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第四話


 明るい初夏の陽ざし。それが注ぎ込んでくるお昼過ぎの地学室。私から見てもそれほど威圧感を感じない小柄な大野先生と、大きな貴彦。その傍らに私。貴彦のブレザーの裾をぎゅうっと握りしめた。
「――運命の日って、10年前の今日起こった、電車人身事故のことですか?」
 え? と貴彦を仰ぎ見る。その視線は食い入るようにまっすぐ先生に向いている。それをなぞるように私も先生の方を見た。
 何? …どういうこと?
「…いかにも。君のような人間は本当に困りますね」
 大野先生が自嘲気味にふふふっと笑う。
 でも、どうして? 大野先生がどうしてこんなコトをしたの? 物静かで寡黙なこの先生がそんなにふざけたことをするようにはどうしても思えない。だって、先生は生きているのに。どうしてこんな…幽霊騒ぎみたいなコトを。私をからかうために?
 すると、先生は私の方を見てふっと目を細めた。いつもの、私が知っているおじいちゃん先生の顔。
「…まあ、いいでしょう」
 大きなため息と共に、先生は視線を窓の外に移す。…そう、高くそびえる双の建築物、『ツイン・ビル』に向けて。
「森澤真帆さんと、その勇敢な騎士くんに。ちょっと、昔話をしましょうか?」
 教壇の前に立って、いつもの授業の姿勢の先生。教室の真ん中当たりの机でそれを見つめる私と貴彦。斜め後ろにぴったりと寄り添う貴彦がいつの間にか私の手をぎゅっと握りしめてくれていた。
「10年ほど前に着工した『ツイン・ビル』の建設。それには当時の市長の思惑が色濃く出ていました。自分の在職中に何が何でも建設を実現し、出来ることなら落成式も迎えたい。そんな彼の強攻策で計画は少し強引に進められていきました。
 当然のことですが、彼本人が手を汚すことはなく…いつも直接に建設に携わる者たちが苦汁を飲まされることになりました。…建設計画の初期段階からずっと中心の一人にいた、新採の若者。彼などは年が若かったこともありそう言う嬉しくない役回りに回されることが多かった。そして彼は次第にふさぎ込みがちになっていきました…」

 ある時。彼は立ち退きを拒む老夫婦の家を訪ねていた。夫は病床にあって、妻はその看病に明け暮れボロボロに疲れ果てていた。でも、彼らを立ち退かせるのが青年に課せられた使命であった。足を向けるだけで自分がとてつもない冷酷非道な人間に思えてくる。引き戸を開けて、挨拶する頃には指の先も足の先も氷のように冷え切っていた。
 そして、とうとうそれは起こる。
 ある日、いつものように声を掛けてみると、返事がない。か細いながらも声がして、嫌々ながら接客してくれる老婦人が出てくる気配がない。不思議に思って何度も声を掛け、その後躊躇しながらも、靴を脱いで上がるとみしみしと鳴る古い廊下を進んでいった…。外の暖かい陽気とは裏腹にしんと冷え切った室内。黄ばんだ障子から差し込む淡い光…白い布団、二つのふくらみ。これが人間なのかと思うぐらい、小さなふくらみ。

「…覚悟の、自殺だったようです。立ち退きに対する抗議とも…」
 思わず息を飲んだ。貴彦と繋いだ手のひらがじっとりと汗ばんでいた。

 老人特有の体臭が立ちこめた狭い古い部屋。がっくりと膝を落として、青年はうずくまった。しばらくの間、動くことも出来ず、全ての思考回路が止まっていた。警察を呼び、現場検証が終わり…死亡推定時刻が深夜だったこともあり、彼は疑われることもなく早々に解放された。その家を訪れたのは昼過ぎのことだったが、もうすっかり夕暮れに移り変わっている。
 辺り一面はさら地に変わっていた。この老夫婦の居住まいを除く全ての家屋は立ち退きを終了し、取り壊されている。
 そして。仰ぎ見る。足場を組んだ先のそそり立つ…骨格の『ツイン・ビル』、恐竜の化石のように無機質で生命力がない。ただの建物、ただの箱。
 これの建設を着工させるまでに、どれくらいの泥を掴んできたのだろう。どれくらいの物を捨ててきたんだろうか。ふと見た自分の双の手のひらが真っ黒に染まった気がした。夢に見た現実が崩れていく。もう希望と呼ばれる物は何一つ残っていないと思った。
 足場を上がっていく。狭い鉄筋の簡素な階段。踏み外したらあとのないギリギリの所をひたすらに登る。足の下の地上がどんどん遠くなる。身体を揺らす風がどんどん強くなる。
 地上では大したことがないと思っていても、普通のビルの10階分も上がると、恐ろしいほどの突風が吹くときがある。ビルの最上階は展望台に設計されていた。二つのビルを繋ぐ通路があって、ぐるりと360度を望めるスペースだ。この建物の目玉であった。
 この街を、街を含むこの大地を、海を、一番美しく捉えるようにあれこれと悩んだ。鳥になって上空から眺めるように、自由に心を躍らせる場所にしたい。
 青年が必死で設計して、直しを入れた見取り図。目を閉じても容易に思い浮かべることが出来た。太い鉄筋に腰掛けて、身体を縦の柱で支え、無心になって目前に広がる風景を見た。
 赤々と辺りを濡らす夕焼け。その赤に沈んだ街。街全体が血の海に染まる。
 そして、そこに沈んでしまいたい。そう、一瞬考えた。彼は翌日に誕生日を控えていた。

『いつまで、一緒にいられるかしら?』
 あの時、彼女は言った。
『いつまでも、いつまでも、一緒にいよう。この街が人が変わっても、俺達は変わらないから』
 そう、答えたのに。
 そして、あの日に二人で作った秘密。桜の木の下に埋めたささやかな夢。
『10年たったら、掘り起こそう』
『長いわ、そんなに待てるかしら?』
 長い髪を揺らして、不安そうな表情。
『大丈夫だよ、二人でいればすぐだから』
 待つという時間の長さを知らなかった、あの頃。永遠が手のひらの中にあると思っていた。それが幻想でしかないなんて気付かずに。
『俺はすぐに物をなくすから、これは君が持っていて』
 封印を解く鍵を、彼女の白い手のひらに乗せた。それを黒い瞳が震えながらそっとなぞった。
『10年たったら、あなたの夢は叶っているかしら? 大きく羽ばたいているかしら?』
 暖かい笑顔が脳裏に甦る。
 その、10年の約束の日が、迫っていた。明日に。

 軽い目眩を感じながら、かろうじて階段を降りる。卒業したあと、進学して、会えなくなった人。会うことの出来なくなった人。彼女は、覚えているのだろうか? 忘れてしまっただろうか? 馬鹿馬鹿しい希望だとは分かっていた。でも彼女に会いたかった。どうしても、明日会いたかった。

「…待ち合わせは線路沿いの小道でした。高校の帰り道に二人が歩いた思い出の場所。ひときわ大きな桜の木の下で、10年後にと約束でした」
「…やけに、詳しいですね。まるでご自分のことのように…」
 私の手を痛いぐらいに握りしめて。貴彦は静かに大野先生に尋ねた。それを待っていたかのように、先生はふっと微笑んだ。
「それはね。彼は…私の息子ですから。10年前の今日、亡くなった、一人息子ですから」
 先生は穏やかな笑みを浮かべていた。でも、怖かった。身体が自然と震えて来る。貴彦がいなかったら、立っていることも出来なかったと思う。
「彼女は、息子の恋人でした。そうは言っても高校生、今時の子供達とは違う、微笑ましい関係でしたが。農業高校の建築科と家政科。二人はいつも一緒でした。
 そして、息子は大学に進学するため東京に移り住み、彼女は地元で就職しました。離れていても、心は通じ合うという幻想はやがて、崩れていったのです。
 …彼女は別の男と関係を持ち、息子を捨てて嫁いでいきました。息子が郷里であるこの地に戻ったとき、もう彼女の姿はなく…その後、二人は顔を合わせることもありませんでした」
 それから、先生は私をじっと見据えた。
「…離れれば、いずれそうなるのです。そう言うものなんですから…」
 まるで、100%当たる占いをしているように。先生はきっぱりと言い切るとふふっと笑った。哀しい目をして。
「君が…10年後にこうして現れるとは。これもやはり…運命だったのでしょうね。私の中の錆び付いた記憶もしっかりと動き出しましたから…」
「…え?」
 何が何だか分からない。先生の言葉の意味が分からない。
 分からない、何もかも。分からない、何も知らない…。
 そんな私の表情を嬉しそうに先生の視線がなぞっていく。その心の見えない微笑みに吸い込まれそうになる。
「真帆」
 背後から声がして気付く。そうだ、貴彦がいる。私の傍にいてくれる。
 その時、窓の外でぼんぼんという破裂音が鳴り響いた。何かと思ってそちらを見ると『ツイン・ビル』のところで花火が打ち上がっているのだった。先生もそちらを見る。そして嬉しそうに微笑んだ。
「君たちは。今日。何があるか知ってますか?」
 思わず2人で顔を見合わせた。貴彦も首を横に振った。全然分からない。
「市役所のビル敷地内一角に…郷土資料館が完成したんです。本日はその記念式典です」
 …そう言えば。昨日の夕方、市役所の正面の方が騒がしかった。そんなことが計画されていたのか、知らなかった。
「現役を退いた、前の市長も列席しますから。私としてもお祝いの意を込めてささやかに…贈り物をさせていただきました」
 そう言った顔が。ふわっと色を変えた。残虐な…どろどろしたものに。私は全身の血の気が引いていくのを感じた。
「…何をしたんだ!! お前は何を企んでいるんだ!! …どうして、こんな風に真帆を巻き込もうとするんだよ!!」
 いきなり貴彦が叫んだ。先生が冷たい目のまま、こちらに向き直る。口元だけ、微笑んで。
「心外ですね。私は真帆くんを巻き込んだりしてませんよ? ただ、今日の華麗なショウの観客になって貰いたいと思ったんです。…それが一番ふさわしい女性ですから」
 ごくり、と唾を飲んだ。何なの? 先生は何が言いたいの? 私がどうしたというの? 10年前のこともその青年…先生の息子さんのことも全然知らない、分からない。
 うろたえた私のところで、先生の視線がぱっと止まる。その口元が言葉を発する。私を射抜くように。
「初めての授業の日、ひとめ見た瞬間に分かりました。君があの時の少女だと…本当に、恐ろしいぐらい良く似てる…君は。10年前、白い帽子を飛ばしましたね。風の強い日でした…」
 刹那。
 声にならない悲鳴。身体がまっぷたつに割れそうな感触。がくん、と膝が落ちたところで、かろうじて貴彦に抱きとめられた。
「…どうした? 大丈夫か…真帆?」
 貴彦の言葉にも答えられない。その腕にすがりついたまま、体中の震えを止めることが出来なくなっていた。
「…どうしよう…貴彦!!」
 震えるまま、見上げる。貴彦が心配そうに私を覗き込んでいた。体中を大きくて黒い手のひらが包み込んでいくみたい。このままだと、引きずり込まれてしまう…!!
「その人、殺したのって、私かも知れない!!」
 心の中に、鮮やかな白が浮かび上がる。その瞬間、記憶の玉がひとつ割れた。

 初夏を思わせる強い陽ざし。線路沿いの遊歩道。手にした鍵。赤い糸が付いていた。
「…お兄ちゃん、はい、これ…」
 目の前の人に背伸びして差し出す。その人が私を見下ろす。とても哀しい目をして。でも、渡して来てって…言われた。渡さなくちゃ。
「お兄ちゃん? …これ、お兄ちゃんのでしょ? あの、ママが…」
 そう言いながら、振り返る。同意を求めるように。私につられて、目の前の人も向こうを見た。
 白い日傘。白いワンピース。長い髪。
 ママは背の高い草の影から私たちを静かに見ていた。静かに、言葉もなく…泣いていた。口元に淡く笑みを浮かべた寂しい微笑で。泣いているのに笑っていた。頬から顎へと涙がとめどなく伝っていた。
「…お兄ちゃん? はい」
 私が差し出す物を、視線を戻した彼がそっと握りしめる。風が強い。その人の髪がなびいてシャツがなびいて。私のえんじ色のスモックがバタバタと鳴っていた。
 鍵をぎゅっと握りしめて。彼はもう一度私を見る。何も言わないで。どうしていいのか分からない、ママの所へ戻りたかった。
「…あ…!!」
 走り出そうと思った瞬間。ふわっと頭が軽くなった。つばの広い帽子が私の頭から舞い上がった。幼稚園の白い帽子。着ているスモックもよく考えたらあれは園の服だ。
 そして。
 まるでちょうちょのように飛んだそれを私よりも早く、彼が追う。ふわっと、舞い上がって…高く腕を伸ばす…
 ぎゅん…!!
 次の瞬間。視界から彼は消えていた。ものすごい速さの特急電車が私と彼との間を吹き抜けた。

「…気が付いたら、ママの腕の中にいて。何だかたくさんの人が集まっていて。ママが…私をぎゅっと抱きしめて、ボロボロ泣いていて…『ごめんなさい』…って。良く覚えてないんだけど…あの…」
 貴彦が私を抱きしめていた、あの日のママのように。身体の震えが止まらなかった。腕の中で、貴彦が先生の方を見た気配を感じた。
「…10年前の今日、そこの線路で起こった人身事故。フェンスのない線路に気付かずに飛び出した青年が…丁度やってきた電車にはねられて、即死。それのことですか?」
 貴彦の声が怒りを含んでいる。それだけで泣きたくなった。
「貴彦…」
 ぎゅっと、しがみつく。回された腕が「だいじょうぶだよ」と言うように優しく圧迫してくる。
「昨日、バイト先の店長に聞いた。結構いわく付きの建設だったって。市長も落成式を待たずに失脚して。どろどろと後味の悪いまま、美しいビルだけが完成したって。…だけど」
 そこでふっと息を吐いて。
「それが、そんなオトナの思惑が。真帆にどういう関わりがあるんです。自分たちの運命を自分たちで消化できなかった人間達に踊らされたら真帆が可哀想だ」
 言葉はまっすぐと先生に向かっている、そう感じた。
 次の瞬間。ふふふ、とこもった笑い声が聞こえてきた。ぞくっとして、思わずそちらを見てしまった。
「ま、君の言うことにも一理ある。彼女は鍵を届けなければと思った。約束は覚えていた…しかし、その勇気がなかった。そこでまだ小さかった娘に全てを託したんだ。自分は逃げに回って…息子がどんなに絶望的な気持ちになったか、私にはよく分かる。確かにあれは事故だったんだと思う、警察もそう処理した。でも…私はそうは思わない、息子は殺されたんだ。この街に、あのビルに」
 そのまま先生は教室の入り口の方に歩いていく。
「…私はまだ、やり残した最後の仕上げがありますから。まあ、ここで二人、ゆっくりと見ていてください。私が演出した華麗なるショウを…」
 言葉をなくした私たちを残したまま。引き戸が開いて閉じて…そのあと、がちゃんと施錠の音がした。

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