TopNovelヴィーナス・扉>ヴィーナスを目指せ!・3
 


「あ、その書類を打ち込んだら、もう今日はいいから」

 窓の外はもう真っ暗。絶妙のバランスで積み重なった書類の影から、主任の声がする。

 メンバーの出勤が遅いから、その分退社も遅い。夜の九時十時まで通常勤務になるのは当たり前で、忙しいときは電車がなくなるギリギリまで付き合わされることもあった。それでも戻れないメンバーは力尽きた時にソファーや床の上で寝るっていうんだからすごい。まあさすがに野上さんや私の女性陣にそこまで要求されることはなかったけどね。

 

 例のヴィーナス騒動が始まって、すでに一週間。

 その間に土日が入ったから、背に腹は代えられないってことで私はあまり帰りたくない実家に緊急避難していた。決して居心地のいいものじゃなかったけど、ひとりアパートに籠もって呼び鈴の音に怯えているよりはずっとマシ。
  まあ一般的な常識が通用しない困った職場でも、とりあえず個人のプライバシーは尊重されているみたいよ。不審な電話もないし、携帯メアドも流出していない様子。ただ、主任からは「ご機嫌伺い」と称してどーみても悪戯としか思えない連絡が頻繁に来たけどね。着信履歴が上司の名前で埋まっていくのって、全然嬉しくない。

「おい、寧々。元気か〜?」

 ……な〜んて。アンタの声を聞いた途端に頭痛がしてくるのよっ。

 気分転換も兼ねて帰省してるのに、間の抜けたその声を耳にすると嫌でもいろいろ思い出しちゃうじゃないの。自分の立場を考えて大声で罵倒しなかった私を誉めて欲しいわ。ほんっと、毎日が大変だったんだから。
  初日のプレゼント攻撃はすぐに収まったけど、それに取って代わったのがランチやディナーその他もろもろのお誘い。場所も内容もそれぞれがバラエティーに富んでいて、全部まとめたら情報雑誌が作れそうよ。これ、本当に出版したら売れるだろうなあ。

 最初の二三日はね、戸惑っている振りしてどうにか誘いの言葉をかわすことが出来たのよ。だけど、相手は凄腕編集者に営業マン。駆け引きについては誰にも負けないという人たちばかりだ。ざっとカウントしたところ、表だってやってくるのは十人くらい。でも、水面下にはもっともっとたくさんいそう。

 そんな中で特に目立っているのは販売部のイケメン工藤さんと、編集部でさる大物作家を担当しているという佐々木さん。二人は同期入社で今年で五年目。どちらも有能な人材だと思うから、黙っていてもそのうち昇進できそうな気がするんだけどね。

「でも良かったよ、山名さんが榊主任の下にいて。そうじゃなかったら、絶対不利だったもんなー」

 そんな風に言ったのが、編集の佐々木さん。今日、ちょっとだけ立ち話をした。彼は作家先生のところに出向いていることが多いし、そもそもウチの会社の編集部は女性が極端に少ないんだとか。

 ま、その言葉には私も納得。榊主任率いる我が部署は、色んな場所から「癖がありすぎて扱いにくい」と言われていた人材ばかりを引き抜いて来たって言う。それは当たってる、なんか他の部署と全然カラーが違うもの。ある意味、すごい人選よ。
  だから、数名を抜かして独身揃いだというメンバーで私に言い寄ってくる人なんているわけない。それどころか「ヴィーナス? それって美味しいの? 美味しくないの?」って感じに全く興味がないみたい。例のインド国籍の彼は「ネネサ〜ン、ヘアサロンイキマシタネ? キョウモトテモウツクシイデ〜ス!」とか195センチの身長をくねらせながら言うけど、これってこの人のいつもの姿だし。

 そんな中、唯一の例外は榊主任ね。彼もとりあえず独身らしいけど、すでにポストは与えられているから今回は部外者。けど、この一週間はほとんど在室していて、すごく楽しそうに私の一挙一動を見守ってる。しかも、頂き物のチョコレートやらクッキーやらをめざとく見つけてくすねるのね。

 

「そ、そのー……主任」

 私はドアの向こうを気にしながら、PC画面を見つめ続ける眼鏡男に恐る恐る声を掛けた。普段なら「もう帰っていいよ」と言われればとってもラッキーなのに、今夜に限ってはそうじゃない。今出てったらどうなるか、考えるのも恐ろしいわ。

「良かったら、何かお手伝いしましょうか? 私、今日はまだ、大丈夫です」

 だってさー、部屋の外では五人くらい「出待ち」してるんだよ? さっき、トイレに行ったときに思わず横目でチェックしちゃった。定時の終業時間は六時なのに、すごい根性だなあと思う。噂によると今回のレースに参戦するために付き合っていた彼女と別れた人もいるとかいないとか。そう言う話をされると、なお緊張しちゃうわ。

「……うんにゃ、でも寧々が出来ることなんてあるかなあ」

 ちょうど今日の午前中に大きな企画がひとつ仕上がったところだった。徹夜続きに土日も返上したメンバーはよろよろと帰宅し、野上さんも坊やを保育園に迎えに行くからと七時過ぎに帰っていった。だから、今残ってるのは私と主任だけ。自分のやるべきことは全部終わってるし、いつ帰ってもいい状況なんだけどね。

 顎をさする主任の指先がひげに当たってざりざり音を立ててる。いつもながらワイルドなのと下品なのの紙一重ってところね。ちょっとでもバランスが崩れたら、絶対に近寄りたくない人になってしまいそう。

「分かった、じゃあ今アドレス送るから、そこ立ち上げてくれる? そしたら、続きの指示するわ」

 もう終了するばかりだったノーパソを開くと、すぐに主任からのメールが届いた。本文を開いてクリックすると、何かのフォーラムの画面が表示される。

「新規登録して中に入って。あ、情報とかはいい加減でいいよ。そうだなー、どうせならハタチくらいのお嬢さんの振りしてよ」

 ―― なんか、ちょっと失礼なこと言われている気もするけど。

 こちらが頼んで回してもらった仕事だから仕方ないか。そう思って本当に適当に入力して、言われた通りに五歳もサバ読んで年齢を入れた。そしたら、そこにあったのは読書好きが集うコミュニティ。いくつかの人気書籍や作家の名前が並んでいて、メンバーそれぞれのプロフィールとかもある。

「寧々、結構本を読んでるって言ってたよな? 図書館で人気の新刊とかも順番待ちするって。最近読んだことのあるやつに感想書いてよ、出来ればあまり辛口じゃない方がいいなあ」

 そう言いつつ、またチョコを食べてる。あー、また人のところから奪ったでしょ? 全く油断も隙もないんだから。

「はーい」

 なんかよく分からないけど、ちょっと楽しそうかな? 私は目当てのスレッドを開けるとそこに書いているメンバーのプロフを覗いたりしていた。ふうん、活字離れとか言われるご時世だけど、結構読んでる人いるじゃない。なんか、楽しくなってきたなあ。

「これって、ウチで作ったページなんでしょ? 管理もこっちでやってるんですか?」

 掲示板の運営管理なんて仕事があるって言うのも聞いたことがある。結構難しいみたい。匿名性の高いところだとどうしても荒れやすいしね。

「……あ」

 いくつかのプロフィールを見ているうちにふと手を止める。今まではチラ見をするくらいだったのに、その人の分はじっくり読み進めた。

「どした?」

 私があんまり真剣な顔をしていたからだろうか、主任が不意にこちらの画面を覗き込む。普段だったらそんなことされたらちょっと嫌だけど、そのときは不思議とそんな気分にはならなかった。

「ほら、この『さくら』さんて人。プロフには高校生って書いてあるけど、すごい読んでますよー。何だか好みが似ていて嬉しいな、友達になれるかも」

 にこにこしてそう言ったら、画面の青を肌色に乗せた主任が何だかとっても複雑そうな顔をしている。そして、頭をぽりぽりとかきながら「友達かあ……そうかあ、友達ね」何て言いながら自分の席に戻っていく。

「主任?」

 何だかいつもに増して変な態度だったから、つい声を掛けてしまった。でも全然反応してくれない、聞いちゃまずかったのかな? 急にしゅんとした気分になって、画面を覗いてる難しそうな顔を見ていたら。

「あーっ、もう今日はいいや。そうだ、今から一緒に飯でも食いに行くか?」

 あっという間に電源を落として、上着を手に立ち上がる。一方の私はまださっきのページを開いたまんま、予想だにしなかったお誘いに呆然としてしまう。

「行くぞ、寧々。ほら、早くしないとひとりで置いていくからな、いいのか?」

 そんな風にされたらたまらないと、慌てて私も帰り支度。とは言っても、やることっていったら、パソコンを終了して上着を着てマフラー巻くだけだけど。勢い込んでぐるぐる巻き付けてたら、エリマキトカゲみたいになっちゃった。

  主任と一緒に部屋を出る。途端に貼り付く複数の視線。私はもうすっかり顔なじみになってしまった「彼ら」に会釈して先を急いだ。

 


「なあ、ひとつ聞いていいか?」

 案内されたのは、地下に潜った穴ぐらみたいな居酒屋さん。ネギマの焼き鳥をくわえながら、主任がぼそっと言う。馴染みの店だって聞いたけど、バックの鬱蒼とした装飾にここまで馴染んでしまうのもすごいわね。

「何ですか?」

 黒光りするテーブルの上に並んだ料理は意外なほどにとても美味しい。この頃は会社にいても緊張のしっぱなしで食欲なんて全然湧かないの。だからまともな食事ってすごい久しぶりな気がする。

「寧々って、もしかして男嫌い? 生理的に受け付けないとかそういう感じなのか?」

 ……は?

 いつになく真面目な顔をして話し出すから何かと思ったら。びっくりして持っていた割り箸を床に落としちゃったじゃないの。

「え、えーっ? そんなことないですよ。もしもそうだったら、こうやって主任とふたりでゴハンなんて食べられません」

 拾い上げた割り箸はもう使えないから空いたお皿の上に置いて、お醤油さしの向こうから新しいのを取り出す。もう、何なのよ。急に変なこと言い出すから焦っちゃった。

「そうか」

 分かったのか分からないのか、どっちつかずの表情。薄暗い照明が当たって、眼鏡のレンズがきらりと光った。濁りのある地酒を冷やであおってる。

 ざわざわざわ。

 ふたりの会話が途切れると、周囲の喧噪がダイレクトに耳に飛び込んでくる。
  よく考えると、主任とふたりでゴハン食べに来るのは初めてだ。入社してすぐに内輪の歓迎会をやってくれたけど、そのときは他のメンバーも一緒だったしね。
  綺麗に並べられたお皿を飾りのパセリやプチトマトまで残さずに片付けていく姿が意外。もっといい加減に食い散らかしておしまいの人かと思ってた。

「んじゃ、何であいつらの誘いに乗らないんだよ? せっかくのイベントが全然盛り上がらないって、あちこちから文句言われてさ」

 オシャレに伸ばしていると言うよりは、ただ単に床屋に行くのが面倒なだけのヘアスタイル。毛先がカールした前髪をかき上げるたび、もっと小綺麗にすればいいのになあと思う。一応クライアントとのやりとりが大切な客商売なんだしさ、もうちょっと頑張ればいいのに。

「男の俺が言うのも何だけどさ、これって悪い話じゃないと思うんだ。レベルの高い男どもをずらりと並べてその中から一番気に入ったひとりを選べるなんて最高じゃん」

 ……。

「お前は自分がゲームの景品みたいにされてるのが気に入らないんだろ? そう顔にでっかく書いてある。だけど、奴らだってある意味本気だから。絶対悪いようにはならないって」

 ……うーん。
  と言うか、実際のとこは主任のおもちゃだわ。どうして、こんなにけしかけるのよっ!

 なんかピンと来ないんだけどなあ。いろいろ言われてると、こうやってひとり足踏みしている私がすごく間違ってる気がしてくる。目の前のレモン酎ハイを一気に飲み干して、喉の奥に絡みく微かな苦みを感じた。

「じゃあ、明日からはもっと頑張ってみます」

 仕方なくそう答えたらね、途端に主任はすごーく嬉しそうな顔になるの。

 それがどうしてだか分からないけど妙に引っかかって、だけど理由もよく分からないから説明のしようがない。グラスはもう空になっちゃってたから、ほんのちょっと氷が溶けたその部分をすすって誤魔化した。

「そーかそーか、良かった良かった。これでまたしばらくは退屈しなくて済みそうだな」

 隣のテーブルから流れてきたタバコの煙にむせた振りして、私は意識的に主任から視線をそらしていた。

 

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2008年2月28日更新

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