TopNovelヴィーナス・扉>ヴィーナスを目指せ!・5
 


 こういう時って、絶対に振り返らない方がいいと思う。―― だけど、つい、ね。

 そしたら案の定、そこにいたのは見るからにガラの悪いチンピラ三人組だった。それがもう、絵に描いたようにお約束の。

「ねーねー、ひとりじゃ寂しいでしょ? だったら俺たちと遊ばない? うん、決まり決まり、さあ行こう!」

 なっ、何なのっ!? この、とてつもなくありきたりにドラマみたいな展開はっ……!

 今、私がいるのはふたりの人がようやくすれ違えるほどの細い路地。慌てて後ずさりしようとしたら、どすんと何かにぶつかった。

「やだなーっ、逃げることないじゃない」

 ―― げ、さらにひとり追加っ!?

 逃げ場を失って足がすくむ。そしたら、背後にいたひとりが突然抱きついてきた。

「ぎっ、ぎゃあっ! やめてっ、離れなさいよ……っ!」

 もう慌てたわよ、いきなりなんだもん。しかも後ろの男、生ゴミみたいなすごい嫌な臭いもするのっ! ちょい待て、ちょい待てっ! いきなり何さかってんのよ……!

「ふーん、威勢がいいなあ。こりゃ、この先が楽しみだ」

 前方の三人だって、何もしないで傍観しているつもりではないようだ。動けなくなった身体でじたばたする私ににやけた表情でじりじり近寄ってくる。

「やっ、やめて! やだっ、やだってばっ!」

 こ、こういう時ってどうするんだっけ!? ええと、股間を蹴り上げるんだっけ?? ううん、そんなのって無理っ。だって足が全然言うこときいてくれないものっ!

 もう、絶体絶命っ! お母さん、助けてっ……とか天に祈ったそのときだった。

「寧々っ!」
「山名さんっ!」

 狭い路地にふたつの叫び声が轟いたと思ったら、まずは背後の束縛が引き剥がされる。

 勢い余って地面に尻餅をついたあとに振り返ると、多分生ゴミ臭の男だと思われるひとりが長身とガタイのいいふたりにぼこぼこにされているところだった。

「やべっ、逃げろ……!」

 前方の三人も慌てて飛び退いて走り去ろうとしたが、黒いカラスみたいなコートに行く手を遮られ御用。何発かの蹴りと拳を入れられて、きゅううとその場にひっくり返った。
  その素早さといったら、カラーな戦隊の出てくるお子様番組の片付け戦闘シーンみたい。しかし倒れた暴漢たちが突然巨大化するとかそれに対抗する妙に動きにくい姿の合体ロボが出てくるとか、そう言う展開は残念ながら起こらなかった。

 ―― ひゅるるるるるるーーーーーっ……。

 ピンク色のインクで印刷された紙片が目の前を通り過ぎていく。二度三度と瞬きをして、私はやっと口を開いた。

「……さ、榊主任……?」

 何でこの人がここにいるの? 絶対にあり得ないから、マンガじゃあるまいし。後ろにいるもうひとりは分かるよ、騒ぎを聞きつけて引き返してきた佐々木さんでしょ? でも、……主任の出現は本当に予想外のことで……。

「あー、ワリい。もうちょっと待ってろ、寧々」

 腰が抜けたまんまの私を通り越して、主任の視線は背後の人を見ていた。その眼差しが氷のように冷たい。思わず背筋がぞぞっと来た。

「コイツにも一発お見舞いしないとな、……ったくシケた真似、すんじゃねえぞっ!!」

 伝説のアッパー・カットが炸裂する。綺麗な放物線を描いて吹き飛ばされる体育会系の姿を、振り向いた私はスローモーションのように眺めていた。

 


「おら、もういい加減泣きやめ。そんな顔してたら、俺が苛めたみたいじゃないか」

 そう言いながら差し出してくれる街頭ティッシュを三袋立て続けに空にしていた。

 ビルとビルが背中合わせに建ち並んだ細い空間からようやく脱出してホッと一息。そしたらいきなりぼぼぼっとね、もういろんな感情が溢れてきて全然止まらなくなったの。もうその後は、泣いて泣いて。そしたら、やっと濡れた頬に寒さを感じる余裕が出てきた。

「……っ、うう。す、すびばぜん……っ!」

 我ながら全然可愛くないよなあ、だけど主任が相手ならまあいいか。

 舗道際の花壇の縁にふたりで腰掛けている。今夜はかなり風が強いから、付き合ってたら寒いだろうな。だけど、やだ。まだ元通りになれない、こんな顔じゃ電車に乗れないよ。

「ったく、奴も奴だけど、お前もお前だ。変な場所に連れ込まれたら、少しは相手を疑えよ。どう見たって挙動不審だろ? あんな猿芝居に引っかかるなんてどうかしてる」

 言葉はいつも通りにすごい意地悪、でも優しく肩を抱いてくれるからそれも許せるかと思う。

 だけど、信じられないよ。さっきの惨事が実は佐々木さんの仕組んだ手の込んでるお芝居だったなんて。彼は前もってあのチンピラたちにお金を渡してタイミング良く出てきて私に絡むように頼んだらしい。んでもって、すぐに助けに現れて一気に好感度アップとか? ホント、いい加減にしてよって感じ、趣味悪すぎだよ。いい大人が何やってるの。

「んま、アイツもかなり焦ってたみたいだからな。あとはぐいぐい力で押しまくればどうにかなるとか考えてたんだと思う。ま、そっちの方が寧々にとっては良かったかも知れないけどな」

 じょ、冗談じゃないってっ……!

「や、やだっ、こんなのっ。もう降りる、ヴィーナスなんていらないっ! 気持ち悪いよ、野蛮だよっ。男なんて、……男なんてサイテー! もしも降ろしてもらえないんなら、会社も辞めるっ……!」

 また、新しい涙が溢れてきた。こういう駆け引き、楽しめる自分なら良かったけど……私はきっと無理。この先再び第二第三の事件が起こったら、きっと発狂しちゃうよ。

「おいおい、早まるな。そこまで思い詰めることないって」

 榊主任は自分の胸に私の頭を抱えて優しく撫で撫でしてくれる。なんか今日は別人みたいにいい人だよなー、いつもこんな風だったらいいのになと思う。少なくても主任の身体からは生ゴミの臭いはしないし。そう言うのが一番大切だよね。

「……寧々」

 すごく優しかったから、とっても安心できたから。だからなんだろうと思う。「もう少し温かいところに行って休もう」って言葉に素直に頷いていた。

 


「……で。どうして、もう少し温かいのがこの場所なんですか?」

 まあ、密室状態になる前に突っ込めば良かったと言われればそこまでだろう。

 細い入り口を入ったときも、これまた細い廊下を主任の後にくっついて歩いているときも、私はそのほかの選択肢を全く考えることが出来なかった。

「うーん、なんか俺、一風呂浴びたい気分だったんだよね。久しぶりに運動したし。それに寧々だって、涙と砂埃ですごい顔になってるぞ」

 他に大した家具のない部屋だから、私はふたつあるベッドのうちの片っぽに腰掛けてる。んで、主任はと言えば、もう一方の上に自分の身につけていた服を上着から順にぽんぽん脱ぎ捨てていくのね。一体どこまで脱ぐんだろうと思ってたら、ワイシャツのボタンを全部外したところでやめた。下はスラックスのまんま。靴下は脱いでたけどね。

「じゃ、お先に」

 素足に薄いスリッパを引っかけて、主任はドアの向こうに消えた。その態度があまりに普段通りだったから、まあそんなもんかなとか思っちゃったのね。

 ―― それにしても。何であんな場所に、榊主任はいたんだろ?

 ひとりっきりに戻って。シャワーが壁に当たる音を遠く聞きながら、当然と言えば当然の疑問を考えていた。ここしばらくの主任って、とにかく神出鬼没になってないかな? 何でっ!? って場面でいきなり現れるし、もしかしてストーカーになりかけてるとか?

 ……いやいや。

 いくら何でもそれはないだろうと、自分の予想を自分で打ち消してた。きっと主任はただの暇人なんだと思う。だから適当な場所をうろうろしていて、偶然私と出会ってしまうとか。うん、その方がずっとしっくりくるわ。こんなところに連れ込まれちゃうなんて、完璧予想外だったけどね。

「ま、何事も起こるわけないか」

 うーん、このテの場所に来たのは何ヶ月ぶりかしら? もしかしたら半年以上ご無沙汰かも知れないわ。いつもながら冷静な目線で観察すると素敵に恥ずかしいわね。
  不自然にでこぼこした造りの部屋。狭い土地に無理矢理建物を押し込んだからなのか、それとも絶妙な技で設計されているのか。とにかく「主役」のベッドを中心に、無駄のないレイアウトがされている。でも必要最低限のものは揃ってるし、それでいいのかな。液晶TVは国内メーカーのもので画面も大きめ、その下にはちっちゃな冷蔵庫も付いている。

「よ、お待たせ」

 前屈みになって飲み物チェックとかしてたら、いつの間にか主任登場。あら、思ってたよりも早いのね。そう思って振り向いたところで、私は太古の時代から地中深くで氷漬けになっていたマンモスみたいに固まっていた。

「……」

 あの、何でバス・ローブなんて着てるんですか。ちょっと、あまりにも生々しい光景ではございませんっ!? そして、その。確かに立ち姿とか特に必要以上に見えてしまう生足のラインとか、やっぱり生えてるスネ毛とか、そういうのも気になるんですがっ! で、でもっ!

「しゅ、主任の顔が……いつもと違う」

 とりあえず眼鏡は掛けていたよ、どうも外しちゃうと何もかもがぼやけて雪原の世界だって話だし。濡れたまんまの髪が無造作に頭に貼り付いて、それもそれで不思議な感じ。だけど、注目すべき点はそこじゃないと思うっ。

「あー、これ?」

 決まりポーズで顎を撫でて、それからニッと笑う。

「せっかく髭剃りがあったから久しぶりにすっきりしてみた。だけどスースーするなあ、やっぱ好きになれないわ、コレ」

 ―― えええーっ、元の顔ってこんなだったんだ! 初めて見たよっ、マジで!

 雑草が綺麗に刈り取られた顎が以前よりも知的な鋭角になってる。うわあ、これなら見た目だけは確かに凄腕の営業マンになれるよっ!

「何やってんだ。そこどけよ、寧々」

 私が気になっているのは豹変した主任の顔だったけど、彼が気にしていたのは部屋に備え付けられている冷蔵庫の品揃えだった。「うひゃー、たけぇ」なんて、情けない声を出してる。

「おら、お前も早く行ってこい。いくら使っても値段は一緒だぞ、その分アパートに帰ってからの光熱費の節約になるからな。十日分くらい洗ってこいよ」

 言われなくたってそうしますよっ! という勢いで、私はバスルームに飛び込む。一呼吸おいた後で、念のためドアのロックを掛けて何度も確認した。

 


 あー、さっぱりした。

 シャワーを浴びて砂埃を落としたあとに、念入りにスポンジで洗い上げる。だって、そうよね? 主任の言う通り、いくら流しっぱなしにしてもボディーシャンプー無駄遣いしても部屋代は変わらないのよ。ここは思いっきり贅沢しちゃえと言うことで、ついでにバスタブにたっぷりお湯を張って楽しんだ。

 元通りに服を着て部屋に戻ると、主任はビール片手にいきなり吹き出すの。

「何だ、その格好は」

 そんなこと言ったって、まさかバスローブってわけにはいかないよ? 主任じゃないんだからさ、そんな恥ずかしいこと出来るわけないじゃない。

「あ、私も飲み物貰います」

 ソフトドリンクでも良かったんだけど、同じ値段だからと言うことでミニサイズのチューハイを選んだ。うーん、やっぱりお風呂上がりの一杯はいいなあ……な〜んて、気分はお父さんになってる。

 その後は、ふたりしてしばしのドリンクタイム。ふたつのベッドにそれぞれ腰掛けて、向かい合ってね。サイドテーブルに空になったビール缶が二個も並んでたのが多少気になったけど、まあそんなのどうでもいいか。グレープフルーツの香りを楽しみつつ、ちょっと夢心地ね。

 そうしているうちに、主任の方はもう飲み終わっちゃったみたいだ。空っぽの缶を横にして手のひらでごろごろ転がしてる。

「なあ、寧々さんよ?」

 呼びかけられたので、視線を彼の手元から顔の方へと戻す。きらりと光る眼鏡の縁。すっかり乾いた髪がいつもより真っ直ぐに落ちて、すごく若く見える。

「この前から気になってたんだけどさあ、お前って過去に男関係でとんでもなく痛い目に遭ったんじゃないか? 突っぱね方が半端じゃないからな、どーせろくでもない奴に引っかかったんだろ。相当懲りたってかんじだぞ」

 声もいつもとちょっと違うなあと思ったけど、訊ねられた内容の方にまたびっくりする。

「どっ、どういう意味ですかっ。そんな質問に答えたくありませんっ!」

 いきなり何を言い出すんだよーっ、はっきり言ってセクハラじゃないのっ! せっかくくつろいでたのに蒸し返さないでよ。むきーっと怒りを込めて睨み付けたのに、主任の瞳はさらに確信の色を見せている。

「……ま、そんなところだろうと思ったよ。けど人生はまだ先が長いんだからな、そろそろねじ曲がった偏見は改めた方が幸せになれると思うぞ。なーにハリネズミみたいにピリピリしてんだよ、見てるこっちが疲れてくるじゃないか」

 こういうときってさ、一番効果的なのは「我関せず」で無視を決め込む方法だと思うの。スケベな親父たちはこっちがキャーキャー反応するのが楽しいんだもんね。
  でもさあ、今はそんな大人の態度が出来そうにない。だってもう、積もり積もったイライラが、警戒水位を越えちゃってるのよ。いつ溢れ出しても不思議じゃないんだから。

「別にそんなのどーだっていいじゃないですかっ。見てると疲れるなら見なけりゃいいんです、簡単なことですよ?」

 何でいちいち突っかかってくるのよ、上司だからってそこまでの権限はないはずだよ? 人の過去を勝手に想像して勝手に確信して、信じられないっ。あーもう、腹立つっ。こうなったら、もう一本飲んで出来上がってやる〜っ!

「おいおい、そんな熱くなるなって」

 冷蔵庫のドアに伸ばしかけた私の腕を、主任が素早く掴まえる。動きを止められるとそれ以上振り切ってという気にもなれなくて、また元通りに座り直してた。

「べっ、別に人の男遍歴なんて気にすることないでしょ? 主任にとっちゃ、私はいい暇つぶしかも知れません。訳も分からずにこんな状況に追い込まれて慌ててる姿を見るのはさぞ楽しいでしょうよ。でもねえ、、恋愛なんて周囲からのお仕着せじゃ動き出しませんよ。ちょっと考えたらそれくらい分かりそうなもんなのに」

 ああ、怒り任せの言葉が止まらない。でもこれって主任がスイッチ入れたんだからね、私が悪いんじゃないもの。そうよ、全部主任のせい。主任だけが悪いの……!

 きっと今までの人生でろくな出会いがなかったんだとしたら、それも主任のせい。途中まで良くても最後はぐだぐだしちゃったのも、主任が悪い。そう思ったら、さらに怒りに拍車が掛かってきた。むわーっと吹き上がってくるものに触発されて、自分の舌が勝手に動き出す。

「主任もとりあえずは男性ですから、こんな言い方をすると失礼に当たるかも知れませんけど。そもそも私、恋愛とかその後の展開とかそういうのに夢も希望も持てないんですよ。
  だいたいアダルトビデオみたいな世界って、男性の妄想でしかないと思うし。あそこに出てる女優さんなんて、全員演技でしょ? あんな風に大声出したり、信じられない。馬鹿馬鹿しくて付き合ってられませんよっ!」

 ……あれ、ちょっと話がずれたか?

 ちろっと盗み見したら、髭のない不思議な顔の主任がそれに気付いてにやっと笑う。ああ、もしかして今の言葉を変な方へ誤解した? いや、決してそう言うつもりじゃなかったんだけど。

「お前の過去の乏しい経験から全てを決めつけられちゃたまらないな。男ってのはな、レベルによって雲泥の差なの。特上の味を知らないでいたら、大損するぞ。絶対世界変わるから、保証する」

 何でこの人って、いちいち「地球上の全ての男の味方」みたいな言い方するんだろ。そんな風に熱弁されたって、全然興味も関心も持てないの。

「……そうですか。じゃあ、主任なら『特上の味』を教えて下さるんですね?」

 私としてはね、強烈な嫌みを返したつもりだったの。だって笑っちゃうでしょ? レベルだの味だのかたちに出来ないものを並べて偉そうにしているんだもの。そりゃあね、主任には感謝してるよ? 採用を決めてくれたことも、今夜みたいに助けに来てくれたことも。でも、そこまでよ。

「まあね、試してみる?」

 しかし、敵も然る者。さらに自信たっぷりに畳みかけてくる。そうなっちゃうと引っ込みがつかなくなっちゃって、ううんすぐに「ごめんなさい」すればいいのにそれが出来なくて。私はついに禁断の言葉を口にしていた。

「いいですよ。でも早く終わりにして下さいね、疲れるだけだから」

 

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2008年3月3日更新

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