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「玻璃の花籠・新章〜瑞菜」

 

「やれやれ、久々の出仕は骨が折れるものだね。都に住まっていた頃は毎日のことであったからそう気疲れもなかったが、このような二重生活は年を重ねた身にはひときわ辛いものだな」

 外歩き仕様の装束を改めないままにひょっこりと顔を見せた今の御館様は、上座へと促す姫君の申し出を断って草履も脱がず縁に腰掛けた。聞けば、館の奥の間でこのたびの出仕のご報告を彼の父親であるご隠居様にお伝えしたばかりだという。まだ敷地奥の居室にもお戻りになっていないということであった。

「まあ……何を仰いますやら。父上はわたくしが幼き頃より、少しもお変わりになりませんわ。何か特別な若さの秘訣があるのではと、館の皆も始終噂しております」

 すでにたらふく嗜んできたからと酒の勧めを一度は断った彼であったが、愛娘の酌とあらばそう無下には出来ぬと言うことなのだろう。なみなみと注がれた白酒を、見事な飲みっぷりで干していく。

「おお、相変わらず姫は口が上手いな。そのように申して、すでに爺となった父を喜ばせるものではない。南に下った姉君の元からも文は届いたであろうか。身重の身体ではこちらに上がるのも難しいであろうな」

 李津が方々を回って特に良い酒を見立ててくれたせいか、盃の進みも早い。今しばらくとお引き留めするのもあちらでお待ちになる母上のことを思うと申し訳なくなるが、こうしていられるのもあとわずかと思えばつい欲が出てしまう。

 ただお世辞を申し上げたわけではない。今ご一緒している父は周囲の皆が驚くほどに、昔から少しも変わるところがなかった。お若い頃は艶やかな美しさで西南の地に住まう全ての女子を虜にしたと言われているが、それも無理はないだろう。畏れ多くも大臣家の姫君までもが父の元に輿入れしたいと申し出られたと聞く。
  ここ海底の地は住まう場所により、見目形が分かりやすく異なっているらしい。西南の血筋は燃えさかるような赤髪に褐色の肌、そして大作りな顔立ちだとされている。ただ長い年月を数えるうちにそれぞれの血が混ざり合い、すでに一目ではどこの出身かも分からぬ者も多くなっていた。
  ここにいらっしゃる今の御館様は、古には都の血も引くという母方の面影を受け継ぎ男子にしておくのはもったいないほどの匂やかなお美しさが漂っている。今なお豊かで艶やかな髪は結び目から滝のように美しく流れ落ち、鍛え抜いた体躯も麗しい。この御方が我が父なのだと実感するたびに、胸の奥からは抑えきれないほどの嬉しさが湧き上がって来る。

 しかも見た目のお美しさだけには留まらず、芸にも秀で笛も弦も名人の域にある。さらさらとしたためるお手蹟(て)はそのまま掛け軸に仕立てて床の間に飾りたくなるほどの素晴らしさであった。また、長刀の舞は竜王家の若君方に手ほどきをするほどの腕前である。

 このような村里に落ち着いていらっしゃるのはもったいない御方なのだ。しかし父本人には少しも欲がなく、今の穏やかな生活を続けることが出来るのならそれで構わないと仰る。

「姫の輿入れの話も、そろそろ本決まりだと聞いたぞ。とくにお祖母さまはそれはそれはお喜びでいらした、お前も本に孝行者であるな。父である私がこのようにふがいなくあれこれとあの御方の手を焼かせたが、その汚名もお前が全て晴らしてくれよう。西南の大臣様の御館でも、お前の話でもちきりであったよ。私もたいそう鼻の高いことだ」

 上機嫌で盃を飲み干す父の姿を、瑞菜はただ眩しく見守っていた。そう、拝見したかったのはこのような晴れやかなお顔。深くお悩みになり沈んだご様子など痛々しくてとても見ていられない、いつもこのように快活であって欲しいと願うばかりだ。

「左様でございますか、されど正式にお披露目が合ったわけではないのにそのように皆様に広まっては恥ずかしゅうございますわ。明日の宴に先方様より名代の方がいらっしゃるとしても、そこでどのようにご判断なさるかは誰にも分かりませんのに。お祖母さまもお気が早く慌てすぎなのではないですか、あちら様に見苦しく思われたらどうしましょう」

 本音半分、謙遜半分といった感じであろうか。だが、最近の館内での浮き足立つ様子は正直目に余るものがあると考えていた。確かに南峰の大臣家と言えば、あちらの集落で一番の一族となる。そのような高貴な身の上のしかもお世継ぎ様の元に上がれると言うのは、地方豪族の姫君としてはまたとない大出世と言えよう。
  さらにあちらからは側女(そばめ)のひとりとしてではなく、正式に本妻として迎えたいと言われている。あの祖母であってもさすがに取り乱してしまうのも無理はないということだろうか。

「いやいや、そのようなことをお前が気に病むこともないであろう。先方もたいそう乗り気でいらっしゃると聞いているし、何も臆することなどないのだよ」

 父としては、年頃の娘がまだ起こってもいないことをただあれこれといたずらに不安に思っているように見えるのであろう。少し俯きがちになってしまったその姿を彼は眩しそうに見つめる。

「瑞菜は……本当に母上にそっくりになったな。その髪の色、肌の色、ちょっとした仕草までが生き写しであるよ。私はここまでお若い母上にはお目に掛かったことがない、何とも惜しいことをしたと思うよ。お前の夫君となられるその御方は、他にふたつとない宝を手に入れることになるのだな」

 姫君は父の言葉をひとつひとつ胸奥にしっかりと縫い止めていく。袴の膝頭を握りしめた細い指が細かく震えていた。

「明日の宴には、父上と母上もご列席なさるのでしょう? このたびはかなり気合いを入れて稽古を致しました、是非余すことなく日頃の成果をご覧いただきたいですわ」

 何気ないように装ってはいたが、その言葉に込められた想いは計り知れないほどであった。

 

 ――ようやく母上にお目に掛かることが出来る……。

 この前の面会はいつのことであったのか、かなり日付を遡らなくてはならない。しかしそのことに対してあからさまに不平をいうつもりはなかったし、実際可愛らしいその口元からはひとつの恨み言もこぼれなかった。

 姫君の母上は、もともとは西南の大臣様よりのお口添えでこちらに輿入れすることが決まったのだと言う。今の竜王様の元に一度は側女(そばめ)として上がりながら、御子を授かることもなくそのお役目を終えた。その後に戻り女(もどりめ)としてこちらに嫁したわけであるが、そのことからして気丈な祖母は気に入らなかったらしい。
  しかし大臣様のお声掛かりとすれば、臣下の身分としてお断りすることなど出来るはずもない。しかも身分の低い女子から産まれたとは言っても、大臣家の血を引いているには違いないのだから始末に悪かった。何もかもが目障りで、祖母は今なお何かにつけて息子の愛妻であるその人に辛く当たり続ける。心優しい人であるから、姫君の母上はその全てを胸の内にひた隠しにして振る舞っていた。

 その姿さえも、祖母の目には疎ましく映ったのであろうか。ついには実の娘である姫君が奥の居室に出向くことすら快く思わなくなっていった。それならば祖母の目を盗んで訪れればいいと思うだろうが、これだけ多くの使用人に囲まれていてはそれすらも難しい。もしも母にお目に掛かったことが知れればたちどころに呼び出され、あちらで自分に対するどんな悪口を言い合ったのかと罵られるのだ。

 これでは十やそこらの姫君が参ってしまうのも致し方ない。両親を慕う気持ちがどんなに強くとも、自分がそのことをあからさまにすれば周囲に迷惑が掛かってしまう。それならばひとり耐えるだけでいいのだと己に言い聞かせてきた。それが祖母のお気に入りである自分の大切な務めなのである。

 

「そうであるな、お前の見事な舞をこの先はなかなか見ることが出来なくなるとは何とも寂しいことだ。幾人も娘を授かりながら、近くに留めることが出来ぬのが口惜しいばかりであるな。あのお祖母さまのことだ、お気に入りのお前を遠くにやるはずもないと思っていたが当てが外れてしまった。皆が望むことであれば、致し方ないわけでもあるが……」

 表面上はさらりとしたものであるが、その言葉の端々には何とも言えない躊躇いが感じ取れる。しかしそのような父の姿を見たところで、今更どうすることも出来ないのだ。

 姉姫もすでに遠方に渡ってしまっている。年に幾度かの里帰りはするにしても、始終顔を合わせることが出来ない寂しさがあるのは当然であろう。そしてこのたびは、都でもこちらの館でも一緒に過ごしてきた姫君を嫁がせることになるのである。かなり格式の高い家に入るのであるから、こちらの都合だけではそう簡単に宿下がりも許されないはずだ。
  何故皆が、あれほどまでに浮かれ立っているのか理解できない。自分がこの館からいなくなることが、それほどまでに嬉しいのか。今まで館主の姫君として周囲からは眩しいほどに大切に扱われていた。しかしそれもこのように家と家を繋ぐ大切な役割を担う者だからと信じてのことであったのか。

「そのように弱気になられるなんて、父上らしくもございませんわ。このたびのわたくしの良縁も、父上の名声があってのことです。本当に何もかもが皆様のお陰、有り難い限りでございます」

 しかしやはり、嘆く心の向こうではすでに悟っていた。己の感情など、いつも一番後回しで良いのである。この世に生まれ落ちてまだ十余年、しかしいかなる時も周囲に合わせ皆が気持ちよく過ごせるように取りはからうことで、我が心の平穏もまた手に入れることが出来た。

  それはこの先も変わることはないと思う。あてがわれた立場で立派に振る舞うことで、全てが上手くいくならそれでいいではないか。

「姫は……真に強いお人なのかも知れぬな。私ごときでは、簡単に丸め込まれてしまいそうだ」

 大袈裟に首をすくめて笑う父に、姫君は淡い花のような笑顔で応えた。

 

◆◆◆


「……だいぶお顔が強ばっていらっしゃいましたね。夕餉まではまだ間があります、少しお休みになった方が宜しいのでは?」

 奥の居室に戻られる御館様を、その場所まで見送って来たのだろうか。李津が対に戻ってきたのは半刻ほどが過ぎてからである。その間こちらに渡ってきた侍女もなく、瑞菜は肘置きに身を預けてぼんやりとまどろんでいた。
  けだるさに包まれた身はすぐには起こすことも出来ず、掛けられた言葉に即座に反応することもない。しかしそのような態度にも彼は別段気にする素振りはなく、いつも通りに親愛に満ちた微笑みを向けてくれた。

「連日の稽古やお支度でたいそうお疲れなのでございましょう、お顔の色が優れないと御館様もご心配になっておられました。あとで気付けの薬湯なども届けさせましょう、明日が大事なのですから万全にして臨まなくてはなりませんね」

 そう言いながら先ほどまでの酒の膳を片づけ、新たに茶の支度などをしてくれる。朱色の盆の上を見れば、甘い干菓子もいくつか並べられていた。砂糖が貴重品であるこの地では、干菓子を口に出来るのはある程度以上のご身分のある御方だけである。しかもそれも普段から自由に食することが出来るわけではなく、特別な場面のみに限られていた。

「そういえば、明日の御衣装はこちらにお揃いですか? 宜しければ拝見させて頂きたいのですが……」

 彼は渡りを向こうの方まで見渡したあとに、するりと部屋奥まで入っていく。そしてすぐにでも身につけられるようにと広げて掛けられていた一枚一枚を、丹念に調べていった。その真剣な眼差しは本職の職人も思わせるほどである。

「本館の御台様が懇意になさっている職人は、皆昔気質の者ばかりですからね。もしやとは思いましたが、やはり何とも古めかしい仕立てになっています。これではさすがの姫君もたいそう肩が凝ることでしょう、それに軽やかな花の舞にはいささか不似合いですね」

 本館(ほんやかた)の御台(みだい)様とは、瑞菜の祖母を指すそれこそ古めかしい呼び名である。今なおそのような言葉を使うのは、ここにいる李津とその父親である爺くらいではないだろうか。

「御針の道具はこちらにありますか、少し手直しをして差し上げましょう。裾の端がここまでもったりと重々しくては、舞の足さばきも不格好に見えてしまいますよ。ご自分の技量以外のところで点数が引かれるのは、姫様にとっても不本意ではございませんか?」

 器用に針を扱いながら、彼は悪びれる様子もなくなめらかな口振りで続ける。その挑発的な物言いに、ようやく姫君の眉の片方がぴりっと跳ね上がった。

「まあ、ひどい。衣に助けられなければ、わたくしの芸は目も当てられない腕前だと言いたいのかしら?」

 歯に衣着せぬ口振りは、何も今に始まったことではない。この広い館にはそれこそ数えきれぬほどの使用人が仕えていたが、その中で思った通りのことを口に出す者はここにいる男ただひとりだ。しかし、だからこそこちらも気安く言い返すことが出来る。相手の思惑を考えずに済むのは、何とも楽なことであった。

「おやおや、俺は何もそのように申し上げたわけではありませんよ」

 おどけて答えるその間にも、手元は動いたまま。まるで熟練の職人のような鮮やかな手さばきで、一度ほどいて中身を出した裾を元の通りにまつっていく。

 以前にも聞いたことがあるが、少し時代を遡った頃は女子は今よりもさらに慎み深く立ち振る舞いも目立たぬようにするものだと言われていた。従って、衣の造りも裾の端に幾重にも布を織り込んで、多少の動きではふわふわと舞い上がらないようにされていた。近年ではもう少し軽やかな衣装が好まれているが、祖母の年代では容易に受け入れることも出来ぬのだろう。
  こちらに戻ってから新しく仕立ててもらった衣がどれもあまりにも重く、これでは渡りを進むことすら出来ないと悲鳴を上げてしまったことがある。そのときに、李津の父である爺が他の者の目を盗んで目立たぬように直しを入れてくれたのが始まりだ。彼の手先が器用なのも父親譲りであるらしい。

「先日もお戻りになる踊りのお師匠様をこの先までお見送り申し上げましたが、そのときにもしみじみと仰っていました。もう瑞姫様にお教えすることは何もなくなってしまった、良いときにお輿入れが決まり自分も師として恥をかかずに済んで誠に幸いであったと。姫様の舞はすでに名人の域に入られています。だからこそ、最高の舞を披露して頂くために、私が力をお貸しするのではありませんか」

 さあこれで大丈夫でしょうと糸を切り、その端を布の内側に隠す。いつものことながら、思わず見ほれてしまうほどの仕事であった。無駄のない動きは、このまま埋もれさせていくのがもったいないばかりである。

 熱くいれてくれた香茶もそろそろ飲み頃である。芳醇な香りを楽しみながら静かに飲み干したあと、瑞菜は道具を片づけている男を見守っていた。そして、つい口をついて出てくる言葉がある。

「……本当に南峰へはご一緒してくれないの? あなたに付いてきてもらえれば、この上なく心強いのに」

 最初にこの話を切り出されたときは、しばらくは口もきけぬほど呆然としてしまった。いままでどうにかやって来られたのは、爺とその息子である李津がいてくれたからである。ふたりはこの対のお庭番として仕えてくれていた。そのままかの地へも一緒に渡ってくれると信じていたのに。

「それは、すでに申し上げた通りですから」

 縁に落ちる陽がかなり奥まで差し込むようになっている。いつまでも部屋に上がっていては人目に付くとばかりに、彼はひらりと縁を降りた。

「姫様もご承知の通り、俺は父の末息子であります。すでに母はなく、父も一番上の兄の元で厄介になっている身の上。そこが自分の家とは言っても、何となく仮住まいのような有様です。多分このまま一生涯を御館仕えで過ごすことでしょう。
  しかし、やはり何かあったときにはすぐに飛んで帰れる身軽さがあってこそです。末子であるからでしょうか、どうしても父の元からは片時も心が離れることが出来ません」

 それは静かな、しかし有無を言わせぬ言葉であった。

「そう……よね。あなたの言うことは正しいわ、わたくしが何か言える立場ではないわね」

 すぐに微笑んで承知すればいいと思うのに、何度も何度もこのようにして聞いてしまう。彼が困っているのは百も承知で、それでも寂しくてならない。

 

 貧乏人の子だくさんとばかりに、爺には十をゆうに超える子宝に恵まれた。

 長男が家を継いだが、その他の子供たちは領地のあちこちに離れて暮らしている。婿になったものもあれば、望まれて他の家の跡取りとして養子にもらわれたものもあった。どの子も皆、爺に似て人当たりの柔らかい朗らかな者たちであったから、引く手はあまたなのである。
  そしてそれは、ここにいる李津も同様であった。今まで幾度となく「是非我が家の跡目となってもらいたい」と声が掛かったらしい。
  さらに年頃となったこの頃では、一人娘を持つ者からの婿養子の話もちらほらと舞い込んでいると聞く。しかし彼はどんなに条件の良い話であっても、一向に受け入れることはなかった。中には今までの下男としてでなく侍従として出仕できる家柄もあったが、決して頷くことはない。

 武芸にも秀で手先も器用である上に、誰とでも合わせられる温かな人柄。本人に欲がないのが誠にもったいない限りである。もしも一緒に南峰の地へ渡ってくれるのなら、自分の口利きで少し上の役職に就けるように取り計ろうとまで思っていた。お許しを得て侍従の身の上になれば、今よりもさらに見栄えが良く風格が上がるだろう。

 

「では、そろそろ交代の時間です。皆もこちらに戻ってくることでしょう、今宵はゆっくりとお休みくださいませ」

 温かな眼差しも柔らかな言葉も、もうすぐ遠く手の届かないものになってしまう。しかしそれを嘆く理由を瑞菜はまだ己の胸の内に見つけることが出来なかった。

 

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