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「玻璃の花籠・新章〜瑞菜」

 

 その部屋の戸を全て開け放てば、領主自慢の中の庭園を敷地内のどの場所よりも見事に眺めることが出来る。鏡のように磨き込まれた縁の向こう。ひとつまたひとつとほころんでいく春の花たちが、自らの輝きを競うように緩やかに流れる気に揺れていた。

 ……そして。

 色とりどりの花たちにも負けぬほど冴え渡った弦の響きは、部屋奥から内庭の隅々に至るまで届いていく。まるで透明な細帯に捕らえられてしまったかのように、集まった一同は微動だにしなかった。

  両手に余るほどの観客を前に、その指先は少しも臆する気配はない。季節を先取りしたかのような薄藍の重ね、見事なまでにそれを着こなす横顔は今まさに花の頃を迎えようとしていた。

 

「誠に見事なお手並みですよ。また一段と腕を上げましたね、瑞姫(みずひめ)。これならば、明日の宴も心配いりません。このように難しい曲をここまで完璧に弾きこなしてしまうとは、師である私も驚きました。本当に、……お前は私の誇りです」

 皆よりも一段高い場所に座しているのは、この場にいる誰よりも高貴な衣をまとった女人。艶やかな赤髪には所々白いものが見えるが、それすらも堂々たる威厳を知らしめるためのささやかな小道具のひとつに過ぎないように思われる。彼女は老齢にやせ細った身体を肘置きに預けながら、満面の笑みでそう告げた。

 そう狭くもない部屋にひしめき合っていた女子(おなご)たちの口元からも、ようやくさざめくような溜息が漏れ出でる。音色が止んでしばらくは皆その余韻に酔いしれ、心を別の世界に飛ばしたままであったようだ。まるで呪縛から解き放たれたばかりのようなうつろさである。

  ご隠居殿が催す春花の宴もいよいよ明日に迫り、広間や御台所ではその準備に追われていた。かつて西南の大臣家の三本柱のひとつと称えられたその人が派手好きで人寄せが好きなことは、家督をその息子に譲った今も変わることはない。
  それどころかこの頃では、面倒ごとだけをあちらに押しつけることが出来ることが幸いとばかりに前にも増してその回数も増えたように思われる。これでは館に使える者たちはもとより、招かれる側の者たちも身が持たない。だがそれを進言できる者があるわけもなく、横暴とも見受けられる行いは少しも改まることはなかった。

「まあ……父上の唯一のお楽しみなのだから、多少は目をつむって差し上げなければ。何もかもを取り上げてしまっては、さすがにおかわいそうであるしな」

 そのようにぼやかれたのは家督を譲られた側の息子、すなわちここにいる瑞菜(みずな)姫の実父に当たる今の領主様である。この集落を統括する西南の大臣様の覚えもめでたく、さらには長年の都務めの折りには畏れ多くも竜王様からもたびたびお声が掛かるほどの恵まれたお立場にあった。
  しかし当のご本人はそのような名声など少しも気に留めている素振りはない。こうして郷里に舞い戻ってからは、与えられた務めはしっかりとこなしながらも己の父親の目に余る振る舞いにも片目をつむっている余裕があった。悠然と構えるそのお姿には、領地の皆の羨望の眼差しが向けられている。

「……もったいないお言葉にございます、お祖母さま」

 少しばかり乱れた重ねの襟元を控えめに直しながら、この部屋の女主人の方に向き直った姫君は深々と頭を下げた。
  琴を奏するということは、見かけの優美さとは裏腹にかなりの体力を消耗する。ましてやこのようにただひとりで大勢を前に腕前を披露するともなればさらに強い緊張感が伴い、ようやく一曲を終えた後にはにわかに口を開くことも難しいと言われていた。
  しかしここにいる姫君は、そのような俗世の観念とはかけ離れているように見受けられる。昨年裳着を終えられたばかりのそのお姿は、初夏に咲きこぼれる白百合にも似て葉陰に身を潜めても隠しようのない美しさを溢れさせていた。

「まだまだ、わたくしなどお祖母さまの足下に遠く及びませんわ。このような演奏では、せっかくお出でくださる皆様に申し訳ございません。わたくしが一曲終えたのちは、どうぞお祖母さまにご登場願わなければ。その折にはわたくしも選りすぐりの踊りの上手たちと共に、覚えたての新しい舞を披露させて頂きますわ」

 控えめな孫娘のひと言は、上座の女人をこの上なく満足させた。

 すらりと細面のこの人は、普段の時にも見る者が思わず姿勢を正してしまうほどきついお顔をなさっている。身の回りのお世話をする侍女も入れ替わりが激しく、一時お気に入りとなったとしてもそれが長く続くことはなかった。少しでもお気に障るようなことを申し上げれば手のつけようがないほどにお怒りになるので、誰もが腫れ物に触るように接している。
  それは使用人だけではなく、家人であっても同じこと。この方に楯を突くような向こう見ずな者は、誰ひとりとして存在しなかった。

 そんな中で、女人からこの数年来変わらぬ信頼を得ているのが、ここにいる孫娘の姫君である。
  今の御領主様には正妻との間に六人の御子があった。お若い頃はかなりの色好みだったと言われているが今では領地一の愛妻家とも囁かれ、他の女子などには目もくれない。従って側女(そばめ)に生ませた子もなく、先代とは比べようもないほどの少なさである。
  ここにいる女人こそは、今はご隠居されている先代の正妻であった方。姫君の父上の他にも幾人かの子をもうけている。だが、やはり領地をまとめ上げるほどの優れた器量があるのは長子であるその人ただひとりであった。そうなれば内孫となった子らに格別の想いを抱くのも当然のことであるだろう。

「まあ、お前が舞を。それはまた、気のはやる想いがしますね。一足早くここで披露していただきたくもあるけれど、本日はもうお疲れでありましょう。十分に休息を取って、明日に備えておくのですよ。衣や髪の手入れなども滞りないように。いつどこで、誰に見られるか分からないのですから」

 ひとつひとつの言葉に素直に頷く姫君を、女人は台座の上から眩しそうに眺めている。

「本当に……瑞姫は何もかもに秀でていて、末恐ろしいほどですね。どんな手習いごとであっても、瞬く間に呼び寄せた師が舌を巻くほどに上達してしまうではありませんか。そう言えば、先だって竜王家の三の姫様にお届けするという草子の写しをちらと拝見しましたよ。何とも艶やかなお手蹟(て)で、あちらに渡った後はお前の都での評判もさらに上がるというものです」

 女人は手にしていた扇で口元を隠しながら、わざわざ辺りに聞こえるように深い溜息を漏らす。

「全く口惜しい限りです。これがかつての世であれば、お前は竜王家のどちらかに上がることも出来る器量であるのに。我が家ほどの身分では正妃になることは難しくもありましょうが、それでもご寵愛をいただけば立派にお役目を果たすことが出来るはず。妻は一人きりなどとお上が馬鹿げたことを仰るから、このように優秀な人材が村里に埋もれてしまうのです。ああ、情けないこと……!」

 姫君は神妙な面持ちで祖母の顔を見上げているが、話の内容はここにいる誰もが幾度となく繰り返し聞かされてすでに飽き飽きしているものであった。

「お前の母はなどは何も出来ずに退出してしまった腰抜けではありますが、結局はそれだけの器でしかなかったと言うこと。しかしお前は違います、世が世であれば必ずやお上の御心を射止めることも叶いましょう。
  都に残った兄上は里の者が皆耳を塞ぎたくなるほどの醜聞ばかりを届けてくれるし、雪姫は雪姫で御館様が甘やかしたばかりにあのようにとんでもない大失態をしでかしてくれました。このままでは、この家も傾くばかり。……こうなっては瑞姫、お前だけが頼りなのですよ」

 行き場のない苛立ちから、端正な女人の面差しは今や醜く歪んでいる。娘時代はたいそう美しく引く手あまたの求婚者があったと聞いているが、その名残を探すのも骨が折れるほどだ。しかしながら、ただいまが花の盛りの孫娘の双の瞳は一点の曇りもなく真っ直ぐに祖母の姿を捉えている。ゆっくりと流れ込んでくる気が、素直に伸びた髪を柔らかく舞い上がらせた。

 

 あれはまだ、この館が今のご隠居様の代であった頃。

  ここにいる瑞菜姫の姉君に当たる雪茜姫が起こした騒動には、館に仕える者だけではなく領下の隅々の者たちまでが翻弄された。ようやく片指を折って数えられるほどの時が流れその話も過去のものとなろうとしているが、噂というものは尾ひれを付けてどこまでも伝わっていくもの。それだけに、この家に対する周囲の評判は散々なものになってしまった。
  しかし、ここにいる女人はそのような逆境にやすやすと屈してしまうような御方ではない。その後ほどなくして、今の領主様が夫人と四人の子を伴って都からお戻りになると、すぐに愛らしく成長した中の姫に白羽の矢を立てた。

 長いこと都に住まい、なかなかこちらに舞い戻る機会もなかったためにその存在すら忘れかけられていた姫君であったが、久しぶりに対面してみるとまだまだ幼い面立ちは数年後が心待ちになるような宝を秘めているように思われた。艶やかな顔立ちで周囲の誰もを魅了していた姉君よりは少しばかり見劣りするが、その分好き嫌いなくあまたの人間に受け入れられやすい気安さがある。
  さらに試しにと弾かせてみた琴の音には、その道で名手と言われた女人も目を剥いた。まだまだおぼつかない指の動きではあるが、奏でる音色はすでに常人の域を遙かに超えている。聞けば都にあっては年の頃が同じ竜王様の姫君様方と共に手習いを受けていたという 。
  しかし驚くのはそれだけではない。笛も踊りも書も……良家の子女が身につけておきたいとされるものは一通りこなすことが出来た。

 これでは女人が夢中になるのも無理はない。幼き姫のご養育係としてすでに選出してあった者たちには他の務めを与え、領地の内外を問わず広い集落の隅々まで腕の立つ師を新たに求めた。そして自らも昔取った何とかで久方ぶりに念入りの稽古をこなし、琴の師を名乗り出る。そして同じ館内の自室にほど近い部屋を姫君のためにあてがい、暇があればあれこれと世話を焼いた。
  あまりの執着ぶりには姫君の方が参ってしまうのではないかとの声も聞かれたが、そのような心配は必要なかった。上の姉君のような気位の高さもなく、かといって下の妹君のような臆病さもない。中の姫君の全てはこの館の女主人として君臨する女人を心から満足させるものであった。

 

 丁度一年前の今頃になるか、姫君の盛大な裳着が執り行われた。

  十三を迎えた春に成人を迎えることを祝うその儀式は、もうひとつの大きな役割を持っている。娘盛りを迎えた姫がここの館にはいるのだということを広く伝え、その先は正式に縁談の話をお受けしますよということを暗に示しているのだ。
  女人の腹づもりは見事に当たり、初めて公の場に姿を見せた姫君にはその後次々と妻問いの話が舞い込んでくる。その中からめぼしいものを探すだけでも数人がかりで臨むような有様で、さすがの女人もあちらこちらに目移りがしてしまうほどであった。

 代々かの西南の大臣家にお仕えする家柄、しかも御父上は都にあってその名を知らぬ者などいないと言われたほどの優れた御方。さらに御母上は次の竜王様候補の筆頭に上がっている華楠(カナン)様の乳母である。上の兄君はその華楠様のおそば近くに仕える侍従として都に残っていた。名うての風流人で、宴席ではその腕前を存分に披露していると聞く。
  そこまでの肩書きを並べるだけですでに十分すぎるほどであるのに、さらに姫君ご本人のお美しさも気だても申し分がない。皆が我先にと集うのも無理はない話であった。

 予想を大きく上回る快挙にしばらくは自分のことのように両手放しで喜んでいた女人ではあったが、しかしそこは名家の女主人を誇る御方。すぐにご自分の置かれた立場を悟り、そこからはじっくりと腰を据えてこの大仕事を見事にやり遂げようと密やかに動いている様子である。
  何と言っても、ご自分が腹を痛めた姫君にも増して心を砕き磨き上げてきた大切な珠であるのだ。どうしてもこのたびだけは失敗することは出来ないと言うことであろう。

 内々で進めてゆく話が多いだけに、心労も大きい。だが、その全てもここにいる大切な姫のため。そう思えば、衰えを見せ始めた身体にむち打つことも少しも辛くはなかった。

 自分の見立てた衣を美しく着こなした孫娘を、女人は新たな感慨を持って眩しげに見つめている。

 

「そう言えば、お耳に入れたい嬉しい知らせがあるのですよ。先日から何度もお話ししていた南峰の大臣家の名代になる方が、明日の宴にはお出でくださるとのこと。本来ならばお相手となる御方にお目通り願いたいところではありますが、あちらのお立場を考えれば致し方ないことでしょう。
  まあ、……このように美しく教養もあるお前を一目見れば、心を動かさぬ殿方など考えられません。すぐに話を聞いたご本人が忍んで参られることでしょう。この上ない良縁と、私もこのたびのお話を大変喜ばしく思っています。是非ともこのまま滞りなく進んでもらいたいものですね」

 姫君はその話にはっきりと応えることはせずに、小さく「はい」とだけ返答して俯いてしまう。いかようにも受け取れる仕草ではあるが、女人の目には嬉しさをあからさまにするのははしたないと必死で堪えているように見えた。

「まあ、愛らしいこと。しかしながら、お前が案ずることなど何もないのですよ。女子は是非にと望まれたお相手に縁付くのが最高の幸せではありませんか。早くこの婆を存分に喜ばせて頂きたいものです」

 下座に控えた女子衆も、互いに顔を見合わせてあれこれと囁きあっている。
  この館で次にどちらかに縁付くのはここにいる姫君をおいて他にはないだろうと噂されていた。そうなれば、そのためのご準備やらお付きの侍女や下働きの下男下女の選出やらでしばらくはまた慌ただしく過ごすことになるだろう。

  久々の館の華やぎに、皆が浮き足立っているのも無理はない。何しろ南峰の大臣家と言えば、こちらよりはかなり格が上になる。お支度も念入りなものになるに違いない上に、お供の志願者もかなりの数に上ると思われた。

「何事も、お祖母さまのお心のままに。わたくしはお言葉のままに従うだけでございます」

 一度面を上げてふわりと花のような笑みを浮かべた姫君は、袴に包まれた膝頭の前にほっそりとした両手をつくと深々と頭を下げる。その耳に届くのは、庭先の花がかさかさと身を寄せ合う無邪気な囁き声だけであった。

 

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