半開きになった戸の向こうはひっそり静まりかえっていた。もう薄暗くなる頃だというのに灯りを点ける気配もない。 もしや、もうここには誰も住んでいないのだろうか。一度不安になると、本当にそのような気がしてきて、それ以上戸口を開けるのも躊躇ってしまう。馬鹿なことだ、元々自分の家なのに。立ち入ることを一体誰に遠慮をする必要があるのだろう。
ゆるゆると開いた戸の隙間から覗けば、板間の奥に丸くうずくまった背中が見える。 震える心を必死で押し留めてから、梳衣は静かに土間を進み始めた。 「何してるんだい、今日は冷えるよ。そろそろ火をおこしておかないと困るだろう」 微かに動いた背に、そっと手を添える。その瞬間に弾かれるように小山が振り返った。 「……え、どうして?」 二度三度、瞬きをして。さらにそのあと、汚れたままの手で目元をごしごしと拭っている。伸びかけた髭が顎を浅黒く覆って何ともみすぼらしい。だが梳衣はそれをたいそうなことだとは思わずに、知らぬふりで火打ち石を使う。一握りの茅に火を付けて、その上に細木を何本も渡した。 ふわっと一気に朱色の炎が上がり、その後落ち着くまでにはしばしの時間が掛かる。注意深くそれを見守ってから、梳衣は再び口を開いた。 「昨朝から一度も姿が見えないって、皆が心配していたよ。不摂生するのは構わないが、それが元で寝込まれたりしたら大変なことになるとね。全く困ったもんだ、偉そうなことを並べ立てたところでひとりじゃろくに飯の支度も出来ないんだからな」 いろりに掛けた鍋は出掛けたときと同じに空のまま。煮炊きをするのも面倒だったのか、干し飯の袋がその辺に転がっている。たったこれっぽっちで二日近くの飢えをしのいでいたのだろうか。大の大人が、情けない限りである。 「あ、あのっ。梳衣さん、忘れ物っ!?」 その問いかけに、黙って首を横に振る。まるで化け物でも見たかのような驚きよう、今にも目玉が飛び出しそうだ。 「だって、本当に分かってたんだよ、もう戻らないことくらい。その、……戻ってくるはずもないって思ってた……」 ようやく目の前の梳衣を幻ではないと悟ったのか、那木は泡を吹くような勢いでまくし立ててくる。その声は途中でかすれ、しまいにはこちらの耳まで届かなくなった。 「ごらんよ、思いがけないほどに高値で売れちまった。さすがにあたしもここまでとは思わなかったから、腰が抜けるかと思ったね。ついうっかりと値をつり上げることも忘れてしまった、惜しいことをしたもんだ」 その言葉に那木の顔がすっと青ざめる。すっかり血の気をなくした唇が、微かに動いた。 「まさか……この銭を渡しに?」 中を確かめようとする気もないらしい。しばしの沈黙のあと、大きくかぶりを振った彼はさらに呻くような声を上げた。 「だったら余計なお世話だよ、びた一文受け取らないからさっさとまとめて出て行ってくれっ! ねえ、言ったでしょう? あの反物は梳衣さんにあげたんだよ、梳衣さんのために仕上げたものなんだ。それをこんな風にされちゃ、たまらないよ……!」 苦しげな声はそこで途切れる。彼は何かを必死にこらえるように唇を噛みしめた。 こちらに向いて膝を折り、乱れた自分の衣をぎゅっと握りしめている。その指先には未だに落ちきらない染料がまだらになってこびりついていた。初めての仕事を仕上げるためにそれこそ寝食を忘れて励んでいた様子がそこからうかがい知れる。全く変わったものだと思う、これがあの頼りなかった優男であろうか。 己の腕一本で生きようと思えば、それなりの代償を払わなくてはならない。特別のものを手に入れてしまった人間だからこそ、味わう苦労がある。ただ人であればあっさりと過ごすことが出来ることでも、この者の両肩には当然のように重くのしかかってくるだろう。 「そうだね、確かにあんたにはそう言われた。だけど、そんなわけにはいかないんだ。この銭をあたしひとりのために使うことはどうしても出来なくてね……そのことを詫びなくてはならないと思ってわざわざ戻ってきたんだよ」 この先、どんな風に切り出したらいいものか。全てを片付けて戻ってきた今になっても、まだ梳衣は迷っていた。だが、やはり真実を告げぬ訳にはいかないだろう。そのあとのことは、また改めて考えればよい。今まで幾度となく茨の道を越えてきた、それに比べればこのたびのことなど大した苦労ではないはずだ。 「詫び……って。別に俺は、梳衣さんにそんな……」 またひとつ小さくかぶりを振って、そのあと震える握り拳に手を添える。今ではもう、自分よりもずっと太く逞しくなってしまった腕。ごつごつとした指に、彼が人として必死に生きてきた軌跡が確かに刻まれている。 「この銭をあたしと、あと……もうひとり。どうしても使ってやりたい奴がいるんだよ。那木、あんたにはこの先ふたつの命をてめえ以外に生かしていく覚悟はあるかい?」 那木の口元が半開きのままで動かなくなる。その碧の眼差しがゆっくりと、でもまっすぐに梳衣に向き直った。 「……え?」 自嘲気味な笑みを浮かべながら、梳衣もまた彼を見つめ返す。それ以上の言葉は、どうしても思いつかなかった。
自分がどこまでもずるい女であることは、とっくに分かっている。 腹に子が出来たことを知ったとき、この真実を那木だけには決して悟られてはならないと思った。何年も関係を持ちながら馴れ合いのままでいられたのは、そこにふたりきりの気ままな暮らしがあったからだと思う。彼からも一度もそんな話はなかったし、自分からも切り出そうとはしなかった。 那木の心にはひとつの傷も付けたくなかった。惚れた弱みと言われればそこまで、だが自分たちのことが足枷になって彼が自由に羽ばたけなくなるのはどうしても我慢ならなかった。 他の誰を自分自身を傷つけることも欺くことも厭わない、梳衣にとって心の底から守りたいと願うのは那木という男ただひとりであったのだ。
「じ、じゃあ……その……」 こちらの言葉をどこまで理解してくれたのかは分からない。彼は自分の意思に従おうとしない口元を、それでも必死に震わせた。 「す……いさん、ここにいてくれるの? これからもずっと、かわらずにいてくれるの……?」 すぐには言葉を返さずに、梳衣は彼の震える背に静かに腕を回して引き寄せた。 やはりこれだけ頼りないのだ、すぐにしゃんとしろと言っても上手くいかないだろう。この先も迷いながら躓きながら、それでもふたり歩いていくのだ。幾度となく懸想したその儚い夢を叶えるために、何もかもを捨てて舞い戻ってきた。 「それで……お前さんは本当にそれでいいと思っているのかい」 今か今かと梳衣の帰りを待ちわびていたその人は、突然の告白にそれでも怒りを露わにすることはなかった。だが、もう一度考え直してくれないかと言う言葉には頷くことは出来ない。最後に見せてくれた笑顔が胸に深く突き刺さった。 自分の選び取ったこの道が正しかったのかどうか今はまだ分からない。このたびのことで、とんでもない迷惑を掛けてしまった相手もいる。だが、どんなに後悔したところで今更あと戻りは出来ないのだ。そして自分の軽はずみな行為が誰かの心を引き裂いていった痛みを、決して忘れてはならないと思う。 「あんたが……あたしたちを見捨てなければね。ただそのためには、必死で働いてもらわないといけないよ? 今にあたしは自分の身体も自由に動かせないようになる。そのときになって泣き言を言われても、聞く耳を持つ気はないから」
けだるい夢心地の時間はいつか覚めていく。 夏から秋へ、季節が色を移すようにいつまでも変わらないものはどこにもない。外側から見たらなにひとつ違ったところのないふたりでも、その内側から新しく生まれ変わっていくのだ。もう二度と、悲しみに取り込まれることがないように。
◆◆◆
ついこの間芽吹いたばかりだと思った緑が、気付けば村中を染め上げようとしていた。子供たちの明るいはしゃぎ声が遠く近く谷に響き渡る。青い川がゆったりと丘の下を流れていた。 一昨年、昨年と。
「こら!」 水汲みから戻った梳衣の耳に、そんな叫び声が聞こえてくる。おやおやと思いながら戸口をのぞき込むと同時に、鼻の頭の黒くなった子供がひょいと目の前につまみ出されてきた。続いて声の主が顔を出し、困り果てた様子で唇を尖らせる。 「頼むよ、梳衣さん。そろそろ仕上げで濃い色に入ってきているのに、ちょろちょろと周りを駆け回るんだからたまらないよ。少しの間、中に入ってこないように見張っててくれないかな?」 こちらが背中の子をゆり上げながら首をすくめると、彼はさらに「お願いします」と頭を下げた。納期が迫っているからかなり切羽詰まっているのだろう、話もそこそこにそそくさと中へ引き上げていく。 梳衣の目の前に残ったのは、髪の色も目の色も全てが彼に生き写しの幼子だ。部屋を追い出されたのがたいそう気に入らないらしく、頬をぷっくりと膨らませている。その拗ねた表情までが父親そっくりなのだから、もうどうしようもない。厳しく諫めなければと思っても、つい笑いがこみ上げてしまう。 「ほら行くよ? まったくもう、困った子だねえ……」 よくよく確認してみれば、黒いのは鼻の頭だけではない。両手も両足も至る所に墨色の染め粉が付き、さすがにこれではおちおちと仕事にならないのも頷ける。ただの遊び道具ではない、特別の染料なのだ。こんな風に衣に付けてしまっては、どんなに洗っても二度と落とせないではないか。 「みてみて! かあちゃんっ、おれもうこんなにかけるよ……!」 怖い顔で睨み付けても全く動じず、それどころか誇らしげに端布をこちらにつきだしてくる。だが、そこに点々とすりつけられたのはどう見ても「手形」。黒々とした紅葉が散っているようだ。 「ああ、たいそう上手だね。さあ、もうそれはいいからまずは川に行こう。その手足を綺麗にしないことにはどうにも始まらないよ。そのあと、いつものように村長さまのお屋敷まで、ご用聞きに行こうね」 その提案に、幼子の瞳が新しい宝物を見つけたかのように輝く。 「うわー、うれしいな! おやしきにいくといつもあまいかしがいただけるんだものっ! おれ、こんどひとりでもおつかいにいってやるよ? そのほうがかあちゃんのぶんまでたくさんいただけるし」 何を言ってるんだいとゲンコツを落とそうとしたその袖もとから、彼はひらりと身をかわす。そして無邪気な笑い声を上げながら、坂道を転がり降りていった。
どこからが夢でどこからが現実なのか。 すっきりと晴れ渡った天を見ても、今このときが信じられなくなる一瞬がある。あの時に、確かに選んだひとつ道。そこを辿ってここまで来た。 だからきっとこの先も、ただまっすぐに歩いていけばよい。
「かあちゃん、みて! あおいちょうちょがいる、あっちにははむし!」 先ほど水桶を手に登ってきたばかりの丘を梳衣もまた降りていく。川面には、一足早く真夏の輝きが眩しく映っていた。 了 (061208)
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