TopNovel Index>朱に散る・24


…24…

 

「……震えているのだな」

 衣に手を掛けたその人が、一呼吸を置いてから躊躇いがちにそう告げた。

 自分でももう、どうなってしまうのか分からない。深傷の痛みなどすでになくなって久しかったが、それでも目に見えない恐怖が石つぶてのように次々と我が身に降り注いでいるように思えた。

 ――駄目、わたくしは幸せにはなれない。そんな資格がないことは最初から承知していた。

 それでも、なお求め続けていた。どんなに欺かれようとうち捨てられようと。もしも万にひとつの希望があるなら、その方向に心は必死に歩き出そうとしていた。幾度痛い目を見たところで諦めることは出来ない、自分でもそれがどんなにか愚かなことと知りながらどうしても想いを留めることが叶わなかった。

「……あ……」

 そして、今。自分は一体、どうしてしまったのだろう。

 決して初めて渡る橋ではない、過去に幾度となく柔肌を男たちのの前に晒し、その欲望を受け止めてきた。それこそが生きる手段であると、自分に必死で言い聞かせていた時期もある。
  ただひととき苦痛に耐える覚悟があれば、難しい出来事もあっさりと運ぶことが出来たのだ。どうすれば男たちが悦ぶか、それすらも肌に刻み込んでいる。だから……何も恐れることなどないのに。

「ひどくはしない、だからそのように怯えないでおくれ。ああ、駄目だ。まだ頑なな蕾と知りながら、私はお前を諦めることが出来ない。歳ばかり重ねたところで、何とも愚かなことか。しかし、こうしている今も胸踊る心地を抑えようがないのだ」

 頼りないばかりの寝装束は、瞬く間にその役目を放棄する。閉ざされた闇の中、奥の間であっても暗がりに慣れた視界にはわずかばかりの燭台の光だけで互いの姿をしっかりと確認することが出来た。すでに肩から衣を落とした楡の上半身はまるで若人のように逞しく鍛え上げられ、何かを予期して上気した肌が燃える色に染まっていた。

「おお……これは何と……美しいことだ」

 最後の肌着がはぎ取られ、冷たいしとねをその背に感じ取る。楡の口元から漏れ出でた溜息を聞いて、それまでぼんやりと夢うつつの心地でいた螢火はハッと我に返った。

「あっ……駄目っ! お願いします、……見ないでっ! 駄目、駄目ですっ……!」

 それまで人形のように素直に従っていた娘の突然の抵抗に、楡の動きが止まる。それを幸いにして、螢火は手当たり次第にありったけの衣で覆うと、そのまま部屋奥の壁際まで後ずさりした。

「やはり、いけません。たとえ……楡さまのお言葉でも、これだけは駄目。お許しください、これ以上は……っ!」

 長い間、どんなにか夢見たことであろう。ただひとり、自分を唯一必要としてくれるその人に全てを捧げるという瞬間を。だが、もう遅い。それを受け止めることが出来る自分ではないのだから。やはり、浅はかであった。どんなに求められても従うことなど出来なかったのに。

「どうしたのだ、螢。……そのように震えるでない、何も恐ろしいことなどないのだよ。何故、拒む。お前は私を好いてくれているのであろう、ならばいいではないか。躊躇うことなど何もないはずだ」

 しばらくは何事が起こったのかとうろたえるばかりであった楡も、どうにか気を取り戻したのかゆるゆると螢火の後を追ってきた。しかしここで無理強いをすることは良策でないと承知しているのだろう、はやる気持ちを抑えるように努めて穏やかな声で問いかけてくる。

「いいえ……駄目。何があっても、これだけは。楡さま……わたくしなどに触れないで、必ず不幸になります。そういう女子なのです、どうかこのまま見捨ててくださいませ……!」

 そう告げる間にも新しい雫が頬を伝う。やはりすべてが遅すぎたのだ、もう幸せになどなれる自分ではない。あまたの男たちを受け入れ、その一方で彼らの行く末を呪い続けた身体。いくら身を清めたところで拭いきれない全てが、手垢の如く染みついている。

「楡さまはすでにご承知のはず。わたくしは……あなた様に愛される価値などない女子です。目的を遂げるためにはどんな手段も選ばず、我が身を汚してきました。だから……そんなわたくしに情けを掛ければ、楡さまが不幸になってしまいます。いつもそうでした、男たちが私を自分の好きに扱うときに心の中で恐ろしいことばかり考えておりました。ですから……駄目、どうかお許しくださいませ」

 愛されたかった、だがその想いなど消し飛ぶほどに恐ろしかった。

 やはり自分はここにいてはならない、いつか自分の中の鬼が暴れ出す。今はまだ何も知らない御方であるから真に心を砕いて接してくださるのだろう。でも、それもいつかは終わる。近い未来にその愛がついえたときに、一体自分はどうなってしまうのだろう。それを考えただけで、気が狂いそうだ。

「おお、螢。何を申すのだ、そのようなことがあるわけもない。……いや、それでも構わぬ。もしもお前に呪いを掛けられるなら、それも甘んじて受けよう。全ては愛に狂った愚かな男のしでかしたことだ、もう何があっても私はお前を諦めることなど出来ない。もしもここから逃げようものなら、地の果てまでも追いかけるぞ。全てに絶望して死の国へ旅立つなら、私も共に付き従おう……!」

 それはかつて味わったことのない熱い想いであった。抑えきれない血潮が滾り、そのまま我が身に襲いかかってくる。捕らえられ全ての動きを封じられようと、逃れることなど出来なかった。

「え……そんな、駄目っ! 駄目です……!」

 弱々しく叫びながら、螢火はそれでも抵抗をやめなかった。だが、真の男の力で包み込まれてしまえば、その後はもう自分を護ることも出来なくなる。大きな手のひらが胸を辿り、その頂きを指先でつまみ取る。本能から生まれた微かな反応を頼みに、楡はさらに自分の欲望を全身にみなぎらせていった。
  巧みな手に掛かれば、久方ぶりに味わう快感に忘れていた記憶までも引きずり出されてしまう。そうなれば、まさに荒れ狂う川面を流れゆく一枚の花びらの如く、己の中の熱さを留めることも出来なかった。

 全ての動きを封じ込め、楡は螢火の耳元で熱い息を吐く。

「どんなにお前があらがおうと、私は自分を止めることはない。……分かるな、このときをどんなに待ち望んでいたか、それをこれから余すことなく教えてやろう。本当に……お前を手に入れることが出来るなら、我が命など惜しくもない。そのようなもの、最初から闇の大王にでも地底の鬼にでもくれてやる。だから、どうか……もうこれ以上拒まないでおくれ」

 痛いほどに口を吸われ、抵抗の言葉も吐き出すことが出来ない。しとねまで戻ることなくその場で細い身体を組み敷いた楡は、すでに潤っていたその場所に躊躇うことなく己を突き立てた。

「あっ、……ああっ……!」

 強い抵抗を己の中にしっかりと感じながらも、その一方で自分の身体がいとも容易くその欲望を受け入れていくことを知る。
  こんなことはすでに知り尽くしたことだと己に言い聞かせようとしても、螢火は自分の身体がすでに歓喜に震えていることに気付いていた。しっとりと汗ばんでいく肌、髪を絡め取る長い指。互いの心がひとつに重なり合い、そこから終わることのない新しい悦びが湧き上がっていく。

  身体の中を吹き荒れるいくつもの衝撃は、かつて味わったどれよりも強く鮮明で、それでいて深く温かかった。どんな風にされても、決して突き放されることはない。それどころか、さらに大きな波が襲いかかりそのたびに意識が遠のきかけた。かろうじてそれをやり過ごせば、さらなるたかみが訪れる。

「楡さま……、楡さま、楡さま……っ!」

 額を頬をその人の胸にすり寄せ、うわごとのように名を呼ぶ。そうすればすぐさま答えの代わりに熱くやわらかい愛撫が訪れ、言葉などすぐに使い物にならなくなった。心は心と絡み合わせ、その生々しい感触すら愛おしく思えてくる。
  床上げを済ませたばかりの身体を気遣いながらも楡は己の欲望を止めることはなく、螢火は歓喜の渦の中に幾度となく放り込まれた。そしてすぐにそこから引きずり出され、さらに深い愛を刻みつけられる。楡の手で愛を奏でる楽器となった螢火の身体は、甘いあえぎ声やすすり泣きを絶えずその口から漏らし、さらに互いを深い場所へと誘う。

「ああ、螢……螢……何と美しいのだ。どうしてお前はそのように輝く、そうして消えることのない灯火を私の中に焚きつけるのだな……」

 ここがどこなのか、いったいどれくらいの時が過ぎたのか、それすらも分からなくなっていた。何度めかの絶叫を迎え、はらはらと力尽きた蝶のように楡の上に崩れ落ちてゆく。

  しかしここで意識を手放すわけにはいかない、螢火は未だに荒い息のまましっかりと己の裸体をその人に絡みつける。すぐに薄目を開けた楡は、満足げにその額に頬に口づけ愛に火照った身体を強く抱きしめてくれた。

 

………………


「……どうした?」

 しばらくは互いの呼吸を整えつつ、次第に穏やかになる心音を響かせあっていた。静かにしていてもぽつりぽつりと胸元に浮かび上がってくる玉の汗。その一粒一粒を愛おしむように指でなでつけていく。

「いえ……申し訳ございません。何だか……自分でもよく分からなくなってしまって……」

 決して悲しいわけではない、でも一度堰を切ってしまうと涙がぼろぼろと止まらなくなった。これにはさすがの楡も驚いたのだろう。慌ててこちらをのぞき込んでくる。

「さすがに辛かったか。すまない、自分でも途中からはどうしても止まることが出来なくなっていた。どこか痛むか? 大事はないか……?」

 躊躇いがちにその指先が辿る首筋には、今も生々しい傷跡がくっきりと浮かび上がっていた。どんなに丁寧に処置したところで、この傷は一生癒えることがないと言われている。じめじめとした場所で数日を過ごしたときに細菌が入り込み、化膿した場所がひどい熱をもっていた。もう少し発見が遅かったら助かる見込みもなかったと言われ、楡は半狂乱になりかけたと言う。だが、その憂いの日々ももう過去のもの。

「いいえ、……そのようなご心配は必要ありません。自分でも信じられないほど安らかな心地ですわ……」

 男を受け入れる行為には絶えず苦痛が伴い、幾度繰り返しても決して慣れることはなかった。確かに一度焚きつけられてしまった身体は容易に快楽の海に行き着くことが出来る。だが、その後に襲いかかるたとえようのない虚しさは、いつか己の存在そのものをも否定するものになっていった。

 ――わたくしは、こんな風に身体を開くことによってしか我が夢を叶えることが出来ないのだ……。

 そんな風に自らを蔑むことで、かろうじて我が身を奮い立たせていた。あの頃は到底辿り着くことなど出来ないと思っていた安息を、今ようやく手に入れることが出来たのだろうか。

「このように……真に愛されると言うことは、なんて素晴らしいのでしょうか。わたくし……それに一生気付かずに終えるところだったのですね……」

 今もまだ、完全に解放されたわけではない。自分が背負った罪が許されることはないし、こうして手に入れた夢もいつまた壊れるか知れない。だけど……信じるしかない。ただひたすらに、たったひとつの希望を。

「わたくし……楡さまのおそばにいて宜しいのですね? ずっとずっと……おそばに置いてくださるのですね。どうか……お離しにならないで、もう決してひとりにしないで」

 子供のように我を忘れてすり寄れば、さらに強い力で包んでくれる。よく考えれば、自分はこの人のことを何ひとつ知らない気がする。そして……この人も自分のことをどこまでご存じなのか知れない。でも、それならそれでいいと思う。全てはここから、新しく始めればいいのだから。

「そうだな……私もそろそろ疲れた。この辺で、楽になろうかと思う。そうすれば……螢と片時も離れることなく過ごせるだろう。そんな日々もまた良いものなのかも知れぬな……」

 夢心地のまどろみの中、最後に聞いた言葉は半分意味をなさないものであった。

 髪を梳く指の動きの心地よさに、螢火はうとうとと導かれていく。限りない明日を願いながらしばし迎える安息は、長い間さまよい続けたふたつの魂に新たなる息吹を与えようとしていた。

 

………………


 すでに白み始めた天に、一番鶏の声が響く。

 その下に広がる野は今が芽吹きの季節。柔らかな若葉を静かに夜明けの気に揺らしながら、遠く麓を見下ろしていた。

了(060412)


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物語はひとまずここまで。この後に少しだけ書き足しの「終幕」があります

 

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