TopNovel Index>朱に散る・17


…17…

 

「螢火様のご熱心さには本当に頭が下がるばかりですわ。ああ、誠に……ご一緒させて頂いている私もついついつられてしまう様です。仕事がはかどるのは宜しいのですが、近頃はひどく目が疲れて仕方がございませんわ」

 眉間の辺りに指を当てながら、傍らの荻野が苦笑いをした。まだ新年までは二十日以上を残していると言いのに、もうほとんどの針仕事を終えてしまったと言う。さもあろう、外は連日のように凍えた気が吹き荒れ、日中でも戸を半分立てたまま薄暗い部屋の中で過ごしている。手仕事を進めるにはまたとない環境であった。指先のかじかみも、熱心に手を動かしていればすぐに気にならなくなる。

 気付ば二刻以上も同じ姿勢のまま過ごすこともあったが、不思議と疲れは感じなかった。針を手にすることすら躊躇われた初めの頃が嘘のように、気づけば夢中になっていた。裏布を当てながら進めていく作業はかなり面倒であったが、それだけに綺麗に仕上がった時の喜びはひとしおである。この頃では荻野から「お直し」の指示を受けることも減ってきた。

 無心になって針を進めていれば、心は自由に遠い日の記憶まで呼び覚ましてくる。良い思い出などありはしないのに、それでも驚くほどに全てが穏やかに蘇ってきた。それをひと針ひと針、しっかりと縫い留めていく。

 

「――昨夜もだいぶ遅くまで部屋を明るくしていたようだな」

 夕餉の席で、楡がぼそりとそう告げた。螢火はハッとして顔を上げたが、すぐには言葉も見つからない。荻野から針仕事を習っていることは告げていなかったが、彼も薄々は感づいているのだろうとは思っていた。だが、あまり細々と説明するのもどうかと思ったし、何より晴れ着のことも内密にしていたい。

 箸を止めて唇を噛んだままでいると、彼はさらに冷ややかな視線を投げかけてきた。

「無駄に夜更かしをすれば、それだけ余計な油を使うことになる。少し考えれば、分かりそうなものを……」

 忌々しげにそう吐き捨てると、一気に酒をあおる。香りだけでもかなり強いものだと分かる濁り酒であるが、彼はそれをいくら飲み干しても顔色ひとつ変えることはなかった。

「これは申し訳ございません、ご主人様。先日、珍しい絵巻物などを手に入れましたので、連日遅くまで共に読みふけっておりました。昼間はあれこれと落ち着きませんので、どうしてもあの時間までかかってしまうのですわ」

 新しい燗をつけながら、そう告げたのは荻野である。その横顔はどこまでも涼しいもので、内に秘めた何も感じ取れない。

「何だ、お前まで。そのように遊び癖ばかりついてどうする、浮ついてばかりいてはろくなことがないぞ」

 楡はそれ以上は追求することもなく、黙って食事を進めていた。これでは荻野にすまないと思いそちらを見れば、彼女は全く堪えた感じもなく平然としている。それどころか、こちらの視線に気付くと軽く目配せまでするではないか。どんな風にして応えたら良いかも分からず、ただ萎縮するばかりであった。

 確かにこの連日の作業は遅くまでかかり、荻野にもたいそう申し訳ないことをしていると承知していた。彼女には病身の夫がいるのだ、少しでも早く家に戻れるように気遣わなくてはならないのに。自分の針仕事が思うように進まないことで、迷惑を掛けているのだ。荻野がそれを気にする素振りもないように振る舞うことに、余計心を痛めている。
  この先はひとりで出来るといくら断っても、彼女はこちらが針を置くまではいとまを告げようとしない。期限が決まっていることだけにどうしても無理をしてしまうのだが、このように甘えてしまっても良いものなのか不安で仕方なかった。

 

………………


 ひとり遊びが好きだった。

 誰に気兼ねすることもなく、自由に想いを巡らせることが出来る。これ以上の至福の時間が他にあるだろうか。端布でも千代紙でも与えられれば、それこそ朝から晩まで飽きることなく指先を動かし続けることが出来た。必死に取り組んでいれば、あっという間に時間が過ぎる。相手もなくぼんやりと持て余すには、一日はあまりにも長い。
  いつもひとりだった。実際には周りにはたくさんの者たちが控えていたが、皆と心を通わすこともなく過ごしていた様な気がする。相手もそれを望んでいないことはすでに承知していたし、それを嘆くこともなかった。厄介者の身の上は何も今日始まったことではない。どこへいても、心はいつも孤独だった。

 上等の絹は、直接指先で触れることすら躊躇われるほどの緻密な変わり織りが施されている。一度針を入れてしまえば、どんなに注意してほどいても跡がはっきりと残ってしまう。いい加減に済ませることなど出来ず、絶えず意識を集中させている必要があった。
  初めて目にした時から心を奪われた輝きは、こうして離れることがなく向き合うようになった今も少しも色褪せることはない。それどころか真夏の日差しにも似たまばゆさは、心の中にわだかまった全てを消し飛ばせるほどの激しさを秘めていた。このような仕事を生業としている者たちは、絶えずこの心地を味わっているのだろうか。何とも不思議な気がした。

 時折あまりのまばゆさに目が眩み、悪しき思い出が再び胸を過ぎることもある。しかしそれすらも振り払うように、さらに仕事に没頭した。

 

「まあ……今日はまたいちだんと蕾が大きく膨らみましたね? ここ数日は枝も勢いを取り戻したように見受けられますよ。この分だと花が開くにはもう間がないでしょう」

 奥の床の間を振り返り、荻野が嬉しそうに告げる。螢火は声に出して答えることはせず、ただ淡い微笑みで応えた。楡に手折られてここへ活けたすぐの頃は、可哀想なくらいに枝がしおれてしまい随分気を揉んだものである。しかし幸いにも蕾を落とすこともなく、どうにか持ち直した。
  蕾の大きさからは考えられないほどの大振りの花が咲くと言われたが、未だにその姿を知らない螢火には想像することも出来ない。ただただ無事に開くことだけを心待ちにしていた。

 それからまたしばらく沈黙が続いたが、やがて一区切りが付いたのか荻野が手を止めて大きく首を回した。

「さあ、そちらもそろそろ衿付けが仕上がりますね? そうなればあとはわけございません。共衿をかけて、袖付けや身八つ口止まりなどをかんぬき止めにするだけですよ。こんなに早く仕上がるとは思いませんでしたわ、本当に螢火様には何もかも驚かされるばかりです」

 手放しに誉められてしまうと、逆に恐縮してしまう。自分よりもずっと腕の良い師から掛けられるねぎらいの言葉はどこまで信用していいものなのか分からなかった。ただ、己の目で見ても想像を遙かに超えて美しく仕上がったと思える。自分の手が施した仕事とは、とても信じられないばかりであった。

「これで、……仕舞いになるのですね?」

 ひとつのことをやり終えた満足感と共に、その一方でたとえようのない寂しさが胸を過ぎった。夢中で針を進めている時間があまりにも楽しかっただけに、それを終えてしまったあとどうしていいのかが分からない。
  また新しい縫い物を始めればいいのだろうか。だが、あてもないままにいたずらに枚数を増やすのもどうかと思う。それに自分の目では分からないが、荻野に仕上げたものを渡した後に手直しを加えなければならない箇所もだいぶあるに違いない。

「ええ、しばらくは久方ぶりにのんびりと過ごすことが出来ますよ。そのうちに今度はご一緒に正月飾りの準備なども始めましょう。こちらは敷地が広いだけにかなりの数をこしらえなければならないのですよ。いつも手伝ってくれていた娘もいなくなって、昨年などは本当に大変でしたわ。ただ藁を細かく編んでいくだけなのですけど、そうとは思えないほどに美しく仕上がるのですよ」

 どんどん仕事を覚えて頂かなくては、というひとことにはただ曖昧に微笑むしかなかった。

 荻野は知らない、この胸の中にある想いを。それならばそれで構わないと思う。通り過ぎて行くだけの者に必要以上の想いを抱かれては申し訳ない。自分の代わりはいくらでもいる、だからすぐに忘れてもらえるだろう。

 

 ――だけど、わたくしは? この想いはどこに行けばいいのだろう……?

 

 幾ひだにも折りたたんだ想いが、どうかこのまま静かに幕を下ろしますように。それだけを今は祈るしかない。

 振り向けば、やはりそこにあの晴れ着が佇んでいる。静かに柔らかい眼差しで見下ろされることに、未だ慣れることが出来なかった。

 

………………


 遠い記憶の中、母はいつも縫い物をしていた気がする。西南の父の館にあっては、そのことも身分の卑しさを知らしめる一因となっていたのだろう。しかし、本人はそれを憂う様子もなかった。ほの暗い部屋の中、閉ざした障子戸の向こうで絹のきしむ音が絶えず聞こえている。だが、その中に入ることはおろか、少しの隙間から覗くことすら許されなかった。

 行李いっぱいに詰め込まれていたであろうあの衣たちに父が袖を通すことがあったのかはさだかではない。あまたの女人を館の内外に囲い、その上に正妻の勢いがあまりに強かった。誰もが彼女にひれ伏し、機嫌を損ねることがないようにとそればかりを気遣っている。そのような状況で、ただ人の母が病に伏したのも不思議なことではなかった。

「こちらはもう不要のものだから、好きになさい」

 珍しく機嫌の良いときには、そのようにして端切れをこちらに分けてくれることもあった。色とりどりの美しい絹たち。それを朝も夜も飽きることなく眺めていた。ああ、このように素晴らしい絹を羽織ることを許された御方こそが自分の父上なのだ。そう思うと、嬉しくて仕方ない。優しい思い出などひとつもなかったが、それでも心の支えとなるのは両親だけだった。

 

 荻野に自分の針仕事を誉められるたびに、己の中の血潮がたぎる気がする。

 やはり、わたくしはあの御方の娘なのだ。存在すら疎まれていたが、それでもきちんと才を受け継ぐことが出来たのだろうか。それならば、嬉しい。何かひとつでも母に似たところがあるなら、それでいい。

 幼い日の記憶は何もかもが霞みがかっていて、良く思い出せないまま長い時間を過ごしていた。だが、こうして針を手にして、ようやく母をしっかりと思い出すことが出来た気がする。あの父を信じて裏切られた今、もう心のより所と言えば亡き母の存在だけだ。たとえ受け入れて貰えなかったとしても、他には何も残されていない。

 静かに、密やかに、堕ちていきたい。ただそれだけを望めばいいのに、何かがまだ邪魔をする。母を求めれば行くあてはひとつしかないのに、何故自分はその道を躊躇っているのだろう。

 

「まあ……今日はいちだんと冷え込みが辛いばかりですね。このようになりますと、夜半からはさらに荒れがひどくなるように思われますわ。今のうちに出来るところから衣の準備も済ませてしまいましょう、あちらの居室にもそろそろ新年のあれこれを運び込まなくてはならないですし」

 昼前に頼んでいた仕立物が全て運ばれてきた。こちらの手仕事もそのほとんどが終わっている。あとは細かい繕い物を残すのみ。荻野の表情にも一区切りをつけた安堵の色が見えていた。
  楡ほどの身分のある者であれば、年明けからは方々に新年の宴に呼ばれることになるだろう。同じ衣を着回すことなど出来るはずもなく、その期間はさながら着せ替え人形のような忙しさになる。今のうちに色目を合わせて幾通りかの晴れ着を準備しておかなくては、あとでひどく慌てることになってしまう。

「やはり一番頭を悩ませるのは、ご主人様の晴れ着の色目あわせですわね。それを先に済ませてしまいましょう。ことに大臣様の御館での宴は数日に渡って執り行われますから、お持ちいただく品も相当なものになります。そのようなことには疎い御方ですから、何もかもこちら任せなのですよ」

 荻野は大振りの衣紋掛けを裏から出してくると、まず先に仕立て上がってきたばかりの二枚の晴れ着を広げた。先だって一緒に選んだ反物が、美しく姿を変えている。その眩しいほどの仕事ぶりには、向き合ってしばらくは声も出ないほどであった。
  一方は艶やかな藍の衣、そしてもう一方は藤紫から漆黒への落ち着いた濃淡を施したもの。やはりどちらも甲乙付けがたく、誠にすばらしい仕上がりであった。元々が楡のために吟味された品だけに、今更顔映りを心配するまでもない。下に重ねる薄物や長袴などをあれこれ当てていく作業も目新しく興味深いばかりである。昼餉の膳を片づけてすぐに取りかかったつもりが、気づけば表はすっかり暗くなっていた。

 

「……何だ、今日はまだ取り散らかったままだったのか」

 縁の方から声がして振り向けば、そこに立っていたのは外歩き用の衣をまとったままの楡であった。ほとんどの戸を立ててあったため、戻ってきた馬の音にも気づかなかったらしい。彼は自分のために仕立てられた奥の衣にちらっと目をやったが、顔色ひとつ変えずに向き直った。

「村長の館で軽く食事を済ませてきた。今日は簡単なものでいいぞ」

 足を清めるための湯桶を取るために奥の炊事場に下がった荻野に、そう声を掛けている。急な上り坂で馬を使うのは腕の立つものでもなかなか難儀なものであるのだろう。出掛けに見た姿よりもだいぶ髪が乱れていた。こうして背を向けていてくれれば、気兼ねもなく眺めることが出来る。そう思っていると、前触れもなく楡は振り向いた。

「そちらの行李に手ぬぐいが入っていただろう、ひとつ出しなさい。何もかもを荻野ひとりに任せずに、お前も少しは自発的に動いたらどうだ」

 初めは何を言われているのかよく分からなかった。またすぐに背を向けてしまった人の言葉をようやく心で捉えて、螢火は立ち上がる。手ぬぐいを手にそちらに向かうと、彼は何も言わずにそれを受け取った。

「まあまあ、今宵はお早いお戻りで誠に宜しゅうございましたわ。ただいま螢火様とご一緒に、ご主人様の新年の晴れ着をあれこれ合わせておりましたの。たまにはご本人のご意見もいただきたく存じます。ささ、こちらへ。今、敷物をお持ち致しますね」

 そう告げると、荻野は衣も改めていない館主を部屋に上げてしまう。衣を合わせるついでに着替えも済ませてしまおうということなのだろうか。
  自分も何か手を貸すべきなのかと考えるが、このような場面に遭遇したことがないだけに勝手が分からない。亜樹さまの元では着替えはすべて他の者の手で揃えられており、自分はそれをただ手にするだけであった。

「こちらが昼の宴席に宜しいかと存じます。華やかではございますが、織りなどは落ち着いておりますしとてもよくお似合いになりますよ。袴はこちらの変わり織りのものを。ぱっと見には分かりませんが、とても手の込んだ上質な品ですわ」

 姿見に映しながら、荻野があれこれ感想を述べる。しかし、楡は全く興味を示すこともなくただ面倒くさそうにそこに立ちつくしているだけであった。

 

「そちらも男物のようだが、余所に回すものなのか?」

 どうにか二枚の晴れ着の色目合わせを終え、一息ついたところで楡がそう呟いた。彼の視線の先には、綺麗に折りたたまれた衣がある。その中に自分のよく知る一枚があることに気づき、螢火の動きが止まった。

「いいえ、そうではありませんわ。こちらもご主人様のためにお作りしているものです。まだ仕上げが残っている品もございますが――」

すっと色の引いた顔。彼の言葉にとげとげしい響きがあったことに気づいていないのだろうか。荻野は普段通りの明るい声で説明する。しかし、それを聞いて楡の表情はますます険しくなった。

 何がそこまで彼を駆り立てたのだろうか。それを考える間もないうちに楡は大股に進んで行き、衣の山を足で崩してしまう。さらに他でもないあの若草の晴れ着を乱暴に掴んで、そのまま力任せに板間へと叩き付けた。

「馬鹿馬鹿しいにもほどがある、一体どういうつもりだ……!? お前は若い娘とばかり遊んでいて、とうとう気でも触れたか。そのような軽々しい衣をまとって、私を皆の笑いものにしたいと言うのだな!?」

 そう吐き捨てるや否や、彼は羽織っていた晴れ着を脱ぎ捨てそのままどかどかと縁に出て行く。小袖の肩先には例えようのない苛立ちが感じ取れて、螢火はますます萎縮するしかなかった。

「あ、ご主人様っ!? 一体、どちらへ……」

 普段着用の重ねを手に、荻野が慌てて後を追う。その頃にはすでに、楡は縁から表の庭へと歩き出していた。

「もう、今宵は部屋で休む。このような浮ついた部屋ではゆっくりと食事も出来ないだろう。あれは後で捨ててしまえ、もう二度と私の目に触れさせることのないようにな……!」

 ふたつの草履の音が次第に遠ざかっていく。荻野の金切り声が吹き荒れる気の音に混じって聞こえ、それすらもいつか螢火の耳には届かなくなった。

 

 ゆらりと、部屋奥の炎が揺れる。壁に映ったその姿が長くたなびく様を、ぼんやりと見つめていた。


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