|
|||
朝、目覚めても額が重い。 もとよりすっきりとした寝覚めこそがあまり縁のないものではあったが、それでもこの数日のけだるさは自分でも持て余すほどだ。それでも、いつまでも寝装束のままぐずぐずしているわけにもいかない。言うことをきかない身体を必死でしとねから引きずり出し、とりあえずは衣を改めた。 楡があれほどに怒りを露わにするとは思ってもみなかった。普段から不機嫌な顔で過ごしている男であったから、相応の認識はしていたと思う。しかしあの態度にはさすがに度肝を抜かれた。翌朝、何事もなかったかのように朝餉の席に着く姿を見たときには、あまりの恐ろしさにしばらくは身動きを取ることも出来なかったほどである。 半月以上も朝な夕な時間も忘れるほどに夢中になっていた針仕事。完成はすぐそこまで来ていたのに、こうして取り上げられてしまった今はどうすることも出来ない。
――違う、そうじゃない。わたくしがお伝えしたかったのは、もっと違う想いなのに。
もともとが誉められるような腕前ではなかったのだ。たとえ師である荻野の口から賞賛の言葉をもらったとは言っても、それはただのお世辞に過ぎなかったのかも知れない。何事にしても、道を究めるにはそれだけの年月と気力が必要なのだ。たった一月二月の付け焼き刃で太刀打ちできるはずもない。 だが、それももう過ぎたこと。何を告げたところで、言い訳にしかならない。結局、閉ざされた扉を開くのは無謀な試みだったのだ。最初から何も期待されていない、ただ迷惑にならないようにひっそりと過ごしていれば良かったのに。自分が出過ぎた真似をしてしまったために、荻野にまで迷惑を掛けてしまった。 願ったところで、叶う望みなどありはしない。誰からも何からも望まれてはいなかった。過去も今も未来も、どんな状況に置かれようと変わることはない。 何をあのように浮かれていたのだろう。少し考えれば分かりそうなものを、どうして愚かにも行き過ぎてしまったのか。何かに取り憑かれたかのように、必死に針を進めていた。目も眩むほどの美しい織りに、心まで取り込まれてしまったのだろうか。 誰を責める気にもならなかった。やはり全ての元凶は我が身、他の何者でもない己の存在なのである。緩やかに滞りなく回っていた歯車が、この手を一瞬触れただけで狂い出す。いつもそうだった、最初から何も望まなければ良かったのに。己の中にくすぶり続ける「欲」がそれを邪魔する。
がたがたと、また荒々しく木戸が揺れた。今夜は今までになく気の荒れがひどい様子である。 荻野も夕刻から何度も外を眺めては不安がり今夜はここに宿直(とのい)をするとまで言い出したが、それはきっぱりと断った。傍らに彼女がいることが気に入らなかったわけではない、申し出そのものは本当に嬉しかった。だが、どうして頷くことなど出来よう。今宵彼女がいるべき場所はここではない。 「明け方には通り過ぎる嵐ならば、それほどの心配もいらないでしょう。さあ、これ以上ひどくならないうちに、お戻りくださいませ」 笑顔でそう告げて、縁まで追い立てた。それまでぴっちりと閉ざしていた木戸を細く開けると、ざらざらと凍えた気がつぶてになって吹き込んでくる。視界の悪くなった表、その向こうにあるはずの居室に灯りはない。楡は昼前に麓の村まで出掛けたという。この荒れならば丘を上がってくるのも難しい、今夜はどこかで宿を取ることになるだろうと荻野は言った。 ――ああ。何もかもが、わたくしに怒りをぶつけているのだわ。 ごうごうと打ち付ける飛沫に頬を打たれ、今更ながらそう実感した。今年は例年になく天候が厳しく、普段の冬構えでは厳しい季節の入り口にあってすでに心許なくなっている庭木も多いらしい。 今はまだ、荻野が味方になってくれる。でもそれもいつまで続くことか分からない。この先も必ず諍いは起こる、それを繰り返していれば何が得策か気付くはずだ。尋常な精神の持ち主なら、必ず。 浅い眠りにつくたびに、必ず訪れるあの夢。泥の中をひたすらに歩き続ける愚かな自分を、もうひとりの自分が見下ろしていた。一歩踏み出すたびに、身体中を襲う激痛。よどんだ気の中で呼吸することすらおぼつかない状態。それでもまだ、諦めることが出来なかった。 ……でも。
一度、瞳を閉じて。深く呼吸をしたのちに再び開く。目の前にはひからびた両手があった。何故だろう、ここにはいつも何ひとつ残らない。ほんの一時浮き上がった身も、またすぐに沈んでいく。 またがたがたと木戸が鳴る。いや、それだけでは留まらない。まるで居室もろとも吹き飛ばすほどの強い荒れが息つく暇もなく繰り返し打ち付けて来た。裏の崖から目と鼻の先にあるここは、谷底から吹き上がってくる全てをまともに浴びることになる。めりめりと、柱がしなる。燭台の炎が大きくたなびいて、かろうじてこらえた。 「……あ……」 我が身をかき抱いた細腕が大きく震える。すぐそこまで迫った死神に、今度こそ捕らえられるのか。いつも待ちわびていたそのときを目前にして、螢火の中に湧き上がってきたのは歓喜とはほど遠い心地であった。
――嫌だ、どうして。 どうして、このように儚く散っていかなくてはならないの? まだ、何も。何もこの手には掴んでいないのに。それなのに、どうして……!?
いつも何かを待っていた、ひたすらに息を潜めて待ち望んでいた。だが、それももう終わる。苦しい、どうしてこんなに苦しいのだろう。いつでも一番愚かなのは自分だ、身の程知らずに願うから叩きのめされる。 いつもは使わない裏口の木戸から忍び込んだのか。みしみしと、奥から響いてくる何者かの足音。それこそが地獄からの使者のものに違いない。 「……いっ、嫌っ……!」 身体と心がバラバラになる刹那、自分でも気付かないうちにそう叫んでいた。つうと額を流れる冷たい汗、それが頬を伝っていく。
「――この間、あれほど注意したばかりだろう。どうして、こんな夜更けまで灯りをつけている」 背を丸めてうずくまっていた螢火は、ハッとして振り向いた。そこに立っていたのは、見まがうこともないこの館の主。その衣からはしずくがだらだらとしたたっている。しばらくはその姿を、息をすることすら忘れて見入っていた。 ――何故。……どうして。 しかし、向けられた眼差しはほんの一瞬。すぐにそれは振り払うがごとくそらされた。 「馬も諦めてようやく戻り付いてみればこの始末だ。……さすがの荻野も今宵は早く引き上げた様子だな、あれもそれくらいの賢さはあったのか」 ぐるりと辺りを見渡す眼差し。ああ、そうかと気付く。天井近い明かり取りから部屋の明るさを確認したのだろう、楡は荻野がここに留まっていると思ったのだ。すっかり濡れ鼠になってしまった装束を改めさせるためにわざわざ足を運んだに違いない。表の縁は吹きさらしであるから、ひさしのある裏口から入ってきたのだろう。 それでもしばらくは、目の前にある現実を受け入れることが出来なかった。望むはずもない存在が忽然と現れる。こんなことが本当にあっていいものなのだろうか。 「あ、……あのっ」 着替えを整えるくらいであれば、自分ひとりでもどうにかなるのではないかと思った。しかし、普段何もかもが荻野に任せきりであり、どこに何があるのかすら見当が付かない。それでもようやく立ち上がろうとするその動きを、楡の冷たい視線が遮った。 「良い、ここで着替えたところで部屋に辿り着くまでには再び飛沫をかぶってしまう。あちらにあるもので適当に改めよう。お前はもう休みなさい」 それだけ告げると、くるりときびすを返す。いつもと変わらない、彼の「拒絶」の姿。数ヶ月の暮らしの中ですっかり慣れっこになったはずであった。
「……あ……」 それきり、何事もなかったかのように遠ざかる足音。注意深く進んでも足下が危ういほどに濡れた廊下、気付けば必死で後を追っていた。 「お待ちください、あのっ……」 心よりも先に我が腕が出て、かの人の衣をしっかりと掴んでいた。震える唇が何度も空を切る。振り向いた眼差しは、予想以上に冷たかったが、躊躇いなどもはや感じなかった。 「お戻りにならないでください、今しばらく、外が収まるまでこちらに留まってください。お願いします、どうか……どうか……!」
何故、そのようなことを告げるのか。自分でも訳が分からなかった。 だが、今この人を失うことは出来ないとそれだけを強く願う。ようやく、訪れるはずだった終焉。今度こそ、今度こそ望むべき場所に辿り着けると思ったのに、寸前のところで現世に引き留められる。
きっと、わたくしは待っていたのだ。絶望を確信した瞬間にすら、自分でも気付かぬうちに。
この男だ、この男が現れたから、再びこの身は生命の息吹を取り戻した。決して願ったことではない。むしろ有り難迷惑だと思っていた。だが、違う。本当に、心から真に願っていたのは、こんな風に最後にさしのべられる腕だったのだ。 ――だって、この人は救おうとしてくれたのだから。すでに死を待つだけの自分を、あの場所から連れ出してここまで導いた人。疎ましく思われていることは承知していた、でもその一方で絶えず気遣ってくれているのも知っていた。そのやり方は決して器用ではなかったけれど、それでも……渇いた心にはどんなにか有り難かったことか。 どこかで、ほんの少しだけでも望まれているなら、それならもう少しだけ生きていようと思った。たとえそれが蜘蛛の糸のように儚い希望だったとしても、願わずにはいられない。……まだ生きている、だからこそ。
「――離しなさい、お前にそのようなことを言う資格などない」 しかし。 ようやく全てを解き放った彼女を前に、楡はどこまでも冷たくそう言い放った。仁王立ちになった彼に対し、螢火はその足下に座り込んだ姿。真上から見下ろされる眼差しは、涙に濡れた頬にひりひりと張り付くほどにどこまでも冷ややかだった。 「やはり、私が浅はかであったか。お前など引き取ったところで、何の罪滅ぼしになるとも思えぬのに……本当に愚かなばかりだ、我ながら情けない。何だ、その目は。本当に……どこまでもあの男に似ているのだな。そのように媚びたところで、私が簡単になびくとでも思ったのか。馬鹿馬鹿しいにもほどがある、間抜けなところも父親譲りなのだからな……!」 呆然と見上げた先にあるその表情は、怒りとも嘆きとも判別が付かない色を浮かべている。
「……楡……さま……?」 その瞬間、全てが止まる。最後の望みを絶つように、部屋奥の燭台の炎も同時に消えた。
Novel Index>扉>朱に散る・18
|