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……どこかで、水音が聞こえる。 岩肌から浸み出した滴たちが、いつかひとつにまとまり細く流れ出す。山の斜面を利用して造られた納屋にはそのような場所がいくつもあり、凍てつくこの季節でも変わらずにさらさらと流れ続けていた。 そう言えば聞いたことがある。冬の寒さが厳しい北方の土地では、土を掘って地下に貯蔵庫を造る。その方が地上に蓄える何倍も長持ちするのだと。穴蔵の中というものは信じられないほど一年を通して温度差が少ない。外のものが全て凍り付く季節にも日照り続きで何もかもが渇く季節にも、惑わされることはないと言われていた。 ―― ああ。また、夜が明けたのだわ。 朽ちかけた木の壁はその所々の継ぎ目が歪み、外の光が漏れていた。強い荒れに一瞬のうちに吹き飛びそうなほどに傾いていながら、かろうじてその姿を留めている。かなり腕の良い職人の仕事だと言うことがしのばれた。 重い瞼を開いても、ぼんやりと光を感じ取るのみ。まどろみから抜け出ても、とっさには自分が今どこにいるかすら分からなかった。長い時間同じ場所に座り込んでいるというのに、身体の軋みも感じない。不思議なほど寒さもなく、自分を取り囲む「気」までがほんのりと熱を帯びているように思われた。手足も重く、動かすことすら難しい。しかしその状態を厭う気持ちもすでに消え失せていた。 ―― そうか、まだこの世に留まっていたのだ。 しっとりとした落胆が、胸に忍び込んでくる。ゆるゆると瞼を閉じて目の前が全て闇に包まれても、まだ意識だけが細く長く続いていた。そしてまた、熱い雫が頬を流れ落ちていく。 でも、……もうすぐだわ。だって、昨日よりもまた身体が重くなったもの。 無我夢中でこの場所にたどり着いた夜明けからすでに数日が過ぎていた。全ての真実を知ってしまった今、もうあの居室にもあの人たちの元にも戻れない。自分の存在は、知らぬうちに優しい心を無惨にも切り裂いていく。どんなにか願ったところで、幸せなど手にすることは出来ないのだ。 そう、初めから。 この命は、結ばれたその瞬間から忌まわしい存在でしかなかった。それなのに、何故願ってしまったのだろうか。そんな資格など、最初からありはしないのに。 ―― 母上。 すぐそばにあるはずの懐刀がどうしても見つからない。だが、それを指先に感じたところで、すでに柄を握りしめるだけの力は己に残っていなかった。橘の花が彫り込まれた柄と鞘。視覚は乏しくなった今も、脳裏にはその姿を鮮明に描くことが出来た。
こんなに全てが上手くいくとは思わなかった。 ここはあの男の住まう敷地内のどこかなのだから、容易に見つけ出されてしまうのではないか。初めのうちはそれが恐ろしくてならなかった。しかし表の方で幾度足音が聞こえても、それはこちらに気付くことなくそのまま通り過ぎてしまう。一日二日はそれでも騒がしく思えたが、人々の気配もすでに遠のいていた。 あの御方は、今頃どうしていらっしゃるのだろうか……? もしも罪人である自分が不用意に人々の前に姿を見せれば、いつかは役人に引き立てられることになる。それを危惧して血眼になって探し回るのではないかと思う一方、もうすでに過去のものとして全てをあっさりと切り捨ててしまっているようにも思えた。 出来れば、その後者であって欲しいと願うばかりだ。だが、大丈夫だ。自分はもうどこにも行かない。この場所で最後を迎えるためにただ待ち続けているだけだ。もっと早く、己の命など落とせるものかと買いかぶっていた。やはり大地の神は罪を背負った人間をあっさりとは逝かせてくれないらしい。まだ、しばらくはひとりで苦しめと告げているのだろうか。
―― 楡、さま……。 その名を心の中でこうして呟くことすら、彼は嫌がるに違いない。だがやはり、全てが終わろうとしているこの瞬間に思い浮かべるとしたらあの御方だけだ。またうっすらと瞼を開く。わずかばかりの光しかない暗がりの中で、自分の手元が白くぼんやりと浮かび上がった。 桜花の、晴れ着。長い時間を共に過ごしてきたそれを、自分でも気が付かぬうちに手にしていた。どんなにか恩知らずの娘だと、楡は憤っただろうか。大切な晴れ着を持ち出すなど泥棒猫のようにあざとい、やはりあの男の娘だと大声で罵ったかも知れない。けれど、……これだけはやはり最期まで共にいて欲しかった。 ひとりきりの寂しい夜、幾度この衣を肩から掛けて姿見の前に立っただろうか。見たこともない清らかな美しい姿の娘がそこに立っている。ただの思い過ごしでしかないと知りながら、それでも嬉しくてならなかった。
―― もしかしたら、もう一度だけ夢見ることが叶うのだろうか……?
一枚の衣すら、一度として自分のためにと仕立ててもらったことがなかった。そんな事実を突きつけられ、それでも今ひとたび思いをはせることを止められなかった。あの御方はそれすらもすでに悟っていたのだろうか、だからこそ、あのように冷たい言葉で真実を告げてくれたのか。
再び、意識が遠のいていく。これがこの世の見納めかと開いた瞼に、映るのはやはり闇ばかりであった。
………………
どこからか、ごとんと鈍い音がして、次の瞬間に何かが無理矢理引きちぎられるような音が続いた。そして、さらに水音を立てながら進んでくる草履の音。 ―― そんなはずはない、この場所は今までだって誰にも見つかることはなかったのだから。 重い額でそのように想いを巡らせながらも、なかなか瞼を開くことは出来ない。いや、いい。このままで、構わないではないか。雑穀の麻袋に埋もれていれば、そのまま見過ごしてもらえるに違いない。―― しかし。
自分の少し向こうで足音がぴたりとやんだ刹那、かすれた声が湿った岩肌に辿り着いた。 「―― 何だ、このような場所に。どういうことだ、人騒がせもたいがいにせよ。少しは自分の身の上を思い知ったらどうだ?」 ……まさか。そんなはずはない。だが、この声を聞き違えることなど有り得ない。 急な斜面をほとんど転げ落ちるようにして辿り着いたこの場所、自らの足でやってくるとはよもや思わなかったのに。 忘れていた血潮の流れを再び身体中で感じ取っていた。どろりと重い瞼をようやく開くと、目の前の人はその手に燭台を持ち、まるであの夜立ち去ったままのような変わらぬ姿でそこに立っていた。 「……楡さま……」 やはり、その名を呼んでしまった。そうすることで呼ばれた相手がどんなにか嫌悪の念を抱くかを承知していたのに。案の定、彼は忌々しげに眉をひそめるとそのままくるりとあちらを向いてしまった。 「お前の馬鹿げた遊びになど、付き合ってはおれん。さあ、戻るぞ。この数日、荻野がどんなに心配しているか。あれの姿を見たら、もう二度とこのようなことをしでかす気にはなれぬだろう。……どうした?」 しばらくして。付いてくる足音がないことに気付いたのか、彼は面倒くさそうにこちらを向き直った。 「何をしているのだ、足があるなら自分で立て。それとも何か? 大臣家の姫君とやらは介添えがないと立ち上がれぬとでも申すのか。これ以上ふざけたことをすれば、こちらとしても黙ってはおれぬぞ……!」 彼としては、かなりの激しさをもって威嚇をしたつもりだったのだろう。だが、その声を聞いても螢火は立ち上がることなど出来なかった。何故、どうしてこの人がこの場所に来たのだろう。心の中にあるのは、そのひとつきりの想いだけだ。そして、さらにそれが徐々にまた自分の中に温かいものを宿していく。
―― 良かった、間に合ったのだわ。
何故、そのように考えたのか自分でも分からない。だが、確かにその瞬間、螢火はこの状況をこの上なく有り難いと思っていた。出来ることなら、腕を伸ばして彼に辿り着きたい。だが、そうするだけの力もすでに尽きていた。 「え、ええい! 何をしておる、ほら立て! 立てと言っているのが、分からぬか……!?」 刹那。 足早に近づいてきた草履の音がすぐ前で止まる。そして、次の瞬間に片腕を強く引かれた。 「……あ……!」 ぐしゃり、と鈍い音がして、宙を舞った身体がそのまま崩れ落ちた。身体に焼け付くような痛みが走り、それが動きを妨げる。すぐに起きあがろうとしたがそれも出来なかった。 「―― 何だ、これは……! どういうことだっ……!?」 すぐそばで、もう手の届くほどの距離で楡の声がする。 そのことに限りない幸せを噛みしめていた螢火はその次の瞬間には再び動くことのないと思っていた自分の身体がふわりと起きあがるのを感じていた。そして、首筋に両手首にと冷たい体温を覚える。何故この人はこんなにも凍えているのだろう、ただそれが不思議でならなかった。 「ひどい……熱だ。……どうして……」 そのまま強い力で持ち上げられそうになり、あまりの激痛に知らず身体が大きくしなっていた。声にならない呻きを喉の中に押し込めて、自分でも信じられないほどの勢いで大きく頭を振る。その態度でこちらの言わんとするところを悟ったのであろう、楡は観念したように元のようにその場に膝をついて座った。そして今度はかなりの注意を払いながら、こちらの身体をゆっくりと揺り上げる。 ―― 一体どんなにか呆れ果てていらっしゃることであろう。 懐刀とはもしもの時にはお仕えする主君のお命をお守りするために用いるもの―― 長いことそう教えられ信じていた。鋭い刃はひと突きで敵を殺めることが出来る、それくらい頑丈に出来ているのだと。だから、……こんな頼りない身体など他愛のないものだろうと考えていた。なのに、実際に行為に及ぼうとしても上手くいかない。自分で自分を殺めることは想像以上に難しいことであったのだ。 試しに手首に刃を当ててみると、いとも簡単に傷口から血が噴き出してきた。だが、思ったよりも浅かったのかすぐにそれも止まってしまう。何故だろうと何度も何度も斬りつけてみたが、同じことであった。確かに激痛は感じるものの痛みほどの効果は得られない。そう言えばと思いだし、次に首筋に刃を突き立ててみたがこちらもなかなか上手くはいかなかった。 確かに、楡の言う通り、自分は愚かなばかりの人間だ。もっと用意周到に全てを運ばなくてはいけなかったのに、このように思いつきで行動してもう少しのところで見つかってしまった。こんなはずではなかったのに、誰も知らない場所で静かに最後を迎えるつもりであった。亡骸を見ることすら、この人は良しとしないであろうから。出来ることなら全てを土に還してしまいたかった。
―― だのに、何故。わたくしは今、こんなにも満ち足りた心地でいるのだろう……。
すでに自分のものであることも信じられないほど、身体は重く動くことさえままならなかった。瞼を開いてみたくても、そうすることすら難しい。だが、この瞬間、螢火はまるで大きな翼に包まれ守られているような心地よさを全身に感じ取っていた。 「楡……さま」 ほとんどが息ばかりにかすれてしまった声。だが、ようやく目を開けて視界の向こうにいる人の顔を見上げることが出来た。だがそれも霞が掛かったように遠くはっきりとは見えない。 「苦しいのか? そうだ、これほどの熱ならば無理もない。少し我慢しなさい、すぐに居室に連れ帰って薬師を ――……」 ぼやけた口元が動き出す。しかし、螢火はまたかすかに首を横に振った。そして必死の思いで腕を伸ばしその人の衣を掴む。そこもまたしっとりと濡れそぼっていた。 「……しばらく、このままで……」 辛いのかと問われ、またかぶりを振った。いや、自分ではそうしているつもりであるのだが、きちんと相手に伝わっているのかどうかは分からない。ひとつの動作をするだけで、さらに身体にずしりと重みが来る。このままどんどん沈んでいきそうだ。ああ、しかしなんて温かいのだろう。
「あの、……楡さま。名を……わたくしの名を、呼んでくださいませんか?」 なんて弱々しい声なのだろうか。だがしかし、これが自分の声なのだ。今となっては他には何も、己の意志を伝える手段がない。霞の向こうの彼は、どんな顔で反応しているのかも分からなかった。 「……螢?」 こちらが上手く聞き取れないと思ったのか、少し顔をこちらに寄せてくれた。そんな何気ない行為がとても嬉しい。螢火は、自分の中の感情の全てが今ようやく解き放たれた気がしていた。 ふわりと自然に笑みがこぼれてくる。この人の前ではどうしても硬い表情にばかりなっていたのに、なんとも不思議なことだ。 「ええ、……そうです。螢火です、―― 露草ではなくて」 震える声でそう絞り出した刹那、螢火の頬にまた熱いものが流れ落ちた。
Novel Index>扉>朱に散る・20
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