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何故、この世に生を受けてしまったのか。何故、この歳まで愚かにも生き延びてしまったのか。 誰にも告げることの出来ぬ想いを、気持ちが空くたびに心の中で反芻していた。すでに辛いという心地もない。ただ鈍い痛みだけが、むしろ心地よく感情の表面を浸食するように思われた。
薄物は素材こそは違えど、ほとんど重ねや上掛けと同じ造りをしている。反物の巻きをといて生地の傷や汚れを確かめ、もしもひどいところがあれば余り目立たない箇所にそこを用いることにすればよい。寸法通りに裁断を済ませれば、次は背縫い。身体を覆う「身頃」の部分は肩を中心に前後を続けて裁つので、長い布地を丁度半分の辺りまで縫い合わせる。 慣れれば楽しく雑談などをしながら針を進められるのだと聞いても、とても信じられない。ひと目ひと目に神経を集中させていれば、無駄なことを考える暇もないのだ。針を持ったその瞬間から、自分は縫い物をする道具になってしまう気がしていた。
「本当に素晴らしいですわ。一枚目のお仕立てに十日、次は七日。まるで、数年も習った者のような仕上がりではございませんか。これならば安心ですわ、それほど年末も押し迫らない頃に晴れ着も仕立て上がるでしょう」 荻野のはしゃぐ声に、螢火は応えることなく俯いた。確かに自分でも予想以上の上達ぶりであると思う。初めの肌着の時などはすでに諦めの境地になりつつあったのに、今縫い進めている三枚目の薄物は三日と少しで仕立てを終えようとしている。 「そろそろ、昼餉の支度を致しましょう。螢火さまも区切りの良いところで一休みされて下さい。こちらはこのまま広げていて宜しいですね、縁の方にお席を整えますわ」
天の色は薄鼠色によどみ、流れ込んでくる気も冷たいものに変わっていた。 いつものように居室から眺める風景も、色味をなくしたせいかさらに寒々しく感じられる。昨晩より薄い綿入れを羽織るようになっていたが、それでも大きく開いた袖の隙間から敏感に季節の移ろいを感じ取ってしまう。 ―― まあ、これではまるで春支度ではないの。 ひとり部屋に残されて、散らばった縫い物たちを螢火はぼんやりと見つめていた。取り散らかしたままにしておくのは見苦しいものであるが、また一服した後には作業を再開するのだから構わないだろう。
もしや、……これはあの晴れ着に合わせるために……?
楡が買い求めてきたという晴れ着は、今も部屋奥に広げて吊したまま。日に何度も眺めては、どんな風に色を合わせたら一番映えるだろうと知らぬうちにあれこれ考えていた。もちろん最初に合わせられていた薄物でも申し分のない見立てである。だが、当たり前すぎて遊びが足りないなとも思えてきた。 他にも若草の色や山吹の色、扱った色目は皆まだ見ぬ季節を思わせるものばかり。すっかり春色に染まってしまった板間は、その美しさとは裏腹に螢火の心に暗い影を落としていった。
………………
鈍色の空、辺りに漂う生々しい死臭。立ち止まればそのままずぶずぶと足下から泥の中に沈んでいく。目をこらして辺りを見回したところで、頼りになるような標(しるべ)も見当たらない。胸を覆うのは、ただ絶望だけ。いったい自分がどこに向かっているのかも分からないまま、ひたすらに歩き続けていた。 ―― そう、またあの夢を見ているのだわ。 目を覆いたくなるほどのおぞましい限りの光景が、どこかひどく懐かしい。生ぬるい気流が全身の動きを阻むように腕に脚にねっとりとまとわりついてくる。もしも凍えるように肌寒ければ、あるいは焼け付くように照りつけていたならば、とっくの昔に倒れていたことだろう。中途半端に命を長引かせる状況が恨めしい。 もういい、先に進んだところで何も変わるわけはない。二度と光は差さない、このまま永遠に閉ざされた空間を彷徨うだけだ。それならばいっそのこと、己の歩みを止めてしまおう。そうなれば、あとは転げ落ちるだけ。どこまでもどこまでも、奈落の底まで堕ちていく。それこそが自分の望んだ末路だったはずだ。二度と期待してはならない、また裏切られる。自分はそれしか価値のない女子なのだから。 「……っ……!?」 全てを手放してしまおうと思った刹那、背後からざわざわと蠢く物音が湧き出てきた。ハッとして振り向いたその先に見たものは、―― 闇から直接生えている無数の腕。無骨なもの、毛むくじゃらなもの、ひ弱なもの、年老いたもの……すぐに気付く、あれはかつてこの身を貪った男たちのものに違いない。実体など持たないまま、ただ欲望のままに襲いかかってくる。 ―― ああ、駄目。これ以上近寄らないで、わたくしに触れないで……! 声にならない叫びが頭の中で虚しく響き渡る。しかし、女子ひとりの力ではとてもあらがうことなど出来ない。また、あの瞬間が来る。感情と肉体が真っ二つに切り離され、絶望のうちにたかみに押し上げられる渇きが。分かっていてもどうすることも出来ない。何故、こんな風にしてまで生き続けなくてはならないのか。それほどまでに重い罪を犯してしまったと言うのだろうか。
外も内も汚れきってしまった身体。死の国さえ、この身を快く受け入れてはくれまい。ならばどこまで進めばいいのか、道なき道を登り続けたところで行き着く場所はない。永遠に絶望が続くだけ。 どうしてなのだろう、欲しかったものはたったひとつなのに。大それた夢ではなかったと思う、何人にも与えられるようなささやかな幸せ。何故、この手のひらにはそれすらも受け止めることが出来ないのだろうか。
自在に伸びる腕たちはすぐ背後まで届こうとしている。首に腕に脚に、無数の欲望が絡みつく。そしてそのままずぶずぶと泥の中に引きずり込まれていった。
………………
「……つっ……」 まだ外は暗く、夜明けまではいくらかの間があるようだ。すっかりと冷え切った部屋の中にありながら、螢火の寝着はじっとりと濡れている。ただ横になっていただけなのに、たとえようもなく息苦しく全身がぐったり疲れていた。 ――きっと、あの反物のせいだわ。 しばらくの間は遠ざかってた悪夢と再び巡り会ってしまった理由は深く思い悩むほどのものではなかった。 「こちらの模様が混んだ辺りを裾に来るように合わせましょう。両方の長さが同じになるように丁寧に畳んで下さいませ。そう……こうして仕上がり通りに並べてみて、柄を合わせるのですよ。ああ、とても良い具合ですね。如何でしょう、鋏を入れる前ならばいくらでも考え直すことが出来ますから何度でも納得の行くまで繰り返されると宜しいですわ」 言われるままに長い布地を折り畳んでいく。手の込んだ変わり織りは見る角度で色を変え、いくら眺めていても飽きることがなかった。上下を考えなくてもいい文様であったため、幾通りにも合わせることが出来る。気の遠くなるほどの作業を終えたあとは、目を閉じてもその残影が瞼の裏に焼き付いているように思われた。
艶やかに流れていく絹。そこから漂うむせるような香油の匂い。 かつては日常のものとして自分の周りにあった光景が、久し振りに思い起こされる。だが、不思議なほどに懐かしさは湧いて来なかった。それどころか、知らないうちに忌まわしい過去までが掘り起こされてしまうとは。 ――だが、この先一体何処へ逃れればいいのか。全てから見放されてしまった身の上で、その場所が思い当たらない。死を望んだとしても、その果てにあるのがあの悪夢の続きであったらどうなるのであろう。
「……だ、誰か……っ」 わずかばかりの衣をかき集めたところで、身体の震えが止まることはない。呼吸が苦しい、胸が焼け付くほど痛い。このような深夜にあって荻野を呼ぶわけにも行かなかった。庭向こうの居室の住人も不在である。水飲みの盆をたぐり寄せ空になるまで飲み干しても、何が変わることもなかった。 駄目、まだ朽ち果てることは出来ない。もう少しここに留まって、わたくしにはやらなければいけないことがある。どうにか、どうにかやりすごすことは出来ないのか。しかし、瞼を閉じればまたあの夢の続きが始まるに違いない。やはり無理だったのか、ひとしずくの願いさえ果たされることはないのか。
――と。
人気のないはずの居室で、何かの気配を感じた。ゆるゆると振り向くと、そこにあったのは吊されたままの晴れ着。燭台の光に頼りなく照らされながら、螢火を真っ直ぐに見下ろしていた。 「……馬鹿ね、そんなはずはないじゃないの」 空耳のように聞こえた「声」にぽつりと答えていた。初めて目にしたときから、とてつもない違和感を感じていた。どんな色にも決して混ざることのない気高い輝き、波打つ純白に散り惑う無数の花びら。今の分にとって、それはあまりにも遠いもの。指先で触れることすら許されないような気がしていた。
――何を怯えているの、こちらにお出で。私が全て、包んであげましょう。そうすれば、もう何も憂うことなんてないのですよ。
自分の意志とは裏腹に、痩せ細った腕が伸びていく。気付けば霞のように軽い衣を寝着の上からふわりと羽織っていた。 ……軽い、まるで背中に羽根が生えたようだわ。 柔らかな布地は、少しの動きにも軽やかに舞い上がる。姿見に映った立ち姿は、まるで見たこともないような美しい女人のものであった。純白の輝きの上に惜しげもなく流れ落ちる朱の髪。艶やかな流れが滝のように板間まで届いている。青白いはずの顔色までが、美しい花色に染まっていた。 「……綺麗」 その刹那、たとえようのない想いが胸奥から湧き上がってくる。二度と訪れるはずのない季節までが、その瞬間だけ目の前に現れたように思えた。
………………
翌日の昼下がり。螢火は、再び居室裏の丘に来ていた。 「も、申し訳ございません……!」 背後から聞こえてきた冷たい声に、振り向いて頭を下げる。出先から戻ったばかりなのだろうか、まだ着替えも済ませていない様子だ。幾度同じことを言わせるのだとても言いたげに、楡の眼差しはいつもに増して冷ややかである。 「全く……何度言えば分かるのだ。今日はひときわ気が冷たいではないか、そうでなくともこの時期の丘の近くのこの辺りは谷底から吹き上げてくる気流で寒々しいのに」 螢火は言葉を返すこともなく、ただただ男がこの場を去ることを待っていた。しかし、楡はそんな彼女の脇を通り抜けると若木の根元に向かう。そして、次の瞬間に思いがけない行動に出た。 「なっ……、何をなさいます! どうか、おやめくださいませ……!」 慌てて歩み寄ったが、時はすでに遅かった。青ざめる螢火の視線の先、この館の主の手で無惨にも手折られた一枝がある。無理矢理にはぎ取られたその根元は生々しい色を残していた。 「楡……さま、どうして――」 それ以上の言葉など、到底思いつくはずもなかった。しかし、どうしてこのように惨いことを。この蕾は過酷な状況にあって、必死に咲こうと頑張っていたのではないか。何故、切ないほどのその想いまで断ち切る必要があるのだろう。そう思って見上げた螢火の眼差しは怒りの色を含んでいたはずだ。だがしかし、楡の顔色は少しも変わることはない。 「もう、ここには用はないだろう。さっさと部屋に戻れ、……分かったな?」 それだけ告げると、手にしていた一枝をこちらに託して表の方へと戻っていく。螢火が一歩も動かないことに気付いたのか、しばらくして彼は今一度振り向いた。 「それは精の強い樹だ。枝を切って挿しておけば全ての蕾が開くと言われている。早く戻って荻野に花器でも用意してもらいなさい、部屋の中ならばここよりだいぶ過ごしやすいだろうからな」
背後から流れ過ぎていく気がたらしたままの髪を袂をふんわりと舞い上がらせる。己の手の中に確かに残る生命の伊吹を感じ取りながら、螢火は長い間その場所に佇んでいた。
Novel Index>扉>朱に散る・16
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