TopNovel Index>後日談「虹の音色」


…「朱に散る」・後日談…

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 こめかみの辺りに霞む夢。

 それはかたちすら定かではないほど淡く儚く、そっと指を伸ばす間に消えてしまう。夜明けの頃、決まって見るようになってもうどれくらい経つだろう。もどかしくて、それなのに苛立つどころか泣きたいほどに懐かしくて温かくて。たどたどしい感覚の中に、このままずっと沈んでいたいとすら思う。

  これは確かにいつか、間違いなくどこかで見知ったことのあるもの。だが、あまりに長い間忘れきっていて、今更思い出すことが叶わない。それでもまだ、求めている。いつか我が指がその場所に届くことを。願うこともおぼろげなうたかたの幻。どこまでも白く、どこまでも目映く、続いていく。

 

「……る、螢。そろそろ起きなさい」

 刹那。

 自分が今、進もうとしているその場所と正反対のところから声が聞こえてくる。それもまた、我が心が待ち望んでいたもの。愛おしいふたつの感情に挟まれて、しばし心が浮遊する。どこへ漂い、どこへたどり着けばいいのか。その答えはとうに心の中で決まっているのに。

「ほら、そろそろ朝餉の出来る頃だ。あまりぐずぐずしていて恥ずかしい想いをするのはお前自身だろう。全く困ったものだね」

 瞼の向こうは、光に満ちた世界。この場所は、気の匂いもどこか違っている。そして、その先に柔らかい笑顔。しっかりと諭すその響きとは裏腹に、どこまでも甘く優しい。

「……あ、これは。申し訳、ございませんっ……!」

 以前は宮仕えの経験もあり、早起きには慣れていたはずだ。それなのに、どうしたことか最近はとみに朝寝坊がひどくなっている。いつも床につくときには「明日こそは」と心に誓うのだが、どうも上手くいかない。心ばかりが焦るが、身体の方は日を増すごとにさらに鈍るばかりだ。

 慌てて飛び起きれば、寝崩れて身体に頼りなく巻き付いているばかりになっている寝装束が目に映る。ああ、良かった。今朝はまだ、使用人たちが部屋に到着していない。いくら彼女たちにとっては気にするほどのことでもないと分かっていても、誰構わずに見苦しい姿を晒すことは出来ないと思う。

「とりあえずはこちらに着替えれば良い、きちんとした支度はあとからでも構わないからね」

 そうは言われても、仰るご本人はすでに一糸乱れぬ清々しい装いを整えられている。それに引き替え、自分の方があり合わせの支度では何とも体裁が悪い。しかし、だからと言って一から全て始める暇もないだろう。

「はっ、……はい」

 差し出された衣に手を伸ばし、そこでふと動きを止める。乱れたままの髪が頬に触れ、何ともこそばゆい。しかし、今自分を迷わせているのは全く別の感情だった。

「そ、その……楡さま……」

 おずおずと、顔を上げる。そこにある微笑みを確認するために。何故だろう、普段より誰から見てもとても落ち着いた御方なのに時折このように子供のような表情になる。探るように、挑むように。

「申し訳、ございませんが……しばらくの間、次の間でお待ちいただけませんか?」

 柔らかい肌着を一枚落とすだけで、生まれたままの姿に戻ってしまう。それは目の前の御方もご承知のはずなのに、どうして分かってくださらないのだろう。

「何故、今更そのようなことを気にする。私の方は一向に構わぬぞ」

 口端がゆるりと持ち上がるのを確かめて、耳元がかあっと熱くなる。透き通った空を染め上げる夕暮れよりも明るい色が、鏡で確認するまでもなく容易に想像できてしまう。それなのに、ひどい。まだ立ち退いてくださらないとは。

「わ、……わたくしの方は。その、……」

 閨での営みの中では、互いを晒し合う仲ではある。しかし、今はそのような状況とは違う。このようなまぶしい光の中で、自分を隠さずに確かめられるのはやりきれない。

「……ふふ、仕方がない子だね。あまり困らせてへそを曲げられても困る。ここは一時退散するとしよう」

 ひらりと身をかわし、几帳の向こうに去っていく。全てをご存じの広い背中を、しばらく恨めしく見送る。そして、ゆっくりと瞼を閉じた。

 このようなやりとりもそろそろ慣れていかなくてはならない。分かっているはずなのに、どうしても上手くいかないのはどうしてだろう。軽口を上手にかわし、気の利いた言葉で応酬する。うち解けた仲ならば容易に出来るそれが、自分には難しい。
  少し前までは、お側に置いていただけることも諦めていた。自分でも知らぬうちに芽生えていた恋心も、ただひとりの胸の内に潜ませる他ないと。だのにどうして、今日のような幸福が我が身に訪れたのであろう。未だに信じ切れない、でももしもこれが夢であったとしても二度と覚めないで欲しい。

 そして、また舞い戻ってくる感覚。掴み損ねた「白」がまだ微かに残っている。でももう遅い、今朝もまた取り逃がしてしまった。もしもまた、明日も訪れてくれたなら、今度こそ触れることが出来るだろうか。でも、そうなったら。その時の自分はどうなってしまうだろう。

 

 穏やかすぎる日々。

 ここでは、全てがゆるりと不安など微塵もなく過ぎていく。行き着いた当初はやはり恐ろしくて気後れすることばかりであった。いくら大丈夫だとは言われても、長い間の習慣は容易には改まらない。頭でも分かっていても身体がついて行かなくて、途方に暮れてしまう。

「何も心配することなどないのだよ、ここの者たちは皆何も知らない。それに知る必要もないのだからね」

 一度は手放そうと切に願った命。それなのに我が意に反して生きながらえてしまったのは他でもない、この方と共にいたいと思ったからだ。信じる人がそう告げるのなら、恐ろしくても従うしかない。辿る道が別にあるはずもないのだから。

 罪人として、世間からうち捨てられた身の上で自ら命を絶つことも許されず、おぞましい現実の中に図らずも生きながらえていた。そんな自分が再び日の中に出ることが出来ようとは。未だに信じがたく、戸惑うことばかりだ。

「螢、私ももうこの先は静かに過ごしたいと思う。だから一緒に来てくれぬか」

 そうして導かれた地は、人里から隔離された不思議な場所だった。周囲を山で囲まれたささやかな谷にはゆったりと川が流れ、不思議な天の色の下で人々が暮らしている。心配などいらないと言われたその言葉通り、ここに住む者は誰ひとりとして自分の過去を知らず、また暴こうとはしなかった。それでもまだ不安はつきまとうが、恐怖の中に過ごすには全てがあまりに穏やかすぎる。
  しばらくは目の前を通り過ぎる全てが信じがたく、途方に暮れて過ごしていた。しかし、我が身を導いてくれたその人は、新天地においては皆をまとめる長としての役割を負っている。そうなれば、自分にもまた、相応のことが要求されるのは当然のこと。それでも村長の奥方などというもったいぶった肩書きはあまりに申し訳なく、裸足で逃げ出したくなる。

 しかし、―― 戻る場所などどこにもないのだ。ここが終の棲家と言われたら、そうなのだと承知するしかない。

 その頃からだ、目覚め前に決まってあの夢を見るようになったのは。あまりに繰り返し訪れるので、気がつけばそのことばかりを考えるようになっていた。ここしばらく、はっきりとしない心地が続いているのもそのせいだろう。もっとしっかりしなければと思うのだが、どうしても上手くいかない。

 

「ああ、ようやくお出ましか。早く席に着きなさい、せっかくの膳が冷めてしまうよ」

 のろのろと支度を終えて次の間に進めば、すでに朝餉の支度は調っていた。ふんだんに皿を彩る海の幸に山の幸。このような場所でどうしてここまでの食材を日常的に手に入れることが出来るのだろう。

 ここに移り住んでから、目の前の御方は以前に増してお顔が優しくなられた。余計な気苦労が消え、今の生活を十二分に楽しんでいらっしゃるのが手に取るように分かる。自分には詳しいことは分からない。何もかもが中途半端に霧の中。だが、それでもいいのだ。こうして手に入る幸せがすぐそばにあるのなら。

「今日はいくらか顔色が良い様子だね。昨日に処方してもらった気付け薬が効いたかな、これならば野歩きにも支障はないだろう。どうだ、昼餉のあとに、ちょっと出かけてみないか」

 今、急に思いついたように仰るが、実は前々から予定していたことなのだろうと容易に見当が付く。驚いて顔を上げた先には、自分をまっすぐに見つめる瞳があった。

「ここから半刻ほど山に入ったところに小さな祠が祭られている。そこで願掛けをしてこよう」

 箸を止めたままで、告げられる言葉を呆然と見送る。その意図が全く分からない。なのに、目の前の方は全てを承知したように静かに微笑むだけだ。

「その、……一体何を願うのですか?」

 そう訊ねてみなくては、一向に話が先に進むことがなさそうだ。仕方なく観念して、白旗を揚げる。自分がこの方に敵うはずはないのだ。そう永遠に、勝ち負けははっきりしている。

「何だ、承知しているものとばかり思っていたのに」

 すると、戻ってきたのは意に反してこちらの反応を驚く様子。そんな風にされてしまうと、なお訳が分からなくなってしまう。一体、自分がどうしたというのだ。

「……に、楡さま」

 さっさと話を切り上げて食事を再開してしまった人に、恨めしげに追いすがる。ああ、そうだ。やはりこの人は全てを知っている。そうであるのに、自分のことをからかって楽しんでいるのだ。

「いつまでもそのように幼げでいてはならないね。そう……近い将来に人の親となるのなら」

 呆気にとられて見送る肩先に、ふと立ち止まった光が揺れる。その七色の輝きに目がくらみ、気が遠くなる。しかし、それも一瞬のこと。

「そ、……それは……」

 まさか、と心を過ぎった予感すら信じがたく、訊ね返す声がかすれる。しかし、向かい合う方は平然として、つけいる隙もない。

「ほら、早く食事を終えてしまいなさい。そろそろ今日最初の客が到着する頃だ」

 慌てて口の中に押し込んだ、菜の味が全く分からない。あまりに驚きが過ぎて取り乱すことも出来ず、ただただ感情をやり過ごすのみ。

 

 それはもしや、……でも、しかし。

 

 その時。

 何かに呼び止められた気がして、ふと振り返る。そこにあったのもまた静かな微笑み。床の間の瑞々しいばかりの春の花が、何もかもを受け入れるようにただ静かに揺れていた。

了(081030)


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