初めて男と言われる生き物と「付き合った」のは、多分中二の時。この「多分」と曖昧な辺りがすでにまずいよね。
憧れの彼とらぶらぶになって初デートにこぎ着けた当時の親友が「二人っきりじゃ恥ずかしくて何を話したらいいのか分からない」なんてお決まりの台詞を言い出し、仕方なくあっちの友達も連れてきてもらってダブルデートになったんだ。しかもまたまたありきたりに観覧車の回る遊園地で。
恥ずかしそうにでも嬉しそうに彼と並んで歩く親友を見ているのはとっても微笑ましかった。ふたりの晴れの日を迎えるために一肌脱ぐくらい悪くないなあなんて、そのときは思ったのよね。だけど、そのあとがヤバかった。そのときつるんでいた男がひとりで勝手に盛り上がっちゃって、何だかこっちの知らないうちに「公認のカップル」にされてしまったんだ。
そりゃさあ「良かったねえ」と喜んでる親友の手前、嫌な顔出来ないじゃない。だからそれから卒業するまで関係は続いた。と言っても変な想像しないで、キス止まりっていう清らかな仲よ。向こうは先に進む気満々でいたけど、どうにか阻止できた。進学先が違ったから、それっきり。向こうにあっという間に新しい彼女が出来たと聞いたときは心底ホッとした。
その後も、凝りもせず同じようなパターンが続く。何となく気が合って男女ミックスで行動するようになったグループ。周りがどんどんツーショットになっていくから最後に残った相手と「仕方なく」くっついた。そう言うのって良くないなと思ったけど、その場のノリには逆らえなくて。だから結局は途中から上手くいかなくなって、クラス替えと同時に別れた。
初体験の相手も一応その男だったっけ。悲しいくらい全然ときめかなくて毎回「早く終わってよ」って思ってた。向こうは「感じてる? もうイッちゃった?」とか間抜けな顔で聞いてきたわ、本当虫唾が走るくらい嫌だったよ。
……んで、また大学進学後に。もうこれ以上はいいよね、全く同じことの繰り返しだから。
去っていく男たちの捨て台詞も似たり寄ったり。「お前となんか最初から本気じゃなかった」「不感性な女には全然萌えないんだよな」……そりゃこっちの台詞だろって感じで。
「嬉しいなあ、まさか本当にOKしてもらえるとは思わなかったよ」
少し遅れてテーブルの席に着いた彼のトレーは、標準の五割増しなボリュームがあった。オシャレなカフェのランチバイキング。ちょうどピークの時間だから、常に満席状態だ。だけど彼は混雑する人の間を器用にすり抜けて、窓際にふたり分の席を難なく確保してくれた。
「いえ、こちらこそ。お誘い下さって本当にありがとうございます」
惜しげもない笑顔の応酬に、自分の意志とは関係なく頬が赤くなってしまう。うーん、やっぱりこうして面と向かうとすごい威力だわ。今までにこの眼差しで何人の顧客を落としてきたのかしら?
「佐々木は今日、先生のところに一日缶詰だって言ってたしな。うーん、これで一歩リードかな」
―― それにしても長いまつげだなあー、マッチ棒が何本乗るんだろう?
今、目の前にいるのは販売部の工藤さん。そう、イベント初日に一番最初に声を掛けてきた例のイケメン君よ。私はそっち方面には疎いんだけど、確か名前の知れているタレントの誰かがこんな顔をしていたと思う。ほらほら、こうやって座っていても、あちこちから女の子たちの眼差しが感じ取れるわ。
販売部って言うのは、出来上がった本を効果的に市場に流通するために気力と体力で立ち向かう部署だ。今の会社にはいるまで、私は出版社ってものがよく分かってなかったのね。「編集」って仕事は良く聞くし、それが社内の中でも花形部署であるのは昔も今も変わらないみたい。だけどいくら最高の本が出来たとしても、きちんと宣伝してたくさんの人にその良さを知ってもらえなかったら駄目なのよね。
そして販売部と言えば、榊主任や野上さんの古巣でもある。主任が独立して新しい部署を立ち上げるまで、工藤さんは彼らと一緒に仕事をしていたんだ。
「もう一年以上も前になるんだよね、でも今でもあのときのことはつい昨日のことみたいに良く覚えてる。榊先輩は仕事の出来る人だったから、部長なんかからしてみたらWebばかりにかまけてないで新規の売り込みや後輩の育成やそういうのにも力を入れて欲しいと思うのも当然だよね。とにかく毎日言い争いが絶えなくて、当時は部署全体が殺伐とした雰囲気だったな」
うわー、そうなんだ。なんか、全然想像付かない。
私の知っている榊主任は、いつものんびりと自分の好きなことだけをやっている昼行灯みたいな感じだ。今までその辺で寝ていたと思ったらふらっといなくなって、戻ってくる頃には新しい企画書を手にしている。その後の仕事の割り振りも圧巻、メンバーそれぞれが一番実力が発揮出来るように的確な指示をしてその後はまたぼんやり。常に縁の下の力持ち、目立つことなんて一切しない。
「どうも上から抑え付けられると途端に無気力になってしまう人みたいだよ、そして自分でもそれをよく分かっている。集団行動には向かないタイプだけど、僕は個人的にとても尊敬しているんだ。新部署を立ち上げるときに声を掛けてもらえなかったのはホント口惜しかったなあ」
その後も工藤さんは榊主任の元で働いていた頃の話とか社内での評判とか、とにかく延々と「憧れの人」のことを話し続けた。こっちとしては色んな新事実が発覚してとても興味深かったけど、だけどそれでいいのかって感じよね。
―― あのー、私たちって、ランチ・デートをしに来たのではないんでしょうか?
途中で何度か突っ込みたいなと思った。だけど、工藤さんのしてくれる主任の話がとても面白いからついついそのままにしてしまって。気がついたときには休憩時間が終わる五分前になっていた。
「うわ、ヤバイ。午後イチで約束があったんだ。じゃあ、山名さんまたね。今日はとても楽しかったよ」
アタッシュケースを抱えて飛び出していく姿は、どこまでもやり手の営業マン。慌てた走り姿までサマになっちゃうなんて、すごいよね。髪型だってばっちり、もちろん顎は永久脱毛したみたいにつるつる。うーん、デパートで売ってる贈答用の果物みたいだな。
「よ、寧々。今帰りか」
呼びかけられて振り向くと、そこに主任が立っていた。かたちの崩れた上着に折り目の消えたスラックス、今日ももちろんノーネクタイだ。
「はい」
榊主任は私が工藤さんとランチに出かけたことを知っている。だから、その話をするべきなのかなとちょっと思った。でも、……何だか。
「うんにゃ、……どした?」
こんな風に並んで歩くと分かる。主任って結構、長身なんだよね。まあ、インド国籍の彼には負けるけど、あれは特別だから。電信柱みたいにひょろっとしてて、手も足も長い。特注しないといつも丈が足りなくなっちゃうんだって。
「いえ……」
―― ホントにこれが、イケメン・エリート工藤さんも憧れる「すごい」人間なのかしら?
意識したくなくても、主任の声を聞いているとついさっきまで聞いていた話が次から次へと浮かんでくる。飛ぶ鳥を落とす勢いで新規開拓を続けた若き日の姿、同期の中では右に出る者がいなくて出世頭だったとか。うーんうーん、そんなの絶対に嘘っぽい。
「……なーんか、違うんだよなあ」
どこまで行っても同じ風景が繰り返し続くように見えるビル街。しばらくはお互い無言のまま、並んで歩いていた。もう社のビルがすぐそこ、ってところまで来て。榊主任はどうしても納得いかないって感じて呟く。
「寧々、お前間違ってる。どうして『恋してルンルン』にならないんだよ? いい男があれだけ束になって押し寄せてきたら、そん中には絶対バッチグーな奴がひとりやふたりいるはずだろうが」
明後日の方向を見ながらそんな風に言われたら、こっちだって腹が立つ。鼻の頭がぴくぴくしてるのが、自分でもよく分かった。
「そんなにいうんなら」
一気に言葉を続けることが出来なくて、唇を噛む。
「主任が代わりにルンルンしたらどうです? その方がずっと見応えありそうですよ」
どうしてなんだろう、目の前の風景がぐにゃりと歪んでいく。遠くで主任の声がした気がしたけど、全然聞き取れなかった。
「仕事の出来る男・榊主任」―― でも、そのプライベートは謎に包まれている。バツイチで別れた奥さんとお子さんに慰謝料を払ったから一文無しになったとか、腰が抜けるくらい年上の女性と結婚して死に別れ遺産がっぽりで悠々自適の生活をしてるとか。実は十回も結婚と離婚を繰り返しているとか。聞き耳を立てれば噂はいくらでも入ってくる、だけどそのどれもが現実とかけ離れているものばっかなのね。
「うーん、どうなんでしょうねえ。少なくとも指輪をはめてるのはみたことないわ、それに披露宴に呼ばれたこともないし」
他愛のない会話の隙間でちょっと訊ねてみたけど、野上さんは相変わらずの無関心ぶりだ。一番頼りになるはずの彼女がこの調子なら、他のメンバーに聞いても仕方ないわね。
ちょっと考えてみたの、主任だって世話を焼いてくれる人が側にいたら、もうちょっとはまともになるんじゃないかなとか。そりゃ、本人が今のままでいいと思ってるんだから仕方ない。だけど、少なくとも私はとても気になるのよ。
……あ、これって完全な現実逃避だ。
慌ててマウスをクリックしたら、画面全体が真っ黒になってびっくり。ヤバイ、色指定を間違えたみたい。インド国籍な彼が丸一日掛けて設定した「買い物かご」を台無しにしたら大変だわ。もう一度、やり直し。ショップのイメージに合わせて思い切り乙女なピンク色にしなくちゃ。ついでにレース素材もくっつけちゃお。
「うわ、こりゃまたすげーな」
いきなり背後から声がして、びくっと肩が跳ね上がる。だってだって、だいぶ間近に顔があるらしくて、耳たぶに吐息が掛かったんだものっ……!
「ち、……ちょっと遊んでみただけですっ! すぐに修正しますっ!」
そりゃそうだよね、ハートマークの乱打はいくら何でもやりすぎだ。このクライアントはこれでもかっててんこ盛りに飾ったくらいじゃないと納得してくれない派手好きだけど……どんなことにも限度ってものがあるわ。
「ま、寧々も少しはこの仕事に慣れてきたってことだろ? そりゃそうと、客だ客。あんまり待たせると物騒なことになりそうだから呼びに来た。お前、全く気付く気配ないし」
主任の声に振り向いて確認すると、ドアの付近にたとえようのない負のオーラが漂っている。
げげっ、何よアレ……。思わず腰が引けてしまったが、これ以上先延ばしにしてもいいことはなさそう。ええいままよっ、と立ち上がったら、主任がにやにやしながらこっちを見てる。
「寧々は全く分かってないんだろうけどさ、男ってのは逃げるモノを追いかけたくなる習性があるんだよ。今お前がやってんのは、はっきりいって危険な挑発。ヤバイことにならないうちに、手を打て」
―― そんなこと言って! 自分は楽しんでいるだけでしょうがっ!
少し腹が立ったら、元気が出た。だから、ずんずんとその場所に向かうことが出来たわ。そして、私へのお客って言うのは……やっぱり、そうか。
「やっ、山名さ〜ん! ひでーよっ、何でえいつの間にっ! 俺が忙しくしてるからって、工藤なんかで我慢することないだろっ!」
……相変わらず、熱すぎのキャラ。
編集部の佐々木さんは、体育会系のガタイをねじったり伸ばしたりしながらのボディーランゲッジ。叫びまくりの声も大きいから、すぐに耳が痛くなる。決して悪い人じゃないし、裏表がなくて風通しのいい性格だって言えるかも知れないけど……やっぱ、ちょっと苦手だな。
「もう三日連続で昼飯食いに行ったんだって? それって抜け駆けだよ、抜け駆けっ! しかも今日の昼はよりによってあの製作部の連中と一緒だったっていうじゃん。ちょっと勘弁してくれよ、参っちゃうよなあ。んで、なあいいだろ? 今夜は必ず付き合ってくれよ!!」
両肩をがしっと掴まれてゆさゆさ揺られたら、もうたまらない。これって「はい」って言わないといつまでもやられるの? やだよ、こんなの。脳みそがシェイクされちゃう。
「でっ、……でもっ……!」
工藤さんはいいんだよ、だって榊主任のことをいろいろ教えてくれるから。それも私の知らない何年も前の情報が仕入れられるのってすごく興味深いでしょ? 主任って本当に面白い人だなあと思うわ。
それに製作部の皆さんはね、何というか毒にも薬にもならぬって感じで楽ちんなのよ。本当に争奪戦に参加しているつもりなんだかどうなんだか、いつも全員一緒に現れて「自分たちはとても仲がいいんです」とアピールしてる感じだ。
そうよ、私もいろいろ考えて一番害にならない部分に逃げていたって訳なのね。
夜のお誘いって、別に意識することもないんだろうけど……ちょっとねえ。今まで誰に誘われていても全部断ってたのに、よりによってこの人? うーん……。
「嫌なんて言わないでくれよっ! 午後七時丁度に駅前の噴水広場で待ってるからっ!!」
半径百メートルは響き渡る声でそう叫ぶと、彼は私の返事を聞くこともなく走り去った。もしかして、これって「いい逃げ」? いいの、そんなんでっ!
「おーおー、若いねえ、青春だねえ。いや、結構結構」
いつの間に現れたんだ、榊主任。いや、この人って絶対最初から全部会話を聞いてたよな。細面の眼鏡顔が今日は特に意地悪に見える。
何よ、ひとりで楽しんじゃってさ! もうっ、最低最低。知らない、こんな人っ……!
「はいっ、お陰様で! ご心配、ありがとうございます!」
どうして私、こんなにイライラしなくちゃならないんだろう。ホント、嫌になる。こんなレース早く幕切れを迎えればいいのに。
勢い余った体育会系と、どこまでも爽やか切れ者系。
そのふたりを天秤に掛けるなら、私は迷わず後者を選ぶ。だけど、この「迷わず」って言うのがかえって引っかかるのよねー。無条件でイイと思えると、どこかに落とし穴があるんじゃないかと疑心暗鬼になってしまう。
「けど、榊主任に言わせれば、それこそが運を遠ざける後ろ向き思考ってことになるんでしょうよ」
話し相手がいる訳じゃないのに、つい独り言を言ってしまった。そもそも、このレースは私が挑戦者の中からただひとりを選んだ時点でゴールを迎える。その後のことは分からないけど多分その相手が「恋人」になって、ゆくゆくは「だんな様」に進化していくんだろうな。
冷静に考えれば工藤さんも佐々木さんもその他の候補者の人たちも、かなり「イイセン」いってる面々なんだと思う。自分に自信があるからこそこんな馬鹿げたレースにも参戦できるんだろうし、きっと最後まで完璧にやり遂げるつもりなんだろう。
……でも、なあ。
いきなり何もかもが上手くいきすぎると、滅茶苦茶不安にならない? しかも自分の意志とは関係ないところで、どんどん先に話が進んでいく。まあ、一生のことだものじっくり考えるに越したことはないし、今まで最長でゴールまで二年とか掛かったこともあるらしいよ? その間、私が何人の候補者と付き合おうと自由だし、最終決断をするまではどうにでもなるってことなんだ。
今のこの状況を「何て素敵な逆ハーなんでしょう!」とウキウキ出来ない私は、主任に言わせればとんでもない「変人」ってことなんだろうね。
あー、また目の前を主任がちらついてるよ。
すっかり日の落ちた噴水広場は、たくさんの若者たちでごった返していた。あっちにいるいかにも軽い集団はこれから合コンかな? なんか悩みが全然ナッシングで羨ましい。とか思うと、こっちにはラブラブモード全開のカップル。人目を憚ることなくいちゃついていて、どうにかしろよって感じ。
「―― あ、山名さんっ!」
私の姿に気付いた佐々木さんが、噴水の縁から立ち上がって大きく手を振る。その大袈裟なパフォーマンスに周囲の人たちがばばっと振り向くのが恥ずかしい。まあ……彼もそれなりに見られる感じの人だから、むしろ羨望の眼差しを向けられてると思ってもいいのかもだけどね。
「お待たせしました、今夜はお誘いありがとうございます」
寒さのせいか普段よりも赤らんだ顔にとびきりのスマイルで挨拶する。これは彼に対する好意と言うよりも、主任に対する当てつけだと思う。ふーんだ、こうなったら思い切り楽しんじゃおうじゃないの。なんか勢い込んだら、鼻の穴が膨らんだ気がするわ。
「じゃじゃ、早速行きましょうっ! いい店を知ってるんですよ、さあこっち、こっちっ!」
佐々木さんは断りもなく私の腕を取ると、くるんと回れ右。ものすごい勢いで細い路地に入っていく。こっちは行き先が分からないんだからさ、従うしかないよね。それにしても、歩けば歩くほどどんどん寂れて薄暗くなっていくってどういうこと?
「あっ、あの……っ」
五分くらいは歩いたかな、さすがに変だなと思って声を掛けた。すると、それまでは明るい感じで話を続けていた彼が急に慌てた様子になる。
「あ、あーっ! ごめんっ、さっきの場所に傘を置き忘れちゃったみたいだ。すぐ戻るからっ、ここで待ってて!」
―― ちょっと待ってよ、何でひとり置き去りにするのっ!?
そう叫ぶ間もなく、彼は今来た道をものすごいスピードで戻っていく。慌てて後を追いかけようとしたら、突然後ろから肩を掴まれた。
「ねー、彼女。どうしたの、カレシに振られちゃった?」