あーっ、よく寝た!
う〜んっ、久々に気分爽快な目覚め。何か今日は一日、すごい頑張れそうな気がする! そうよそう、身体もどこも痛くないし、まるで邪気が抜けたみたいっていうか――
……ぐぅっ。
あ、今とっても恥ずかしい音を聞いたような気がする。
そうなのよね、この部屋に引っ越してきてからというもの、毎朝決まって目覚ましのアラーム音じゃなくて自らに内蔵された腹時計で目覚めてる私。だって、仕方ないじゃない。生活習慣が変わりすぎて、そういうことになっちゃったんだよ。
「よいしょっと」
通勤時間が一分の職場。何それあり得ないって学生時代の友人たちは皆呆れ顔をするけど、ホントにホントなの。勤務先の会社が入っている雑居ビル、その最上階に住居があるってすごいよね。エレベータさえすぐに上がってきてくれれば、歯磨きも終わらないうちに到着しちゃう。
恵まれている環境とも言えるけど、これだけ移動距離が少ないと運動不足が悩みの種。だから仕事の少ない時間帯を見計らって、わざわざ銀行の用事は遠い支店まで足を伸ばしたりしてるんだ。
「しかも、ウチの職場って午前中はほっとんど無人地帯だもんなあ……」
古巣の出版社を飛び出して、新たに設立したイベント企画会社。またの名を「出たとこ勝負の何でも屋」という。見た目の胡散臭さに似合わず、あちこちにやたらと知り合いの多い社長が次々と請け負ってくるその内容が節操なし。
見本市会場のブースデザインから、地元商店街のポスターやちらしまで大きさも種類もバラバラ。つい最近は某ミュージシャンのゲリラライブの企画と実行を手がけたんだ。ギョーカイのことなんて何も知らないのに、かなりスリリングな経験をさせてもらったっけ。
だけど、やっぱり。前の会社にいたときとまるっきり同じで、職場は完全な夜型。昼下がりのおやつどきからようやく通常営業って、どんだけよ。取引先だって午前中はいくら電話しても捕まらないし、この悪循環はどうにもならないわね。
「……っ、痛っ……!」
私は真っ暗闇で寝るのが好き。豆電球をひとつ灯らせておくなんて、絶対に出来ないタイプ。だから今も、ブラインドをぴっちり閉ざした室内には、わずかばかりの光しか差し込んでこない。そんな状況でベッドから下りようとしたら、とたんに何かを踏んづけた。
足の裏にぐにゃり、と感じたブツに一瞬どっきりする。でも、目をこらしてその場所を見て、ホッ。そうそう、この眼鏡って形状記憶何ちゃらで、変幻自在のフレームなんだよね。良かった、変な風に歪ませてしまったら、また修理代が大変だ。
で……? 何で、こんなものが、ここに転がってるの……!?
慌てて手元のリモコンで部屋の電気を点ける。そうそう、イマドキはこんな便利な代物があったんだっけ。ただし、扱う人間が雑だから文明の利器もすぐにどこかにとんずらしちゃうのね。
「ぎ、ぎゃあああっ……!!!」
次の瞬間、思わず叫んじゃった。だってだって、いきなり足下にうつぶせに倒れた死体が転がっている! 何これっ、靴も脱いでなければ、スーツもそのまんま。しかも両手は万歳で、いかにも死体現場に残されたチョークの跡みたいになってる。
えええーっ、嘘!? 人が寝てる間に、すぐ側では殺人事件が起こってたって―― というか、第一発見者の私は、そのまんま重要参考人っ!?
「……ううう……」
あ、動いた。どうも、この人間は生きてるみたい。うつぶせになっていて顔は確認できないものの、十中八九、この眼鏡の持ち主に間違いないと思う。
「か、身体が……身体が痛い……」
そりゃそうでしょうよ、いくら過ごしやすい秋の気候でも、朝晩は冷え込むし。フローリングの上に何時間も寝っ転がっていたら、あちこち痛くなって当然だと思う。
「あのーっ、主任。……じゃなくて、社長!」
とりあえず、呼びかけてみる。一緒に暮らし始めて早半年、ふたりっきりのときには互いに名前で呼び合っても支障はないと思うんだけど……この男、私が名前で呼ぶと怒るんだもん。
「どうしたんですか、昨日はビルの管理会社の人と飲みに行くって言ってましたよね? で、戻ってきてこんなところで力尽きたんですか」
勘弁してよーっ、あとベッドまで一メートルじゃない。あああ、ただですら着崩してるスーツがとんでもないことになってる。こんなんじゃ、元々は良い品物だって、誰も気づいてくれないわよ。
知らなかった、見かけによらず贅沢な人間だったってこと。互いの荷物をほどいてクローゼットに収納してたら、出てくる服がどれもこれも超有名海外ブランドばかりで腰が抜けたわ。実際のところは、第一印象で決めてしまって、安いも高いも全然考えてないらしいけど。
「ほらっ、とにかく着替え! 起き上がってください、社長。……しんちゃん!」
ゆさゆさ揺すっても埒があかないから、いよいよ奥の手を出した。
「……あ〜ん、その呼び名はやめろって言ってるだろうが、寧々」
あ、やっぱり起きた。それにしても、情けない顔。ほっぺに板間の模様がそのまんま付いてる。トレードマークの無精ひげも相変わらずだ。
「知ってるだろう、俺が日付が変わるまで起きていられないことくらい。昨夜もギリギリで戻ってきたんだけど、もうちょっとのところでタイムオーバー。麗しの姫君はすっかり夢の中で助けてくれないしさ」
何だか、勝手に人のことを悪者にしてるし。そりゃあさ、先に休んでいたのは申し訳なかったけど、久々のひとりベッドが快適すぎたんだから仕方ないじゃない。
だいたい、おかしいとは思わないの? その特異体質。シンデレラじゃあるまいし、午前零時がタイムリミットって、どんだけよ。
「うんにゃ。……そんじゃ、一応、シャワー浴びてくる。うーっ、かったる……」
ぬぼーっと寝ぼけ眼なままで立ち上がる。スーツの上下はその場に脱ぎ捨てたから、抜け殻みたいなそれを今更だけどハンガーに掛けてやった。
◇ ◇ ◇
私、山名寧々。身も凍るほどの真冬のある日、この部屋の同居人である社長、またの名を榊真之介という男に拾われた。……って言うのは説明として正しくないか。でもまあ、あの男の計らいで、めでたく再就職できたんだよね。
それから数ヶ月後に会社の部署ごと別会社になって移転。これは前々から決まっていたことらしいんだけど、転職したての私にとっては寝耳に水の出来事だった。しかも、いつの間にか浅からぬ仲になってしまった彼と同棲まがいの生活。……そりゃあさ、通勤時間の短さに目がくらんでしまった私がすべて悪いんだけど。
「まー、とりあえずは朝ご飯作ろっと」
この部屋は広めのワンルーム。かろうじて水回りだけが、壁で仕切られている状態。だから、プライベートも何もあったもんじゃない。気がつくと、あの男が持ち込んだあれこれでゴミため状態になっちゃうし。本当に大変なの。
これでも昨晩は念入りに片付けたんだけどなー、必死に磨いた床にくっきり足跡付けられちゃがっかりだわ。
「お、スクランブル・エッグだ」
ぎょ、いつの間に戻ってきたの!? 人がフライパンと木べらで両手をふさがれてるのをいいことに、例のごとく後ろから肩に顎を乗せてくる。
「やっぱ、寧々を捕まえておいて正解だったな。朝から美味い飯は食えるし、部屋は知らない間に片付いているし……」
何か言ってるけど、無視無視。いちいち相手にしてたら、やりきれないわ。
「はいはい、どいてどいて! お膳立てしちゃうから、少し大人しくしててください」
レタスとポテトサラダをあらかじめ盛りつけておいたプレートに、できたての卵をプラス。うーん、今朝も美味しそう。さてさて、仕上げはかりかりベーコンだ。
「何だよ、冷たいな」
えっ、何でいきなり後ろから抱きついてくるのっ……!?
「昨日、ひとりで放っておいたから、寧々ちゃん拗ねちゃったとか? もう、可愛い奴だなあ〜」
違う違う、そうじゃないから! 首筋にすりすりするの、やめて欲しい。これって、すごくくすぐったいし……。
「寧々、いい知らせがあるんだ」
急に動きが止まったかと思ったら、そんな風に切り出してくる。
「昨日の話し合いで、家賃の値下げ交渉に成功した。会社のフロアもこっちも部屋も。だから、ここは特別にご褒美が欲しいところなんだけどなあ……」
なっ、何で! いつの間にかTシャツの中に手が。しかも胸の辺りをもぞもぞしてるし……!?
「寧々〜、やろうぜ? いいじゃん、まだ朝も早いんだし。俺、このままじゃ収まりそうもない」
とか言って、勝手にスイッチ入っちゃってるし。
「やぁんっ、駄目! 何考えているんですか、私はおなか空いてるんです! まずは朝ご飯が先です……!」
とりあえずは抵抗したんだよ、でも人のことをずるずると引きずっていく男にはそんなの全然伝わらなくて。
「大丈夫、あとで焼きたてトーストもオマケしてベッドまで運んでやるから。……ほらほら、こ〜んなに乳首かたくしちゃって。寧々ちゃん、好きだなあ……」
そうなんだよな、昨日の晩にやたらと気持ちよく眠れた理由。いつもはダブルベッドの三分の二以上を占領するコイツがいなかったからだ。
「ちょ、ちょっと! やめましょうって、ここでストップ! 駄目ってば! ……あっ……!」
人の忠告なんて聞く耳を持たないくらい、最初から分かってる。だけど、毎回悪あがきしたくなるんだ。いつでもどこでも社長は自分ペースで突き進むばかり、相手をするこっちは大変なんだよ。
「は〜い、寧々ちゃんもすっかり準備オッケー? ささ、それでは参りましょうか」
テーブルの上、どんどん冷めていく朝ご飯が悲しい。結局、今朝もあとからレンジでチンだ。でも、あれだとレタスまでしっとりしちゃうんだよなあ……。
彼は前髪から落ちた雫で濡れた眼鏡を外すと、私の鼻先に今日最初のキスを落とした。
おしまい♪ (100415)
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