TopNovel>夏眠〜泡沫の宵・1


…1…

 

 ぐずぐずといつまでも暮れない夏の日が、己の輝きを見せつけるかの如く山際に紅の名残を見せている。満足に手入れもされていないため石だらけになった細道。そこに長く伸びた影を踏みつけながら、家路を急いでいた。

  どうやら日暮れまでに村の入り口に辿り着けて、ホッと胸をなで下ろす。この頃では何かと物騒で、こんな静かな山里の近くにまで賊が姿を見せるらしい。女子(おなご)の独り歩きなど、格好の標的となるだろう。

 

「やあ、梳衣(すい)。今、帰りかい?」

 脇の畑で鍬を振っていた老婆がこちらに気付いて声をかける。曲がった腰を反らしてとんとんと数回叩くと、その目は空っぽになった布包みに向けられていた。

「今日も良く売れたようだね、結構なこった。お前さんは本当に腕がいい、死んだ婆さまもあの世で満足してるだろうよ。必死で仕込んだ孫娘が、今では自分の腕前を越えるほどの機織りになったんだからな」

「お陰さんで」

 西の集落にあって、もともとが色の薄い銀の髪をしている。それが白く変わったところで遠目にはほとんど区別が付かなかった。肌の色も白く歳をいくら重ねてもなお艶やかである。それを誇りに思う者もあるらしいが、梳衣にとってはどうでも良いことであった。ただ目の前の老婆の姿に、数十年後の己の姿を重ね合わせただけのことなのである。

 ――そういや、婆さまが死んだのも丁度こんな陽気の夕べだったな。

 まだ片手に足りるほどの昔を、ぼんやりと思い浮かべる。梳衣が娘盛りを迎えた頃にふとした病で床に就いた婆さまは、それきり二度と機織りの前に座ることもなく奥の部屋に横になったままで数年を過ごした。親代わりに育ててくれた祖母の面倒をみるのは当然のこと。梳衣自身も村の者たちも誰もがそう信じて疑わなかった。
  幸い立派な織機が土間に鎮座している。そうなれば考えるまでもない。見よう見まねで動かして、いくらも掛からぬうちに一通りの仕事が出来るまでになった。山向こうには婆さまの時代からのお得意さんが幾人もいる。そのつてを辿れば、どうにか病人を抱えても食っていけるだけの収入になった。

 梳衣は親の顔を覚えていない。物心が付いた頃には、すでに婆さまとふたりきりで暮らしていた。
  西の集落のはずれにあるやせ細った土地。満足な収穫が望めるはずもなく、さらに数年に一度は大水が出てそのたびに流行病でごっそりと死人が出た。高価な薬を買う蓄えなど望むべくもない。婆さま同様に静かに死を待つだけの村人が今もそこここの家にいるのだ。
  村の中央を流れる川は、普段ならば田畑を潤す有り難い恵みの源であった。だが、それがひとたび狂い出せばもう誰も手が付けられなくなる。村人が総出で築いた堤防も瞬く間に崩れ、収穫間近の作物を全て駄目にしてしまう。幾度目の当たりにしても慣れることのない、さながら地獄絵のような惨状であった。
  それでも翌年の春になればまた、村人たちはさらに痩せこけた土地を耕して新しい種を蒔く。貧しさを苦にして逃げ出したいと思っても、どこにも行くあてなどないのだから。

 働き者の娘の元に縁談の話はいくつも舞い込んだが、その全てを婆さまの病を理由に断ってしまった。そうしているうちにすっかり行き遅れてしまい、気付けば二十を越えている。今では気楽なひとり暮らしが板に付いてしまった。妻に先立たれた男の元への後添えの話などもあるにはあるのだが、本人に焦る気持ちもないのだから始末に負えない。

「まあな、たまにはてめえの身体にも美味いもんを食わしてやりな。そんな風に骨と皮ばかりに痩せてたら、次に大水が出たときに大変なことになるよ。お前さんは自分の身を自分で守らなきゃならねえんだからな」

 一通りの慰めごとを口にしたあと、老婆の目がきらりと強く光ったのを感じ取った。しかしそれについて何かを語る気にもならない。梳衣はいとまを告げると、また歩き出した。

 

 誰に迷惑を掛けているわけでもない、だから胸を張って生きて行けばいいのだ。

 それは分かっている。だが古くからの馴染みばかりの土地にあって、「まとも」ではない暮らしをしていることに引け目を感じずにはいられない。自分にもまだそれほどの見栄が残っていたのかと、情けなくなるほどに。

 婆さまの遺してくれた小屋は、小高い丘の上にあった。庭先まで出て下を覗けば糸のように横たわる川が遠くに見える。水汲みは毎日の大仕事であったが、その分ひとたび水が出たときにも小屋が流されることはない。この場所を失ってしまったら、梳衣にはもう行く先がないのだ。

「……おや」

 丘の道を半分ほど上がったところで、ふと足を止める。
  確か今朝は、出掛ける前に洗い物を庭先いっぱいに干していったはずである。それがひとつも見あたらないのはどうしたことか。さらに小屋の裏の方では細く煙が上がっている。そこまで来てようやくひとつの結論に辿り着き、梳衣は唇を噛みしめたままさらに足を進めた。

「お帰り、梳衣さん」

 裏戸のすぐ脇のかまど。その前で火をおこしていた若い男が振り向く。

「今日は一日出掛けてたんだね、洗い物は日がかげる前に全部入れておいたから。もう板間にたたんであるよ?」

 そこまで言い終えると、よっこらせと立ち上がる。膝に付いた砂を払ってから、笑顔でこちらを向いた。

「何だい、戻っていたのか。今回は早かったんだね、那木(ナギ)」

 梳衣はあきれ顔でそう告げると、慣れた手つきで衣を家仕事用に改め始めた。そうは言っても裾を少し短くしてたすきを掛け、長く伸ばした髪を後ろでまとめる程度の簡単な身繕いであるが。久しぶりの外出であったため少しばかり気合いを入れていた。ぼろをまとっていては物売りは足下を見られてしまう。それも婆さまに幾度となく戒められたことであった。

「うん、仕事が全部終わったからすっとんで帰ってきたよ。久しぶりに梳衣さんの作ってくれた粥が腹一杯食いたくてさ」

 こちらが冷たく突き放しても、なおも子犬の方にまとわりついてくる。
  いつもそうだ、この男は最初に出逢った頃から少しも変わっていない。どちらも親なしの年寄りっ子、さらにこいつの方は「あいの子」で近所の子供たちからはのけ者扱いされていた。ちょっと優しく声をかけてやったら、ひどく懐かれてしまって今に至る。

 あの頃はまだ回した腕がこっちの腰に回るほどの幼子であったのに、今では頭ひとつ分も追い抜かされてしまった。憎まれ口を叩こうにも、こちらが見上げるかたちでは格好が付かない。

「別にここに来なくたって、美味いおまんまくれるところは他にいくらでもあるだろ」

 決まった職には就かず、気ままなその日暮らしを続けている。そういう落ち着かない生き方も、この男が村人から蔑まされる理由のひとつであった。人手の必要だという話を聞けば、山をいくつも越えた遠くの村まで勇んで働きに行く。そこで任された仕事を終えるといくらかの銭を手に、また村に舞い戻ってくる。

「うーん、でも梳衣さんの粥が一番美味いからな。余所のをいくら食っても駄目なんだ」

 上手い言葉で持ち上げれば、こちらが喜ぶとでも思っているのだろうか。そう信じているのなら、たいしたおめでたい性格である。そりゃ、年若い女子ならば気安い誉め言葉で嬉しそうに頬を染めるだろう。この男が普段付き合うような相手もそんな奴らばかりに違いない。

「……もう、脇でごちゃごちゃ言われてると気が散って困るよ。やることないなら、夕餉までひと寝してな。まだいくらか暇かかるからな」

 そう追い立てられて男が向かうのは、目の前にある梳衣の小屋。湖の側にある自分の家は一緒に暮らしていた彼の爺さまが死んだあと無人になっている。

「ま、お互い様だからいいってことかい」 

 角切りにした大根と芋、さらに青菜をたんまりと突っ込んだ鍋にふたつかみほどの米を入れる。村長(むらおさ)様の館でもない限り、器に盛られた白く光る飯を見ることはないのだ。どこに飯粒があるのかどうかも分からぬほどの貧相な食事でも、ありつけるだけ有り難いと思わなくてはならない。

 少し考えてから物入れにしまった瓶を取り出し、その中身を鍋の中に振り入れた。

 

◆◆◆


「そりゃ、またふざけた話もあったもんだね。ちっとは文句も言ってやったのかい」

 湯気の立った鍋に入った粥と、わずかな漬け物。それからこの前に男が出て行ったあとは手を付けることもなかった安酒を並べた。久しぶりにふたりでとる食事であったが、相変わらずの慎ましさである。

「ううん、だって親方の家も大変だっていうし。そう無理は言えないよ、仕方ないでしょう」

 このたびの仕事はひと月ほどで、二棟の家屋をたったひとりで解体してその廃材を運び出す大事だったと言う。それなのに雀の涙ほどの給金しかもらわなかったと聞いて仰天した。

「田舎の親が流行病(はやりやまい)で倒れたなんて、そんな話が信じられるかい。これ以上は首が回らないから、この上は娘を売りに出す? そんなの嘘に決まってるだろ、あんたは馬鹿だから騙されただけだよ」

 一度は懐に入れた銭を全て取り出して置いてきたというのだから、人がいいにも程がある。これが初めてというなら、まあ仕方ない。だが毎度毎度が同じように踏み倒されたりちょろまかされているのだから、そろそろ利口になっても良さそうなものだ。

「そうかなあ、でも親方はとてもいい人だったよ。それに住み込みの仕事だったから食うにも寝るにも困らなかったし。だからいいんだ、人助けが出来たと思えば」

 そうは言うが、今夜の食いっぷりから見ればろくな食事を与えられていなかったことは分かる。大体、こんな水のような粥を「どこよりも美味しい」などと言う辺りが情けない。

「でも、……今回も梳衣さんに何の土産も買えなかった。途中の村で出店があってね、綺麗な絹糸がたくさん売ってたんだよ。値の割りに品が良さそうだったから、掘り出し物だと思ったんだけど」

 酒も粥の鍋も瞬く間に空になってしまう。毎度のことながら、この男の食欲には驚かされる。遠慮なく何度もお代わりをするその姿を見ているだけで、こちらは腹がふくれてくる気がした。

「いいよ、そんな。那木の見立てなんてたかが知れてるしね、あたしは自分できちんと見繕った糸じゃないと信用ならないのさ。こっちはあんたに恵んでもらおうなんて期待はしてないし、気にすることもないよ」

 背格好こそは追い抜かされたが、三年という年の差は今もふたりの上下関係を決めている。
  梳衣に初めて縁談の話が来た十二の時、那木はまだ鼻たれの泣き虫坊主だった。村の子供たちからは馬鹿にされるばかりでろくな扱いもされず、いつも柿の木の下でべそをかいている。ほとぼりが冷めた頃に干し豆などを持って様子を見に行くと、まるでこちらが来るのを待っていたかのようにまとわりついてきた。

「ごめん、いつもいつも梳衣さんには世話になりっぱなしで……」

 悲しげに俯く横顔が、いろりの火に浮かび上がる。赤毛と言うには安っぽく、銀髪と言うには色味が強すぎる。この海底の地には多種多様な民族がそれぞれの面差しや髪の色で己の生まれを示していたが、このようにどっちつかずの見てくれでは不都合なことも多いだろう。

  独り言のようなその言葉には反応せず、梳衣は辺りを片づけだした。土間の他にはこのいろり部屋ひとつしかない。しとねを準備するにも辺りを一度片づけなければならないのだ。ひとりの居住まいならばものを脇に寄せれば済むが、またしばらく居候を置くのであればいちいち面倒なことになる。

 いや、面倒ごとはこれだけではない。だからこそ厄介なのだと思った、まさにその時であった。

 

「……ね、梳衣さん」

 名を呼ばれた、その刹那。背中に熱い身体が貼り付いてきた。にわかに変化したその気配を感じ取る間もない程の早業である。

「何だい、離しておくれ。あたしはまだ、仕事がたんと残ってるんだ。床の準備はしてやるから、先にひとりで休んでおいで」

 一度は振り払って、土間に逃れようとする。だが、男の力の方がそれを上回り、難なく板間に連れ戻されてしまった。

「そんなこと、言わないで。俺、あっちにいる間もずっと梳衣さんのことが恋しかったんだ。いつもいつも、梳衣さんのことばかり考えていたよ。……ね、頼むよ。もう待ちきれないんだ」

 やめとくれ、と断る前に着物の袷から男の手が入り込んでくる。細身の身体には不格好な程に豊かにふくらんだ胸の先を素早く探り当て、愛おしげにつまみ上げた。

「……あ……っ」 

 堪えようとしても、漏れ出でてしまう声が情けない。空いたもう片方の腕は着物の裾から這い上がり、熱く潤んだその部分を丹念に味わい始めた。そんな風にされてしまえば、もう後戻りは出来なくなってしまう。

「嬉しい、……梳衣さんも待っていてくれたんだね」

 そんなはずはない、そうであっていいはずはない。頭ではそう拒んでも、愚かな身体の方はあっという間に準備を終えてしまうのだ。なれ合ってしまったふたつの肉塊は全ての成り行きを知っている。板間に仰向けに転がされた自分の姿はなんと滑稽であることだろう。

「ごめん、少しきついと思うけど我慢して」

 言葉では躊躇っても、行動は止めることが出来ないらしい。ほとんど前戯もないままに、那木はいきり立った自身を強引にねじ込んで来た。さすがにこうされてはたまらない。思わず腰が泳ぎそうになるがそれをしっかりと押さえつけられ、あっという間に一番奥まで貫かれた。

「あ、……ああ……」

 うつろなうめき声を胸の上に感じる。もうその頃には互いの衣もほとんど腰に巻き付いているだけの代物になり果てていた。飛び散る汗も行き場を彷徨って流れ落ちていく。色の違う肌が呼吸が隙間なく重なり合う。絶え間なく繰り返される波に、次第に我を忘れていく自分がいた。

 ――馬鹿な、もうこんな風にするのはやめなくてはならないのに。

 近所の者たちが影で嘲笑っているのは知っている。行き遅れてしまった身で若い男を囲い、身の回りの世話を引き受けるかわりに女子としての自分を慰めてもらっているのだと。

「ああ、梳衣さんっ……! すごい、梳衣さんの中は熱くて、頭が変になりそうだ。もうっ、もう止まらない。どこかに、深いところまで落ちて行くみたいだよ……!」

 男女の睦ごとなど、きれい事を並べたところでその行き先はひとつしかない。
  穴があればそこに突っ込むだけ。いくら長い前置きがあっても、結局は皆が同じことをする。いくら高貴な身の上のお役人様だって、乞食のような身の上だって、そのやり方に少しも変わることはないのだ。

 せめぎ合いの末、最初に音を上げるのはいつも自分の方。男がさらにと動き出しても、繰り返したかみに押し上げられたその部分の感覚は次第にぼやけていく。

 吸い付かれているのか吸い付いているのか、吐き出されているのか吐き出しているのか。何もかもが曖昧に溶け合って流されていく。辿り着く場所もないままに。

 

◆◆◆


  ふと、耳に戻る水音。

 いつの間に眠っていたのだろうか、ぼんやりと目を開けると上がり口のところで身体を清めている男の姿が見えた。

  盛り上がった肩の筋肉、男盛りを迎えた逞しい体格である。もしもきちんと地に足をつけた生活さえしていれば、いくらでも嫁の来てはあるだろう。十七と言えば、男が妻を娶るには丁度いい年頃だ。こんなところで落ちぶれた女の相手をしていることなどないのだ。
  そうは思っても決して口になど出さない、そんな自分の浅ましさが恨めしい。

「起きてたの、梳衣さん。嫌だな、だったら声をかけてくれたらいいのに」

 身繕いを終えてこちらに向き直った男は、目が合うと恥ずかしそうに首をすくめた。知らぬうちに梳衣の身体は綺麗になっている。こんなことにまで気の回るところが、この男の長所であり短所であった。

「ああ、……眠いな。さすがに仕事明けは疲れるなあ」

 大きなあくびをして、そのまましとねに横になる。それと入れ違いになるように、梳衣はのろのろとけだるい身を起こした。

「どうしたの、一緒に休もうよ」

 甘える仕草で腰に手を回してくる。愛おしげに銀の髪を指先で絡め取りながら、その先端に唇を寄せた。

「いいよ、すっかり目も覚めちまったし。そろそろ外も白んできたようだ、少し早いが川まで降りてあんたの洗い物でもして来ようかね。また、明るくなって村の奴らに見られるのも何かと面倒だしな」

 名残惜しそうになおもまとわりついてくる腕を払い、今度こそしとねを抜け出た。
  男に背を向けて座り直してから、着物の前を一度開いて綺麗に直す。白い肌のそこここに咲いた紅の花びら。見なかったふりで閉じて、素早く腰紐を結ぶ。

 

 帯を結ぶために立ち上がって振り向けば、那木はもうふたりぶんのしとねの上で静かに寝息を立てていた。

 

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