TopNovel>夏眠〜泡沫の宵・2


…2…

 

 梳衣の母親はそれは美しく、またたいそう気だてがよい娘だったと聞いている。

  柔らかな花びらが色づき始める頃には、周辺の村から引く手あまたの縁談の話が寄せられた。しかし、もともとが侘び住まいの貧乏人。来るのは全て妾として囲いたいというものばかり。その器量が災いしてか、かえってまともな嫁ぎ先が見つからないという哀れな有様であった。
  しかし当の本人はそのことを少しも気にする素振りはない。いつも朗らかに微笑みながら母親の機織りの仕事を手伝い、せっせと水汲みや洗い物を片づけている。「あの娘が側にいると気が晴れるようだ」――周囲の者たちもどうにかして彼女が幸せな道を辿ってくれるようにと願っていた。

 だが、そんなある日。いつものように山向こうの宿場まで反物を売りに出掛けた彼女が、その帰り道に忽然と姿を消した。のんびりとした土地柄で、そのような話はかつて聞いたことがなかった村人たちにとってはまさに寝耳に水の出来事である。すぐに皆が総出で四方八方手を尽くして探したが、一体どういうことなのかその足取りすら掴めない。

「あまりの美しさに天狗様にでもかどわかされてしまったに違いない」

 最後はそんな諦めの言葉も出るようになり、徒労の末についに捜索は打ち切られた。

 それからいくつかの季節が巡り、凍てつく大地が温み小さな花々がやせ細った地を彩り始めた頃。彼女は変わり果てた姿で、村に戻ってきた。とは言っても、とても自力で歩いてこられる有様ではない。別人のように痩せこけ、当時に着ていたままの衣をぼろぼろにしてかろうじて身体に巻き付けていた。
  いくつかの山を越えた村の者が山菜採りのために山に分け入り、普段は人の近づかないような場所まで足を踏み入れて見つけたのだと言う。一体そんな場所で何をしていたのか、本人に問いただしたくてもすでに虫の息。皆の手厚い介護の甲斐なく、二月の後に息を引き取った。腹にいた梳衣を世に送り出すその代償として、母は自分の命を燃やし尽くしたのである。

 幾たびの大水に耐えながら細々と暮らしてきた村人たちにとって、このおぞましき出来事は決して消えない傷となって心に残っていった。どうにか記憶から打ち消したいと思ってもそれが出来ない。
  何しろ、忘れ形見の梳衣が彼女の面差しを写し取ったように成長していくのだ。姿形こそは亡き人とうり二つ、しかしその父親の素性は誰も知らない。実はあれはおぞましい鬼の子だと言われたとしても、ただ黙って頷く他はないのだ。

 幼い頃の梳衣に己の奇禍な生い立ちが生々しく語られることはなかった。しかし村人たちの自分を見る眼差しがどこか普通ではないことは物心が付く前から気付いていた気がする。出生のことであからさまに苛められたりのけ者にされたりした覚えはないが、特別に親しくしてくれる相手もない。皆の態度はいつもどこかよそよそしく、その言葉も頭の上をかすって通り過ぎるような気がしていた。

 婆さまは若い頃に夫に先立たれ、女手ひとつで梳衣の母親を育てた。静かにただあるべきものをあるべきように受け入れるだけの人生。物静かで無駄口ひとつ叩かず、声を荒げて叱られた記憶もない。過ちを諭されるときも、穏やかにいくつかの言葉を告げられるだけであった。感情の起伏が少なく、その表情を見ても何を望んでいるのか容易には汲み取ることが出来ない。
  夫を亡くしたときもただひとりの娘が神隠しにあってしまったときも、その暮らしは少しも変わることはなかった。そして思いがけずに舞い戻った娘が赤子を産んで死んでしまえば、残された子をまた当然のように育て上げる。ただ流されるままの人生を過ごした人であった。

 もしも自分に何かが託されたのだとしたら、その願いを叶えるために必死で生きることも出来たであろう。だが、その希望すらも婆さまは遺してはくれなかった。確かに自分の血を引く孫娘を愛していたのかいなかったのか、今となっては問いただすことも出来ない。

 

◆◆◆


 川面から湧き立つ靄で、一面が白く煙っている。それに紛れるように進み、夜が明けきる前に洗い物を片づけようと思った。
  昨夕に那木が戻ってきたことは、すでに村人の間にも知れ渡っていることであろう。そうなれば彼が向かうのは梳衣のところだと言うことも皆が承知の上である。だが、そうであっても開き直って堂々と振る舞うことはどうしても出来なかった。
 

「相変わらず、早いな。この頃はどんな具合かい?」

 しばらくは自分の立てる水音以外に耳に入るものはなかった。やがて我が身を隠してくれた靄が薄く消えていく頃に、丘の方から歩いてくる人影を見つける。一目で他の村人とは違うと分かる、立派な仕立ての衣。焦げ茶色の小袖に同色の袴を合わせ、その上に腰が隠れるほどの上着を着込んでいた。見ているだけで汗ばむような格好であるが、本人にとっては当然の装いなのであろう。

「おはようございます、村長(むらおさ)様。お陰様で変わりなく過ごしております」

 普段は自分の身なりなどにそう気を遣わない梳衣であったが、今朝はもう少しましな衣をまとってくるべきだったと後悔していた。

「そうか、それは良かった。この間の仕事は無事に片づいたようだね、また新しく頼みたいのだが今夜にでも館の方に糸や道具を取りに来てくれないか」

 彼は一昨年に父親のあとを継いで、新しい村の長に収まった。しかし若い頃からの柔らかな物腰は今も変わらず、梳衣のような者にも分け隔てなく接してくれる。それどころかさりげなく仕事を回してくれることも多く、かなりの助けになっていた。
  年齢は梳衣の母親よりもいくらか上と聞いているが、おっとりとした身のこなしのせいか見た目はもっと若く見える。良家にしては嫁取りに手間取り、一時は跡取りとしての地位も危ぶまれたと言う。昨年ようやく跡目に恵まれ、不安げに見守っていた村人たちもホッと胸をなで下ろした様子にあった。

「いつもお世話になります、良い仕事ばかりを回してくださって本当に助かります」

 それは口からの出任せなどではなく、梳衣の心の中から自然に湧き出た感謝の気持ちである。毎回揃えてくれる材料も一級品のものばかり、確かに気は張るがとてもやりがいのある内容ばかりであった。方々の知り合いに声をかけては、新しい仕事を見つけてきてくれるらしい。このように下々の者にまで心を砕ける長ならば、きっとこの先も立派に村をまとめていくことが出来るであろう。

 この人があまりに梳衣に世話を焼くので村人の中には「ゆくゆくは妾のひとりに囲おうと思っているのではあるまいか」と疑う者もいたが、間違ってもそのようなことはあるわけがないと思う。自分は鬼の子なのだ、当たり前の暮らしなど望むべくもない。

「いやいや、梳衣は本当に腕がいいからな。このような田舎に埋もれさせてしまうのは本当に惜しいと思っている。私がしてやれることはこれくらいだが、それがお前の暮らしの足しになれば幸いだ。そのうちに上等の糸が手に入ったら、次は娘の袴着の晴れ着用に織ってもらおうと思っているのだが。図案なども今から考えておいておくれ」

 散歩の途中であったのか、彼はそう告げるとゆっくりきびすを返した。
  静かに去っていくその背中に、梳衣は深く頭を下げる。こちらの手にしていた洗い物を、村長ははっきりと目にしたはずだ。だがそれについて、たしなめることはない。その心内ではとんでもなく厄介なことだと思っていることは明らかなのに。

 有り難いばかりだと思う、誰からも見捨てられてしまった自分なのにこうして情けを掛けてくれる人がいる。その恩に報いるためにも任された仕事を立派にやり遂げなくてはならない。

 

 洗い終えた衣を桶に戻して立ち上がれば、丁度山際から朝の光が漏れ始めた頃。

  眩しい夏の一日は、誰の上にも分け隔てなく訪れる。そうして再び土に還るその日まで、当たり前のように暮らし続けるのだ。祖母がこの村の人々がそうであるように。あるがままを受け入れることでしか、生き残る道はない。

 

◆◆◆


 那木の祖父は村奥の沼でひとり魚を捕る漁師だった。この村に住み着く前にも各地を転々として様々な仕事をしては生計を立てていたと言う。本人は西の集落の民で、元は美しい銀の髪をしていたらしい。それが白く変わっていく頃に、自分の孫だという幼子を連れて村に辿り着いた。
「あいの子」を見るのは生まれて初めてという者も少なくない土地柄、西の血と西南の血の両方を受け継いだ那木が村にとけ込めるわけもなかった。彼の祖父も不穏な空気は感じ取っていたはずである。それなのに、孫が外でどんなひどい扱いを受けようと憤ったりする様子が全くないのが不思議だった。

 集落ごとに髪の色や肌の色、身体の骨格までが違ってくるのは誰もが知っていること。ふたつの異なる血が交われば、双方の気質を受け継ぐ子が出来るのは当然である。しかし那木のように西南と西の血が数代に渡り混ざり合った子は例が少ない。何故なら西南の民の血は他に比べて強すぎると言われ、異民族との間になかなか子が出来ない事実があるからであった。
  それに引き替え西の民は己を受け継ぐ気質が弱く、他の民族と交われば必ずと言っていいほど相手方の血を濃く受け継ぐ子だけが生まれる。色好みの男たちの間で西の女子の肌がもてはやされる理由のひとつもそこにあるとすら言われていた。
  自分の血を引く子が欲しいというのは生き物の本能である。西の集落の女子が産んだ子であれば、必ず己の血を濃く表す。高貴な身分の者たちの間でもそのようなことが囁かれているというのだから、当人たちにとってははなはだ迷惑な話である。

 祖父が死んでしまった今では、那木の生い立ちもまた謎に包まれている。だが、生まれ育ちをどんなに嘆いたところで今の姿が別のものに変わることは有り得ない。彼は己の全てを包み隠さず、ただ生き抜いていくしかないのだ。

 

 あれは冬の初め、この地が凍てつく季節を迎える頃であった。

 いつものように沼に漁に出掛けた祖父がいつになっても帰らない。とうとう思いあまったのだろう、那木はいつもならば声をかけることもはばかられる村人たちに助けを求めてきた。声をかけられてしまえば、無視をすることは出来ない。皆は仕方なく沼をさらってその行方を探した。
  もともと那木の祖父の漁場であるその沼は化け物が出ると恐れられ、地元の者も近づかない場所である。人食いナマズが出るという迷信まであり、大の男たちまでが震え上がって逃げ腰になる有様。ようやく沼向こうの湿地で見つかったのは、何かの獣に半身を喰われかけたおぞましい亡骸であった。

 普段は疎遠にしている家であっても「二分の付き合い」だけは欠かさない。どの村にも古くから伝わる習わしで、那木の祖父も形ばかりの葬式を出した。その日暮らしの家には蓄えもなく、その支払いのほとんどは村長様の家で立て替えたと聞いている。皆が忙しく立ち働く中で、そろそろ独り立ちをする年頃になる那木はただぼろぼろと泣きじゃくるばかりであった。
  梳衣もまた頼まれてその葬儀のあれこれに手を貸していた。見てくればかり立派ななりの男が我を忘れて泣き続けるその姿は哀れという言葉で片づけるにはあまりに情けないものがある。だいたい、これからはひとりで生きて行かなくてはならないというのに、あんな風に取り乱してどうするのだ。数年前に祖母を送ったとき、自分はもっとしっかりとしていたと思う。
  亡き人の着古した衣を特別の染料を用いて白く色を抜き、亡骸に着せるのも梳衣の役目であった。皆が忌み嫌う役目ばかりが自分に回ってくる。そんなのはいつものことで、今更いちいち確認するまでもなかった。外れ者には外れ者の生き様がある、それを承知していなかったらたったひとりで人の世を渡っていくなど出来るはずもないのだ。

 遺体を荼毘に付し、わずかに残った骨を場末の墓地に埋め、ようやく一通りの儀式は終わった。湿っぽいあばら屋で送りの酒を酌み交わすことすら煩わしいと思ったのか、村人たちは申し合わせたように足早に沼のほとりをあとにする。
  もちろん梳衣もその者たちに続いた。三日も家のことが手に着かず、仕事は山ほど溜まっている。どこから片づけたらいいものか、思案しながらの戻り道であった。

 

 その夜、後片付けもそこそこに床に就こうとしていた頃に遠慮がちに戸を叩く音がした。

 こんな時分に誰だろうと戸惑ったが、急な用事であったら大変である。不幸は続くことが多いという言葉もあった。病人の多いこの村では、そう言う話も珍しくない。

「……ごめん、梳衣さん」

 戸口の向こうに立ちつくしていたのは、亡霊のような姿であった。

 最後に皆が声をかけたときにも、部屋の隅で背中を丸めたまま振り返りもしなかった不届き者がここにいる。あのように愛想がないことでは、この先に色々とやりにくくなるだろう。たとえ心は悲しみに暮れていようとも、一通りの礼は尽くさなければ人と人とのやりとりは成立しない。彼の祖父はそんな当たり前のことすら大切な孫に教えていかなかったのか。

「何? まだやり残したことでもあったかい」

 言いたいことはいくつもあったが、それをかろうじて飲み込む。もう少し立ち直ってから、この村での生き方をひとつひとつ教えてやればいいのだ。自分にそんな義理もないが、誰もやろうとしない厄介ごとなら引き受けるほかにないだろう。

 冷たく突き放した言葉に、那木はただ首を横に振る。色味の強い肌の色も褪せて、普段は朱色の唇も灰色に変わっていた。

「怖いんだ、ひとりでいると何かに引きずられそうな気がする。お願い、今夜だけ助けて……」

 一体何を言い出すのかと呆れてしまった。そりゃ、気持ちは分かる。自分も数年前に祖母を亡くしたときはあまりの絶望に気が変になりそうだったと思う。だが、どうにか自力で元通りのところまで這い上がっていった。何もかも自分で乗り越える他はない、そう信じていたから。

「……入るかい?」

 梳衣はそのときまで男を知らない身体であった。嫁ぎ遅れの身ではあるが、ひとりで過ごす夜に他人を家に入れることには若干の抵抗を感じたのは確かである。だが、この者に限ってそんなはずはないと信じていたし、このまますげなく断って入水でもされたらそれこそ大変なことになるだろう。新しい仏さんが出来れば、また数日は自分の仕事が手に着かなくなる。

 招き入れてはみたものの、もてなす何もなかった。かろうじて夕餉の残りの粥が鍋に少しだけ。それでもいくらかは腹がふくれるかも知れないが、ほんの時しのぎにしかならないだろう。だが、他にないなら仕方ない。

「ちょっと待ってな、すぐに温めてくるからな」

 裏のかまどには、幸い少しの熾火が残っていた。それを枯れ枝でつついて、新しい炎にする。細木の数本も添えれば、それで十分であった。特別の日にだけ使う干しエビを、ひとつかみ入れてやる。最後に青菜を振ると、見栄えだけは良くなった。

「……おいしい……」

 しばらくは箸を持つ気力すら起こらない様子であったが、そのうちに空腹の方が勝ったのだろう。器に盛った残り物を、那木は泣きながらすすっていた。少しでも量を増やそうと水を足したため、ほとんど汁と変わらなくなってしまったが仕方ない。鍋の底まで払ってやった二杯目を平らげると、彼の頬にはようやく少しばかりの色が戻ってきた。

「もうこの先は、ろくな魚も食えなくなるね。思えばあんたの爺さまが来てから、ようやく魚らしい魚を食らえるようになった気がする。流れの速い川では必死にさらったところで小魚か小エビしか捕れないからな、沼で漁をしてくれる奴がいなくなるのは困るね。どうだい那木、今度はあんたが爺さまの代わりに頑張るかい?」

 しかし彼は力なく首を横に振り、また少し涙をこぼした。

「俺……網が上手く使えないから。絶対にものにならないって言われた」

 こちらが話を振ってしまったために、抑えていた亡き人への感情が再び溢れ出してしまったのだろう。洗いざらしのぼろぼろの袖で目元を何度も拭い、それでもさらにこぼれるもので胸元を膝を濡らしていく。

「もう駄目なんだ、爺さんがいなくなって。俺はもう、何も出来ないんだ。目の前が真っ暗になって、目を開けていても何も見えない。一体どうしたらいいのか、少しも考えつかないんだよ……っ!」

 ――それでも、ひとりで乗り越えていくしかないんだよ。

 すぐさま心に湧いてきたその言葉を、しかし口にすることは出来なかった。
  もしかしたら、目の前にいるのはあの日の自分自身ではないだろうか。抑え込んだままだった感情を解き放つことも忘れ、自分はすっかり立ち直ったのだと勝手に思いこんでいた。でも、実際はどうであろう。今だって、ふとした拍子にたとえようのない不安に襲われることがある。ただひとり置き去りにされた辛さは、いつまでも癒えることがないのか。

「馬鹿だね、この子は。そんな風に泣いたって、あんたの爺さまは戻ってこないんだよ。漁が出来ないなら、別のことで自分の食いぶちを稼がなきゃならないだろう。まあ今夜はゆっくり休んで、明日からまた考えればいい。何も急ぐことはないんだからね」

 目の前にいる男がその瞬間、出逢った頃の幼子に戻ってしまったように見えたのだと思う。梳衣は躊躇いもなく、自分よりも大きく育ったその背中を抱き寄せていた。じんと温かいぬくもりが胸に広がっていく。自分以外の人間の肌を感じるのは本当に久方ぶりであった。

「今夜は泣くだけ泣けばいい、だけど明日からはもうメソメソしてはいられないよ。ごろごろとただ横になっているだけだって腹は減るんだ、ちっとでも怠ければひからびてしまうんだからな」

 自分の命を感じるためには、もうひとり誰かが側にいなくては駄目だ。そんな当たり前のことを、婆さまが死んだあとはずっと忘れた振りをしてきた。必死で奮い立たせてきた心が、大きく音を立てて崩れていく。目の前の男がどこまでも愚かであるなら、それは自分自身も同じことだ。

 

 男と女になるまでに、そう時間は掛からなかった。ただ側にいて、互いの肌を感じ取る。確かな感情など、どうして必要とするのだろう。

 母のように姉のように彼の側にいた。血のつながりなどなくても、ふたりの魂はひとつ。だからこんな風に巡り会うことも偶然ではなかった。
  ひとつ屋根の下で若い男女が暮らせば、その関係は誰から見ても明らかである。皆が影で何を囁きあっているかを知りながら、それでもずるずると馴れ合いのままで続いていた。

 

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