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―― ああ、そうなのだ。そうであったのだ。
洗い流された眼で見上げた先にあるのは、揺れる濃緑の瞳。見つめられることがたまらなく恐ろしくて、またその一方で全く別の感情を抱いていた。慣れてなかったから、こんな風に真っ直ぐに「己」を視界に捉えられることに。 この人に出会って初めて知った。今まで自分という存在が、どんなに軽んじられていたのかということを。そう、……周囲の誰も彼もからまるで「もの」を見るような視線を投げかけられていた。この身は所詮、「道具」としか扱われてこなかったのだ。 真実の言葉だけが、胸に突き刺さる刃となる。しっかりと自分に向けられているからこそ、痛みを感じるのだ。 何故ここまで冷たく扱われるのかと口惜しく思った瞬間がなかったわけではない。だがしかし、そうでありながらも心は深く満たされていたのだ。たとえそれが、かりそめのものであったと気付いてしまった今となっても。
―― お前など引き取ったところで、何の罪滅ぼしになるとも思えぬのに……!
吐き捨てられるように放たれた言葉、憎悪の色に濡れた瞳。 その瞬間に全てを悟った、この人こそが自分が誰よりも深く償わなくてはならない相手だと言うことを。たとえどんな仕打ちを受けようと、あらがう権利など自分にはない。何もかも余すことなく受け入れなくてはならないのだ。 「露草」、と。母の名を口にした刹那、にわかに揺れた腕。それが全ての答えだった。
「……本当に、本当に申し訳ございません……。楡さま、この先はどうぞ母上を恨まないでください……」 なんと言って詫びればいいのかも分からない。両手をあわせて誠意を見せることすら叶わず、ただただ許しを請うことしか出来なかった。 この御方は、長い間自分のふたつに割れた感情の中で戦ってきたのだ。「露草」という女子を愛おしむ気持ちとその裏切りを憎む気持ち。相反する心の中で、辛く長い時を過ごして来た。
螢火の母・露草の最大の過ちは、自分という存在をはっきりと認識していなかったことだ。広く周囲を見渡す「目」を持ちどう振る舞うことが己にとって得策かをはっきりと承知していれば、我が身に降りかかる不幸も未然に防ぐことが出来たであろう。 「お放しくださいませ! 困ります、このような……」 それはお仕えする翠の君さまが夫君である西南の大臣・邇桜様と共に都に上がられていた数日のときに起こった。主のいない館に前触れもなくふらりと現れた大臣の弟君が、寝所近くの広間で我が物顔に振る舞い始めたのである。もちろん留守を仰せつかった侍女たちは大臣様と縁続きのその人に粗相のないようにと必死で取りなした。しかし、それがかえって彼の態度を増長させていく。 御館に上がって日の浅い露草は、周囲の不穏な空気をも察することが出来なかった。いつもよりも皆が慌ただしく立ち振る舞っている様を興味深く思い、自分は入ることを許されていない奥の間に何かとても楽しいことが待っているような気がして来る。「あなたはまだ、きちんと振る舞えないから」と侍女長に冷たくあしらわれるのも面白くなかった。 ようやく先輩の侍女からその部屋に膳を運ぶ用事を頼まれ、迷うことなく承諾した。わざわざ普段よりも上品な重ねに着替えるように言われる。金糸銀糸を織り込んだそれは、見た目に反し羽のように軽く胸が踊った。 ―― これで、里の皆にも自慢することが出来るわ。わたくしにきちんとしたお務めなど無理に違いないと決めつけた人たちもいい面の皮ね。 大臣様の弟君ならば、この西南の集落でもかなりの地位にある御方に違いない。ご立派な身分にある方にきちんとおもてなしが出来れば、ご実家からお戻りになった翠の君さまもことのほかお喜びになるだろう。また、何かご褒美をくださるかもしれない。 しかし。 一度膳を置き襖を開けた向こうに見たのは、想像していた情景とはだいぶ違うものであった。そこにいらっしゃったのは、なにやら細面の頼りなげな御方。あの大臣様の弟君とは思えない面立ちであった。お召し物はかなり高価な品であるように見受けられたがそれもすでに乱れ、酔いの回ったその目は生臭く血走っている。手にしていた杯を床に投げると、彼は顎で露草を促した。 「ほほう、噂通りの美しさだ。これならば、兄上がご執着なさるのも無理はない。しかし……もったいないことだな、あの奥方様に口止めされてはさすがの御方も手も足も出まい。ふふ、哀れなものだな……」 目の焦点も合わぬほどに酒を過ごしているはずなのに、押さえつける力は思いがけず強かった。あまりのことに声を上げることも出来ないまま、流されていく。何故、このような仕打ちを自分が受けなければならないのかそれも分からぬうちに、悪夢が過ぎていった。 「……ひどい、どうして……っ!」 ようやくほころび始めたばかりの蕾を無惨にもまき散らされ、激しい痛みと嘆きの中でようやくそれだけを呻いた。しかし、傍らの人は勝ち誇った笑みを浮かべ、何事もなかったかのように酒をあおっている。 「聞くところによれば、お前には許嫁もいたらしいな。しかし、もう今となってはそのことは忘れろ。すでに過去のことなのだからな」 さらにいやらしく口元が歪む。何故、ここまで鬼のような心を持った者がいるのだ。泣き濡れた頬をぬぐうことも出来ずに顔を上げれば、嫌でも現実を突きつけられる。あちらこちらに散らばった衣、人形のようになすすべもなく身包み剥がされ嬲られた我が身。白い柔肌の至る場所には、消えることのない男の痕跡が見える。 「ふふふ、そうやって涙に暮れる姿も風情があっていいな。だが、何も嘆くことはない。お前はもう今日から俺の女子だ。すぐに支度しろ、館に連れて戻るぞ」 異を唱えることが許されないことも、そのとき初めて悟った。何もかもが計算ずくで行われたことであったのである。男は初めから兄が目を付けていた新参者の侍女を横取りすることを目的として留守宅にやってきた。まるでゆっくりと真綿で首を締め上げられるように。気付かぬうちに、露草の逃げ場はなくなっていた。
「母に近しい方にあとから詳しく聞きました。楡さまは父の側女になってしまった母を追いかけて、わざわざ館までいらしたのですね。そして、……危険を承知で母に文を」
どうにかして、助け出してやる。何があっても、一緒に里に戻ろう―― 変わらぬ想いを綴った文を見ながら、露草はただほろほろと涙を流していたと言う。決して許されることはない。こうして囲われてしまえば、許しがなければ死ぬまでこの場所を出ることは出来ないのだ。 そして。約束の場所に、彼女が現れることはなかった。
「きっと、楡さまはそのことを恨んでいるに違いありません。母が自ら父の元で暮らすことを選んだのだと、そうお思いになったのでしょうね。でも……真実はそうではないのです。母は……母は、あなたの言葉を信じて密かに父の館を抜け出すつもりでおりました。しかし、それを決行するそのときになって……」
―― 懐妊。 思いも寄らぬ事態に、彼女はまた逃れられぬ運命に翻弄されることになる。螢火の父には男子が少なく、そのどれもが病弱で跡目として立派に育つか危ぶまれていた。それからは周囲の警護も厳しくなり、とても人目を盗むことなど出来なくなる。
「……わたくし、楡さまの眼差しが好きでした。向けられるのは冷たく拒絶するものばかりでしたが、それでも。他の誰でもない、それがわたくしのみに与えられたものだと信じられたから。……だけど……」 この人もまた、この身をすり抜けて違うものを見つめていた。それを知ってしまった今、頼るべきものも全て失ったと言っていい。 「これ以上楡さまのおそばにいては、さらに苦しみを与えることになってしまいます。もう、……十分なのですから。どうぞこのまま捨て置いてください、お願いします……」 そう告げながらも、必死でしがみついた衣から手を離すことがどうしても出来なかった。こんな状況にあっても、己の心はまだ何かを求め続けている。なんて滑稽なのだろう、愛される資格などどこにもないのに。 とっくに塞がったはずの傷口が焼けるように熱い。幾度となく己の身に刃を突き立てながら、今少しの力が足りなかった。もっと潔く刃を引くことが出来たなら、全てから解放されることが出来たのに。
―― 螢。 差し出された腕。あるはずのない幻影に、ぼんやりと見入っていた。二度とお目にかかれないと承知しているのに、それでもまだこんなにも求めてしまう。ああ、なんて浅ましい心。何故ここまであざとい自分になってしまったのだろうか。
早すぎる心音、荒い呼吸。もっと先へ先へと、この命も今ようやく流れ出そうとしている。早く振りほどいてくれればいいのに、こんな風に優しく包まれたらまた自分を見失ってしまいそうだ。 かつてこんなにも安らかな心地が、我が身に訪れたことがあったであろうか。実の母にすら疎まれ続けたこの身。終焉を迎える刹那、最後にありもしない夢を見ているに違いない。そもそもこの御方が、自分を探してくれる奇跡など初めからあるわけもないのだ。 焼け付く頬を広い胸にそっと押し当てる。ああ、なんて現実味のある幻なのだろう。心の全てが今、ゆっくりと溶け出していくようだ。 「……あ……」 わずかばかり浮き上がったと思った次の瞬間に、ずるりと身体が堕ちていく。崩れ落ちる我が身をどうにかして支えたくて必死にしがみつこうとした。だが、逞しいその身体に腕を回す力は残ってはいない。衣の表面を指先が滑っていくばかりだ。 「無理をするのではない、……大人しくしていなさい」 こちらの心を全て汲み取るがごとく、背中を支える腕に力がこもる。柔らかく揺り上げられて、さらに彼の体温を熱く近く感じた。……いや違う、そんなはずはない。自分の中に湧き上がってくる感情を必死で打ち消してはみたが、それでも心は止まることが出来なかった。
もしも、幸せに「かたち」があるのだとしたら、こんな風にまるくやわらかなのだろうか。
「楡さま……」 額を頬を頼りなくすり寄せる。振り払われないことを祈りながら、あるはずのない「今」に酔いしれていた。たとえこの先にどんな地獄が待っていようと構わない。 「こんな……ことを申し上げたら、お笑いになるのでしょうね。でも……わたくしとてひとりの女子、何も知らぬ幼い頃には大それた夢を描くこともございました。我ながら、馬鹿げたことだと情けなく思いますけど……」 待っていた、長い間。いつか現れるその人の存在を。偽りの微笑みに包まれた世界から、自分を救い出してくれるただひとりの人。指先がほんの一瞬触れ合っただけで、お互いに無二の存在だと気付くことが出来るのだ。今は辛いばかり、でも大丈夫。いつか、……いつか光を失わずにいれば、その日は訪れる。 「わたくしのことを誰よりも何よりも大切に想ってくださる御方、その方と巡り会えたときにようやく長い旅は終わるのですわ。そして……その先は、片時も離れることなく温かい腕の中で生涯を過ごすのです。そう信じていれば、どんな境遇にあっても自分を失わずにいることが出来ました。本当に……ただ夢見ていたあの頃が一番幸せだったのですね……」 母親から疎まれる理由さえ知らず、どうしたら愛されるのかとその方法を必死で探し求めていた。小さな頼りないばかりの存在。だが何も持たずとも、限りない希望だけは胸にしっかりと抱いていた。 ―― 欲しかったのは、ただひとつの想い。しかし、それこそが自分にとって決して届くことのないどこまでも遠いものであった。 「こう……していると、まるであの頃の夢が叶ったような気がしてしまいます。ああ、なんと温かいのでしょう。本当に……こんな風に……」 ほろほろと頬を雫がこぼれる。我が身を憂えて泣くことすら、許されない行為のような気がしていた。だが、今ならきっと全てを受け入れてもらえる。そう……最期を迎える今ならば。 「申し訳……ございません。今少し、……もう少しだけこうしていてくださいませ。あとわずかばかりです、すぐに終わります。……だから……」 また気が遠くなりそうになり、かろうじて繋ぎ止める。 焼けるように熱い吐息が胸奥から湧き上がってきて、さらに身体は熱を帯びてきた。それなのにその一方でぞくぞくと寒気がしてくる。今この瞬間にも、とてつもなく強い力が自分を捕らえ、そのまま地の底に引きずり込もうとしているのだ。 その気配をどこかで感じ取ったのか、抱き留める楡の腕にぐっと力がこもった。そしてまた、しっかりと揺り上げられる。 「ば、馬鹿な。何を申す、そのようなことあるわけもない。螢、お前はこのように若く美しいではないか。何故、嘆く必要がある。人生は長い、この先もまだ知らぬ楽しいことがたくさん待っているのだ。このまま散りゆくことなど、許されることではないのだぞ……!」 やっと楽になれると思ったのに、強い力で引き留められる。それと共に身の引きちぎれるような痛みが戻り、螢火は喉の奥で小さく呻いた。同じことなら、捨て置かれた方がどんなにいいか。わざわざ苦しみを長引かせることなど望んではいない。早く……早く、楽になりたかった。 しかし、小さな抵抗すら楡は受け入れてはくれない。乱暴なほどに揺さぶられて、遠のき始めた意識を無理矢理に引き戻されていく。 「ああ、そうだ。美しい衣などどうだ? 若い娘ならば誰でも飽くることなく幾枚でも欲しがると聞くぞ。居室にあるものはどれも古めかしいばかりだと、前々から荻野にも言われていた。それならば、新しく今風のものを求めればいい。いくらでも、欲しいだけ与えよう。金などあり余るほどにある。日に何度も取り替えて、それでも追いつかぬほどに集めよう。 ―― いきなり何を仰るのだろう。 すぐ間近に迫った真剣な眼差しが信じられなくて、螢火はすでに霞み始めた視界を必死に辿った。焼け付くほどに熱を帯びた身体が、きつく抱きしめられる。もうそれだけで、夢心地だった。 「ああ、そうではなかった。心か、心が欲しいなら、いつでも私のものを差しだそう。こんな老いぼれで構わぬのなら、残された全ての時をお前だけのために使ってもいいのだよ。だから、―― だからもう嘆くではない。傷などすぐに癒える、どんな高名な薬師でも呼んでやる。大丈夫だ、……心配などするな……」 ぽつんぽつんと頬に雫が落ちる。見上げた双の瞳から、今溢れ出たばかりの心がこぼれてくるのだ。あとからあとから、それは留まることもなく螢火の顔に首筋に腕に伝っていく。 「……にれ、さま……?」 もしもこの瞬間が都合のいい夢であったとしても、とても信じられない言葉だった。ほとんど息にしかならない声で、それでもどうにかして応えようとする。痛みを堪え続けてすでに感覚のいくらも残っていない身体が、その全てで喜びを伝えたがっていた。 「本当にすまなかった、お前がここまで思い詰めてしまうとは思わなかったのだ。……露の残した娘を引き取ることで、私は自分の罪の全てが許されるような気がしていた。だが、それは違ったのだよ、お前はどこから見てもあの男の娘だ。それを……憎まなくてはならないのに、気付けば惹かれ始めている自分をどうしても信じることが出来なかった。
ふわりふわりと、身体が浮かび始める。 もう、少しも辛くなどなかった。未だかつて味わったことのないほどに温かい光が、ゆっくりと我が身を包んでいく。震える指先が愛おしい人の頬にようやく辿り着いた。
「……わたくし、今この世の誰よりも幸せな女子になれたのですね。本当に……こんなふうに……」 一瞬だけかすめ取ったその輪郭はしっとりと濡れそぼっている。自分に向かう真っ直ぐな瞳。返事の代わりにその手を静かに握りしめられて、螢火はまた淡く微笑んだ。
―― そうか、ようやく全てが終わるのだ。
長かった旅、あてどなくさまよい続けてきた我が身。探し求めていた最後の扉が、今目の前に現れる。 「楡さまは本当にお優しい御方、……深いお心をお持ちの方。出来るなら、ずっと……このままこうしていたかった……」
衣を握りしめていた片腕がするりと抜ける。その瞬間に、全てが闇に変わった。
Novel Index>扉>朱に散る・21
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