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遠い記憶。 まどろみの中に浮かべることすら長い時間の中で忘れ去っていた。春霞、薄衣。蝶のごとく柔らかく舞い、消えていく夢。
「楡さま、こちらにいらっしゃったのですか?」 桜の花びらと見まがうほどの淡い彩りの衣を細身の身体にふわりとまとい、軽やかな足取りで進んでくる。彼女はこちらを真っ直ぐに見つめて、嬉しそうに微笑んだ。よく見れば袖にも裾にもたくさんの花びらが散っている。だいぶ長い間野歩きを楽しんでいたのだろう、これではせっかくの衣も台無しだ。 「御館様とお方様が先ほどからお探しですよ、そろそろ出立のためのお支度を始められませんと間に合わなくなります。直前になれば、方々の村へのご挨拶も忙しくなられるでしょう……?」 そんな風に言われても、この陽気ではどうしてもぼんやりとしてしまう。日なたの草むらに一度ごろりと寝ころべば、夕方の冷ややかな気に流れが変わるまでうたた寝を続けていたくなった。こんなのんびりとした日々ももうしばらくだと思えば、何をするのも億劫になってしまう。 「……もうっ、こんなことでご立派にお役目が果たせるのですか? このたびのお務めは特別な意味を持つものだと御館様や父から聞きました。それをこのようにのんびりとなさって……」 そう言う彼女の方がよほど心許ないように見受けられる。すでに娘盛りを迎え、方々から縁談の話も後を絶たないと聞いていた。 いくら呼びかけたところでこちらが動く気配のないことを悟ったのだろう、彼女もいつしか春の香りに満ちた草の上に座り込んでいた。 「わたくしだって、ここしばらくは頑張っているのですよ。荻野と一緒に乳母様の手習いを受けて、新しい衣をいくつも仕立てたのですから。このたびのものは、いつもの普段着とは違います。大臣様の元でお務めをなさるときでも十分に通用する正式な御衣装なのですよ」 つんとすました横顔。いつまでも幼いばかりでいるように感じていたが、ふとかいま見る何とも匂やかな仕草にハッとすることがある。手持ち無沙汰なためかせっせと野の花を編んでいる仕草は村娘そのものであるのに、やはり花はいつの間にか美しく開花の時を迎えようとしていた。 「……露」 艶やかに伸ばした髪は、すでに身丈にも余るほどになっている。本人は邪魔で仕方がないと言うが、切らずにおきたいと願うこの娘の両親の気持ちももっともだ。触れると絹糸のようになめらかで、しかもかぐわしい花の香りが辺り一面に広がる。大臣家への出仕にも父について何度も上がった身の上である彼にとっても、これほどの娘は他にないと感じていた。 「やはり、このたびのことは他の者に話を回した方が良いのではないか? やはり、私としても気が進まない。大臣家の侍女など、話に聞くような華やかなばかりのことではないぞ。お前のような娘が遊び半分で出掛けては大変なことになる」 こちらの話は耳に入っているはずなのに、彼女は知らんぷりをして手を動かし続ける。習い事は何をしても長続きしない気まぐれな娘であったが、手仕事だけは器用にこなし難しい組紐などもあっさりと仕上げていた。 大臣家の侍女に近く一名の欠員が出ることになり困っているという話を、半月ほど前に同郷出身の者から伝えられていた。しばらくすれば代わりの者がやってくると言うのだが、その間の三月ほどを埋めてくれる適当な女子が欲しいとの話である。 「……だって、その期間ならばちょうど楡様のご出仕と重なるでしょう? 三月もの長い間、離れて暮らすなど寂しくてとても耐えられそうにありません。たとえお仕えする場所は違っても同じ御館の中にいればお目に掛かることも出来るでしょう? ……それとも、楡様はわたくしと長いこと会えなくても構わないと仰るのですか。今までのように半月ほどお留守をなさる間でも、辛くて仕方がございませんのに」 一時も離れていたくないから――真っ直ぐな瞳でそう告げられてしまえば、さすがの彼であっても言葉を失ってしまった。星の数ほどの縁談にも見向きもせずに、彼女がずっと自分のことを慕っていてくれるのは承知している。そして彼もまた、幼き頃からともに過ごしたこの美しい娘を特別の存在として認識していた。 「まあ……嫁入り前のしばしの修行となれば幸いです。あれも言い出したら聞きませんから、仕方がございませんね」 西南の集落を治める大臣の手癖の悪さはすでに下々の者まで広く知れ渡っている。しかし、今回の出仕先は正妻である翠の君様の元だと聞き、彼女の父親もとうとう最後には折れた。翠の君様と言えば、竜王家の姫君としてお生まれになったこの上なく高貴なご身分の女人である。そのようなお方の元にお仕えすれば、どこに出しても恥ずかしくない娘になるだろうと苦し紛れに告げた。 「……ひどいですわ、まだそのように仰る。いつまでも子供扱いなさらないでと申し上げていますでしょう? 楡様がそのように憎らしい御方だから悪いのです、わたくしこのたびの出仕で精一杯励みますわ。そうすれば、正式に御館様の跡目に決まったあなた様と並んでも引け目を感じなくなりますから」 彼女の双の瞳は、いつでも彼に向かっていた。一点の曇りもなく澄み切ったそれは、全てのわだかまりをもあっさりと解かしてしまう。 「どうか、そのときはわたくしを必ずや楡様の妻にしてくださいましね」
愛おしくて、仕方なかった。 共に想い合うふたりが結ばれるのは当然のこと。彼女の身分の方が若干低いことが唯一の気がかりであったが、彼の両親はそのようなことを気にするような小心者ではない。周囲の誰も彼もから祝福され、すでに幸せの全てを手に入れたような心地になっていた。
「――全く。若様もじれったい御方ですね。このように何もかもご準備なさって、この上に何を躊躇われるのです。正式なお世継ぎのお披露目なんて待たずに、さっさと祝言を挙げてしまえば宜しいのに」 乳兄弟の気安さか、荻野は自分の主である彼に向かっても何の遠慮もなかった。旅支度の準備をてきぱきと調えながら、口の動きもいつものことながらなめらかである。すでに恋仲になった男との祝言が控えていたが、この者の夫になる相手には頭が下がるばかりだ。こんな風に何もかもに口を出されては、並の神経ではやりきれない。 「何をしているのだ、そちらの行李には手を付けるなといつも申しているだろう」 出来れば応戦してやり合うのは避けたいところであるが、このようにあちらこちらをひっくり返されてはたまったものではない。家族にも告げぬままに溜まっていく荷物たち、そこには彼の思いの全てが詰まっていた。地主の家に生まれ、贅を尽くさないまでもそれなりの自由な金銭は与えられている。そのほとんどの使い道は決まっていた。 「ああ、本当に! 露草はなんと幸せ者なのでしょう、このように若様から想われてそれを当然と受け止められるのですから。まあ、こちらの絹は? 何とも美しい、不思議な織りですわね……」
――このたびの出仕から戻ったそのときには。 誰かと示し合わせたわけではなかったが、すでに本人たちも周囲の者たちもそのときを知っている様子であった。彼とて元服を終えて二年、妻を娶ることに何の支障もない。もう少ししっかりしてからと躊躇う声も聞かれたが、彼女が同い年であるからこれ以上後に延ばすのもあまり得策ではなかった。
春、舞い散る花びら。その向こうに見え隠れする幻影。遠ざかる夢、追いかける腕も届かず、先へ先へと逃げてしまう。
幸せは望むほどに長くは続かないことを悟るのに、その後そう長くは掛からなかった。
………………
久しぶりに見た夢は、目覚めても重く額の辺りに張り付いたままであった。外は昨夜の荒れが嘘のように静まりかえっている。天窓から差し込む光もまだ淡く、夜明けから間もない時刻を思わせた。 「何事だ、騒々しいではないか?」 寝崩れた寝着の上からとりあえずの重ねを羽織っただけの姿であったが、戸口の向こうにいるのはそれを気にするような相手ではない。差し込み式の錠を外すと、こちらが手を添えるまでもなく戸はがたがたとひとりでに開いた。 「――どうした?」 思わずそう声を掛けていた。相手を気遣う言葉など、もしも胸に浮かんだとしても容易には口に出さない性分であったが、このときばかりは仕方がなかった。 「もっ……申し訳、ございません……!」 一瞬目眩でも起こしたのだろうか、だがすぐに正気に戻る。その後、彼女は気丈にも自分の力で立ち上がり、乱れた衣を整えた。しかし、この態度はどうしたことであろう。普段から口うるさくて敵わない女子ではあったが、普段の彼女はどんな物事にもどっしりと構えまったく動じることはない。だからこそ、やっかいな拾いものをしてしまったときも安心して託すことが出来た。 一体何としたことだろう。一瞬、ひやりとした予感が走り、次の瞬間に慌ててそれを打ち消す。彼女の身辺に起こる大事といえばひとつしか考えられなかったが、それは口に出すのも恐ろしい出来事であった。 「すっかり取り乱してしまいまして、失礼致します。でも、……あの、それが」 どうにか心を落ち着けようとしているのか、胸に置いた手が大きく震えている。ひとつ大きく頭を振って、彼女は何者かを振り払おうと必死になっている様子であった。 「ご主人様、……その、螢火様をご存じありませんか? 今朝、お部屋を訪れるとどちらにもいらっしゃらなくて、慌てております。敷地内や足を伸ばして向こうの野の方まで行ってみましたが、そちらにも見あたりません。このようなことは今までございませんでしたので、……私……」 それは彼にとって、意外な言葉であった。 荻野が口にするまでは予想だにしなかった内容だと言い切ってしまって良い。彼女の身に何か起こるのだとしたら、それは病身の夫に関してのこと。或いは遠く離れて暮らす娘夫婦のこととしか考えていなかった。 こちらの身体の隙間から部屋の中をのぞき込む仕草に、彼女がここに何かの期待を持って訪れたことが分かった。その行為に対しては、口には出さないまでも深い嫌悪の念を覚える。しかし、気の遠くなるような年月を共に過ごし様々な出来事を見守ってきた侍女の胸に何が浮かんでいるかはすでに分かっていた。 「何を申すのだ、馬鹿馬鹿しい。あれのことだ、また気まぐれにどこぞをほっつき歩いているに違いない。お前の探し方が穴だらけなだけだろう、そのように慌てずともすぐに戻って来るはずだ」 全く不安がなかったわけではない、ただ自分の中に浮かんだ最悪の予想をも打ち消すために彼はしっかりとした口調で告げた。だが、その言葉も、目の前の侍女の怯えきった心を和らげることは出来ない。 「いいえ……いいえ。違います、そのように簡単に仰らないでください。ご主人様は何かをご存じなのでしょう、ええそうに決まっております。でも……まさか、あの方が……」
何者にも代え難い唯一の娘に襲いかかった出来事に、その両親は耐えきれることはなかった。 周囲の慰めの言葉も受け入れず館の中に籠もったきりの日々を過ごしていた彼らは、ある朝忽然と姿を消してしまう。もぬけの殻の部屋を最初に見たのが、自分の両親から言付かって訪ねた若き日の荻野であったのである。 その後、村人の必死の捜索の甲斐なく、彼らは山奥の沼ですでに事切れた姿で発見された。将来の全てを約束された幸せな一家の思わぬ結末に、胸を痛めなかった者はいない。皆、忘れたふりをしながら、今でもおのおのの胸に暗い影を落としている。
――無垢な白き山鳥は、その美しき羽を無惨にもがれ夢の全てを失った。
………………
促されるままに訪れた奥の居室。 先に開け放ってあった縁から中を覗けば、奥の部屋も全てそこに人の気配が感じられぬほど片づけられていた。昨夜は確かにそこここに取り散らかしたものがあったはず。しかし、それを告げることはさすがに躊躇われた。
ふと、目の前の全てに底知れぬ違和感を感じる。それを確認するために今一度顔を上げた彼の瞳に映ったのは、昨夜までは確かにあったはずの桜の晴れ着が消えた風景であった。
Novel Index>扉>朱に散る・19
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