TopNovel>夏眠〜泡沫の宵・3


…3…

 

 思いがけずに用事が長引き、ようやく丘の上の小屋に戻り付いたのはすでに夜も更けた頃だった。
  ちらちらと飴色の灯りが誘うのを目印に、足下すらおぼつかない暗がりをどうにか上がっていく。普段ならば待つ人のないはずの我が家、こんな風にされることを当たり前だと思ってはならない。

 繰り返し自分に言い聞かせながら、ゆっくりと木戸を開く。板間で続けていた作業を中断して出迎えてくれる人は、やはりいつもの笑顔だ。だから惑わされそうになる、決してこれが「真実」ではないということを忘れてはならない。

「やあ、梳衣さんお帰り。随分遅くなったんだね、そろそろ心配だから迎えに出ようかと思ってたんだ」

 かいがいしく足を洗う水桶まで運んでくれる。手ぬぐいと共に土間の隅に置くと、彼は元のように板間に座り込んだ。

「今日はだいぶ進んだみたいじゃないか、なかなか見事な仕上がりだね」

 その手元を伸び上がってのぞき込むと、とりあえずかたち通りの言葉を付け加えた。それだけのことなのに、那木はこの上なく嬉しそうな顔になる。

「ふふ、いくつか仕事を頼まれたんだ。梳衣さんが用意してくれた絹は色粉の馴染みが良くてね、思った以上の絵が描けるから本当に助かるよ」

 何本もの絵筆を持ち替えては、新しい色を次々と布の上に置いていく。安物の色粉は一度水を通せば跡形もなく落ちてしまう、ただ一度の晴れ着にしか使えない代物だが田舎暮らしの娘たちにとってはそれでも心躍る品なのだろう。こうして里にいるうちは数枚の仕事を頼まれて、それが彼にとって一番の収入源になっていた。

「でも……せっかくここまでの筆遣いが出来るんだ。このまま手遊びで終わらせるのはもったいないだろう、いつも言っているように一度しっかりとした師匠に弟子入りして仕込んでもらったらどうだい?」

 こちらとしてはかなり本気で告げた言葉であったが、那木はやはり静かに微笑むだけ。人の言葉など最初からあまり期待して受け止めていない、独り者の気ままさがもどかしいばかりだ。しかしそれを強くたしなめたところで、何が変わるわけもない。外側からの力では、人は決して動くことが出来ないのだ。そのことは梳衣自身が誰よりもよく知っている。

 

 那木がこんな風に絵筆を使うのを知ったのは、共に暮らし始めてほどない頃であった。何しろ、いい大人が身体を動かすのも億劫だと言わんばかりにごろごろとしているだけ。水汲みなどの仕事を頼めばそのときだけは身体を動かすが、自発的に何かを始めようとする気配はなかった。

  最初のうちこそは肉親を亡くした嘆きで気持ちが沈んでいるだけだと大目に見ていたが、よくよく考えればこの者は今までにも仕事らしい仕事もしたことがない様子である。このままではいけない、自分ひとりならどうにか食いつないで行けてももうひとりなんて身が保たない。そう思ってどうにかこの情けない男に見合う仕事を見つけてやろうと試みた。
  それなりにいい体格をしているから、力は人並みにはある。しかし、だからといってこの痩せた土地を耕したところでろくな収入にはならないだろう。読み書きはほとんど出来ず、それを十分に教えるには梳衣自身の手に余る。仮名文字だけでもどうにかならないかと時間を見つけては繰り返し教え込んでいるうちに、ひとりきりの時間はちまちまと筆でその辺にあるものを書き写すようになった。
  この地では手漉きの紙が大変な貴重品である、遊びにどんどん使われてはたまったもんじゃない。そう思って全てを取り上げようとした時に、ハッと閃いた。

 刺し文様を見事に施し一枚絵のように仕上げた衣をまとうことが出来るのは、殿上人であられる王族の方々のみに限られている。だが一般庶民であっても、晴れの席にはそれなりの美しい衣をまといたいと願うのが人情というもの。そんなときに用いられるのが、布に直接彩色を施したものである。
  水に強い専用の色粉を用い、まずはろうけつ染めの手法で絵を描き、色を埋めたあとに湯で洗い流す。そして白く抜けたそのあとに金銀の色粉でもう一度線を入れるのだ。
  言葉にすればそう難しくないことのようにも思えるが、何しろやり直しのきかない一発勝負でありその材料もひとつひとつが目玉が飛び出るほどに高価である。一枚の衣を仕立てるだけの反物を彩色するには絵柄によっては二月も三月もかかるとすら言われていた。もちろん手の込んだものほど、高値で取引されるのは当然である。
  梳衣も機織りを生業としているから、見事な布絵の反物を目にする機会も多かった。誰にでも出来る仕事ではなくまた習得までに暇が取れるので、慢性的な人不足になっていることも聞いている。それならば那木のような身寄りもない見てくれもどっちつかずの男でも、ものになるのではあるまいか。

 人づてに職人を当たり、そのいくつかに打診してみた。だが、なかなか良い返事をもらえない。まずは本人がやる気を見せて自ら門を叩かないことには始まらないと言われる。まあ、それは当然のことであろう。いくら他人が尻を叩いたところで、本人にやる気がなければ始まらない。

 梳衣の努力は全くのくたびれもうけに終わり、そのうちに那木の方が自分で仕事を見つけて外に出るようになっていった。だが、騙されやすく損ばかりしてなかなか長続きしない。もどかしく思ううちに、とうとう今日まで来てしまったという感じである。
  今では手の空いたときに村の若い娘たちから頼まれる仕事を二束三文で引き受けているらしい。せっかくの腕を生かさないままで過ごすのはもったいないばかりだが、まあ本人はこうして絵筆が握れるだけで楽しい様子なので他人がうるさく口を挟むほどのことでもないだろう。

 

「あれ、もしかして遠くに出掛けるの? 今度は長く掛かるのかな」

 広く板間を使われているので、自分は隅の方に風呂敷を広げて荷造りを始めた。それに目を留めた那木が、そう訊ねてくる。そろそろ仕事も終わるのだろう、色とりどりの花が美しく織物の上に咲き競っていた。

「ああ、今度は外の仕事なんだ。いつものように山向こうの町まで行くからね、そうさね……半月ほどは掛かるだろうよ」

 梳衣の機織りの腕はかなりのものであったが、いかんせん婆さまが遺した織機では使い勝手に限界がある。目の詰まった難しい織りなどには対応できず、収入の少ない一因になっていた。
  それではもったいないと村長さまから提案されたのが、人手の足りない場所を探して住み込みの仕事を手がける方法。一度呼ばれた場所にはまたの機会も声をかけてもらえるように頼み、年に二月三月は外に出るようになっていた。
  身軽な独り身であるから、どこに流れようと自由である。だが母親と祖母の墓はどうしても自分が守りたいという気持ちはあり、仕事が済めば生まれた村に戻っていた。だがその理由が墓守だけではないことは、誰よりも梳衣自身がよく分かっている。

「ふうん、そりゃ丁度良かった。俺も今の頼まれものが片づいたら、また外に出ようと思ってるんだ。どうにか入れ違いにならずに良かったね、ここに戻ってきたときに梳衣さんがいないと本当にがっかりだから」

 彼は絵の具の乾かない場所を大きく広げたあとに、使い終わった筆を一本ずつ丁寧に洗った。他のことはともかくとして身の回りの整頓だけはきちんとしている男である。だからこそ、方々で重宝されるのだろう。

「で……、ええとこれで手持ちの色粉が全部なくなってしまったんだ。また新しいのが欲しいから、その……少しばかり貸してもらえないかな?」

 ――またか。

 小さな落胆と共にこぼれた吐息は、多分彼の元までは届かなかっただろう。そんなことを確認してしまう自分が情けないばかりだ。

 甘える口調でそう切り出されると、どうしても嫌だとは言えなくなる。どこに働きに出ようとも、そのほとんどの稼ぎは手元に残さずに舞い戻ってくる。そのくせ次に出掛ける際には、梳衣にいくらかの銭を無心するのだ。馬鹿な男だと思う、だがもっと馬鹿なのはそんな男を許す自分だととっくに分かっていた。

「こっちだって出掛ける前で色々と物いりなんだからね、そう多くはやれないよ。まあ、次は頑張って稼いでくることだね。このままじゃ、一人前には程遠いよ?」

 ゆくゆくは一家の主として、どこかで所帯を守っていかなくてはならない身の上だ。いつまでも金のなる木にしがみついていては始まらない。だから、……だからこそ。もうこの辺で思い切らなければならないと思う。

「ま、無理に返せとは言わないよ。あんたにそんなことを最初から望んじゃいない。だがな、次があるとは思うなよ、分かってるね」

 うんうんと神妙に頷いて男が受け取るのは、ここ半月ほど梳衣が必死で織り上げた反物の売り上げの全てだ。神経をとぎすませて時には夜半まで機を織り続けたその努力の全てがこの手を離れていく。だが、そのことに少しも痛みを覚えることはないのだ。

「さあ、お互いに明日は早いだろう。今夜は十分に休んで疲れを残さないようにしなくてはね」

 

 そう声をかければ、じゃあ俺がとしとねの準備をしてくれる。互いに寝支度を終えて横になるが、梳衣の身体はすでに鉛を抱いたように重くなっていた。

「……よしとくれ、分かってるね?」

 ふんわりと背中にぬくもりを覚え、すぐに振りほどく。昨夜は久しぶりだったからついつい情に流されてしまった、だが今夜はどうしても無理だ。

「うん、分かってる。梳衣さん、昨日も辛そうだった。肌の色もくすんでるみたいだ。この頃、ずっとそうだけど大丈夫? 遠出して途中で倒れたりしないでよ」

 驚いたことに、今宵の那木は物わかりが良すぎるほどであった。何もしないから、と前置きしてからもう一度腕を回してくる。ただじっとしているだけでじんわりと汗ばんでくるほどの陽気、それでも人肌を感じていた方が安心できることを彼もまた知っていた。

「何をほざいているんだい、人の心配よりまずはてめえの心配をしな。馬鹿だねえ、またこんなにあちこちに擦り傷を作って。少しは気をつけたらどうなんだい」

 那木の体温は自分のものよりもいくらか低い。だから、寄り添うととても心地よかった。

 

◆◆◆


  初めて訪れるその宿場の風景はどこまでも他人顔で、長旅の疲れが足腰にさらに辛くまとわりついていた。土地が変われば天も色を変える。半日ほどの道のりでとんでもなく遠い場所に来てしまったような心地がした。

「やあ、……申し訳ないことだね。便りはもらっていたのだが、このような有様でお客を出迎える支度も出来なかった。夢を見ているようだ、こんな美しい娘さんが来てくれるとは」

 何度か道を訊ねながら、山際の細道を上がっていく。一番奥まったその家の木戸を叩くと、中から弱々しい声が聞こえてきた。

「しばらくの間、お世話になります。不慣れなもので行き届かないことも多々ございますでしょうが、どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」

 元はこの宿場でもかなり名の知れた旧家だったと聞いていた。連なる長屋から少し外れてこうして一軒家を構えていることからも当時の豊かさが感じ取れる。使われている柱も梁もなかなかお目にかかれないほど立派なものであった。しかし今ではそここに埃が積もり、当時の面影を偲ぶものもない。いくつもの部屋が続く一番奥に、その人は力なく横になっていた。

「長いこと手入れもしていないから、そこらじゅうが目も当てられぬ有様だろう。どこの部屋をどう使ってもらおうと一向に構わない。かまども裏の土間にある、この辺りは山おろしの気が荒れるからね、どの家も屋内に炊事場があるのだ」

 目の前の家主は村長さまよりもいくらか年若だと聞いていたが、このやつれようでは実際の年齢よりかなり年老いて見える。一昨年に妻を亡くしてから病がちになり、今では一年の半分ほどを床で過ごすことになってしまったと言う。気がかりなのは妻の里に預けている一人娘で、どうにかして手元に置きたいがなかなか叶わないままだと嘆いていた。

「あれももう、次の春で十になる。我が娘ながらなかなかの器量よしでね、田舎暮らしをさせておくのがもったいないほどなのだよ。だが……私がこのような身体ではね。このまま儚く散ってしまえば、あれは一体どうなってしまうのか。頼りになる兄弟もなく、どんなにか心細い身の上で過ごすことになるだろう ――」

 次の間には立派な織機や他の道具たちがしつらえられている。それらも今は使い手をなくし、埃を被ったまま放置されていた。まるで時が止まってしまったような空間、床の間に飾られた一輪の花があまりに場違いに瑞々しい香りを放っている。

「そのようにお嘆きにならずとも。話に聞いていたよりはお顔向きも良く、すぐに床から上がれるようになるでしょう。娘さんも呼び戻して元の暮らしが出来るようになりますよ」

 言葉遣いだけには気をつけろと釘を刺されている、努めてよそ向きの言い方を試みれば慣れないことに幾度も舌を噛みそうになった。だがこれも毎日のこととなれば大した苦労ではないだろう。習うより慣れろとは良く言ったものである。

 宿場だけあって、様々な集落の民が集まっている。梳衣のように西から流れてきた者もあれば、西南の血を多く引いている者もいた。金の髪は南峰の民であるし、それらが入り乱れればもうどこにいるのかすら分からなくなる。ひとつの民族ばかりが固まるよりもこのような雑多な土地の方が性に合っていると自分でも思う。少しくらい風変わりでも十分やって行けそうな気がする。

 ―― この方の娘は、一体どんな髪をしているのだろう……。

 片親がこれだけ西の血が多く混ざった赤毛なら、交わる相手によってどうにでも変わってしまう。こんな幸運は二度と訪れることはないだろう、予期した以上の偶然に梳衣は心から安堵していた。

 家の中を綺麗にするのは並大抵の手間ではなさそうだが、幸い与えられた時間は十分にある。このたび村長さまから示された仕事の内容は、実は機織りの助っ人ではなかった。

 

「山をいくつか越えた宿場に自分の古なじみがいて、その人がもう長く病に苦しんでいる。連れ合いもなくし世話を焼く者も側にいないために、身体よりも気持ちが沈んでしまっているようだ。お前は身軽な身の上であるし、婆さまを長く介抱してきたから病人の世話にも慣れているだろう。人助けだと思って、行ってやってくれないか」

 静かに伝えられるその言葉は、表面を一枚めくったその奥にもうひとつの願いが込められていた。あれこれと長い間世話を焼いてくれたその人が自分に一体何を求めているのか、それが分からぬはずもない。

「……あたしなどで、本当に宜しいのでしょうか……」

 押し殺したその言葉に、村長はただ穏やかな笑みで応えた。

「あちらに行って、実際にお目に掛かれば全てが分かる。お前にとっても、そう悪い話ではないと思うよ」

 深いその瞳の色は、その感情の全てを隠して表に出そうとしない。だが、やはりこの人は全てを知っているのではないかと梳衣は思った。何もかも承知しているからこそ、自分にこのような仕事を与えるのだ。

 

「心が躍るとはこのようなことを言うのだね、誰かと鍋を囲むのも本当に久しぶりのことだがたいそう美味い。普段は隣の長屋の者が食事を届けてくれていたのだが、どれも冷え切っていて味気ないものであったよ。せっかくの厚意を無にしてはならぬと思っていたが、あれではさらにわびしさが募るというものだ」

 初めに顔を見たときには枕から頭も上がらぬ重病人だと思っていたが、こちらの考えていた以上に回復が早い。十日も過ぎる頃には囲炉裏端で一緒に食事を取れるようにまでなっていた。床を出る足取りもしっかりしていて、肌つやも驚くほどに生き生きとしている。少しずつ弱っていく婆さまを看取った梳衣にとっては、にわかには信じられない成り行きであった。

「そろそろ向山のお社で夏祭りがある、それが終わればもう秋支度になるだろう。そうだな、秋が深まる頃には表の店を開けようか、これからは色々と忙しくなりそうだ」

 長いこと閉じられていたその店は、方々の村からも多く客が訪れる趣味のいい反物屋であった。再開を望む声は未だ多く、すぐに馴染み客が戻ってくるに違いない。この先は蓄えを食いつぶすこともなく、暮らしていくことが出来る。男の商いの才は相当のものだと聞いているから、昔以上の繁盛も間違いないだろう。

「薬師にも普段通りの生活に戻っていいと太鼓判を押された。明日にでも里に娘を迎えに行こうと思う、そのときは是非お前にも同行してもらいたいのだが。だから、……今夜は」

 すっかりと平らげられた昼の膳を片付けようと伸ばした手を、力強い男の手が掴み取る。ハッとしてその顔を見れば、ひとつの決心がその輪郭に宿っていた。

「……お待ちくださいませ」

 自分としても、この事態は待ち望んでいたものであった。すぐにでも彼の意を受け入れるべきなのだということは分かっている。初めからこうなることは予期していた、今更何を迷うこともない。

「一度、里に戻って参りたいと思います。しばしのおいとまを、お許しいただけますか?」

 

 ちり、と胸が痛くなる。

 夏の盛りを忘れるような激しい悪寒、それを悟られぬようにするにはただ青ざめた唇を噛みしめるしかなかった。

 

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