TopNovel Index>朱に散る・22


…22…

 

 ぼんやりと瞼を開いた向こうに、やわらかなほの明かりを感じた。

 次第にはっきりと広がっていく視界。ゆらゆらと帯になった輝きが、障子戸の桟の隙間から注ぎ込んでくる。かなり日も高くなった頃なのだろう、迂闊なことに表の木戸を開けた音にすら気付かずに眠り込んでいたようだ。

「お目覚めにございますか?」

 こちらの気配を感じ取ったのか、次の間から控えめな声がした。少しの間をおいてから、ゆっくりとふすまが開く。昼間の明るい光と共に、優しい笑顔の侍女が顔を覗かせた。すぐには身を起こせないままでいることを咎める素振りすらなく、静かにしとねのそばまで歩み出る。その装束も日に日に軽く淡い色彩に変わりゆき、確かに新しい季節が訪れているのだということを教えてくれた。

「昨夜までの荒れ模様が嘘のように、今朝はとてもいい日和にございますよ。さあ、早く朝餉を召し上がってくださいませ。お加減が宜しければ今日は思い切って御髪を洗いましょう、この陽気ならば夕刻までにはすっかり乾くと思いますから」

 最初からそのつもりであったのだろう。彼女の背後にはもう一通りの道具が準備されていた。身丈よりも長い髪を丁寧に洗って乾かすのはどんなに急いだところで一日仕事になる。これは早くこちらが支度を整えなければと思い、けだるい身体をようやく起こしていった。

 用意された膳は、そのほとんどが以前と変わらない品揃えになっている。原型を留めないほどにすりつぶしたものばかりだった頃を思うと夢のようだ。芽吹いたばかりの山菜をさっとおひたしにしたものも香り高く、この季節にしか味わえない特別なひと品である。荻野のきめ細やかな心遣いは出会った頃と少しも変わることなく、どうかするとくじけそうになる心を絶えず温めてくれた。

 ゆっくりと喉を流れ落ちていく汁のぬくもり。当たり前の感覚が我が身に戻ってきていることを実感できる瞬間だ。初めは頬に当たるまばゆい光さえ、ぼんやりとしか感じ取るのがやっとだったのだから。

 

 自分がここに運び込まれたとき、すぐに呼び寄せられた馴染みの薬師の反応はたいそう難しいものであったと聞いている。助かる確率は三分ほど、しかも一命を取り留めたとしても元通りの生活が送れるほどまでに回復するのは万にひとつの希望でしかないときっぱり告げられたそうだ。

「本当に……あのときのご主人様のご様子と言ったら、とても言葉では言い尽くせないものでございました。あの冷静な方が人が変わったように取り乱されて、私もどう取りなしていいのか困り果てましたわ」

 山際の納屋から上がってきた楡は、あらん限りの大声で荻野の名を呼んだという。すぐに居室を飛び出してみれば、そこに立っていたのは髪を振り乱し鬼の如く赤ら顔をした男。ほとんど聞き取れないほどの叫び声で早口にまくし立てるその姿は、長年お仕えしたその人とは似ても似つかない醜態であったと言う。

「早く薬師を呼べ、国中の全ての者を呼び寄せろとそれはそれはひどい剣幕で。あの場に私以外の者がいなかったことが本当に幸いでしたわ。もしもあのお姿を一目見たら、誰もが腰を抜かしてしまったでしょう。私もこのたびのことではご主人様には並々ならぬ憤りを感じておりましたけど、それを口にすることなど全く出来ない状態でございましたわ」

 実際、国中の薬師を集めることなど出来るはずもなかったが、それでも遙か都からも高名な薬師を幾たびも呼び寄せたと聞いている。
  つい最近まで首すじと手首に用いていた貼り薬も本来ならば王族の方のみに用いられる稀少な品で、闇値では目の飛び出るほどの額だったらしい。はっきりした数値は怖くて聞くことが出来なかったが、三日ごとに取り替えるその一枚で庶民が一年以上暮らしていけるほどのだとも言われた。

 ――そのようにしてまで、繋ぎ止める価値のある命とも思えないのに……。

 手厚い看護を受けながら、ものも言えぬままひとりそう考えていた。もしも自分の意志で自由に動く身体があったならこのように分不相応の扱いなど受けずに済んだのに、全く心苦しいばかりである。

 昏睡状態にあった頃、楡は昼も夜も休むことなくそばにいて涙ながらに自分に語りかけていたのだと荻野は言う。そんな話を繰り返し聞かされるうちに、だんだん現実と空想の区別が付かなくなってくる。あまりにもっともらしく話をされると、まるで自分で直に経験したことのように錯覚してしまうのだ。

 

 ――荻野さまは、わたくしを喜ばせようとしてありもしない作り話をなさっているのだわ……。

 

 長い夢を見ていた気がする。温かくて柔らかくて、全てを許されるぬくもりに抱かれて、もうそこから永遠に目覚めることがなくてもいいと願っていた。悲しみも痛みも全て消えて、何も憂うこともなく漂うことが出来る。最後の残ったただひとつの感情を手放してしまえば、もう怖いものは何もなかった。

 ……それなのに。

 

「今朝は、楡さまはどちらに?」

 初めはこのひとことを口にすることすら躊躇われた。まるで荻野の温かな思いやりすら否定する言葉になりそうで。でも幾度となく口ごもりながらようやく訊ねたその後は、自分でも驚くほどにすんなりといくようになった。

「つい先ほど、お出かけになりましたよ。今日は山向こうまで足を伸ばすとか仰ってましたから。ほんの今し方までこちらにいらっしゃったのですけど」

 道具を揃える手を休めぬまま、さりげなくそう答える。初めからこの問いかけを承知していたのだろう、顔色ひとつ変えない。全く心得たものだと思う。
  確かに言葉通りに自分の休んでいたしとねのすぐそばに敷物が置かれている。表の木戸が全て開け放たれているのも、ここに自分以外の人物がいたことを物語っているようだ。

「……そう」

 ようやく空になった器を脇に置き、傍らの人に悟られぬようにふっと溜息をつく。こんな風にいらぬことまであれこれ考えることが出来るようになったことが、逆に疎ましかった。今日一日生きながらえるだけで必死であれば、余計なことは何も浮かばなかったのに。

 髪を洗うにはかなりの体力を消耗すると聞く。床に伏せった身の上では油を塗り櫛を通す以外に手入れの方法はない。短く切りそろえてしまった方がどんなにいいかと幾度となく提案したが、荻野は頑としてそれを拒み続けた。彼女に課す手間を考えたら心苦しいばかりであったが、助けを借りる身の上ではこれ以上はどうにもならない。長い間その好意に甘んじるしかなかった。

 

 二度と目覚めることはないと思っていた暗闇から引きずり出され、ぼんやりと開いた瞼の向こうにぼろぼろに泣き崩れたこの人の顔があった。再び沈みゆきたいと切に願う意識の端で、どうにか思いとどまることが出来たのは彼女の存在があったからこそである。
  意識は戻ったもののしばらくは首の向きを変えることも指先を動かすことすらも出来ず、このまま廃人として過ごすのかと絶望的な気持ちになった。同じことなら、あのまま朽ち果てた納屋に見捨てて欲しかった。助けてなど欲しくはなかったのに――震える唇でようやくそれだけ告げると、それまで笑みを絶やさなかったその人の頬が瞬時に青ざめた。

「そのようなこと、仰ってはなりません。本当に……あのままあなた様が儚くなってしまったら、ご主人様はどうなってしまわれたか。それを思うと今この瞬間にも……身体の震えが止まりませんわ」

 螢、螢と。動かぬ手を握りしめ涙ながらに名を呼び続けるその背に、掛ける言葉も思いつかないまま。あれほどに思い詰めたお姿を、未だかつて見たことはなかったと繰り返す。瞬く間にやつれ果て、このままでは彼の方が先にどうかしてしまうのではないかと通ってくる薬師までが不安がる有様。一度にふたりの重体患者を抱えてしまったような状況で、身動きも取れぬままの日々が続いたと言う。 

「このように……螢火様がお目覚めになって、私もどんなにか救われましたことか。長い間淀んでいた気が、ようやく流れ出した心地ですわ。本当に、……今はただ元通りに健やかになられることを切に祈るのみです」

 話は聞いた、繰り返し何度も何度も。……でも。肝心のその人は、意識が戻ってから一度も螢火の前に現れてはいない。留守にしているばかりではなく、館に留まっていることも多いと言うのに、三月もの長い間ここまですれ違いを続けるのはどういうことか。

 

 ――やはり……、後悔していらっしゃるのだわ。

 

 夢うつつの記憶。あのときの全ては、自分の願望が見せた幻想に違いないと思っていた。泥にまみれ醜くやつれた身体を、躊躇うことなくしっかりとかき抱いてくれた逞しい腕。真っ直ぐにこちらに向けられた瞳、振り絞るように吐き出される言葉たち。誠の幸福とはこのようなことを言うのだと消えゆく意識の中でもしっかりと感じ取ることが出来た。
  あのまま事切れることができたなら、どんなにか素晴らしいこの世の終わりであったことだろう。遂げられることのない想いがしっかりと実を結び、確かに心がひとつに絡み合っていた。身体中が震え立つほどの深い充実感。

 何もかもが偽りであったと聞かされたとしても、胸に宿る温かさは永遠に消えることはない。真に愛されたと思えた一瞬は身体の隅々まで行き渡り、螢火の心を身体を今も柔らかく包み続けていた。だからといって、この先に何を望むわけもない。

 ――そんな、……あのように我を忘れた振る舞いをいつまでも後生大事に信じているなんてあまりにも馬鹿げてる。わたくしもすでにいくらかの世間を見聞きして少しはものを考えることが出来る、それくらいはお分かり頂きたいものだわ。

 いつまでも姿を見せない館主。

 彼が沈黙のうちに何を告げたいのか、もうその全てを承知していた。だが、そうではあってもこの先、再び間違いを起こすことなど考えられない。どんなかたちであれ救われてしまったのであれば、これも天命としてしっかりと与えられた時間を生き抜く義務がある。それがどんなにか長く辛いものであったとしても、あらがうことなど出来ないのだ。

 

「御髪を洗い終えたら、次はお身体を拭いて衣を取り替えましょう。長いこと寝装束のままでしとねから離れることも出来ず、さぞ窮屈だったことでしょうね。本当に良く辛抱なされました。本日は久方ぶりにこちらの縁までお出でになって、春の庭をご堪能くださいませ。ご回復を待ち望んでいたかのように、花々も見事に咲きそろいましたのよ」

 思いがけないひとことに信じられない面持ちでいる螢火の前に、差し出されたのは新しい春の装束であった。薄桃の絹に季節の花々が溢れんばかりに描かれている。まるでこれ一枚だけで、見事な絵巻物を見ているかのような風情だ。

「こちらだけではございませんわ、他にもすでに数え切れないほど。最初のうちこそは物珍しさに夢中になっておりましたけど、このごろではもう包みをほどくのさえ億劫な有様です。一体、ご主人様も何を考えていらっしゃるのでしょう……、もちろん小袖も袴も下に重ねる薄物も選びたい放題ですわ」

 次の間もすでに奥の半分が納戸のようになっております、と荻野は微笑む。しかしその言葉を聞いても目の前に現物を置かれても、まだそれを受け入れることは出来なかった。

「すでに薬師様より、そろそろ床上げをとのお許しを頂いております。しかしやはり物事は吉日を選ばなければなりません、このごろは空模様も落ち着かずなかなか思い切りがつきませんでしたわ。でも本日はこうして申し分のない日和に恵まれて、誠に宜しゅうございました。
  如何でございますか、くれぐれもご無理はなさらぬようお願いします。お身体にどこか変わったところなどありましたらすぐに仰ってくださいね」

 あまりのことに、しばらくは荻野の言葉に答えることも出来なかった。定期的にこの居室を訪れる薬師の表情もだいぶ穏やかなものに変わり、自分が確実に回復に向かっていることは分かっていたつもりである。意識が戻ってからも二月ほどは奥の間のみで過ごしていた。そのうちにこの地にも遅い春が訪れている。それは日に日に柔らかくなる日差しで感じ取ることが出来た。

「さあさあ、お顔の色もことのほか晴れやかでいらっしゃいますよ。初めのうちはお身体が慣れずに大変でしょうが、それもじきに気にならなくなるでしょう。今日は念入りにお支度しようと、他にも手伝いを呼びました。お気になさらないでくださいね、どれも私の遠縁の者たちですから」

 

 その言葉を待っていたかのように、数名の可愛らしい女の童(めのわらわ)たちが物珍しそうな眼差しで奥に入ってくる。皆、荻野の指示に素直に従いながら与えられた務めをおぼつかない手つきで懸命にこなしていた。
  賑やかなさざめきに囲まれていれば、難しいことを考えるゆとりもなくなってしまう。遠慮がちな問いかけに笑顔で答えながらふと床の間を見れば、あの日のひと枝が今も変わらずひとつだけの大輪の花を今も見事に咲かせていた。

 ――本当に、驚くほどに強い樹なのだわ。

 毎日水を換えている荻野の話によれば、手折られたばかりであったその根元にはすでにびっしりと根が生えているとのこと。枝の先にも小さな芽がぽつぽつと見える。もう少し外が暖かくなれば、庭に直に植えることも出来るだろう。

 

 ゆらりと揺れる純白の花びらの根本は鮮やかな朱色。吸い込まれそうなその色は、螢火の脳裏にあの日の朱野原を再びじんわりと蘇らせた。


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