「うわーっ、蒸し暑ーっ!」
「何なんだよ、これ。蒸し風呂と違う?」
夜の賑わいが明るく続いていく駅前繁華街、店を一歩出たところで赤い顔になったメンバーたちが口々に叫んだ。その声の大きいこと、脇を通っていく見知らぬ人たちが「何だよ、こいつら」という顔で振り向いていく。
「ほらほら、いきなり奇声をあげないこと」
できることなら他人の振りをしてしまいたいところだったけど、まあこれも監督責任ってことで仕方ないか。
いつも思うことだけど、うちの販売チームって学生気分の抜けきってない面子ばかり。そうなると彼等をとりまとめる立場になった私は、自然と気むずかしい「先生」の顔になってしまう。
提携しているいくつかの書店と共同で企画した販売フェア、チーム一丸となって取り組んだこの一月は半端なく忙しかった。最後の数日は睡眠時間が三時間くらいしか取れなくて、しかも通勤時間がもったいなくて会社に泊まり込んだりして。正直、今夜の打ち上げもパスして自宅のベッドに直行したかったくらい。
……ま、そう言うわけにもいかないか。たまには付き合ってあげないと、みんな拗ねちゃうから。
「さ、次っ! 次の店、早く行こう!」
「そうだ、こんなとこにいつまでもいられねえよ〜!」
藍色に煙った夜空を覆い隠そうとするような、色とりどりのネオンたち。背高のっぽの雑居ビルは上の方まで様々な看板が掛かっている。土地が高ければどんどん上に伸ばせばいいって考えるから、こんな頭でっかちな街ができあがるんだね。
「いつものボックスでいいよな? 俺、先に行って部屋を押さえとくー!」
相変わらず、元気で腰の軽い高橋くん。真っ先にそう言いだして、先を急ぐ。
「せんぱーい、足下ふらついてますよ! 大丈夫っすか〜!」
その背中に声を掛ける佐藤くんも、いつもに増して陽気。おどけた発言に、仲間内からどっと笑い声が上がる。
「―― で、沙彩さんも今夜はもちろん付き合っていただけますよね?」
そのあと私の方をくるりと振り向いた彼は、期待を込めたキラキラの瞳で見つめてくる。
「何しろ、沙彩さんが主任に昇格してから初めての大仕事だったんですから! 主役がいなければ、盛り上がりませんよ!」
その他のメンバーからも「そうだそうだ」と口々に声が上がる。
「えーっ、ごめん! 申し訳ないけど、今日はこれで帰るわ」
日頃から付き合いの悪さでは定評のある私だから、皆も慣れっこだと思うんだ。
「どうしてッスか〜、いいじゃないですか。明日は休みなんだしー!」
メンバー行きつけのカラオケボックスは、私がこれから向かう駅とは方向が逆。皆、次の行動に出られなくて困ってる。
「ねえねえっ、今日くらいは付き合ってくれたっていいでしょう!」
そう言って、腕まで引っ張られたりして。可愛い後輩くんである彼も、こうなるとかなりの力持ち。アルコールが回ってることもあって、力の加減というものを忘れてる。
「ほんっと、ごめん! 実は今夜、鹿沼が久しぶりにこっちに戻ってくるの。だからちゃんと出迎えてあげないと」
あとで何を言われるか、わかったもんじゃないんだよ。……とは、さすがに付け加えなかったけど。帰りの新幹線の時間までちゃんとメールしてきたし、これって「部屋でちゃんと待ってろ」ってサインだと思うの。そのタイムリミットが、そろそろなんだよ。
「えっ、鹿沼主任が?」
いきなりぱっと手を離すから、こっちは崩れたバランスを立て直すのに必死。
「うん、今は大阪の現場で研修しているから。帰ってくるの、半月ぶりなんだよ」
そうじゃなかったら、ここまで不規則な生活はできないよ。いくらせっぱ詰まってたって、毎晩ちゃんと部屋に戻ってたと思う。私にだって、それくらいの常識はある。
とにかく、ぱっぱと手短に説明して、話を切り上げるつもりだったんだ。でも、酔いの回った佐藤くんは、さらに突っ込んでくる。
「そーなんですか? でも、鹿沼主任だったら大丈夫ですよ。こっちの仕事のことだって、みんなわかってるし。それに、つきあってるつきあってるって言ってますけど、本当のところはどうなんだか……」
はああっ、また言ってるし。佐藤くんはホントにいい子なんだけど、とにかく一度絡んでくると収まりがつかない。でも、今日のところは酔っぱらい相手だから、軽くかわせばいいだろう。
「ま、佐藤くんが信じてくれようとくれまいと、それはどっちでもいいから。とにかく、みんなで存分に楽しんできてね! でもあまり馬鹿騒ぎをして周りに迷惑かけたら駄目だよー」
まだ納得していない表情の佐藤くんを、他のメンバーが引きずるように連れ去っていく。心配そうにこちらを振り向いたひとりに、私は笑顔で手を振った。
今年の春、社内を吹き抜けたとんでもない突風。
四年に一度のお祭り企画「ヴィーナス争奪戦」は、私の平穏だった生活を一変させた。……まあ、それまでもヒトコトでは説明できない問題を私は抱えていたわけだけど。
行く先々で見知らぬ男性社員から口説かれて、挙げ句の果てに一緒に仕事をしてきた仲間たちからもいきなり異性の目を向けられ、私にとっては地獄絵図そのものの日々だった。幸いにも収まるところに収まって事態は終焉を迎えたから良かったものの、未だにこうやって蒸し返されたりするんだから参るわ。
ホント、迷惑の他のナニモノでもない企画。あんなモノに巻き込まれて、一生男性不信になっちゃう子が出たら会社側はどう責任を取るつもりなのかな。こういうのも「労災」の申請ができるんだろうか。
あれから三ヶ月、そうかーまだ三ヶ月しか経ってないんだ。いろいろなことがありすぎて自分の周りの状況がだいぶ変化したから、もう何年も過ぎてしまったような気がするわ。
―― と。
「相変わらず、騒々しい奴らだな」
え? どうして、いきなり彼の声がするの?
予期せぬ出来事に、駅に向かって歩き出そうとした足がぴたっと止まった。どうした自分、ぼんやりと物思いに耽ってたらいつの間にか妄想の世界に突入しちゃったのかな。
「お前のモテっぷりも変わらないな。佐藤の奴め、今度会ったときには吊し上げにしてやる」
そしたら今度は、そんな台詞と共に飲み屋さんの大きな看板の向こうからぬっと黒い人影が。不思議そうに見つめる私に、彼はさらに言葉を続ける。
「仕事上がりだと言うから、たぶんこの辺でいっぱい引っかけているだろうと張っていた。やはり思った通りだったな」
ボタンダウンの青いシャツをノータイで着て、袖を無造作にめくって。腕には生成のジャケット、足下には大きな旅行鞄がある。
「……私たちに気づいたなら、声を掛けてくれれば良かったのに。きっとみんな喜んだと思いますよ?」
「何言っているんだ、そんな面倒くさいことできるか」
照れ隠しに眼鏡のフレームに手を掛ける仕草も変わらない。考えていることの半分も口にしない人、でも私はそんなこの人が大好きなんだ。
「おかえりなさい、お仕事お疲れ様!」
まだまだ人通りの多い時間帯だけど、そんなこと関係ない。私はすぐさま彼に駆け寄ると、その腕にしっかりしがみついた。
「お前の方こそ、お疲れ。上手く行って良かったな」
何やってるんだって振り払われるかなと思ったんだけどね、そうじゃなかったから嬉しい。彼の肩にもたれ掛かる私の頭を、大きな手のひらが撫でていく。
「どう、あっちは忙しかった?」
大学の先輩の紹介で勤めだした工務店は、図書館のような大きな公共施設の建築物から一般住宅まで手広く扱っている。まだ入社して数ヶ月の下積みの身で、人手が足りない場所にあちこち飛ばされているのが現状。そのたびに環境は変わるし、本人はかなり大変だと思う。
「まあな、でもその話はあとだ」
彼は私の顎に手を添えると、素早く唇を重ねた。
「今は早く沙彩が欲しい」
すごく熱っぽい瞳でそんな風に言われちゃって、かなり驚く。あまりのことに、すぐには言葉も返せなかったほどよ。
「やっぱり、沙彩をひとりであの職場に残すんじゃなかった。人の良さそうな仮面をかぶったオオカミどもがうようよして、あまりに危険すぎるぞ」
続いて、頬にこめかみに首筋に、無数のキスが降ってくる。
「俺たちが付き合っているわけがないだと? よくもまあ、そんなことをほざけるもんだ。……畜生、思い出したら猛烈に腹が立ってきたぞ……!」
いつでもどこでも何が起こっても冷静沈着、まったく動じることはない。それが「鹿沼主任」として私たちの販売部チームをまとめていた彼のイメージだった。だけどそれがあくまでも作られた顔であったことを、今の私は知っている。
「駄目っ、これ以上は。お願いだから、部屋まで待って」
まさか道の真ん中で押し倒されることはないと思うけど、一応は釘を刺しておこう。そしたら何を思ったのか、彼の口の端がにやりと上がる。
「何だ、ここじゃ思い切りできないといいたいのか」
いきなりすごい解釈になってますけどっ、これについてはノーコメントでいいかな。
「わかった、一時休戦だ。―― 先を急ごう」
そのかけ声と共に、彼は信じられないほどの早足になる。洗濯物がたくさん詰まった重い鞄ももろともしないところがすごい。
生ぬるい夜の闇が、家路を急ぐ私たちの行く手にどこまでもどこまでも続いていく気がした。
部屋につくなり、ベッドに直行。今は薄い夏服の代わりに、互いの熱い吐息を肌にまとっている。
「……うんっ……」
「ずいぶん寂しかったみたいだな、沙彩のココが大泣きになっているぞ」
そんな風に言葉でいたぶられながら指を突っ込まれると、熱い雫があとからあとからこぼれてくるのがわかる。
「やぁっ、……お願い、今夜は疲れているの。だからあまりひどくしないで……!」
程よく冷やされた部屋、シーツのひんやり感が心地よい。私の身体の疲労はピークに達しているから、柔らかいベッドの上に横たわっただけで気が遠くなりそうなのに。
「お前が良くなれば、すぐに終わる。だから我慢するな、もっと乱れてみろ」
……そんなことを言ったって。
肩も背中も、胸もおしりも。自分の力ではもうこれ以上どうしようもないくらい高ぶっている。彼の指先が唇が舌が、私の身体を隅々まで侵食していくの。
「……はぁあああんっ……」
恥ずかしいくらい達してしまったあとのご褒美は、すべてが溶けてしまうほどの甘いキス。いくら繰り返しても未だに慣れなくて、触れ合うたびに胸が切ないくらい痛くなる。
「大丈夫だ、今日は覗き見する奴は誰もいない。俺たちがどんなにいかれてしまっても、それはふたりだけの秘密にできる」
虚ろな耳元に囁かれる、それは呪文。月の消えた空の下、甘く長い饗宴が始まる。
了(101008)
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