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第三話


 中学までは隔週が土曜休みだった。何とも中途半端な感じであったりなかったりしたこの日を過ごしていた気がする。父や母が子供の頃は土曜日に学校がきちんとあったって。夏休みも「登校日」っていうのがあって、10日ごとに学校に行ったものだ。そう言われたこともある。
 土曜の朝にきちんと制服を着て家を出ると、何だか周囲の視線を感じる気がした。それはウチの高校の制服が目立つせいもあるんだろうな。
 デザイナーズブランドの淡いモスグリーンのブレザーに同じ色のギンガムチェックのスカート。男女兼用の開襟シャツも細かいストライプ模様。ひだの細かいプリーツスカートで短め。ふわふわの生地だから自転車をこぐのがちょっと辛い。もちろん、その対策に見せパンはいてるけど。それでもひらっとした瞬間に見られている気がする。
 学生カバンをカゴに突っ込んで自転車をこぐ私を、小学生ぐらいのちっちゃい子が不思議そうに見ている。ううう、いいのよ! この年に40日以上の土曜日で他の公立高校の生徒と差が付くんだ、苦労はあとで報われると入学式の時に校長先生が言ってたもん。

「良かったら、お話の続き、聞かせてください」
『彼』は私のメッセージを受け取ってくれただろうか? それは分からない。でも、何だか分からないけど、引っかかるものがある。私たちの間にはまだ細い糸が張られている気がして。それが途切れていない気がして。
 昨日。赤い色の展望台の中で泳ぐように歩いて、この街を眺めた。何だか神様になった気分。真っ赤に染まった風景も自分が立っているビルも手のひらの中にある気がして。足元からぞくぞくしたものが立ちのぼる。
 …血の、色。
 明るい部分と影になった黒い部分。それが織りなす光景が一瞬、ぞっとするものに見えた。気付かない振りをした、見なかった振りをした。でも「人柱」と『彼』が書いた単語とあの風景が異様にマッチして。
 それでも。
 逃げてはいけないと、探さなくてはいけないと思うのはどうしてだろう。自分の心の奥の部分から、何かが沸き立ってくる。そして、それは『彼』との接触がある遙かに前から私の中に息づいていたと思えるのはどうしてだろう。

 土曜日の授業は朝のホームルームをしないでいきなり始めて4限ぴっちり。12時を回って終わる。毎日4時間目は正直空腹と退屈で目が回りそうになる。でも、今日はそんなことを感じ取っている余裕もなかった。
 放課後、地学室に行ってみよう。そう決めた。朝、貴彦には「数時間遅れるかも知れないから、あとで連絡する」とメールした。本当は声を聞いて心を落ち着かせたいところだったけど、昨日はバイトだったはず。きっと朝はまだぐっすり寝てると思ったから。
 …それにしてもなあ…。
 カチカチとシャーペンの芯を出しては引っ込めた。出席番号から言って、今日の古文は当たらない。自分の思考に集中する。
 飲み屋でバイトって…いいんだろうか? 高校生なのに…貴彦、年を誤魔化しているのかなあ。他にもコンビニとか色々バイト先はありそうなもんなのに、どうして飲み屋。確かにバイト料は良さそうだけどさ。
 ちょっと、イヤーな気分になる。まさか、そこ。綺麗なお姉ちゃんとかバイトしてるのかな。ジョシダイセーとか。お化粧もバッチリで何て言うか、露出した服着てたりで。…で、まさか…まさか?
 ぶんぶんと首を振る。先生は黒板を向いてるから、その隙に。あああ、冗談じゃないわよ! こんな時に何でまた、こんなコト…。
 貴彦の高校は地元でも有名な進学校だったりして、女の子は男子の半分もいない。だからと安心していた。貴彦は私が心配だと言ったけど、私だって貴彦が十分心配だ。
 どうして、離れちゃったんだろう。叔父さんちから高校に通うって方法もあったのに。両親に説得されてしまった。
 違う、違うのっ!! 今は『ツイン・ビル』なんだからっ!!
 そう思っても、一度膨らんでしまった思考は収まらない。まあ、そのお陰で退屈することなく終了のベルが鳴った。

 1年生の教室は1棟の4階。4階には2棟への連絡通路がないから、3階まで下がってから渡り廊下を使う。その後、2棟の階段をひとつ上ると地学室のある4階になる。
 土曜の放課後の特別教室の廊下。しんと静まりかえっている。ひんやりとした空気。窓も開けていないのに。何か特別のもので満たされているような気さえして。
 授業が終わると速攻でカバンを抱えてここまで走ってきた。それでこの静まりよう。もしかして、4限は地学がなかったのかな? と言うことは…鍵が?
 そろそろと、引き戸に手を掛けた。祈るような気持ちで横に動かすと、それはガラガラと大きな音を立てて、開かれた。
「…開いてる」
 思わず、声が出た。いつもなら、授業がないのなら、ここは鍵が掛かっているはずなのに。今日は…まるで私を待っていたかのように。
「…失礼、します…」
 しんと静まりかえった教室の奥に声を掛ける。返事はない。もしかしたら、地学の大野先生が奥の準備室にいるのかなと思ったけど、そうではないみたい。
 私は机の間をかろうじて進んでいった。いつものコトながら、ぎゅうぎゅう詰めの配置。目指す場所が遠い。そして、辿り着く一番奥の窓際の机。その端に手を付いたところで、ふっと窓の外を見た。
 明るい日差しの中、いつもと同じように『ツイン・ビル』がそびえていた。しばらく見つめて、それからぎゅっと目を閉じて。そろそろと歩く。私の席まで。手探りで机の端を捉えて、ようやく瞼を開いた。思わず息を飲む。
 昨日。私が書いたメッセージ。綺麗になくなっていた。その代わりに。また、新しい文字が静かに並んでいる。ごくりと息を飲んで、素早く目で追っていた。
「運命の日にようこそ。準備がありますので、しばらくお待ち下さい」
 懐かしい、と思える文字はまっすぐに私に問いかけてきている。この文字は最初から他の誰でもない、私に向けられて書かれていたのだ。そう思えてきた。
「…運命の…日?」
 私が文字を指でなぞりながら、そう呟いたとき。がたん、と教室の入り口で物音がした。ハッとしてそちらを見る。思わず、目を見張った。そこに立っていたのは、意外、と言えば意外すぎる人物だった。

「貴彦!? …え? どうして!?」
 そちらを振り向いた姿勢のまま、身体が硬直する。制服姿の貴彦がそこにいた。見たことのない高校生の姿で。
「やあ」
 軽く、右手を挙げて、照れ笑い。
「どどど…どうしたのよ!? 何で、ここにいるのよ!?」
 な、何なんだろう? 急に膝がガクガクして、机に付いた手だけでは身体を支えられなくなってしまった。がたん、と大きな音を立てて、パイプ椅子の間に座り込む。
「真帆?」
 長机の間をぬって、貴彦がこちらに向かってくる。床にぺたんと座り込んだまま、情けない格好でそれを見ていた。
 シルバーブルーの上下がとても新鮮。ダブルのブレザーは見返しやポケットの蓋が同系色のチェックになっている。それと同じ柄のズボン。長身の貴彦にとっても良く似合っている。多分、彼ならどこの制服でもそれなりに着こなしちゃうんだろうけど。
 どちらにせよ、中学の頃の学ランよりもずっとオトナっぽく見える。
「どうしたんだよ、カッコ悪…」
 すぐ傍まで来ると、椅子の間にはまりこんだ私を見下ろして面白そうに笑ってる。ひとしきり笑ってから、手前のパイプ椅子をガタガタとどけて、すっと手を差し伸べてきた。
「……」
 手を伸ばして。手のひらじゃなくて、もっと上のブレザーの袖口の辺りに触れた。それからすすっと手首に。貴彦はおやおやといった表情になる。
「…貴彦ぉ…」
 ふうっと大きく息を吐いて、ちょっと涙ぐんでしまった。
「何だよ〜変な奴…」
 貴彦がおでことおでこがぶつかるくらいかがんで、私の脇の下に両方から手を入れる。そして、よっこらしょ、と立ち上がらせてくれた。
「だってぇ、いきなり貴彦がいるんだもん。びっくりしちゃって…」
 彼はそんな私のリアクションが嬉しかったらしい。いつものように私の頭にぽんと手を置いてぐりぐりした。
「メール着信の音で目が覚めてさ。多分、真帆は何か良からぬことを考えているんだろうなと心配になったから、急いで制服着て、電車に乗って」
 …何故に、制服?
「他校の生徒が用事があって来たんだろうって思って貰えるだろ? その辺を歩いている奴に地学室の場所を聞いたらすぐに教えてくれたよ」
「ふうん…」
「敵地に乗り込むときは堂々とやる方がいいの」
 そう言うと貴彦はどんなもんだい、と胸を張って見せた。別にここは敵地ではないんですけど、と突っ込むのはこの際やめておいた。
 でも、嬉しい。正直、安心しすぎて気が抜けてしまった。ここに入ったときの私は心臓が飛び出しそうなほど、緊張してたんだから。
「ごめんね、心配かけて」
 すまなそうにそう言うと、貴彦がにこっと笑って答える。
「いいの、俺の土曜日は真帆のためのものなんだから。…ところで? 例の落書きってどこ?」
 頼もしくもそう言いながら、机の前の方を伝って、はじっこに辿り着いた。私とは机を挟んで向かい合った形になる。
「へえ…何だ、みみっちい字だなあ…」
 貴彦が文字をなぞりながら言う。いいんですか? そう言ういい方して。どこからか幽霊さんが見ていたら呪われるわよ?
「あのねえ、真帆」
 そんな私の表情に気付いたのだろう。貴彦はふうっとため息を付くと呆れた声で言った。
「ふつう、こう言うのは実在の人間がすることなの。それにね、びっしりと長い文章があっと言う間に書かれたり消えたり。普通じゃないよ。机に向かって長い時間何かしてたら、絶対誰かに気付かれるし。ここは授業以外は鍵が掛かっている。そうなると犯人は一人しかいないだろ?」
「……へ?」
 自信たっぷりな貴彦の言葉に間抜けに答える私。何なの? 自分だけ行っちゃわないで下さい、私、分かりません。
「…ま、まずは。あっと言う間にこの字を消す方法をお見せしましょう…」
 そう言うと、胸のポケットからすっとハンカチを取り出す。マジシャンみたいに。
「…消しゴムで消すんじゃないの?」
 私が言うと、貴彦はくすりと笑う。
「じゃあ、まずは真帆がやってご覧よ?」
「…う、うんっ――」
 慌てて、カバンの中から筆入れを出して、消しゴムを手にする。そして、文字の上をなでてみた。
「…え?」
 消えない、どうして? 鉛筆で書いた文字がどうして消えないの?
「じゃあ、ちょっと見ていて。一瞬だからね?」
 貴彦がネイビーブルーのハンカチでひとなでする。ぬぐったところがすっと消えて下の木目が見えた。
「…嘘…ぉ」
 私は消えかけた落書きと貴彦の顔を交互に見た。貴彦は予想した通りの私の反応に満足そうだ。
「やっぱりね。これ、鉛筆で書いたんじゃないんだよ?」
「…え?」
 びっくりして、落書きに視線を落とす。だって…どう見ても鉛筆の線だ。かすれた感じも濃淡の出し方も。
「真帆、頭が固い。考えてもご覧よ。今日みたいに短い文ならいざ知らず、この前みたいな長い文章を手書きするんだったら時間が掛かるだろ? 前の授業もない時間に誰かが空き教室の机にじっと座っていたら変じゃないか。この文字は一瞬で書かれて、一瞬で消される魔法の文字だったんだ」
 そう言いながら、こしこしと机を拭ききって、文字を消してしまった。
「わあああ…」
 机のフチを握りしめて、きゅううっとしゃがんでしまった。鼻の辺りが机のフチ。つん、とオレンジみたいな匂いがした。
「多分ね、シルクスクリーンみたいな感じに机に直接印刷してるんだ。即乾性のインクで、見た目は鉛筆みたいな感じの。それで授業が終わるとさっとふき取るの、インク消しで」
「シルクスクリーン?」
「ほら、プリントごっこみたいな奴。版を前もって作っておいてインクをこすりつけるんだ。そうすれば一瞬で字が書ける」
「へえ…」
 印刷かあ…そうだったのか。で、貴彦のハンカチにはインクを消すことの出来る薬品が染みこませてあったのだろう。でもまあ、そんな回りくどいことを…。
「それは…やっぱ、真帆の気を引くためだろうな…」
 そう言うと、貴彦も机の向こう側で床に腰を下ろす。そして、長机の下に潜り込んで来る気配。
「真帆?」
 ブレザーの襟の辺りを引っ張られる。
「何?」
 そして、私が机の下を覗き込んだその時。え? と思った瞬間に、ついっと貴彦の唇が吸い付いてきた。もちろん、私の口に。
「……!!」
 頭が長椅子にぶつかって、身体が不安定に斜めになる。ぐらりと倒れそうになって、慌てて貴彦のブレザーを掴む。覆い被さられて、閉じた視界が真っ黒になった。…何でこんなに熱いの? いつものキスと全然違う、全部吸い尽くされちゃうみたいな生々しい感触。
「はあっ…」
 思わず、大きな吐息が漏れる。一点に集中されていた束縛が解かれると、今度は思い切り抱きしめられた。力一杯なので息苦しい。どうしたの? …何で? どうしちゃったの?
「…やっぱ。同じ高校にすれば良かった」
 いくらかの静寂が過ぎたあと、貴彦がかすれる声でこう言った。
「中学の頃みたいに、いつも視界にはいるところに真帆がいれば安心なのに…」
「…貴彦?」
 甘えるような切ないような不思議な音色に驚いてしまう。いつもと違うよ? どうしたの?
「真帆に何かあったらどうしようと、電車の中で気が気じゃなかった。…でも、ここに着いたら。今度は真帆と同じ制服を着てる男が全て憎らしくて」
 黙ったまんま。広い背中に腕を回す。とても回しきれないけど、きゅうっと抱きしめた。しきしきとした布地の感触、だんだん貴彦の匂いの移ってきた制服。
 こうしてくっついていれば、お互いのことがよく分かるのにね、ちょっとでも離れていると不安で。私もすぐに悪い方向に考えちゃうけど、貴彦が他の女の子になびいたらどうしようかと思っちゃうけど…それは貴彦も同じで。大丈夫なんだろうか、私たち。
「あーあ…」
 急にがくん、と来る。貴彦が腰を落としたのだ。しがみついたまま、その胸に倒れ込んだ。彼は後ろに手を付いているので斜めで止まる。心音が耳に響いている。
「同じ学校なら。校舎内の色んなところで…できちゃうのにな」
「……え!?」
 慌てて、ぱっと離れた。
「ななな、何言い出すのよ!! びっくりするじゃないの…!?」
 目が合うと、貴彦はニッと笑った。いつもの笑顔だ。
「ま、そのうちにね。…期待してるから」
 さり気なくすごいことを言いながら、立ち上がる。その後、私も手を引かれて机の上に頭を出した。めくれ上がったスカートを慌てて直す。
「…そうそう、それどころじゃないじゃないの!!」
 ようやく思い出す。貴彦が余計なことをしたから、すっかり忘れていた。何てコトなの!!
「ねえ、…あ、消えちゃったけど。『運命の日』って、何なんだろ? 今日何かあるのかなあ…」
 すると、貴彦はするりと視線を移す。そして良く通る声で言った。
「…それは。本人に聞いてみようよ? ね、そこにいるんでしょう?」

 がたん。

 貴彦に答えるように奥の方で物音がする。やがてザッ、ザッとサンダルの音がして、人影が現れた。
「…あ」
 思わず、声が漏れた。当たり前なんだけど。電気の付いていない地学の準備室から出てきたのは、当たり前の人間だった。
「大野、先生」
「よく分かりましたね、と言いますか…実のところ君のような部外者の存在は計算外で、いささか不愉快でしたが…」
 地学の、おじいちゃん先生。私の姿をちらっと見てから、その視線を貴彦に移した。眉間にしわが寄る、不機嫌さが滲み出ている。柔和な顔立ちが歪んだ。

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