TopNovelヴィーナス・扉>ヴィーナスを目指せ!・2
 


 始まりは今年一番の寒波に見舞われたある日のことだった。

 頬を切るほど冷たいビル風、こぼれる涙まで瞬時に凍り付くんじゃないかと思った。どんより灰色の空の下、私はひとりぼっち。もうすぐ「暦の上では春」というのに、どうなってるの? 悲しくて情けなくて、もうどうしようもない気分。

 昨年の秋。新卒採用で入った前の会社を辞めたときは、次の仕事なんてすぐに見つかると思ってたのね。会社が丸ごとそっくり社長の田舎に移転することになって、派遣社員だった私は正規採用になって付いていくか辞めるかのふたつにひとつの選択を迫られた。そりゃ、正社員は魅力的だったわよ。でも今いるアパートからじゃ通えないし、わざわざ全然知らない新しい場所に移るのもねえ。
  今なら数年のキャリアを積んでる、自分に合った仕事に巡り会う転機だ―― そう思って飛び出したまでは良かった。だけど、その先は長く険しいけものみち。派遣の仕事ならいくらか舞い込むけど、私が目指したのは地にしっかりと足の付いた生活。田舎の両親は「いつ嫁に行くのか」「相手がいないなら見合いしろ」と仕掛けてくる、いくら生活が苦しくても実家に戻るなんて絶対に嫌だった。

 それなのに、期待むなしく希望した会社からは次々と不採用を告げられる。まあ、面接まで行けばまだいい方で書類選考で落とされることもままあった。だんだん自分に自信がなくなって、母親からの帰省を促す電話につい頷きたくなる。地下深くまで潜ったままで新年を迎え、一月もそろそろ終わろうとしていた。

 

 そして、その日。

 私は最終選考までこぎ着けて、もう絶対採用は間違いないと言われていた会社に振られたわけ。すぐに次の面接に行かなくちゃ行けない、貯金もそろそろ底をつく。だけどいくら気合いを入れても足が前に進まなくなってた。また断られるに決まってるとか、ドアを開ける前から後ろ向きになっちゃってる。

 ―― と。突然カバンの中で携帯が鳴った。

 もしかしたら、先ほどの人事課の人が気が変わって掛けてくれたのだろうか。そう思ったから、見慣れない番号でも飛びついて出てしまった。

「や、君って……山名、寧々さん?」

 しかし、聞こえてきたのは知らない声だった。しかも風に煽られているのか、雑音が多くて良く聞き取れない。何でこの人は私の名前を知ってるのだろう? 不審に思いながらも「はい」と言うと、彼は大声で良かった! と叫んだ。

「あのさ、今どこにいる?」

 私が現在地を告げると、そこから地下鉄で三つ目の駅まで来るようにと言われる。そうか、すっかり忘れていたけど履歴書を送ってあった会社がほかにもあったっけ。もしかして、早速面接してもらえるの? ハローワークのお姉さんの話しぶりではあまり期待できないって感じだったけど、そうじゃなかったのか。

 そして、指定された場所まで辿り着いたら。そこに立っていたのが、一見ホームレスに見える得体の知れない男性。その正体が榊主任だった。

「悪いな〜いきなり呼び出して。納品の荷物が急に早く届くことになってさ、ここに下ろしてもらったまでは良かったんだけど……これからこのビルの五階まで運ばなきゃならないんだ。そしたら、エレベーターが故障で使えないって突然言うんだぜ。部署の奴らはひとりもつかまらないし、君が来てくれて本当に良かった!」

 手放しで喜ばれたまでは良かった。だけど、それからが大変。ミカン箱の三分の一くらいの大きさの箱が四、五十個。しかもそれがひとつずつしか運べないほど重かった。だけどそこで「帰ります」とは言えないでしょう? だから必死に手伝ったわよ。吹きっさらしの外階段、手すりも頼りなくて下を覗くのがとても怖かった。

 数時間後、精も根も尽き果てた末にようやく仕事を終えると、彼は言った。

「いいよ、明日から働いてもらおう。この住所、三階の突き当たりだから間違えないで来るんだよ?」

 

 考え方によっては最高とも最低とも思える出会い。だけど、その出来事があったから、私は「契約社員」という格付けで今の仕事を手に入れた。
  前の会社でやっていたWebデザインを引き続きやりながら、その時々で自分に出来る全ての仕事をこなしていく。たった一月だけど、もう十年分くらいのキャリアを積んだ気分だ。

 


「あーっ、いたいた。みんなっ、山名さんこっちだよ!」

 トイレから出てきたところをいきなり指さされたら誰だって驚くわよね? 正直絶対に避けて欲しいシチュエーションだと思うの。
  それなのにこっちの都合なんてお構いなし、あっという間に目の前には五人ほどの社員が並んだ。うちの会社って、こんなに若手が多かったんだなあ。一体どこから湧いてきたのかしら? って感じ。

「良かった〜、Webに新しい子がいるって本当だったんだ!」
「また編集の奴らに担がれたかと思ったもんな〜! あいつら、本当に腹黒いから」
「うんうん、想像以上に上玉。これならやり甲斐があるってもんだ」

 ちらちらとこちらに視線を投げかけながら、小声で囁き合ってる。だけど狭い廊下だから全部聞こえてるのよね。なんか値踏みされているみたいで嬉しくないなあ。

「……あ、ごめん。俺たち製作部のメンバーなんだ。すっかり出遅れてしまったけど、そこんとこヨロシク!」

 私が怪訝そうな顔をしていたからだろう。中央に立っていたひとりが慌てて口を開く。その声に合わせて、周りの男性たちもうんうんと相づちを打った。何だかすごく仲が良さそうな人たちだわ。

「出遅れたからって、やる気がないわけじゃないんだよ。ただねー、今年が『ヴィーナス』だってことは分かってたけど、スタートの期日はその年によってまちまちだからね。もうすっかり上層部に裏をかかれたって感じだよ、いやー参った参った」

 あははと笑って誤魔化されても、こっちは全然面白くないから。お願いだから道をふさぐのはやめて欲しいなあ、早く部屋に戻りたいんだけど。

 そんな私の心の声が相手に届くはずもなく、その後もひとりひとりの自己紹介から始まってなんと三十分も足止めを食らってしまった。本当に営業妨害もいいところよ、私は新入りの身で電話番から何から雑用を全部ひとりで片付けているんだから。どうして「自慢の隠し芸は皿回しです、コツを掴めば簡単ですから今度ご一緒しましょう」なんて話を延々と聞かなくちゃならないの。

 知らなかったなーっ、広く浅くしか人付き合いの出来ないイマドキの若者とか言われる彼らがこんなに積極的な一面を持っていたなんて。

 まあ、個性のぶつかり合いで成り立っているような会社だしね、世間の常識が通用しないのも当然か。普段は人気のまばらなフロアなのに今日はえらくざわついていて、行く先々で呼び止められる。そうすると次の瞬間には強烈な自己アピールが炸裂よ。それがまた、タレント事務所の新人オーディションですか! と思っちゃうくらい自信満々の売り込みなのね。

「○○先生のベストセラー、あれの帯のコピーは俺が書いたんだよね? 去年の社長賞候補になったんだから」
「新人の△△さん、あの人って実はウチの出版社で募集した新人賞で一次選考落ちだったんだよ。でもね、僕が下読みをした感触では確かに光るモノを感じてね」
「□□先生の新作、ウチで手掛けることが出来たのは俺の頑張りのたまものなんだよ。何しろお百度参り宜しく雨の日も風の日も通いまくったからなー」

 エトセトラエトセトラ。

 何だかもう途中からは自慢大会みたいになっちゃって、どこで相づちを打ったらいいのやら突っ込んでいいのやら全く分からないような状態になる。確かにあの長くて薄暗かった再就職活動中、私は入社希望の会社に向けて必死で自分をアピールしていた。こんなに自信満々に言い切っていいのかと内心びくびくしながらね。でももしかして、あれくらいじゃ全然足りなかったのかも知れないな。

 

 こんなんじゃ、落ち着かないでしょう。

 ランチを外に食べに行くのも恐ろしくて、少し遅めの昼食は仕方なく残業のとき用に非常食に買ってあったカロリーメイトをかじって飢えをしのいだ。どうしてこんな情けない思いをしなくてはならないんだろう。本当、訳わからないっ。
  栄養のバランスが取れてるっていうのが売り物の食事だったはずなのに、午後になってからもイライラは募るばかり。いつもは余裕でかわせるはずの冗談にもつい本気で応えてしまう。出勤してきたばかりのインド国籍の彼は大袈裟に首をすくめたあと、二歩三歩と後ずさりした。

「ネネサ〜ン、モシカシテ、ツキニイチドノオキャクサマデスカ?」

 まん丸な目を何度も瞬きして、叱られた子供みたいにおどおどしてる。最終学歴はアメリカの名門某大学、卒業後来日して路上パフォーマンスで生計を立てていたというよく分からない経歴の持ち主の彼は、私同様寒空の下で主任に拾われたらしい。

「ボ、ボク、ノドガカワイタカラコーヒーノミマス。ネネサンモ、ゴイッショシマショウ」

 ……なんか私って、最低かも。

 しょぼくれた背中を見ていると、自分がすごく悪者になった気がする。ああ駄目だわ、精神的に余裕がなくなってるみたい。

「なーに腐ってんだよ、寧々。世界の終わりみたいな顔して」

 あれ、どこから声がするの? さっき社長室から呼び出しがあって出掛けたばかりの人がここにいるわけないのに。そう思って三百六十度に首を回してみると、入り口の机の影から主任の頭が見えた。

「しゃ、社長とのお話はもう終わったんですか?」

 ―― それよりも、無駄にかくれんぼなんてしている理由を教えて。馬鹿馬鹿しいことされると、さらに脱力しちゃうじゃない。

 彼は私の問いかけをにやりとやり過ごし、そのまま給湯コーナーで受け取ったマグカップを手にこちらにやってくる。

「おら、腹減ってんだろ? 俺からの差し入れだ、有り難くいただけ」

 すぐ側のコンビニの袋を机の上に置いて、彼はまたにやっと笑う。長さもいろいろの無精ひげを手のひらで撫でて、空席になってた野上さんのデスクにでんっと座った。

「あっ……ありがとうございます。いただきます」

 中から出てきたのは、明太子と昆布のおにぎりが一個ずつ。それから大きめサイズの焼きプリン。

 それらを見た途端におなかがぐーって鳴るんだから、もう嫌になっちゃう。きちんと食事を摂らないと機嫌が悪くなっちゃうなんて、子供じゃないんだからどうにかしないと。

「あのさ、寧々」

 むさむさと一心不乱におにぎりを食べてたら、主任が話しかけてくる。その視線は窓の外を見ていて、私への話なんてついでなんだよって感じ。

「入社早々落ち着かないのは分かるけどさ、もうちょっと余裕持とうぜ? あいつらだってお前を困らせたくて頑張ってるわけじゃないんだ。実際、必死だと思うよ? 何せ自分の将来がかかってんだからさ」

 私がおにぎりをくわえたまま何も言わずにいたら、彼は構わずに続ける。

「それなりに大変な就職活動をこなしてきた寧々なら分かるだろうけどさ、仕事なんていつもこっちの希望通りに手に入るってもんじゃないよ。まあ、とんとん拍子に上手くいく奴もたまにはいるかもだけどな。ほとんどは多かれ少なかれ今の職種に不満を持ちながらも頑張ってるんだ」

 そこで主任の携帯が鳴って、しばし中断。簡単な確認だけだったようで、すぐに終わった。

「出版社っていうと時代の先駆けとなる華やかなビジネス、みたいなイメージがあるけどさ。その内情は地味で不条理なこともかなり多い。でも奴らは出版業界に関わりたくてわざわざ入社してきたはずだろう。ならば、出来るだけ自分がやりがいを感じる部署でしのぎを削りたいと思うさ」

 主任の話し方って、いつも思うんだけど何だか不思議。真剣に関わっていても他人事みたいだったり、どこか投げやりだったり。
  そんなことを考えながら、おにぎりもプリンも全てたいらげた。そしたらちょっと元気が出たような気がする。やっぱ、腹が減っては戦が出来ぬ……ってことかな? だから、次第に頭をもたげてきた疑問を今度はすらすらと口にしていた。

「―― で、主任は? 主任のときはどうだったんですか? あの人たちみたいにやってたんですか?」

 なんか全然想像が付かないけど、とりあえず主任もうちの社員なんだからそんな青春時代? があったのかなとふと考えた。野上さんと同期入社ってことは、今年で32歳。私、彼女の年齢は知っているんだ。向こうから教えてくれたの。「寧々ちゃん、二十五なんて羨ましいわ〜」って言ってもらったけど、野上さんって私より三歳くらいしか年上に見えないよ?
  大卒ですぐに入社したなら、少なくとも過去に二度の「争奪戦」に遭遇しているはず。うーん、かなり興味深い光景ね。当時の映像とか社内報の記事とか残ってないかしら? 見てみたーい。

「うんにゃ」

 やっぱり、気のない返事。主任は面倒くさそうに眼鏡を掛け直す。

「俺、その前に昇進決まってた。だから、最初から蚊帳の外」

 なーんだ、つまんない。そんなことかとは思ってたけどね。どっちにせよ、ゴーイング・マイ・ウェイな主任だもの、人の指図なんて受けるはずもないか。

「でも、この企画はに縁があるらしいな。前回は同期の野上さんで、今回は寧々なんだから。せいぜい楽しませてくれよ、せっかくの余興なんだからさ?」

 結局はそこに行き着くのね? ……ああ、もうっ。人の気も知らないでっ!

「寧々がどんな男を選ぶのか、興味あるんだよなーっ。なんか全然想像付かなくてさ」

 

 花瓶に入りきらないから、バケツややかんを総動員して水につけてる花束たち。むせるような香りの中で、この先の日々を憂う。

 どう見たって簡単に話が収まるとは思えない、それに今回の企画では主任を楽しませることも私自身が楽しむことも出来っこないと思った。

 

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2008年2月26日更新

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