴らしいお天気ですこと。私も昼餉あとはいくつかの用足しがございますの。螢火様も少し手を止められませんか。せっかくですからお庭を歩いて気分転換をなさるのが宜しいですわ。このところ、昼間もずっとお部屋に籠もりきりでお疲れになったことでしょう」 自分用の肌着を二枚続けて仕上げたあとは、女物の薄物に取りかかっていた。小袖と袴を身につけた上から何枚か重ねてかけるもので、身分のある者の装いには欠かせない品である。その色の合わせ方でかなり表情も変わり、また時代ごとに丈や素材なども少しずつ変わっていく。一番上に羽織る重ねならば母親の娘時代のものを譲り受けることが出来ても、間に着る薄物だけは仕立て直しが必要になると言われていた。 「これからもっと寒さが本格的になれば、このように暖かな日も滅多になくなります。こちらでの冬の荒れは相当なもの、昼間でも外に出歩けないほどになりますのよ。ああ、そろそろ中の炊事場も使えるようにしておかなくては。煙突の修繕も手配しなくてはなりませんわ」 手の掛かる教え子がいると言うのに、仕事の速い荻野はあれからすでに三枚の重ねを仕上げてしまった。柄の入り組んだ反物ともなれば模様を合わせるだけでもかなりの技量がいると聞くが、彼女に掛かればほとんど瞬間芸のようである。鋏を入れるその時にも少しの迷いもない。全ての手さばきの見事なこと。どんな道にも「名人」と言う者があると言うが、荻野こそがその称号を与えるにふさわしい存在だと思った。 「中の……炊事場があるのですか?」 これも初めて聞く話であった。火を使うかまどや流し場は井戸に近い屋外に造られているのが普通である。それは高貴な御館でも庶民の家でも同じことであった。囲炉裏や火鉢以外の火気を屋内に入れるのはかなり危険である。螢火の反応があまりにもまともすぎたのだろう、荻野はくすくすと声を立てて笑った。 「ええ、前にも申しましたでしょう。地面も凍り付いて外は歩くのも大変な程になります。日中でもそれが溶けずにいる日も多くございますのよ。皆、冬ごもりの獣のようにひとつの部屋に籠もって過ごすことになります」 そのような厳しい気候条件であるからこそ、この辺りは大臣家の直轄地となっているのだと荻野は付け足した。言われてみればその通りである。冬場の数ヶ月を氷漬けで過ごすようでは、他の地と同じだけの禄高は望めない。何らかの優遇措置がなければ、治める者も実際に耕作する者もとてもやりきれるものではない。 かなり難しい顔をしていたのだろう、荻野は辺りを片づけながらいつもの明るい口調で言った。 「そのようにご心配なさらずとも、私どもは例年のことですから慣れております。備えは万全でございますし、螢火様にご不自由な思いはさせませんわ。それに……そのような厳しい季節を越えるからこそ、やがて訪れる春は格別に美しく思えます。早く花盛りの御庭をご覧に入れたいですわ、きっと驚かれますよ」 さあ、それでは昼餉をととのえましょう。そう言い残して荻野は立ち上がる。ひとり部屋に残された螢火は、また部屋奥をぼんやりと振り向いていた。
………………
―― 居候のくせに、大きな顔をしないで欲しいわ。 御館にいらっしゃるのは大臣様のお子様だけではない。跡目と決まった息子様、つまり亜樹さまと同じく翠の君さまがお産みになった長子様もすでに正妃様だけでなく多くの側女を囲む身分であった。やはりそちらにも多くの御子がいて、螢火とあまり年の違わない姫君もいらっしゃる。ご本人はさほど気にしていらっしゃらないとしても、お付きの侍女からあからさまに嫌みを言われることもあった。 荻野に針を教えてもらうようになって、何の気兼ねもなく自分の出来る限りの力を出せることがこんなに心地よいことなのかと驚いた。父の館にあって、大臣家にあって、……そして都の竜王様の御館にあって。いつでも多くの期待を背負い、その一方で貼り付くような妬みの眼差しを受けていた気がする。 「ほら、ご覧下さい。こうやって並べてみると、よくお分かりになるでしょう。衣を一枚仕立てるごとにどんどん針の腕は上達します。螢火様は格別に筋が宜しいので、私も教え甲斐がございますわ」 手習いとは何も他人と比べるものではない。いかに自分自身が日々技術を習得していくかなのだ。新しい発見に、螢火の目の前が明るく拓けていく。―― そして、その次の瞬間。また、ハッと我に返るのだ。 ―― 馬鹿みたい、こんな風にしていられるのも今だけなのに。 さりげない温かなやりとりに、ふと忘れそうになる。自分はあくまでも囚人の身。このように牢を破り身を隠したところで、どうなるものではない。破滅はもうすぐそこまで来ている、そしてその運命から自分は逃れることは出来ないのだ。今までの人生がすべからくしてそうであったように。 荻野や楡に対して抱いている感情も、未だ複雑である。最後にいい夢を見せてくれたと、素直に感謝するべきなのか。いや、そんなはずはない。あの座敷牢にあって、ぼろぼろに朽ち果てた身で番人たちの慰みものにされていた。人らしく生きることをようやく忘れかけていたと言うのに、このように俗世に引きずり出されては迷惑以外の何者でもないだろう。 ―― まずはご自分から始められるのが宜しいかと思われますよ? それがいとも容易いことであるように、荻野は言った。だが、実際はどうであろうか。楡にとっては、この身はあくまでも厄介者。誰かに請われて、仕方なく世話をしているだけの存在だ。そうでなかったら、あのように冷たい眼差しを向けるわけはない。世の中には優しい顔をしながら他人を欺く者も多くいる。誰もが楡と同じように分かりやすく接してくれれば、こちらは惑うこともなかったとすら思う。
縁から草履を履いて庭に降りる。 頑丈に冬囲いを施した壁伝いにぐるりと居室を回ると、いつもの裏手の丘に出た。相変わらず、ひとりでいるときに表庭に出るのは躊躇われる。人目に付かない場所だと安心出来なくては、ゆっくりくつろぐことも出来なかった。 暖かな日差しの中、藁に包まれた若木が佇んでいる。先日見つけた無数の小さな芽は、日に日に伸びて今では以前と変わらないだけの葉を茂らせるまでに回復した。瑞々しいほどの生気が辺りにみなぎって、これから訪れると言われる季節をしばし忘れさせる。荻野の話でもこの分ならば二度と葉を落とすことなくこの地で冬越えが出来るだろうと言うことだった。 「……良かった」 物言わぬ若木に語りかけ、その枝に指で触れる。自分の人生は何もかも無駄ばかりであった。だが、こうしてたったひとつの命だけは守ることが出来たのだと思えば嬉しい。最後にひとつ良いことをするために、ここまで辿り着いたのだろうか。 いつでも、落とせる命だった。楡が用意してくれた懐刀を鞘から抜いて我が胸に突き立てれば、最後の望みはいとも簡単に叶うはずである。ひとりになれる時間はたくさんあった、思い悩むほど難しいことではなかったのだ。 だが、その一方で心の端が未だに引っかかっている。どうしてなのかは分からない、もしも自分がこのように気にしていることに気付けば、彼はどんなにか嫌な思いを抱くであろう。それを知っていたから、どうにかして最後まで隠し通したかった。言葉にすれば「そんなはずもない」と冷たく突き返されて終わりだろう。だから、……それ以外のかたちで、感謝の心を伝えることが出来たらと願った。 不思議な話である。 ―― あの瞳は、どこかで見覚えがある。 その答えはある日鏡に映った自分の顔を見て分かった。きっと楡は否定するだろう、それどころか馬鹿げた物思いもたいがいにせよと大声で罵倒するかも知れない。だが、間違いない。あれは……あの瞳は自分のものと同じ色だ。 針を習い始めて分かった。どうしてあまたの女子たちが、愛する者に衣を仕立てようとしたのか。幼少の頃から西南の暮らしにどっぷりと浸かってきた螢火には信じられない光景であったが、都ではまだ恋人でもない男に女子の方から衣を贈る行為が日常的に行われていたのだ。あの頃は奇異の目で見ることしか出来なかったが、今になれば彼女たちの心内が少しだけ理解出来る。 「……?」 ゆっくりと枝を辿り、その先端まで来て視線を止める。そんなはずはないと幾度となく確かめて、しかし最初の予想通りだと分かった。だけど……本当に、こんなことがあるのだろうか。 ごくり、と息を呑んだその時に背後で草履の音がした。ああ、支度を終えた荻野が声をかけに来たのだと思う。だから、躊躇いもなく叫んだ。 「荻野さま、荻野さま……! こちらにいらしていただけませんか、ご覧下さいあちらを――」 今日の日和に心まで温められたような、そんな明るい声が出ていた。嬉しくて嬉しくて仕方ない、こんな奇跡が本当に起こって良いのだろうか。 「――何事だ、騒々しい。荻野なら、今し方出掛けたぞ」 刹那、思わず駆けだした足が止まる。頬に浮かんだ笑みも瞬時に凍り付いた。 「少し身体が良くなったと思えば、すぐにこれだ。また不用意に冷たい気に当たって体調を崩せば、荻野の手を煩わせることになる。少しは身の程を考えろと言うのが分からないのか」 「あ……、その。申し訳ございません」 迂闊であった、一日仕事になると聞いていたからまだこの男が戻るはずはないと勝手に信じ切っていた。こんなに見苦しくはしゃいだ姿を見たら、どんなにか気分を害したことであろう。無事の帰還をねぎらう言葉も忘れ、螢火はうなだれた。 「で、どうした。何をそんなに慌てている」 ちらりと一瞬だけ、面倒くさそうに向けられた視線。上目遣いに確認しながら、おずおずと口を開いた。 「ええと、……その。あの若木に、花芽を見つけたので。荻野さまにそれをお伝えしようと……」 消え入りそうな声を途中まで聞いて、楡は真っ直ぐに歩き出した。そして螢火が指し示すその場所を一瞥して、すぐにくるりときびすを返す。背後から再び足音が近づいてくるのを知りながら、振り向くことすら出来なかった。 「――愚かなことだ、咲くはずもない蕾を付けて」 確かに耳に届いた言葉。脇をすり抜け遠ざかっていく草履の音に顔も上げられず、螢火は自分の落とした影ばかりを見つめていた。
Novel Index>扉>朱に散る・15
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