西南随一の風流人で知られた先代の思い入れをそのままに表したかのように、広大な領主の館はその敷地内の隅々に至るまで美しい趣向が施されていた。遣り水なども数年ごとに大がかりな修復を行い、今風に改める努力を怠ることはない。 「ここはさながら都の御殿のようですね」 そんな風に褒め称えられることが、先代にとって何よりの喜びであった。腕のいい庭師がいると聞けば、どのような遠方からでもすぐに呼び寄せてしまう。もしもこの道楽がなくなればかなりの財を蓄えることが出来るだろうと皆が口々に諫めても、聞く耳を持たない。 そのようなご隠居殿の正夫人ともなれば、その苦労は想像にあまりあるものがある。 しかし、それも家の繁栄のためには避けて通れぬ道だと言う。何もかもを重々に承知した上で、締めるところは締め夫の愛妾同士の諍いの仲介にまで入る。自分という存在があったからこの家は潰れずに成り立っていた、そんな気持ちが今なお彼女を支えているのだろう。 「いずれは立派な御館の女主人となる身であれば、それなりの心構えも必要でありましょう。お前は都暮らしが長くあったけど、あちらのことはすっかりとお忘れなさい。国を治めるお上があのようにままごとのような暮らしをお続けになっているとは、全く情けない限りです」 朝な夕な孫娘を自室に呼びつけ、あれこれと世話を焼きつつもその口から漏れ出でるのはいつも同じ話であった。 幼き頃からひとり都を離れてこの地に舞い戻っていた姉姫は、裳着を迎えたその年に大騒動の末にどこの馬の骨とも知らない男と出奔してしまった。蝶よ花よと愛でられて我が儘放題に育った姫君の失態に、一時は祖父母が揃って枕も上がらないほどの憔悴ぶりになってしまったという。領地を預かる一族としてはあってはならないことである。大臣家からお咎めのお言葉を戴いたとしても仕方ない有様であった。 結局都に残った長兄とすでに述べた上の姫君を除く四人の孫たちが祖父母の元に留まったわけであるが、今現在ここに残っているのは瑞姫とすぐ下の弟君だけになっている。
祖母とは目と鼻の先の部屋に住まっているとは言っても、そこは地方豪族が己の権力を誇示するために贅の限りを尽くした館。遣り水をいくつも越えた渡りを進み、ようやく自室に帰り着く。そこまでは供の者がふたりついてきたが、戸口のところでこれ以上の世話を断った。 せわしなく耳に届いていた衣擦れの音も消え、さらさらと心地よい水音が疲れた身を癒してくれる。見慣れた中庭に面して立ち、人形のようにかしこまっていた表情がようやくほころんだ。 「……ああ、肩の凝ること。お祖母さまももう少し今風の薄物を選んでくだされば宜しいのに。何気ないようにまとっているのも骨が折れるわ」 そう言うが否や、肩に掛けていた重ねをばさりと板間に落とす。もちろん、小袖の肩をむき出しに過ごすことは良家の子女としてあるまじき行為である。一番下の薄物だけを残すことは忘れなかった。身丈に余るほどに伸ばした髪が、柔らかく舞い上がる。艶やかに手入れされたそれは、誰もが思わず触れてみたくなる美しさであった。 「おやおや、お行儀の悪いことですね。こちらにお出でになるのは、本当に領地で一番の姫君でありましょうか」 いつからそこに潜んでいたのだろうか。庭先の大木の陰からひょっこりと現れたのは、簡素な身なりの若者であった。大振りの目鼻立ちもがっしりした骨格もそのまま生粋の西南の血を知らしめている。炎の一番鮮やかな部分をそのまま写し取ったかのような赤髪は上の方で無造作にひとつにまとめられていた。 「まあ、そのように古めかしい物言いをして。わたくしはまた、爺が若作りをしてそこに立っているのかと思ったわ」 特に驚いた素振りもなく、涼しい眼差しで一瞥したのみ。つんとすました口元でそれだけ告げると、姫君は静かに衣を翻し板間に腰を下ろす。それまでは塵ひとつ落ちていなかったその場所に、わずかばかりの間に敷物と肘置きが姿を見せた。 「それは当然のことでしょう、俺は父の形代ですから」 その言葉と共に差し出された小さな果実は姫君の手のひらをひんやりと潤した。たった今まで水の中で冷やされていたものだと分かる。もちろん先ほどの敷物や肘置きも、いきなりその場に浮き上がってきたわけではない。この男がさりげなく支度をしたまでであった。彼は一通りの務めをこなしたあと、下働きの者らしく縁のすぐ下に控えている。 「とくに薄皮のものを選びましたから、そのまま召し上がれると思いますよ。それとも以前のように、丸のまま食することなど出来ないと駄々をこねられますか?」 その口端が少し上がるだけで、こちらを挑発しているような気がしてくる。彼の手にも同じような実があり、一足早く小気味いい音を立ててかぶりついた。身につけている下男の装束である水干や小袴に雫が垂れるのも気にする素振りもない。 「爺は……あなたのように意地悪ではないわ。もっと優しくて、まるで本物のお祖父さまのようにわたくしのことを気遣ってくれるもの」 瑞菜はぽつりとそう呟いたあと、ひんやりとした実を頬に当てた。火照ったその部分に、冷たさがこの上なく心地よい。 良家の姫君と言えば聞こえはいいが、本当のところは何もかもが堅苦しいばかりである。こちらに舞い戻ってから早三年半、未だに煩わしさに慣れることが出来ない。この土地で産まれ育ったのであれば、今の状況を受け入れることは容易かったであろう。だが、自分はそうではないのだ。
父の郷里に戻ったとは言っても、瑞菜にとって己の故郷は都であるとしか思えない。母が次のお世継ぎ様に決まった華楠(カナン)様の乳母に選ばれたため、両親は子連れで都に上がった。その先で新たに産まれたのが自分を含む四人の子である。 「瑞菜さまは本当に御母上にそっくりでいらっしゃる」 御館に仕えるあまたの人々は、折に触れ口々にそう言う。瑞菜としてもその言葉をもらうのが何よりも嬉しいことであった。特に実の父上からその言葉を頂戴するときには、格別の想いがある。 一度乳母となったからには、その生涯を都で過ごすのが慣例。両親も同じ考えであった様子で、西南の実家には他の兄弟を世継ぎに据えてもらえるように繰り返し頼んでいた。年に一度も戻らない父の生家は瑞菜にとって果てしなく遠き地。そこに居着くことになるとは夢だに思わなかった。 竜王様の御館にあっては、他の使用人の子らと共に過ごすことになる。里にあっては誰もが一目置くほどの高貴な生まれであろうと、自分たちと王族の方々との違いは歴然としていた。それ故に気軽な身の上で、自由に過ごすことが出来たのである。 自分はいずれ地方から同じように上がっている官僚の誰かに見初められ、母のように生涯御館務めをすることになる。出来ることなら近しい王族のどなたかの御子の乳母になりたい。自分が名乗り出れば、きっと旧知の仲の方々は皆快く受け入れてくれるであろう。 それなのに、ある日突然両親は帰郷を決めてしまう。瑞菜にはひとつの相談もないまま、あっという間に全ての引き継ぎが終わっていた。自分だけがこの地に残りたいという我が儘など、もはや言い出せるはずもない。すでに元服を終え成人している兄は当然のように都に留まることを決めたが、裳着を迎えていない娘の身ではどうすることも出来なかった。 もちろん竜王様の御子様方、特に親しかった二の姫、三の姫さまはどうかこのまま瑞菜だけでも都に留めて欲しいと強く願ってくださった。そのお言葉だけでも大変嬉しく、その後もお二人とは頻繁な文のやりとりが続いている。自分よりも一年遅れて裳着をお迎えになった三の姫さまのために、半年もかかって物語の写しを仕上げたのもそのためである。 胸の奥に張り裂けんばかりの悲しみをたたえたまま、瑞菜は両親と共に西南のこの地にやって来た。 それは都から移って二月ほどが過ぎた頃であったか。 遠目に見ても薄氷であったが、側に寄ってみるとそのあちこちに割れ目が入り昼までには全てが溶けてしまいそうだ。傍らにあった小石を投げ込むと、ぱりっと小さな音を立てて小さな穴が開く。丸く開いたその場所めがけて、次から次へと新しい石を投げ込んでいった。 「……おやおや、いけませんね」 どれくらいそのようにして過ごしていたのだろう。寒空に指先がかじかむほどになった頃、背後から柔らかい声がした。一度も聞いたことのない声、しかし何故かとても懐かしい気がする。振り向くと、そこには丁度今はご隠居様となった瑞菜の祖父と同じくらいの年に見える老人が立っていた。 「あなた、誰?」 思わずきつい言い方になってしまったのは、その者が軽々しい下男の装いをしていたからである。彼らは外働きを主にして、お許しがなければ館に上がることも許されていない立場であると聞いていた。そのような者が、今や御館様となった父の実子である自分に軽々しく声をかけていいはずはない。 男は姫君の質問には答えず、ただ「おやおや」と少しばかり首をすくめた。それからゆっくりと進み彼女よりも先に来て立ち止まる。振り向いたその面差しはどこまでも温かかった。 「この池にはたくさんの鯉が放たれております。姫君もそれはご承知のはず。突然上から小石が降ってきたら、彼らはどんなにか肝を冷やすことでしょう。このように寒さの厳しくなった折は、魚たちもあまり動かずに半ば眠ったようにして春を待つのです。その休息を邪魔してはなりませんよ?」 彼は静かに姫君の前まで進み出ると、膝をついてかしこまった。かなり身をかがめていたので、瑞菜よりも頭の位置が低くなる。 「ここにいる爺は、以前あなた様の父君の元で仕えた者にございます。長く村に戻っておりましたが、お召しを受けて再び参上致しました。そのように怖い顔をなさらずに、以後どうぞ仲良くしてくださいね」 男は瑞菜と同じ年頃の男の子をひとり連れてきた。正確には瑞菜のすぐ上の兄と同じ年になると言うその子供が、男の末の息子だと聞いて驚いてしまう。どう見ても孫としか思えぬような年の差であった。
それが今ここにいる李津(リツ)である。三年ほど瑞菜の元で仕えてくれた爺が腰を悪くして退いた後も館に留まってくれていた。腕っ節のいいところは老父譲りのようで、瑞菜の兄や弟に剣や弓の稽古を付けることもあると聞く。 両親とも居住まいを分けていた瑞菜にとって、この親子とのやりとりは唯一の心のよりどころだったと言えよう。とくに爺が繰り返し話してくれる父の幼い頃の話は興味深く、もっともっととせがんでしまうほどであった。 「本日は御館様が大臣家へのご出仕よりお戻りになるご様子です。帰りがけにこちらに立ち寄られると使いの者が伝えて参りました。お召し物はそのままで宜しいでしょうが、辺りを少し片づけましょうか。酒の支度なども目立たぬように申しつけて参りましょう」 あっという間に小桃を平らげた李津は一度かしこまったあとにひらりと身を翻す。また少し窮屈になった様子の水干に包まれた肩先に留まった春の陽が、桃の香を漂わせながら瑞菜の元に辿り着いた。
|