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あの夢を見なくなって久しい。
誰に何を赦されたとも思えぬのに、眠りはいつしか癒しの時間となっていた。一時などは昼のうたた寝の間にも訪れていたのだから、かなり深い部分まで囚われていたものだと思う。 知らぬ間に負っていた重い荷も全て消え、ただ静かで穏やかな心地だけが残っていた。
………………
今日は一日中、居室の中が賑やかで夕暮れを迎える頃にはだいぶ疲れてしまっていた。夕餉の膳もそこそこに横になってしまい、そのまますっかりと寝入っていたらしい。荻野も彼女が連れてきた女の童たちもすでに退出したのだろう、次の間はひっそりとして物音ひとつしなかった。 開いた視界の向こうは闇色の気。部屋奥の床の間のすぐ脇に、ただひとつの灯りが残っている。控えめに灯された淡い輝きが、ほんのりと部屋壁を照らし出していた。
「……起きているのか?」 どこからだろう、不意に呼びかけられて慌てて身を起こす。だが、声の主はこの奥の間にはおらず、いくら目をこらして見渡しても夜の重い気が辺りを満たしているだけだ。 「今宵、天上の世界は満月であるのかな。このような輝きはなかなか見られるものではない。……どうだ、こちらまで出てきて一緒に眺めよう」 指の先がかろうじてはいるほどの襖の隙間から、白い輝きが漏れてくる。 その声に導かれるように、螢火はしとねから抜け出ていた。身体は不思議なほどに軽く、昼間の疲れなどもうどこにも残ってはいない。少し横になろうと思ったときに、すでに寝装束に改めていた。緩く結ばれた腰帯を確認してから、傍らにある重ねを羽織る。やはり、春とはいえ夜半はかなり肌寒かった。 「……あ……」 静かに開いた襖の向こう。 表戸を開いたままの次の間は、障子戸から差し込む輝きで満たされていた。本当に昼間のような明るさ。これでは表庭に出たら目が眩んでしまうのではないだろうか。
その障子のあちら。縁に控えたその影がゆらりと揺れた。
言葉が、出なかった。しばらくは呼吸をすることすら忘れていた気がする。痛いほどに強い鼓動が胸奥から打ち付け、螢火はただそれに耐えるだけで必死だった。 そんな、……本当にそうなのだろうか。いや、間違いない。あのお声を聞き違えることがあるはずもないのだから。 襖に支えられていた身を、ゆっくりと起こす。そして、見えない糸にたぐり寄せられるように一歩一歩その場所へと進んでいった。 ―― まさか、本当に……? 刹那、胸を突いてこみ上げてきたものを、どうしても留めることが出来ない。震える口元は、すでに用をなさず、ただただ身体中を吹き抜ける熱い感情を持て余すしかなかった。 かつて、これほどの衝撃が我が身を襲ったことがあっただろうか。瞬時のうちに全ての感覚が囚われ、高く高く打ち上げられる。言葉にならない叫びが頭から指先まで走り、どうにかしてその震えを止めようと握りしめた衣はすでにしっとりと濡れていた。 「……やはり、いささか派手過ぎはしないか。このような色目は今まで身につけたこともなかっただけに、ひどく落ち着かない心地だ」 こちらの視線に気付いたのだろうか、庭を向いたままの横顔がふっとほころんだ。 「いいえ……、いいえ。とても良くお似合いでございます」 こちらを向き直る気配に、もう顔を上げていることも出来なかった。ぼろぼろと溢れてくるものが頬を伝い、首筋に衣に落ちていく。 あの日、どこかに片づけられたまま二度と目にすることがなかった衣。始末を終えていなかった裾も今は綺麗にまつられている。 「荻野が暇を見つけては手を加えてくれたそうだ。そうだな、……ところどころおぼつかない針目もあるが、初めてにしてはかなりの出来だと思うぞ。それにどうだ、とても軽くそれでいて暖かだ。これならば庭歩きなどをするときにもちょうどいい」 軽い笑い声、でもどんなお顔をなさっているのかおもてを上げて確認することも出来ない。 ただただ、胸が熱く身体が強い感情に揺さぶられる。幾度も幾度も熱い呼吸を繰り返し、気を鎮めるまでにかなりの時間がかかった。 「あの……楡さま。お願いがございます、どうぞお聞き届けくださいませ」 ややあって、ようやくそう切り出すことが出来た。身体の震えは未だ留まるところを知らず、新たな雫が次々に袂を濡らしていく。 「おお、どうした。何でも申してみよ、遠慮することもない。何か欲しいものでもあるか、色々取りそろえてはみたが若い娘の好みはよく分からない。私の見立てでは不足もあろう」 その言葉には俯いたまま首を横に振るしかない。何を仰るのか、この上に何を望むというのか。あの日の言葉通りに、衣も道具もすでに納戸には収まりきれないほどに溢れていた。荻野の言葉にある程度の心づもりはしていたが、実際に目の当たりにすると想像を絶するものがある。 「いいえ、もう……それは十分すぎるほどでございます。わたくしのお願いは、そのようなことではありませんわ」 ひとつ呼吸をするごとに、胸がひどく痛む。だが、もういいだろう。ここまで良くして頂いたのだ、自分としても精一杯の誠意を見せる必要がある。気の遠くなるほどの幸福に全ての感情が支配されそうになるのを、螢火はかろうじて堪えた。 「わたくしに……しかるべき奉公先を探して頂きたく思います。どのような内容でも構いません、身を粉にして精一杯のお務めをさせて頂きたく存じます」 「―― 螢……?」 驚きを放ったその声と共に、目の前の障子戸が静かに開く。あぐらにしていた姿勢を解き、こちらに向き直る気配。しかし、やはり顔を上げることは出来なかった。 「も、もちろん、わたくしのような罪人に任せる仕事などあまりございませんでしょう。本当に下働きで宜しいのです、雇ってくださるあてがあるのならどちらにでも喜んで参りますわ。そして……出来れば針仕事なども手の空いたときに教えて頂ける場所ならこの上なく有り難いのですが……」 まだ有り余る命、この上は自分の手でしっかりと生きるための糧を得ていきたい。もう二度と流されることなく、己の力でしっかりと大地に根を下ろしたいと思う。 ゆっくりと時間を掛けて養生した結果、ここまで回復することが出来た。あとは自分の力で道を切り拓くことも可能だろう。いつまでもここにご厄介になることは出来ない。もう、お気持ちは有り余るほどに十分に頂いたのだから。 ―― 大丈夫だ、自分もこの御方も。今度こそ、真に救われることが出来る。 「な、何を申すのだ。どうして、お前がここを出て行く必要がある。針ならば、この先もいくらでも荻野に教えてもらえば良いだろう。あれは私が今更言うまでもなく、かなりの腕前の持ち主だ。師匠としてはこの上ない存在だとおもうぞ、何を迷うこともない」 俯いた視界の端にも、揺れる若草の衣が見える。 ああ、……本当になんと幸せなのだろう。自分の仕立てた衣をまとってもらうことが、これほどまでに嬉しく心を満たしてくれるとは知らなかった。もう、多くを望むことはない。どこか遠い地でこの御方を想いながら静かに暮らしていけることが出来ればそれでいい。それくらいならば罪深い我が身でもかろうじて許されるだろうか。 「いいえ、いいえ。これ以上は、いけません。わたくしは……もとよりこちらには不要の人間です。一度ならず二度までも助けて頂いたご恩は決して忘れません、ですから……」 この御方も、もう十分に苦しまれたのだ。だから、もう解放して差し上げなければならない。そのために、ここに自分がいてはどうしても都合が悪いのだ。いくら我が心がそれを望まずにちぎれるほどに異を唱えようとも、屈することなど出来ない。 「……螢」 それは静かな、辺りにしみ通るような声であった。未だ顔を上げることも出来ず、螢火はただ息を潜めてその響きを受け止める。それだけで胸が熱く震えだした。 「お前は……やはり私を許してはくれぬのだな。それはそうだ、今までの仕打ちを思えば信じられぬのも分かる。だが、それも過ぎたこと。これからは螢の望むとおりの男になろう。どのようにして償えばいいのかも分からない、私は……やはりどこまでも、もの知らずなようだ」 ふたりを包んでいた気が、にわかに揺れる。次の瞬間、楡は螢火の両の手をしっかりと自分のそれに包み込んでいた。 「今宵……お前は私の妻となるのだ」 指に食い込む痛みに、螢火の細腕が揺れる。しかし楡は束縛を解くこともなく、さらににじり寄った。 「この日を私がどんなにか待ち望んでいたことか、お前は知らないであろう。あの日から自分の犯した罪に深く苦しみ、幾夜も眠れぬ日々を過ごしていた。そのようにか細い身体で、必死に命を繋いでいるお前が愛しくて仕方なかったよ。 ―― いや、違う。 これは……このようなことが現実に起こるとは到底思えない。まだ、夢の続きを見ているのだろうか。この人の腕にしっかりと抱かれ、最後を迎えるのだと覚悟したあのとき。二度と覚めないで欲しいと願ったのは、他でもない自分自身であった。 「でも、……そんな。だって、楡さまは……」 すぐにでもこの場所から逃げ出したい、でもそれは出来ない。もしも夢が途切れなく続くなら、その中に身を投じてしまいたいと思うもうひとりの自分がいた。それを浅はかであると歯を食いしばってやり過ごす気力すら、徐々に失っていく。 再びこの世に舞い戻り生きる決意をした朝から、この御方とお目にかかれないのがどんなにか口惜しく、しかしその一方ではたまらなく有り難かった。 必死で踏みとどまらなくては、自分の中の欲に負けてしまう。何故、ここまで愚かなのか。頼りない我が心が情けなくて仕方なかった。 「分かっておる、……寂しい想いをさせたな。私とて、早くお前とこうして会いたかった。寝顔を見ているだけでは飽きたらず、無理に揺り起こそうと仕掛けたことも二度三度ではない。だが、……これも自分への戒めだ。いかにしてもお前の身体が元に戻るまでは耐えなければならぬと、荻野にもきつく言われていたのだ」 濡れた頬に指が触れる。そのままゆっくりと、上向きにされた。 「私の……目を見なさい、螢。お前が生死の狭間をさまよい全く新しい命として戻ってきたときに、私も新しい自分に生まれ変わったのだ。もう過去になど囚われることはない、大切なこれからを生きよう。これからはお前が私の心を満たしておくれ、私もお前に負けぬほど深い心を与えよう」 深い濃緑の瞳、まるで森の奥に人知れず水をたたえる静寂の湖の如く静かに揺れている。しかし、……まだ目の前の全てを現実のものとして受け入れることは出来なかった。 「いいえ、……でもわたくしは……」 己の意志で進んだ道ではないにせよ、罪は罪。決して許されることはない。誰からも見捨てられ自ら死を選ぶことすら出来ずに、ただ静かに朽ち果てていくことを望まれた。 誰が忘れても、自分の心にしっかりと刻み込まれた傷跡。悪しき心を未来に繋ぐことなどあってはならない。 「駄目だ、この上に私を拒むことは許さない。お前は……もう誰がなんと言おうと私のものだ。もう二度と離さない」 瞳をそらしたくても、それが出来ない。楡の指先が、大きく震えていた。何もかもが恐ろしい、それでもまだお互いを求め続けている。ふたつの頼りない心がちりちりと怯えながらそのときを待っていた。 「……楡……さま……」 しっかりと眼を開きながらも霞みゆく視界。 崩れゆく最後の心。その向こうに見えたのは、希望なのか絶望なのか。ゆっくりと抱き留められるその腕の強さは疑いようもなかったが、それでも胸に宿る鈍い痛みは決して消えることはなかった。
Novel Index>扉>朱に散る・23
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