TopNovelヴィーナス・扉>ヴィーナスを目指せ!・1
 


 入社して一ヶ月。

 新しい環境に戸惑いながらも、そんじょそこらのことでは動じないほどの鉄の心臓を手に入れたと信じていた私であったが、今、目の前に広がる不可解なこの光景にはただ呆然と立ちすくむしかなかった。

「なっ、何!? これって、一体どういうことですか!」

 バレンタインは半月前に終わったし、ホワイト・デーはまだ半月近くあと。ましてやエイプリル・フールが一足お先にやって来たという訳でもないだろう。今日は三月一日、一枚めくったカレンダーが春の訪れを教えてくれたその日だ。

「あら、寧々(ねね)ちゃん、お疲れ様。今日は時間が掛かったわね、大変だったでしょう?」

 隣のデスクでは先輩の野上さんが軽やかにパソコンのキーを叩いている。そのすさまじい速さ、そして正確さ。私は今までの人生の中で彼女の右に出る者を見たことはない。しかし今は鮮やかな手さばきに賞賛の眼差しを向けている場合ではなかった。

「ちょ、ちょ、ちょっと! 野上さんっ、あのっ、私の机っ! これ、これってどうなっちゃってるんですかっ!」

 お行儀悪く口から泡を飛ばすほどの勢いで訊ねたのに、彼女はその後もぱしぱしとキーを叩き続ける。そしてようやく区切られた一角に文章が埋まったところで、手を止めてこちらを振り返った。

「どうなってるって? そんなの、改めて説明するまでもないじゃない」

 今更何を慌ててるのよと言わんばかりの口調、だけど私は負けずに食い下がった。

「知りませんっ! 何ですかっ、これって悪い冗談なんですよねっ!?」 

 朝イチで頼まれたおつかい。月初めの銀行はメチャ混みで、窓口の待ち時間が半端じゃなかった。今までの最高記録を更新して二時間後に戻ってきたら、私の机の上がっ、机の上がっ!!

「せっ、説明して下さいよーっ!」

 向こうが見えないほど高く積まれている花束、超有名洋菓子店の包み、そしてこれまた老舗デパートの紙袋。
  人の机の上を荷物置き場にするんだったら、ひとこと断ってからにするべきよね。そりゃ、私はここに来て間もない契約社員だよ? だけど、だからといって、これはないでしょーっ!

 そう思ってたら、今度は背後から複数の足音が。轟く地鳴りの如く響いてくる。

「や、山名さんっ! 君が山名さんだね!!」

 素っ頓狂な叫び声に振り向くと、そこに立っていたのは数名のスーツ姿。首から掛けたネームプレートから察するに、我が社の社員であることは間違いない。だけど何? どうして見ず知らずの人から声を掛けられなくちゃならないの。しかも、名指しよ! 入り口で「失礼します」と礼儀正しく断ってから、先頭切ったひとりがつかつかと中に入ってくる。

「良かった〜、いつまでも戻らないから心配していたんだ。で、突然だけど、今日のランチの予定は? まだ決まってなかったら、僕と一緒にどう?」

 今の台詞は最初に私に声を掛けた彼のもの。だけど、その声に被さるようにいくつもの声が聞こえてくる。

「なっ、なにやってるんだ! いきなりはずるいぞ、工藤!」
「ここはフェアに行こうじゃないか。どうだい、あみだくじなんて言うのは?」
「いや、それよりも正々堂々一発ジャンケンがいい!」

 な、な、な、何なのっ!? これって一体どうなってるの……っ!?

 呆然とした表情を貼り付けた顔をそろそろと上げると、あら、「工藤」さんとか言ったかしら? この人ってかなりのイケメン君だったのねっ! しかも、自分が一番格好良く見える笑顔の角度をきちんと心得てる。販売部なんだ、営業とか得意そうだもんなあ……。

 なーんて、頭の隅でしっかりチェックしちゃったりして。だって、いかにも「若手エリート」って感じの人が現れたら、そうなっちゃうのも当然よ。そんなこと考えているうちに、さらにどやどやとその他の数名がやってくる。

「へー、近くで見るとカワイイなあ」
「工藤なんて放っておいて、俺はどう? 編集部の鬼・春日部長の一番弟子って言われてるんだ」
「おいおい、俺は転職歴なら誰にも負けないぞ! 山名さんはここに来て間もないんだろ? 何か分からないことがあったら、遠慮なく相談に乗るから」
「いやいや、俺の方が……!」

 ……はああ?

 一体どうしちゃったのか分からないけど、とにかく私は口説かれてるの? しかも「両手に花」どころじゃない、両手両足でも足りないくらいの男性陣に。すると、あれ? ここにある山積みの贈り物も私あての……。

 自慢することもないけど、こんな場面に出くわしたのは二十と数年の人生の中で初めてのこと。それほど破壊された顔でもないし突拍子もない性格でもなかったものの、男運にはあんまし恵まれてなかったのね。だけど、……やっぱ変だよっ! 本当にどうなっちゃってるのっ!!

「はーい、はいはいはいっ!」

 ようやくそこで助け船を出してくれた先輩・野上さん。私と男性陣の中に割って入ってくる。

「あんたたち、今が勤務時間内だって分かってる? さっさと自分の持ち場に戻らないと大変よ。出版社の仕事は待ったなし、食うか食われるかの熾烈な市場なんだから……!!」

 有無を言わせぬ勢いで全員を部屋の外に追いやるその姿の逞しいこと! 私は頼りになる先輩を持ったことを心から感謝した。たった今、ご本人が言い切った通りの過酷な職場。以前はその中でも特にサバイバルだと言われていた販売部の稼ぎ頭だったという名声は伊達じゃない。

「あ、ありがとうございますっ! 助かりました。野上さん、コーヒー如何ですか? 私、用意します!」

 普段の静けさが戻って、心底ホッとする。だけど、改めて自分の机を振り向けば、やっぱり花束と菓子箱の山はそのまんま。

 そして、その山の向こう側で。今まで人の気配もなかった場所から、くすくすと押し殺した笑い声が聞こえた。

「いやー、楽しかった。朝からいいモン見せてもらったなあ……。あ、寧々、俺にもコーヒー頼むよ」

 現れたのは「もさい」と「お下品」のど真ん中を滑走する男。ノータイに無精ひげ、ぱらりと落ちた前髪をかき上げて、書類の山の中から顔を上げた。多分、昨晩も家に戻るのが面倒でここに泊まったんだな。同じシャツ着てるもの。ノーフレームの眼鏡に押さえながら、彼はなおもこみ上げてくる笑いと必死に格闘中だ。

「さっ……榊(さかき)主任。いらしたんですかっ……!」

 だったら、何でさっさと出てきて助けてくれなかったのよ! アンタ、ここの責任者でしょっ! ―― そう言い返すだけの気力は、もう私には残っていなかった。

 


 知る人ぞ知る、そして知らない人は全く知らない出版社。

 手掛けた本のタイトルを並べると「うおおっ!」と思うけど、大手各社に比べたら確かに見劣りするかな? だけど、それでも私にとって中途採用でここに滑り込んだのは幸運だった。

 ま、配属されたのが「Web企画部」とかいって、出版事業からはちょっと横道に逸れた場所ではあったけどね。まあ、前の会社を辞めて三ヶ月、ハローワークに通う足取りも日に日に重くなっていた時期だったし、希望職種に就けただけでも感謝しなくちゃ。

 ……けど、まさか先ほどのアレはないだろう。

 

「『ヴィーナス争奪戦』……? えと、何なんでしょう、それは……?」

 しばし、コーヒーブレイク。

 野上先輩と榊主任に一通りの説明を受けたものの、私の頭の中はさらに増殖したハテナ・マークで飽和状態になっていた。

「何でしょうって、今説明した通りよ。四年に一度、オリンピック・イヤーに合わせて開催される我が社のお遊び企画。将来有望な若手社員を対象に、社内にひとりだけ設定された『ヴィーナス』を探し出してモノにするサバイバル耐久レースなの。で、見事『ヴィーナス』のハートを射止めたその人は無条件で昇級が出来るってわけ、しかも本人が希望する 部署でね。
  もちろん大切な人事ですもの、その後のことも大切よ。一生添い遂げる覚悟が出来る相手を選ばなくちゃ。もしも祝福されてゴールインしたふたりが将来別れるようなことがあれば、そのときはそれまで築いたキャリア全てがなくなるのよ。その点ではかなりシュールね。
『ヴィーナス』を決めるのは上層部の役員たち、その名前はシークレットで外部には絶対漏らされないわ。ま、色んな条件でリサーチすれば自ずと対象は絞られてくるけどね。
  我が社の歴史はまだ二十周年には満たないけど、今回で五回目の記念企画なの。栄えある初回の『ヴィーナス』に選ばれたのは、今の社長夫人よ」

「は……はあ」

 この上なく楽しそうな話しぶりの野上さん、私に届けられた贈り物の山の中からめざとく見つけた輸入チョコレートの包みを早速開けている。

「で、二回目と三回目のヴィーナスとそのお相手はもう今はここにいないけど……実は前回、第四回のヴィーナスは……な〜んとこのワ・タ・シ……よ」

 ひ、ひええええええっ! そ、そうだったのかっ!

 ちなみに「もう今はここにいない」という方々はどこに行っちゃったかと言うと、もっとすごい会社にヘッドハンティングされたり自分で新たに事業を立ち上げたりってことみたい。何しろ平成に入ってから創設された新しい会社だからね、終身雇用なんて最初から考えてない野心家ばかりが揃ってる。あわよくば今のキャリアを踏み台にしてのし上がってやろうってことね。
  まー、そんな社風であるからね。今の話も全くあり得ないことじゃないと思う。うんうん、それどころか至極納得。「時代を変える力は遊びの中から生まれる」とか、いつだったか今の社長が豪語していたっけ。

 だけど、えらく乱暴な話だなあ。いきなり生涯の相手を選びなさいなんて、そんなの「はい、そうですか」って納得できるわけないでしょう? それなのに参戦したいと思うなんて、何てチャレンジャーなのかしら。
  まあ、男性にとっては結婚相手善し悪しよりも、職場での立場の方がずーっと重要ってことかもしれないけどね。それにちょっと特殊な仕事内容であることも確かだから、内部の様子をよく分かっている相手との方が上手くいきそうな気もする。うーん、いろいろ考えていくと結構奥が深い話なのかな?

 だーけーどっ! 何でまた、入社したばかりの私に白羽の矢が立っちゃったの?

「それにしてもねー、もう、榊君も人が悪いんだから。寧々ちゃんがこんな時期に入社してくるんだもの、予防線として前もってきちんと話をしてあると思ってたのに。一体、どういうつもりよ? あんまり苛めると、大切な私の後輩がまたいなくなっちゃうわ」

 じろりと主任に向けられた視線は、冷ややかに凄んでいて端から見てもとても怖い。だけど入社当時から十年近く腐れ縁だという主任の方は慣れたもの。それどころか今の問いかけでまた思い出したと言わんばかりに笑いを押し殺してる。

「だって、知らない方がサプライズも大きいじゃないか。野上さんも見ただろ? さっきの寧々の顔。午前中でギャラリーが少なかったのが残念だな。写メ撮っといて、みんなに見せてやれば良かった」

 彼に反省の色は微塵もない。「んじゃ、俺もひとつ」と涼しい顔でチョコレートをつまみ上げる。はああ、コイツなんかに期待しちゃ駄目だ。そんなの最初から分かってたけど。

 

 ―― あ。

 ここでちょっと説明。
  十いくつの机が狭いスペースにぎゅうぎゅうと押し込まれたこの部屋。別にメンバーが三人きりしかいないわけじゃないのよ。他の人たちは芸術家肌か何だか知らないけど、完全な夜型。差し迫ったミーティングでもない限り、夕暮れになってからじゃないと現れない人もザラ。変わり者が多い社内でも特に濃い面々が集結してる。
  入社したその日に「山名さん用ね」と部屋の鍵を渡されたのには驚いた。だけどそれもそのはず、朝の十時前に出社して部屋の鍵が開いていたことって数回しかないの。今日は在室している野上さんも本職はやり手の営業。普段は馴染みのクライアントを巡るだけに留まらず、新規開拓を狙って走り回ってる。

 実を言うとね。私は具体的にどんな仕事をするのかも分からないまま入社したの。それで「一体何をすればいいんですか?」と訊ねたらね、戻ってきた主任の答え。

「人間得手不得手があるからね。ウチの仕事をひとつひとつやってもらって、君に一番合ったやつに決めるよ」

 最初にやったのは野上さんと一緒の外回りだった。それがもう、びっくりの連続。今までデスクワーク中心で一日中PCの前から離れない仕事をしていた私がよ? そんなすぐに鞍替えできるかって言うの。

「今日は飛び込みをやるからね、まあついてきて」

 そう言ったかと思うと野上さんはおもむろにあるオフィスのドアを入り、真っ直ぐに受け付けカウンターへ。そこで「営業一課の田辺課長をお願いします」って言うのよ。もちろん相手の受付嬢は聞くわよね、「恐れ入りますがどちらさまでしょうか、事前の約束はされてますでしょうか?」って。でも野上さんは全然動じない、それどころかさらに堂々とした口調で言い切った。

「私が名乗ったら、課長さんがお困りになりますわ。近くに来たら必ず寄るって申し上げたの、だからよろしくね」

 そんなの絶対に違うだろうー! って思ったけど、あっという間に応接室に通されてびっくり。その上、初対面の相手にツボを突いた営業トークでどんどん切り込んでいくんだからただ者じゃない。隣に座った私は酸欠金魚みたいに口をぱくぱく。最後には開いた口が塞がらなくなった。
「榊君、悪いけどこの子は私の仕事、無理だわ」……もちろん、半日でお役後免になったわよ。ああ、今思い出しても恥ずかしい。

 そもそもウチの部署は、榊主任の先導で販売部から独立したんだとか。いきなり飛躍的な発展を遂げたインターネット業界、今や主要メディアのひとつとして確立されてるよね。
  出版に当たって作家さんのサイトを立ち上げたり必要に迫られてWeb通販を手掛けたりしているうちに、企業向けイベント向けのホームページを企画デザインしたり運営したりするようになっちゃったそうだ。何だかよく分からない流れだけど、そう言うのもアリみたい。
  それだけにメンバーも個性的な顔ぶれ。野上さんの他にもプログラミングなら凄腕だけどクライアントと意思の疎通の図れない人だとか、口も軽いが手も軽く腰も軽くあちこちで問題行動ばかり起こしているデザイナーとか、日常会話は日本語でオッケーだけど国の家族としゃべるときは「っんふう」なんてイングリッシュに相づち打っちゃうインド国籍の彼とか……何でこんななのって思っちゃう面々が目白押し。さながら動物園かお笑い芸人事務所かという感じね。

 入社してからこっち、どこまでも一般ピープルな私がどんなに大変な思いをしてきたか、ちょっとは分かっていただけたかな? うん、とても他の部署なんて覗いてる暇なかったの。ヴィーナスなんとかのことも全然知らなかったのよ。

 

「あ……でも」

 コーヒーを飲み終えて、私はようやく気付く。そうだ、とても初歩的なことを忘れていたわ。

「野上さんのダンナさんって、ウチの社員じゃありませんよね? 確か財務省かどこかのお役人さんだって聞いたような……」

 うんうん、そうだ、そうだった。四年前に『ヴィーナス』に選ばれたと言うことは、その時点では野上さんは独身だったと言うこと。きっとその頃は旧姓だったんだろう。それが今では可愛い坊やもいる既婚者。だけどそのお相手は社外の人。……と言うことは、どういうこと?

「ええ、そうよ」

 待ってましたとばかり、胸を張る野上さん。あ、そうか。これは突っ込まなくちゃならないところだったのね!

「私と野上は長すぎる春って奴でねー、何しろ学生時代からの付き合いだったし。だからそのままでも良かったんだけど、いきなりあんなことになっちゃって。そしたら彼、慌ててプロポーズしてくれたのよ『君が他の奴のモノになるなんて絶対に嫌だ』とか言ってね。ふふふ、だから前回ヴィーナス枠昇級はナシだったの。私って、悪い女ね」

 あ、そうか。そう言うのもアリなのね。深く考えた私が馬鹿みたい、だよなあー女性に無理強いなんて是対に良くないもの。

「な〜んだ、じゃあいくら誘われても全部お断りすればいいんですね。簡単なことだったんだ〜!」

 そりゃあね、いきなり降って湧いた逆ハー状態は捨てがたいよ。でも、一体どれくらいいるかどうか分からない候補者の中からただひとりを選ぶなんて絶対に無理。すっごく面倒くさそうだし仕事にも支障がでそうだし、ご辞退申し上げるのが一番だわ。

「何、寝ぼけたこと言ってんだ、ボケ」

 と、そこで主任の突っ込み。それまでのおちゃらけた顔つきは一掃、突然「上司の顔」にすり替わってる。

「あのな、野上さんの場合は例外中の例外。普通じゃあり得ないの。さっきも見ただろ? あの男どもは本気だぜ、ただ『ごめんなさい』で片付くような相手じゃない。寧々が男日照りなことくらい、奴らはとうにリサーチ済みだろうよ。考えてみろ、これは一生に一度の幸運だぞ。前途洋々なメンツの中から選り取り見取りなんだ、ここは年貢の納め時と腰を据えて頑張れ」

 おっ、男日照りーっ!? 何て失礼なっ、レディーに対して無礼きわまりない発言だわっ!!

「そのうち夜道で襲われるぞ」なああんて物騒なことまで付け足して、彼はさっさと席を立つ。野上さんまで「じゃ、私も外回りに行くわ」とか言い出して、私はひとり取り残される。

 テーブルの上、三十個入りの高級チョコレートはほとんど主任の胃袋に移動していた。

 

 

2008年2月24日更新

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