TopNovel>夏眠〜泡沫の宵・4


…4…

 

 半月以上を留守にしていた里は、すでに夏の終わりを感じさせる涼しさに包まれていた。

 荷をまとめてそそくさといとまを告げたのは、あれから一刻足らずのこと。だがどんなに早足で戻ったところで、山越えの道のりは遠い。村の入り口に辿り着く前にとっぷりと日が暮れていた。掘り起こされたばかりの生っぽい土の香りが、ようやく戻り付いたことを教えてくれる。
  わずかに残る山際の明るさ、そこに山鳥の影が見え隠れする。しかし、見上げた丘の上に灯りは見当たらない。そのことに落胆よりも安堵の色を感じている自分がいた。

 那木にここ以外に戻る場所があることに、もうだいぶ前から気付いていた。だがそのことについてはっきり確かめようとしたことはない。いずれそのときが来れば、全てが明らかになるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、ずるずると馴れ合いの関係を続けてきたまでである。
  出掛けるときはすすけて今にも破れそうに見えた袖口が、戻ってきた折りには綺麗にあて布をされて繕われている。どう見ても彼自身の手とは思えないその仕事に、ちらりちらりと見知らぬ影を実感した。
  どこで落としてくるのやら、もらった給金のほとんどが懐に入っていない状態で帰ってくる上に、出掛けにはいくらかの無心をされるのも毎度のことであった。金を借りるあては梳衣ひとりに留まらない。普段は布染め絵の仕事を頼んでくる村の娘たちにもいくらかの銭を借りていくようであった。
  いつだったか、出先からの戻り道に偶然見てしまったことがある。村に舞い戻ったばかりの那木があれこれと礼を言いながら、その娘たちに土産を渡しているのだ。綺麗な花模様の描かれた櫛や、匂い袋。華奢な造りの飾り紐などその品は様々である。ほんのはした金で手にはいるようなものばかり、だがそれが梳衣にはこの上なく輝かしい道具に思えて仕方なかった。

 ―― あたしには、ひと束の糸すら持ち帰ったことはないのに。

 年若い娘たちと自分との間に流れる深い溝を改めて思い知らされる。那木にとってこの身はただの金づるでしかない、何かを恵んで喜ばせてやろうという片手間の優しさすら考えられないほどに粗末な存在。あれこれと口では言い訳をして詫びるが、実際のところはそんなものだろう。
  口惜しくなどないと言ったら嘘になる、でも柔らかい微笑みを浮かべて戸を叩かれればやはり家に上げずにはいられなくなるのだ。その行為が彼をさらに堕落させることを知りながら、どうしてもすがる手を断ち切ることが出来ない。そして続けてしまった二年以上の関係、いつかどこかで思い切らなければと考えつつもその願いは毎度虚しく崩れ去るばかりだった。

 だが、もうそれも終わる。この先は愚かな若者の行く末を案ずることもない自分に生まれ変わるのだ。

 何も改めて別れを告げに来たわけではない。最後にひと目その顔を見たかったと言うわけでもなかった。何気なく出てきた家の中をもう一度綺麗に片付けて、あとの始末はすべて村長さまにお願いすればよい。あの御方には本当に感謝してもしきれないほどのものを頂いてきた。そのご恩に報いることが出来るのであれば幸いである。

 丘の上は涼しげな夜の気が流れ、梳衣の髪を静かに揺らしていく。ここまで紛れもない銀の髪、だから自分の父親はやはり西の地の者に違いないと信じていた。母は何も教えてくれなかったが、それだけは真実だと思う。自分の片親を知らずに過ごすことが不幸だとは思わない、むしろこうして平穏なままに暮らしていけるのであれば何も分からぬ方が良いのだ。
  ただただ、流されていけばよい。自分の身に降りかかる全てを払うこともせずに、ただ静かに全てが通り過ぎるのを待てばよいのだ。それこそがこの身にふさわしい人生、この上に何を望むこともない。

 

 招き入れる誰もいない小屋。ひとりで木戸を開け、板間にひとつだけの灯りをともした。頼りない輝きでも、ささやかな部屋全体をどうやら照らし出すことが出来る。部屋の隅に置かれたいくつかの行李。そのひとつひとつを丁寧に確かめていく。ひときわ大きなひとつの蓋を開けたとき、梳衣の口元から静かな吐息が漏れた。

 ―― これを、俺に? いいのかな、とても温かくて心地いいよ。

 初めての冬、那木に縫ってやった綿入れ。あまりに同じ衣ばかりを着続けていて、すっかりとぼろになってしまった。何度も継ぎを当ててやったが、それすらももう見る影もない。だが、彼はそれを捨てることはせずに今もこうして大事にしまってある。そのほかにも、すすけて使い物にならなくなった衣ばかりがあとからあとから出てきた。

 ぽつりと、布地の上に落ちる雫。まだ迷っている自分がどこまでも哀れだと思う。

 このまま同じ生活を続けていけば、彼は時折この小屋に戻って来るであろう。そこで繰り広げられる日常、さりげない言葉のやりとり。しばらくで立ち去るかりそめの宿でも、その瞬間に交わした会話には確かに互いのぬくもりが宿っている。それを頼みに生きていくのも悪くないと思っていた。しかしそれでは、彼も自分も駄目になってしまう。断ち切るなら、やはり傷が浅い今のうちの方がよい。

「難しく考えることはない、互いに足りないものを補い合う関係も悪くないと思うよ。自分を必要としてくれる場所があるのなら、そこに収まればよい。何、共に暮らせばやがては情も芽生えてこよう。最初から何もかもを望んでは上手くいかないからね」

 本当にその通りだと思う。すべてを自分の思い通りになるように望んだところで、それが叶うことはない。村長さまのお言葉ならば、黙って従う他にないだろう。あの御方にこれ以上の迷惑を掛けることはできないのだから。
  二十歳を越えた今になって縁付くあてがあるとすれば、このたびのような話しか考えられない。旧家の後添えとして、与えられた務めを全うする。それで方々が丸く収まるのであれば、この上ない幸いと思わなくてはならない。

 薄い夜空、寝苦しい夏の宵に見た儚い夢。だから覚めてしまえば、彼の胸に何も残らない。
 
  地を這うような嗚咽、あとからあとからこみ上げてくるものをどうしても留めることが出来なかった。あんな情けない男のことを、どうしてこんなに恋しく思うのだろう。何もかもに気付かぬふりをして、このまま暮らしていたかった。彼がこの場所を忘れてしまうまで、二度と寄りつくこともなくなるまで、あと半年あと一年それだけでいいから。

 ―― 駄目だ、もう時間がない。

 その瞬間。どこからかもうひとりの自分の声がして、あっという間に現実に引き戻される。梳衣は衣の袖口で頬を拭うと、何事もなかったように黙々と片づけを続けた。

 

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 ふと我に返って辺りを見れば、もともとが少ない荷物がさらにすっきりとしてしまった。少しの時間、うたた寝をしていたようだ。がくんと上体が崩れるその感覚で目が覚める。燭台の明かりもとうの昔に消えていた。

「……梳衣、さん?」

 ごとごとと、表戸を揺らす音がする。少しでも気の流れが入るようにと、今夜も片腕ほどの隙間を空けていた。地盤が緩く傾いた柱の小屋は、建て付けが悪くてすんなりと戸が開かない。そんなことはとっくに分かっているのに、いつになく乱暴なことだ。もう少しで外れそうな勢いで戸板が開いた。騒ぎの主は、想像通りの人物である。

 だが、現れたその姿にはにわかに立ち上がることも出来ぬほど驚いた。

「ああ、やっぱり……! 梳衣さん、……梳衣さん戻ってきたんだね!? そうだよ、やっぱり戻ってきてくれた。ああ、良かった。本当に心配したんだからね――」

 ふらりと足下が揺らめき、そのまま前に崩れ落ちる。いつもとは人が変わったような動作にしばらくは動けぬままでいた梳衣も、大きな物音にようやく自分を取り戻した。

「……何だ、酔っているのかい? 随分とご機嫌なことじゃないか」

 側に寄っただけで、たとえようのない異臭が鼻をつく。ここまで匂うようでは、かなりの量を過ごしたのであろう。普段は嗜むほどにしか呑まない男だから、こんなことは珍しい。理由は分からないが、とにかくは横に寝かせよう。そう思ってもたれかかる身体を持ち上げようとするが、なかなか上手くいかない。これだけ体格の違う人間を動かすのは女の細腕では至難の業であった。

「畜生、あの男っ……とんでもないほら吹きだ! そらごらん、梳衣さんはちゃあんと戻ってきたじゃないか。俺が思った通りだ、だって梳衣さんが嘘をつくはずがない。大丈夫だよね、どこにも行かないってそう言ったよね……!?」

 なおもしなだれかかってくる身体に、どうすることも出来ない。土間に尻餅をついたまま、梳衣は言葉にならない呻きをひとつひとつ辿っていった。

「……あの男?」

 誰のことを指しているのだろう、うわごとのように何度も何度も繰り返し罵るその相手に心当たりもない。もともと那木は村の誰ともうち解けようとせず、他人行儀に過ごしていたのだ。そんな彼に、一体誰が言葉を掛けるのだろうか。

「梳衣さんだって分かっているだろう、麓の村長さまだよっ! ひどいんだ、あいつ俺の顔を見るなり言ったんだ。梳衣さんはもう戻ってこないって、だからお前もきちんと自力で生きていけるようにならなくてはって……! でもっ、そんな。そんなのないよっ! 梳衣さんは……梳衣さんは、ずっと俺と一緒にいてくれるんだから。だって、約束したじゃないか。だから、俺は――……」

 我を忘れて泣きじゃくる背中に手を添えて、嵐が過ぎるのを待った。全ての体重でのしかかられてはたまらないがひとりの力では振り払うことも出来ない。
  それに大体の状況は理解できた、きっと那木はいつまでも戻らない自分を不審に思い意を決して村長さまの家まで訪ねていったのだろう。そこで自分が二度と戻らないことを告げられ、ここまで深酒をしてしまったのか。膝も袖も、そこら中が泥だらけ。幾度もぬかるみに足を取られた姿が目の前に浮かんでくるようだ。

「……馬鹿な男だよ、お前は」

 もともとがよそ者のであって、村のどこにも居場所がないのだ。そんな男が村長さまにひとり刃向かったところでとても勝ち目はない。あの御方が物静かな争いごとを嫌う性格だったから、大事に至らなかっただけ。もしも血の気が多い相手なら、その場で斬り殺されても文句は言えない立場なのだ。

「ばっ、馬鹿なことくらい、分かってるよっ! 分かってるけど、……だって口惜しいじゃないか。あいつは俺が簡単に騙されると思って、嘘をついたんだ。そうすれば、もう二度と村に寄りつかないと思ってさ。あいつだけじゃない、村の奴らはみんなそうだ。俺のこと、のけ者にして、汚いものを見るような目を向ける。だから、嫌いだった。みんな、みんな嫌いだった……!」

 ―― 好きでこんな姿に生まれたわけではなかったのに……。

 那木の心の奥底にある激しい嘆きが、梳衣の胸の内に直に伝わってくる。必死で塞ごうとしても、心に空く風穴。誰かを愛したい、そんな切なる心までがその場所からどんどんと流れ出してしまう。信じて絶望して、だけど懲りずにまた信じて。繰り返しているうちに本当に欲しいものが何であるのかすら、見当が付かなくなっていた。
  すがりついた腕を振りほどかれたらどうしよう、この人こそはと信じた相手に裏切られたらどうしよう。自分には何もない、だから全てをなくせばあとには何も残らない。だったら、初めから望まなければよいのだ。優しさもぬくもりも、自分には縁のないものだと思い切ってしまえばよい。

「梳衣さんだけなんだ、梳衣さんしかいないんだ。だから、……梳衣さんがいなくなったら、俺はもう生きていけない。本当だったら、爺さんがいなくなったあのときに消えてしまうべきだった。だけど、……それも怖くて。嫌なんだ、ひとりになるのは……!」

 荒れ狂う言葉が、次々に梳衣の身体を突き抜けていく。だがそれはひとつの痛みすら残さずに、跡形もなく消えていった。

「そうかい、……そうかい心配かけたね。だがもう大丈夫だ、とにかくはゆっくりお休み。身体が楽になれば、気持ちも変わる。大丈夫だ、あんたはちゃあんと歩いていけるよ」

「人」という文字を書くように、互いに互いの身を寄せ合ってここまで歩いてきた。

 このままでは身動きが取れない決して浮かばれないと知りながら、崩れていく自分が怖くてぬくもりを振りほどくことが出来なかった。世の中の道理も分からない若輩者が知恵を出し合ったところで、上手い方法が思いつくことはない。このまま共倒れになってしまう前に、やはりどうにかしなくてはならなかったのだ。

「……梳衣さん……」

 もう解放してやろう、ここまでしがみついてきたのは実は自分の方なのだ。この男は、すでに己の力だけで生きていく術を知っている。このまま引き留めておくわけにはいかないのだ。
  どこかで彼の帰りを待つ大切な人の元に、今度こそ心の全てを向けさせなければならない。どっちつかずの半端なままでは、何事も上手くいかないのだ。

「また、明日ゆっくり話そうね。今日は疲れただろう、このまま横になりな。なぁに、今更板間に泥を上げたところで騒ぎ立てるような家じゃない。あとで綺麗にしてくれれば、文句も言わないよ」

 ようやく泣き声が収まり、そのうちに静かな寝息に代わる。丸くなった背中に、薄衣を一枚掛けてやった。これくらいの時期になると、明け方は驚くほどに冷え込むこともある。ついうっかりと寝冷えでもして身体を壊したら大変だ。

「全く……どこまでも馬鹿な男だよ」

 どこにも行かないでくれと言われれば、つい情にほだされそうになる。そんな風にして踏ん切りがつかないままで過ごしてきた。だが、このたびは違う。他の誰でもない、この男のために覚悟を決めなくてはならないのだ。

 天井近くの灯り取りからは、すでに白み始めた外の様子がうかがえた。

 

◆◆◆


 ほんの一刻ほど横になり再び目覚めたときに、那木はまだ部屋の隅でこちらに背を向けたままで休んでいた。頭まですっぽりと衣を被っているところを見ると、明け方は相当に寒かったらしい。子供のようなそのなりに思わず笑みがこぼれそうになり、慌てて飲み込んだ。
  物音を立てぬように静かに身支度をする。昨夜のうちに用意してあった包みを手に土間に降りて、もう一度後ろを振り向いた。

 引き戸を開ければ、丘の上は視界がないほどに白い靄に覆われている。湿度の上がる時節には良くあることで、もうしばらく冬の初め頃まではこのように鬱陶しい夜明けが続くのだ。

「さて、……そろそろ出掛けるとするかね」

 母が若い頃に着ていたという薄紫の晴れ着は、今の梳衣には少しばかり軽々しい色目になってしまった。だが他にめぼしい衣もないから、今朝はこれに袖を通してみた。少し時間が早いが、もうあの方はお目覚めであろう。ひと言挨拶をして、それから出立すればよい。

 そう思って、いつもとは反対の方角に足を向ける。二歩三歩と小屋から離れたところで、にわかに目の前の茂みが動いた。

「……!?」

 現れたその姿に、言葉を失う。そしてたった今、自分が出てきた小屋の方を振り向いた。そんなはずはない、最後にきちんと確かめたはずなのに。

「―― やっぱり、そんなことだろうと思った」

 自嘲気味に歪む口元、昨夜見たままの汚れた姿でそこに立っている。しかし、どうして。未だに信じられないままでいる梳衣に、彼はさらに言葉を重ねた。

「ひどいよね、梳衣さんは。俺、ちょっとは期待したんだけどな。きちんと寝姿を確認してくれれば、あれがただの抜け殻だと気付いたはずなのに。側まで来て最後に一声掛けてくれるくらいの情けがあっても良かったと思うよ」

 やはり言葉は出なかった。こんな風に引き留められることがないようにと、こっそり出てきたのに。まさか待ち伏せをされるとは思わなかった。彼の策に気付かなかったのは迂闊である。

「……行くんだね」

 念を押されて、静かに頷く。この者がどこまでを知っているのかは知らない。だが、自分がいつもとは全く違う気合いで家を出るのだと言うことは、すでに承知の上だろう。

「そう」

 刹那。梳衣は自分の目を疑っていた。自分が連れ添ってきたのは、こんなに美しい男であったのか。あいの子だと罵られて生きていたとは思えない、柔らかな眼差しを向けてくる。少しばかりすすけて見える赤髪も、今朝は艶やかな銅板の色に輝いていた。

「なら……これを持って行ってくれないかな。今までの感謝の気持ちを込めて、梳衣さん是非受け取って欲しいんだ。ちょっとかさばるけど、いいよね?」

 細長い包み、その中にあるものが衣を仕立てる前の反物であることは容易に想像が付いた。だけど、何故今更? そう思いながらも促されて開く手元が大きく震える。

「……どうして……」

 こちらの驚く様がそんなに嬉しいのだろうか。彼は昨夜からずっとご無沙汰だった満面の笑みを浮かべると、包みの中身と梳衣の表情を代わる代わる満足げに見つめていた。

 しばらくは、また言葉が詰まってしまう。これほどの驚きは、生まれて初めてのことかも知れない。どうにかその場に崩れずに立ち続けることが出来て本当に良かったと思った。

「初めてひとりで仕上げたものだから、まだまだ納得のいかないところもあるんだ。でも、師匠からもやっとお許しが出た。ここにまで辿り着くのは本当に大変だったんだから」

 昨夜の深酒が響いているのか、顔色はやはり優れない。だがどうだろう、この誇らしげな顔は。ようやく確かなものを手に入れた、その喜びに満ちあふれている。

「ほとんどの材料は梳衣さんに工面してもらった銭で手に入れたものだったからね、初めての反物が完成したら必ず渡そうと思ってたんだ。でも本当にものになるかも分からなかったし、隠れて通うしかなかった。師匠は仕事のことは何も教えてくれなくて、言いつけられるのは雑用ばかり。技術が欲しければ目で盗めって言うんだからひどいよね。だけど諦めなかったよ、どうしても一人前の職人になりたかったから」

 流れの仕事で受け取った雀の涙の給金など、布絵の道具を揃えるには全く役に立たなかった。村娘たちから借りた金だけはどうにか滞りなく返却していたが、梳衣に借りた分までを工面することはどんなに仕事を増やしても無理。あまりにぼろを着ていることを可哀想に思って、師匠の奥方が衣を繕ってくれることもあったと言う。

「最初はね、それこそどこへ行っても相手にされなくて口惜しかった。せっかく仕上げた仕事を横取りされてしまったことも一度や二度じゃない。だけど最後に今の師匠に巡り会えた、みっちり仕込んでもらったから、これからは仕事を受け取って家で進めることも出来るんだよ。そしたらもう、根無し草みたいにうろつかなくても生活できるようになるんだ。だから……」

 その先に出かかった言葉を、那木は静かに飲み込んだ。こんなにも穏やかで大人びた男だっただろうか、初めて見るようなその姿に梳衣は信じられなくて何度も瞬きをしてしまう。どこまでも甘ったれた独り立ちの出来ない情けない奴だと思っていたのに、こちらが気付かぬうちにこれほどの技を手に入れていたのか。完成させた品で驚かせるために、ずっと秘密にしてきたとはたちが悪い。

 ―― どうして、今更。

 一度決めた覚悟を今更覆すことなどしたくない。もしも簡単にそれができるのなら、何故ここまで辛く苦しく思い悩む必要があったのだろう。いいじゃないか、全ては手遅れだ。互いの道がこうもすれ違ってしまったのだ、もうどうすることも出来ない。

「これは……受け取れないよ。これから先、あんたが生きていくためにいくらでも必要なものがあるだろう。最初から言ってたはずだ、あんたにやった金は戻ってくるとは思っていない。せっかくここまで見事に仕上げたんだ、どんな銭になるのか早速売りに出掛けたらどうだい?」

 しかし、その言葉に那木は静かに首を横に振る。つつみを差し出した梳衣を押しとどめると、やがて静かに告げた。

「ううん、それは梳衣さんのもの。梳衣さんのことを想って仕上げた、俺の全ての気持ちが詰まってる。だから、どうかこのまま受け取って。そして、どこかの町で上手に売りさばいてその金で梳衣さんのこれからの足しにしてくれればいい。俺は……ものを売るのも下手だから、きっと散々な目にあってしまうし」

 その言葉には確かに思い当たる節があった。
  やはり人には向き不向きがあるのだろう、共に暮らし始めて間もなく何も仕事がなくぶらぶらしているのを見るに見かねて、梳衣は彼に自分の仕上げた織物を町で売りさばいてくるようにと頼んだことがある。だが戻ってきた彼が手にしていたのは、普段の半分にも満たない額。聞けばあとからあとから買い叩かれてどんどん安値になってしまったのだという。

「ほら、ね。もうそんな風に心配しないで、俺はひとりで大丈夫だから。俺のせいで梳衣さんがいつまでも幸せになれないのだとしたら、悲しいよ。もう我が儘を言って引き留めたりしない、俺は梳衣さんのお陰でこうして今を生きているんだから」

 じゃあ俺はもう一眠りするからと、あくびをかみ殺す。おどけたその仕草に永遠の別れを告げる名残惜しさは全く感じられなかった。

 梳衣もつられて微笑み返す。そして、すっかりもやの晴れた丘をゆっくりと降りていった。

 

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