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終幕

 

 丘を進むごとに深くなる闇は刻一刻と視界を染め上げてゆく。これには特に選りすぐった勇ましい気性の馬も、足下を気にしてなかなかに走りにくい様子にある。しかしそうではあっても上に乗る主人の意には黙って従う他はない。
  ようやく馴染みの土地にたどり着く頃には、すでに闇は向こうが見えぬほど深いものになっていた。門先でひらりと鮮やかな身のこなしで地に降り立てば、手綱は控えていた下男に託しさらに先を急ぐ。しっとりとした露が袂を濡らし想像以上に動きにくかったが、今はそのようなことを気にしている場合ではなかった。

 久方ぶりの帰館に庭木の茂りも一段と色を濃くしたように思える。暗闇にあってもすんなりと伸びた息吹が肌に感じ取れた。背後に広がる朱野もそろそろ色づき始めた頃であろう、明日はゆっくりと辺りを散策するのも良い。ようやく堅苦しい出仕が終わり、しばらくはゆっくりと身体を休めることが出来る。

 ――ねぐらなどどこでも同じ、身を横たえることさえ出来れば場所など関係ないと思っていたのに。

 ここしばらくの間の己の中の変化に、今更ながら驚かされる。以前ならばこのように西南の大臣家から戻る際には必ず途中の宿に立ち寄ったものであるが、今はどんな夜更けになってもその日のうちにどうにか戻りつきたいと願ってしまう。

 遙かに見えるあちらの山肌にわずかに残る光。目をこらしても瞬く間に消えていくその向こうの空は薄紫に滲んでいた。

 

「……楡さま、楡さま……!」

 まだその向こうにあるはずの居室の灯りすら確認できぬと言うのに、どこからともなく小鳥のさえずりのような呼び声が聞こえてくる。彼は一度立ち止まり、耳を澄ます。そしてすぐに聞こえてきた草履の音の方へと向き直った。

「お帰りなさいまし、予定よりお戻りが早まったと聞いて今か今かとお待ち申し上げておりました……!」

 闇色の帯となり流れる気の向こうに、ふわりと一瞬広がった朱の輝き。その次の瞬間には温かなぬくもりが勢いよく胸に飛び込んできた。

「おお、……おお。また、このように慌てて。暗がりで急ぎ足になっては、危ないではないか」

 口では軽くたしなめてはみるが、恋しい気持ちはこちらとて同じ。ひづめの音を聞いて飛び出してきたのだろうか、その手には灯りすら持ってはいない。衣も部屋に留まっているときと変わらず長く引いたままで、身丈に余った部分は流れ落ちる髪と共に地に着いている。しかし彼女にとって、今はそれどころではないらしい。

「……だって、このたびは半月ぶりのお戻りなのですもの。長いことお留守にされて、とても寂しゅうございました。ようやくお目にかかれるというのに、どうして部屋で大人しく待っていられましょう……?」

 そう告げる間にも、細い腕が野歩きで乱れた装束にしっかりと絡みつく。額を衣に強く押し当ててすり寄る様もたいそう可愛らしい。年頃の娘には似合わぬ幼い仕草ではあったが、それをたしなめることが彼にはどうしても出来なかった。

「そうか、そうか。それではこの先の話は、衣を改めてからゆっくりとしよう。今宵はどんな恨み言でも、存分に聞いてやるぞ」

 豊かに伸ばした髪に指を差し入れれば、ほんのりと花の香が薫りたつ。この頃ではようやく荻野以外の者も怖がらずにそばに寄せるようになったと聞く。世話人の手が増えたことで、山里には似つかわしくないほどの美しさはさらに際だってきた様子にある。皆が競い合って手を掛けるその輝きは、このような闇色の帯の束ですら隠すことが出来なかった。
  娘がまとう夏装束は涼しげな浅黄色。幾枚か濃い色を下に重ねても、山頂近いこの場所では照りつける真夏にあっても決して汗ばむことはない。この者は身につける色目によって己の輝きを器用に変える。どんな色でも素直に着こなしてしまう素直さが、時として痛々しいほどだ。

 ――あわよくば国母にも。

 そうのようにかの愚人が望んだのも、ただ我欲からだけではなかったのかも知れない。誰よりも彼女自身が葬り去りたいと願っている忌まわしい過去。だが、やはりこれだけの美しさを目の前にすれば、どんな男であっても道を違えることなど少しも厭わなくなるだろう。

「……いいえ、そのような恨み言など。こうして再びお目にかかれただけで、もう胸がいっぱいで言葉などひとつも思い浮かびませんわ」

 そう告げながら、さらにきつくしがみついてくる。腕をほどけばたちどころに消えてしまうほどに儚い存在とでも思っているのだろうか。そう考えてしまうほどの執着ぶりである。娘の中にこれほどの強い思いが潜んでいたとは、うち解け合った今であっても驚かされるばかりであった。

 しかし、……これは何と心地よい束縛であるのだろうか。

「ほら、このようにまとわりついては歩けぬではないか。全くお前はどこまで甘え子なのだ、戻った早々手を焼かせて……」

 ふわりと抱き上げたその身体は、羽根のように軽い。さらさらと流れ落ちる髪、腕の中の娘は軽く身じろぎをした。

「やっ、……おろしてください。わたくし、自分で歩けますから……!」

 こんな風に扱われているところを誰かに見られたらと慌てているのだろう。無理な姿勢でもがけば、夕闇のねっとりと重くなった気に衣が髪がゆらゆらと舞い踊る。しかしそれは彼にとって、少しも動きを妨げるものではなかった。

「いいではないか、こうした方が螢の顔がよく見える。どうだ、私の留守の間に変わったことはなかったか。食事などは申しつけたとおりにきちんと摂っていただろうな、何やら面差しが少しやつれた様子にあるが……?」

 震える濃緑の瞳に映る彼の表情はどこまでも優しげにほころんでいる。どんなに願ったところで束縛が解かれることはないとさとったのであろう、ややあって娘は抵抗をやめて大人しくなった。

「そんなこと、ございません。ちゃんと魚も菜も、三度三度残さず食しました。けれど……やはり楡さまがいらっしゃらないと、思うように箸が進まなくて……」

 つんと拗ねた口元をそっと塞ぐ。久しぶりに味わう花色のその場所は、どこまでもかぐわしく柔らかだたった。

「……あ、楡さま……」

 不意打ちに初めは戸惑っていた娘も、すぐにその行為に応え彼の首に腕を回して来る。しばらくは互いに我を忘れて再会を確かめ合ったあと、さらに頬に首筋にと想いをほとばしらせていった。
  淡く甘い吐息、感じ取るその部分を震わせながら、それでも嫌がるどころかさらに甘くすり寄ってくる。先を急ぐ情熱がさらに奥へとその胸元に手を掛けたとき、初めて軽い抵抗を感じた。

「そうか、ここでは存分に出来ぬと言いたいのだな」

 その言葉に、ものも言えぬまま俯いた娘は耳元を赤く染め上げる。彼は喉の奥で笑うと、さらに高く彼女を揺り上げた。

 

 季節は春から夏へ。静かで穏やかに流れる日々が、ふたりを柔らかく包み込んでいた。

 しかし、初めからこのようにうち解けることが出来たわけではない。ようやく互いの心を通わせ夫婦(めおと)の契りを交わしたあとも、今腕に抱く娘は始終こちらを伺うような心細げな瞳を変えることはなかった。

 そもそも、自分から何かを欲したり願ったりすることもが驚くほど少ない。誰かが相手をしなければ日が暮れるまでひとつのところに押し黙って座っていることも苦にならない様子であった。
  慣れぬ土地に無理に連れてこられて緊張しているのかとも思ったが、そういうわけではないらしい。何事も受け身のまま流されていくのは彼女の持ち合わせた気性で、容易に変えることなど無理な相談であった。それでもやはり病的なほどの怯えをそのままにしていくわけにはいかない。「飼い慣らす」と言えば言葉は悪いが、まさにそのような心地で長い時間を掛けて歩み寄って行った。

 ――心とは無理に開かせるものではない、まずはこちらからあるがままのものを見せて行かなくてはならないのだ。

 頭では分かっているつもりでも、成果がすぐに見られなければやはり苛立ちばかりが募ってしまう。彼もこの土地にあれば地主の家の者として幼き頃から持ち上げられ続けて育った身である。他人に合わせるなど慣れてはおらず、こちらもまた手間取ってしまった。
  時には我を忘れ、ひどく言葉を荒げてしまったこともある。そのような時にはあとで必ず荻野からきつく諫められるわけではあるが、彼としてもこれ以上はどうすることも出来ないのだ。不器用な者同士でやりとりしていては、埒があかない。だが辛抱強く続けることで、ようやくわずかな光が見えてきた。

 まだまだ傍目から見ればままごとのようなやりとりではあるが、ふたりにとっては大きな前進だと言えよう。このようにわざわざ庭先まで出迎えてくれることが嬉しくないはずはない。普段は他人の目を気にして居室の表に出ることすら躊躇うような有様なのだから、感じ取るその喜びもひとしおだ。

 

「あらまあ、おふたりとも……! どうしたことでしょう、ご身分のある御方がこのように人目も気にせずお恥ずかしいなりだとは思いませんか? お戯れもほどほどにしてくださいませ、ご主人様。拝見しているこちらが恥ずかしゅうございますわ……!」

 中庭を横切り明るい光の漏れ出でる奥の居室へと辿り着くと、すぐさま大げさな身振りの侍女が迎え出た。

「全く……ご到着の案内があってからどんなにお時間が掛かりますことやら。お気持ちは分かりますが、少しは私ども使用人のことも考えて頂きたいものです。かしこまってお待ち申し上げておりますのも、なかなかに肩が凝るものでありますわ」

 私もすでに孫を抱く身の上なのですからね、と微笑むその人の眼差しは優しい。その口振りほどは気に病んでいないことはすぐに分かってしまう。互いが幼き頃から何かと世話を焼いてくれた女子であるが、その勇ましさも懐の深さも年齢を重ねてさらに頼もしく思えてきた。
  数名の女の童(めのわらわ)たちにはきはきと申しつけて、水桶や着替えの準備を整えてくれる。新しく雇った顔ぶれは十やそこらの年若い者がほとんどであったから、一気に居室全体が若返った。もともとが仮住まいの造りであり、少しばかり手狭になってきた感もある。

 腕を離れた妻は、そのまま奥の間に連れ去られてしまう。どうも支度も途中で飛び出してしまったらしい。それをたしなめられている様子が表からも伺えた。

「この先はもうおふたりに付き合ってはいられませんわ。私どもは今宵は早々に退出させて頂きます。お膳の準備などはすでに整っておりますので、あとはご自由にどうぞ。本当に……このようなご主人様になられるとは想像も出来ませんでしたわ。久方ぶりとはいえ、あまりはしゃぎすぎて螢火様を驚かせてはなりませんよ。また、お熱でも出されたら大変です」

 早口でまくし立てながらも、仕事の方もきちんとこなす。荻野は手慣れた手つきで草履を取ると、彼の足を瞬く間に綺麗に洗い上げてしまった。

「着替えの方はこちらにご用意致しました。……では、そろそろ」

 荻野が一声掛けると、さらさらと衣擦れの音と共に女の童たちが縁まで進み出る。色とりどりの涼しげな装束をまとい、髪には飾り紐がさりげなく結われていた。かしこまった姿でいとまを告げる仕草も初々しく、見ているだけで心が和む。

 

 見慣れたはずの中庭の風景が、一年前のそれとは比べようのないほど違って見える。賑やかな一団を見送ったあと、彼はゆっくりと部屋奥へ進んでいった。

 

………………


「……あっ……、はぁ……っ!」

 ぬるりと流れ落ちる汗、白く輝く柔肌がその瞬間に大きく跳ね上がる。額に張り付く髪をそっとかき上げてのぞき込めば、ぼんやりとした瞳が恥ずかしそうにちらりとこちらに向けられた。

「駄目……そんな。もう、身体中が火照って自分が分からなくなってしまいそう……」

 後ろからしっかりと抱きしめて、久しぶりの感触を心ゆくまで楽しんでいた。こちらの働きかけにどこまでも素直に反応するその身体は、すでに引き返しの付かないところまで来ている。それを知りながら、なおも柔らかい愛撫ばかりを繰り返していく。そのたびに腕の中の妻は悲しげに身をよじった。

「何を申す、……そのように可愛らしい声で。何か望むものがあるのならば、はっきりといいなさい。そうでなければ私には分からないではないか」

 色づく胸の頂を指の腹でなぞれば、たちどころに声にならない呻きが上がる。その声を聞いているだけで、己自身もさらにたかまっていく。自分の中にこのような激しさが残っていたことが、未だに信じられない。浅ましい情念などはとっくの昔に忘れたとばかり思っていた。

「楡さま、楡さま……ひどい。もう駄目、これ以上は……!」

 固く衣を握りしめ柔らかい責めに耐えていた細腕が外れ、ゆるりゆるりと宙を舞う。そして先ほどから股の内側を執拗に責めていた彼の手に自分のそれを添えた。

「……欲しいのか?」

 耳元に囁けば、たちどころにその部分が朱に染まる。しかしそれ以上の反応はどうしても出来ないと言うことなのだろう。何も言えぬまま、ただただ己の手のひらに力を込めてきた。

「さあ、お出で。自分でやってごらん……?」

 腕を緩めて、向き直らせる。細い腰を抱え宙に浮かせたままで、濡れそぼるその部分に己の先端をこすりつけた。

「あぁっ……、駄目っ……!」

 前触れもなく訪れた衝撃に、妻は彼の首にしがみついて身体を大きく反らせた。そうすれば知らずに胸をこちらにすり寄せるかたちになり、とくに敏感なふたつの部分の起こす波にがくがくと全身が震えていく。

「怖がらずとも良い、膝をつきゆっくりとおろしてごらん? そう……とても上手だ」

 くうっ、と鼻から抜けていく吐息。時間を掛けることでさらに互いの部分がぴっちりと触れ合っていく様が鮮やかな感覚として伝わってくるようだ。前戯なくいきなり広げられたその場所は、入り込む異物をどうにかして押し戻そうとする。そしてまた訪れる、目の前が弾け飛ぶ快感。

「やぁっ、駄目っ……駄目ぇ……っ! もう許してっ、来る……来る……っ!」

 ようやく奥まで届いた刹那、大きく身体をしならせ妻は果てた。一瞬の放心のあと、はあっと息を吹き返す。余韻の残る腰を小刻みに震わせながら、彼女は感極まったのかすすり泣いていた。

「に……れさまは、ひどい。いつも……こんなふうにして、わたくしを壊してしまおうとなさるのですもの……」

 拗ねた口調でそう訴えながらも、新たなる熱をその部分に感じた彼女はもう堪えきれないと言わんばかりに自らの腰をくゆらせた。一度突き抜けたあとは、さらに高い場所までのぼりつめたくなる。人の心を巣くう欲とはどこまでも奥深いものなのか。

「何を言うか、その言葉はそのまま私からお前に返そう。おお、……こうしている間にもお前は私に食らいついて、もっと奥へと誘って来るではないか。そうだな、……こんな風にすればどうか?」

 一度腰を緩く引いて、それから再び強く打ち付ける。途端に繋がり合った部分は新しい蜜で溢れ、甘い水音が奥の部屋壁に響き渡った。次々に襲いかかる衝動に白い裸体はゆらゆらと頼りなく漂い、しかしその奥には確かな熱をしっかりと潜ませている。
  身体を重ね、心を重ね、全ての雑念を振り捨ててただ互いを求め合う。今更そんな自分になれるとは正直思っていなかった。だから、未だに戸惑っている。どうしてふたつの魂は出逢い求め合うのか。
  ただひとつ言えることは、この関係は「迷い」を感じたその一瞬に脆くも崩れ去る砂上の城だ。確かなものなど何もない、ただ互いが互いを求めるその熱さのみで成り立っている。

 ほとばしる激しさを直にぶつけることで、ようやくゆるりと動き始める水面。彼女の想いはどこまでも深く密やかであり、求めても求めてもこの腕をすり抜けていくばかりだ。それがたまらなく口惜しく、さらに激しく欲してしまう。こんな関係では飽き足らない。もっと……そう、このまま熱にうかされたふたつの肉体がどろどろに溶け合ってひとつになってしまえばいい。

「……ぁはあ……っ!」

 再び訪れる絶頂に、妻の柔らかな内壁は激しい伸縮を繰り返しそのときを告げていく。この上なく息苦しく、だが例えようもないほどに懐かしい。見えない力にいざなわれて、彼も己を手放していく。

 はらはらと崩れ落ちていくふたつの肢体は、やがてしとねの海に落ちていった。

 

………………


 憂いを含んだ、灰紫の天上がどこまでも続いていた。

 長い間記憶の底に忘れた振りをしていたその場所に、どうして足を踏み入れてしまったのか。湿った気が緩く流れ、あまり手入れも行き届かずに雑草がそのまま伸びて行く手を塞ぐ庭を横切っていた。

 

 ――何故、風の噂などを真に受けているのだ。どちらにせよ、もう自分には全く関係のない女子なのに……。

 淡い記憶、何を案ずることもなく全てが柔らかな幸せの中に包まれていた頃。互いの心を通い合わせ将来までを誓い合った仲ではある。だが、それも遙か遠き過去の出来事。逆らえない運命の濁流に、ふたりの糸はとっくに断ち切られていた。
  あれほど、我が身の非力を呪ったことはない。領主の家に生まれ何不自由なく育ってきた自分に、初めて立ちはだかった決して越えることの出来ない壁。どんなに理不尽な仕打ちであろうとも、起こってしまった事柄を今更に覆すことは出来ない。彼としても出来る限りのことはした。下げたくもない頭を必死で地にこすりつけた。だがしかし、どんなに願ったとしても叶うことはついになかった。

 ――彼女とて、もう昔のことなど忘れきってしまっているはず……。

 とても敵う相手ではない、あの西南の大臣の実弟といえば誰もがおののきひれ伏す相手である。その懐に入り込みあわよくば甘い汁を吸おうともくろむ輩に担ぎ上げられ、異を唱えようなどと大それたことを考える同士など目を皿のようにしたところでついに見つけることは出来なかった。

 しかし、真実ならばこの目でしかと確かめたいものだ。かの人が悲しき最期を遂げたと言うのなら、その骨のひとつでも持ち出すことはできないものか。
  とっくに吹っ切ったと思っていたはずの存在が今も根深く己の中に宿っていたことを、今更ながらに思い知らされる。もしも再びこの腕にしっかりとあの優しい人を抱くことが出来たなら、そんな茨の道でも越えて行けるとすら思った。

 密かに人を使い、その場所を確かめる。場末の無縁墓地、誰からも顧みられることのない場所にかの人は眠っているという。ほんの数日前までは、確かにその命は儚くも瞬いていたというのに。今となっては、再び言葉を交わすことも出来ぬと言うのか。
  無造作に草を分け、その場所を目指す。人目のない場所だからこそ、お召しもないまま敷地内に入ることが出来た。もしも誰かに姿を見られたら、その場で斬首の刑にあったところで文句も言えない。

 

 とろりと重い気に、行く手を遮られる。
  こういう場所は、集落の中の至る所に点在していた。都にお住まいになる竜王様がお護りくださる、この海底の地。だが、やはり結界の強靱な場所とそうではない場所が存在する。そして時折、このように強い気の通り道になる場所に辿り着くことがある。これがもっと都から離れた南峰や西の地になれば、さらに危険な場所がそこここにあり住民たちを恐れさせていると聞く。

「……あ」

 視界までを阻まれ、慌てて袂で目元を抑える。少し俯きがちになったそのときに、ようやく彼は傍らのもうひとつの存在に気付いた。

 小さな、まだ四つ五つの幼子であった。しかしその面差しはどこまでもすっきりと整っていて、すでに人の目を吸い付けるものを持ち合わせている。落ち着いたしかし上品な色目の衣を纏い、髪には控えめに細紐が結ばれていた。しかし、それはすでにほどけ掛かっている。随分と長い間、ここで気に当たっているようだ。ひやりとして周囲を見渡してみたが、この子を世話する大人は見あたらない。
  何故、このような寂しい場所にひとりいるのか。不思議に思って改めて彼女の姿を見れば、その濃緑の瞳は溢れ出たもので満たされていた。

「君は……」

 そう問いかけて、しかし先の言葉が続かない。驚いてさらに見開いたその目から、ぽろぽろと雫がこぼれ落ちた。

「わたくしの、母上が亡くなったの。天まで届くほどの炎で焼かれて、この先の墓地に埋められてしまった。もう……二度とお目に掛かることも出来ないの」

 小さな手にはようやく抱えきれるほどの野の花が抱えられていた。花を手向けに来たのに、あまりに気流が強くこの場所を越えることが出来ないのだろう。寂しそうに俯いた横顔を流れていく朱の髪。その艶やかな流れに、たまらなく懐かしさを覚えていた。
  手にした花の色よりも白く血の気をなくした頬、幾筋も流れるあとを残したそこは彼女を実際の年齢よりも遙かに大人びて見せている。

 ――もしや、……だがしかし。

 記憶の中にあるものよりもさらに整った面差しに、湧き出た想いが遮られる。それに、ここにこの子がいればしばらくののちに誰かが探しに来るに違いない。これだけの身なりの子供だ、しかるべき身分があることは確かだ。

「お役人さまは……何故こちらにいらしたの? 昨日も一昨日も、わたくしの他は誰もここを訪れなかったわ。父上も……あれ以来、一度もお出でくださらない」

 寂しげな眼差しは、しかし何もかもをすでに悟っているかのように静かな悲しみをたたえていた。同じ頃の幼子が誰も持っているような、手放しで抱きしめたくなるほどの愛くるしさが全く見あたらない。すでに世を知り尽くしたような冷めた輝きに、しかし物怖じもせず見知らぬ人間に話しかけてしまうほどの危なげな無防備さを併せ持っていた。

「ええと……」

 再び彼が口を開いて彼女に問いかけようとしたそのとき。遠くから気の流れに乗って、細い女人の声が聞こえてきた。

「――……さま……、螢火さま……!」

 一目で女物と分かる衣があちらで揺れている。それを見て、彼はハッと身を翻していた。

 

 あのときの記憶が、その後も幾度となく胸を過ぎった。しかし、数年後に再び訪れたその館に、すでにその者の姿はなくその行方を知る者も残ってはいなかった。

 一体どこへ流れていったのか、その足取りを辿る術もない。それなりの自由と身分を手に入れ、以前は恐れていたかの人の存在にも少しも動じなくなっていた。しかし、遠い日に取りこぼしたたったひとつが手に入らない。どうしてそこまで囚われているのか、その理由も分からぬまま……時の果てに再会したその女子は、変わり果てた姿で彼を見上げた。

「お前が、螢か」

 そう問いかけた瞬間に、彼の心ははっきりと決まったと言っていい。まだそのときまでは迷いもあった。探し当てたその相手は、今や国を欺く反逆者。生きて再びその場所から出ることも許されぬ座敷牢に抜け殻のまま放置されていた。

 

………………


「……楡さま? まだ、起きていらっしゃったのですか」

 腕の中でまどろんでいた人が、ぼんやりと瞼を開く。激しい行為の後に一度汗は拭ったが、それでもこうして横になっていれば再び珠となって浮き出てくる。この地には珍しく寝苦しい夜に、なかなか寝付くことが出来なかった。

「ああ、久方ぶりにこうして螢と共にいると、なかなか休むことも出来ぬようだな。起こしてしまってすまなかったな、さあ朝までもうしばらく休もう」

 言葉の推移を静かに見守っていた双の瞳が、やがてふっと細くなる。そして初めは探るように確かめるように、ゆっくりと腕を絡めてきた。

「楡様の音がします、……嬉しい」

 この娘が越えてきた荒波はとても想像が付くものではない。未だに独り寝の夜はうなされることも少なくないと聞く。何か重苦しいものが胸に乗り、いくらもがいてもそこから解放されることはないのだと言うのだ。消えない烙印が確かに己の中にあることを悟り、未だに人前に出ることを好まない。それを無理強いすることはなかったが、口には出さずとも彼女はこちらの想いまでを察してしまうのだ。

 出来ることなら片時も離したくないと思う、しかしそれは許されることではない。彼には確かな身分があり、大臣家への定期的な出仕も拒むことなど許されなかった。近頃では妻を伴って出仕する者も少なくないと聞く。開かれた都にならい、この西南の地も次第にその流れに染まってきたのだろう。

 しかし、我が妻を伴うことはやはり不可能であった。今までどうにか隠し通しここに留めていることが出来たが、未だに大臣家が血眼になって忽然と消えた罪人を捜していることは承知している。あのときの番人たちはその後手を回して二度と人前でものが言えないようにさせた。しかし、それだけでは安泰とは言えない。相手はあの、神をも畏れぬおぞましい一族なのだ。

 妻自身もそのことはとっくに承知しているのだろう。こうして舞い戻ったときには可愛らしく拗ねてはみるものの、再び送り出すそのときには寂しさなどおくびにも出さずしっとりと礼を尽くしてくれる。
  有り難いと思う反面、何ともやりきれぬ想いがする。共に生きていこうと誓い合った仲でありながら、自分は妻の苦しみをぬぐい去ることがついに出来ないのだ。

「今度は……いつまでこうしていられるのですか?」

 ようやく聞き取れるほどの小さな声で呟くその人を、しっかりと抱きしめる。手放したら二度と戻っては来ない、忌まわしい過去に囚われているのは彼もまた同じだった。

 

………………


「そろそろ……道を外れようと思っているのだが」

 戻り道。ふらりと立ち寄った茶屋でそう切り出すと、給仕の女子ははっきり見て取れるほどの驚きの色を放った。

「幸い、私の遠縁に当たる者の中には後釜に据えるにふさわしい人材がいる。田舎育ちで純朴な若者ではあるが、今は世情も安定しているしそう大事はないと思う。だが、もしも何かあったそのときには――お前にも力を貸してもらわねばならぬだろうな」

 以前ならここで一夜の宿を取り出仕の疲れを取るところだが、そうも言ってはいられない。先を急ぐ気持ちの方が強く、こうしているうちにも知らずに腰が浮きかけているらしい。そのことを古なじみの女子に何度も指摘され、何とも身の置き場のない気恥ずかしい思いがする。

「左様にございますね、そろそろあの男も地に降りたいと申しております。しかるべき場所をご用意頂ければ、良きように取りはからいましょう。しかし――……、本当にそれで宜しいのですか? あなた様ほどのお人が、収まりのつく場所とも思えませぬが」

 含みを持たせたその言葉に、彼は喉の奥で低く笑った。

「よくもまあ、白々しくそのような言いぐさが出来るものだ。腹の内ではそうは思っていないだろうに、本当にお前は読めぬ女子よ。こうして長い付き合いになったと言うのに、その素性すら未だに分からない」

 彼の返答に、今度は女子の方が淡く微笑む。艶やかな肌、漆黒の髪。その姿を見れば、北の地の血を濃く受け継いでいることが推察できる。だが、これはかりそめの姿。この女子は己の身体を自在に変化させる術を身につけていた。時には年若い娘に、また時には腰の曲がった老婆に。しかし、それよりも驚かされるのは、彼女が浮島のような地を治めていることであろう。

 

 初めはあまりにも馬鹿馬鹿しい迷いごとに聞く耳も持たなかった。
  愛する女子に裏切られ、自暴自棄になっていたあの頃。腕を買われ危ない道に入り込み、とうとう人を殺める計画すら引き受けることとなった。話を聞いたすぐ後にこの茶屋へ立ち寄った。そうしてすぐに、ひそりと胸の内を言い当てられてしまったのだ。

「そんな馬鹿な、何を口から出任せのようなことを言っている。馬鹿らしくて話にもならぬ、この店は客を不快な気分にさせるのが生業なのか……!?」

 思わず投げつけた湯飲みは、しかしその次の瞬間にはしっとりと彼女の手の内に収まっていた。顔色ひとつ変えることなく、たおやかに微笑む。その瞳の色に魅入られていた。

「これはこれは、……相済みませぬ。どうぞお許しを、そのような怖いお顔はおやめになってくださいな」

 このときはそれで片が付いた。あまりにもあっさりしていたため、またしばらくはその存在すら忘れていた。いや、それよりも目の前にある大事の方が頭のほとんどを占め、他の想いなど入り込む隙もなかったと言った方がよい。
  もうその頃には、人を欺くことも陥れることも全く構わなくなっていた。なまじ権力があり始終下から持ち上げられているような人間は、面白いほど簡単に足下を崩すことができる。初めは恐る恐るであったはずが、いつの間にか本来の務めよりもよっぽど容易い行為になっていた。

「何故、……お前がっ!? そんな馬鹿な、私は……私は信じないからな……!」

 しかし、その人はどこまでも純真な心の持ち主であった。あの西南の大臣・邇桜(ニオウ)をその父とするとは到底思えぬほど、物静かで深い視野を持った人徳者。ただひとつ足りないものがあったとすれば、それは彼が大臣家の絶対的勢力である正妻・翠の君様の血を引いていなかったことであろう。
  そのことで幾度となくお命を狙われ、しかしそのたびにもう少しのところで難を逃れていた。それを誰よりも口惜しく思っていたのは、かの女人であろう。高貴な立場にあるその人は、幾手もの策を練り彼を亡き者にしようと画策した。
 若き日の楡は彼に特に近しい立場にあった。どういう経緯で親しくなったのかは忘れたが、やはり大臣家の悪しき血に染まってはいないその柔らかい心根に惹かれたのだろう。そしてまた、彼もこちらを好いてくれた。
  何でも包み隠さずに話してくれる無防備さが、ついには彼の命取りとなる。当時大臣家に行き場のない憤りを感じていた楡を知ることもなく慕ってくれる彼を、人気のない山里に呼び出すなど他愛のない仕事だった。

「信じるも信じないも、それはあなたの勝手でしょう。確かにあなた様に恨みはない、だがあなた様はあの男の血を引く者。そうであれば代わって神の裁きを受けるのも、致し方ないことでしょう……?」

 崖の淵に追いつめられようと、それでもこちらを信じている男がたまらなく哀れに思えた。やはり、これで良かったのだ。己の手をしっかりと血染めしてしまえば、もう怖いものなど何ひとつなくなる。このまま悪しき道へと転がり落ちるのも一興、全てはこのように疑いもなく相手を信じる御方が悪いのだ。

「待て! ……待ってくれっ。私はいい、どうなっても構わない。だが……だが、ここで果てるわけには行かぬ。それはお前にも分かっているはずであろう……!?」

 涙ながらに訴えるその言葉にも耳を貸す必要はなかった、今更情けなど掛ける必要もない。
  長い幽閉の生活の中で出会った女子との間にもうすぐ初めての子が生まれるという話はこの者の口から直接聞いて知っている。そして彼も承知しているのだろう、自分が亡き者になれば、彼らもまた明日のない命であると言うことを。ようやく守るものを手に入れた、それにより彼には未だかつてないほどの生命力がみなぎっていた。

「止めろっ、止めてくれ……っ!」

 渓底は深い、勝手知ったる土地あったからそれくらいはすでに計算済みだ。亡骸が見つかることも永遠にないであろう。すでにこの手に奪い取っていた懐刀、彼の母親の唯一の忘れ形見であるというそれさえあればいい。

「……お離しくださいませ……っ!!」

 強い衝動、足の底から這い上がるおぞましさ。振り切るようにして、目の前の人を突き倒した。先はない、あるのは深い渓底。ようやく半年も掛けて進めてきた計画が終わりを告げる。――しかし。

「……うわっ……!」

 次の瞬間、また信じられないことが起こった。そのまま宙に舞い上がったかのように見えた男が、最後の力を振り絞りこちらの衣を掴んだのだ。そこまでは想像していなかっただけに、咄嗟の踏ん張りが利かない。気付けば、楡もまた崖の途中にぶら下がる身になっていた。掴み取った小枝、しかし男のふたり分の体重を支えられるはずもなく、次第にその根本が危うくなっている。

「はっ、離せっ! このままでは私までが……っ!」

 しがみつかれた方の足を必死でばたつかせてはみたが、埒があかない。血走った目でこちらを見上げたその人と目があったときに、「終わった」と思った。

 

 ――駄目だ、やはり人の命とはそう容易く失われるものではない。もしも誰かを殺めれば、そのときに自分も葬り去られるのだ。

 それもいいかも知れない。すでに窮地に立たされていた楡は、次第に自分の心が無に戻っていくのを感じていた。
  ふと記憶が遡る。ぼんやりと浮かんだ視界に、鞠をつく小さな少女が見える。緩く流れる肩までの赤毛を揺らしながら、ただただ自分の手元ばかりを見つめているのだ。どうしてこちらを振り向いてくれぬのだろう。やはり、悪しき心の人間とは目も合わせたくないのだろうか……?

 

「おや、……どうしましたかね。まあまあ、これは面白いところに出くわしました。さて、どうしましょうか」

 そのとき。遙か上からそんな声が降ってきた。最後の力を振り絞って見上げれば、先ほどまでの幻影は消え見たこともないひとりの老婆の顔がある。

「……おっ、お前はっ!?」

 こちらが大変な目に遭ってると知りながら、彼女は平然と微笑んでいる。それを憎々しく思っても、すでにこれ以上の言葉は浮かばなくなっていた。

「――さあ、……どうしましょう。命がふたつ、どちらかを選ぶならどうするか。それは決まっておりますね、私は悪しき心には興味がない。そのようなものがこの世にあるから、泣きを見る者があるのです。
  だから、申し上げたでしょう、悪いことはお止めなさいと。人の話を素直に聞かぬから、ついにはこのような目に遭うのです。自業自得というものですよ。幸い、あなた様にはこの世に難の未練もない様子。でしたら構わぬでしょう、このままお逝きなさい――……」

 それは駄目だ、と言いたかったがすでに声にはならなかった。支えにしていた枝ががくんと落ちる、そしてそのまま下へ下へ……記憶までも連れてどこまでも墜ちていった。

 

「――お前にはしてやられたな。お陰で私はあれからずっと、身を粉にして働き続けた。文字通り、お前の手足となりあの隠れ里のために奔走してきたと言ってもいい。全く……何とも大きな代償だったことよ」

 この女子とは男と女の間柄であったこともあった。しかし、それももう遙か昔の出来事である。だいたいひとつのところに留まるような女子ではないのだ。時も越えるほどの大いなる力を持ち、自分が救い出した哀れな男には人の倍を生きる術を施した。普通の生活を送る傍ら、隠れた時間で里の務めをまかなう。綱渡りの生活を続け、いつの時も気の休まる暇はなかった。

「まあ……そのようなことを仰って。でも、お命があってこその幸せではございませんか。あなた様は今、誰もがうらやむほどの満ち足りたお顔をなさっておいでです」

 村長として隠れ里に暮らし続けた男も、そろそろ俗世に戻りたいと言い出しているという。面差しを変えることくらい、この女子にかかれば朝飯前。全く違う土地で妻子と共に穏やかな暮らしを続けていきたいと言う。
  安全な檻に 守られることばかりでは前進できない、時には荒波に揉まれることがあってもその先に確かな希望があれば渡っていける。

「十分な仕事はして頂きました。あの悪しき一族の横暴ぶりも今や影を潜め、暴れ回るだけの財力も底をついているのが実情。全くあなた様もたいしたお人です、感服致しました」

 その言葉に、彼はまた音もなく微笑んだ。

 

………………


 天の光がまた知らぬ間にその角度を変えていた。少し影になった寝顔に、ひっそりと声をかける。

「螢……どうだ、このまま遠き地に行こうか。私ももう休もうかと思う、このような二重の生活も飽き飽きした。そろそろ気楽になりたいものだ」

 答えはない、でも眠るその口元がふわりとほころんだ気がした。この人の微笑みを守るために生きていきたいと思う。過去に打ち込んだくさびは消えぬままに、それでもしっかりと前を見据えて。

 

 しっとりと汗ばむ額に口づけると、ようやくとろとろと心地よい眠りが訪れてきた。

了(060520)


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2008.11.2 後日談をUPしました。こちらからお入りください。
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Novel Index>朱に散る・終幕

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