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第五話


「ちくしょう、あいつ鍵を!」
 貴彦が怒りもあらわに、戸口をにらみつけた。
 けど、はっとして、すぐに私の方に向き直る。その瞳に心配そうな色が浮かぶ。必死にしがみついている私が、彼をそうさせた。
「真帆、大丈夫か?」
 気遣う穏やかな声が耳を通り過ぎていく。何をどう思えばいいのか、何をどう感じればいいのか分からなかった。
「真帆? おい?」
 大きな手のひらがこちらの肩を揺らす。でも私は呆然としたまま、視点の定まらない目で貴彦を見上げるばかりだった。
「貴彦…。私、私…」
 また体が震え出す。
 先生の息子さんを死なせてしまったのは私? 絶望の淵に立っていた人をさらに突き落としたのは私? 私があの時、帽子を飛ばしたりしなければ…鍵を渡したりしなければ…。ううん、そもそも私がいなければ…。
 でも今からそんなふうに言っても、もう遅すぎる。自分のしたことを理解さえできなかった幼い私。起こった現実がよく分からなくて、ただぼんやりとしていた。
 なんてひどい、と思うことさえ許されない気がした。私は…私はいったい何をすれば、あの時の罪を償うことができるのだろう。絶望が、茫然自失の心を襲った。
「私が悪いの…。私があの人を殺したんだ…。私が…私が…」
「真帆!」
 貴彦の両手が、ぱちんと私の頬を打ちつつ包んだ。その軽い衝撃に、はっとして彼を見上げる。
「原因を追究するのも自分を責めるのも、後でいくらだってできる! 今しなきゃならないのは何だ? あいつはさっき何て言った? 自分が演出したショウを見せるって言った! ここで大人しくあいつの言葉に従うのが、俺たちのすることか?」
 めったにないほどに貴彦は怒っていた。その叱咤が、私の意識を少しはっきりさせた。
「貴彦…。きっとだめだよ、このままじゃ。何もかもが崩れていってしまう!」
 とてつもない恐怖。先生はこの街を、あのビルを憎んでいる。何を企んでいるのかは分からない。でも少なくとも、ただの記念式典で終わらせるとは思えなかった。
「止めなきゃ…!」
 私が鋭く叫ぶと、貴彦はひとつ大きくうなずいた。
 ふっと入り口に視線を向け、こちらに触れていた手を下ろした。引き戸の前に立ち、かけられてしまった鍵の様子を確かめ、顔をしかめる。鍵穴のあたりに蹴りをひとつ、ふたつ入れる。でも開いてはくれない。
「誰かいないのかよ!? 閉じ込められてる人間がいるんだ! 誰か来てくれよ!」
 どんどんと戸を叩きながら叫んだり、体当たりをしたりする。でも外に誰か来る気配はまったくなかった。私は貴彦の肩に手を置いて、それを止めた。
「貴彦、地学室の近くにはあまり人がいないと思う。すぐには気付いてもらえないよ」
 いったん動きを止めた彼は、苛立たしげに戸を蹴りつけた。
「ちくしょう、時間がないってのに!」
 うろうろとその場で二往復ほどして、それからふとこちらに顔を向けた。
「真帆、この地学室の下は?」
「えっと…家庭科室だね。そこなら誰かいるよ」
 二人して窓際に走った。窓を開け、貴彦が身を乗り出して下の様子を窺う。
「下の窓開いてる? 声聞こえるかな?」
「開いてる。けど呼んでる暇も惜しい。俺が下りるよ。外からならたぶん鍵を壊せると思う。回ってくるから、真帆は待ってろ」
 こちらの腕に触れた貴彦は、真剣な表情でそう言った。でも私はその言葉にあわてた。
「下りるって、まさか窓から出て壁づたいに? 危ないよ貴彦、そんなことしちゃだめ! 誰か呼んで、鍵を取ってきてもらおう?」
 その時、校舎を回り込むように一台の車がゆっくりと走っていく。茶色の小さい車、それに見覚えがある。大野先生のものだ。それはあっという間に校外へと出て、道路を走り去っていった。
「あいつのか?」
「う…うん」
 貴彦が道路を見下ろしながら、また顔に怒りを浮かべた。
「許せない。あっちの事情も分かる。でもこんなことに真帆を巻き込んで。あいつの思うように事を運ばせてたまるか。そうだろ?」
「貴彦…」
 私はこんな時なのに、彼の言葉にちょっと感動してしまった。貴彦はなんとか真顔に戻すと、こちらに向かって少しだけ笑った。
「窓から出るのは簡単だって。足場があるから。配水管もしっかりしてる。真帆、俺を信じろ。大丈夫だから」
「でも…」
 すると彼は瞳にいたずらっぽい色を浮かべた。
「まだ真帆の全部いただいてないのに、もったいなくて死ねるわけないじゃん。そうだ、この件が片付いたら…しよっか」
「な、な、な…何を!?」
「そう約束してくれたら、俺、三途の川からでも蘇ってくるからさ。こんな心残りなこと、他にないもんな」
「た、貴彦っ!! 冗談でも不吉なこと口にしないで! それに…それに今そんなこと言ってる場合じゃ…」
 真っ赤になった私を、貴彦がぎゅっと抱きしめる。そして温かなキス。それだけでとろけそうになる。
「好きだ、真帆」
 互いの体を離すと、貴彦は窓に片足をかけた。ちらりとこちらを振り返る。
「だから考えといて。これは本気」
 ニッと白い歯を見せて笑う。私は何も言えなくなってしまった。
 窓枠をまたぎ、足場に下りる。緊張の表情になる貴彦に、私は急いで言った。
「気をつけて、貴彦…」
 彼はひとつうなずいてみせると、ゆっくりと配水管の方へと移動していった。
 窓から少し乗り出して見守る。彼はあわてたり怯えたりすることなく、じっくり一歩一歩進んでいく。ここが四階だということも忘れて、私は彼の『大丈夫』という言葉を信じられるような気がした。
 校庭の野球部や他の人たちが、貴彦に気付き騒ぎになってしまわないよう祈る。どちらにせよ、家庭科室にいる生徒には驚かれるんだけど。
 そこでふと思う。私、待ってるだけでいいの?
 貴彦と同じことはしない方がいいと自分でも思う。でも何かできることがないだろうか? きょろきょろと教室内を見回す。戸口には鍵。準備室からも出られる箇所はない。やっぱり待つしかないのかな?
 その時、廊下側の壁の天窓が目に入った。
 当たり前だけど、天井のすぐ下だからとても高い場所。幅が狭いから、貴彦だったら通り抜けられない。でも小さい私なら行けそう。壁をよじ登ることも無理だけど、長机の上にパイプ椅子を乗せればなんとか…。
 いつもだったらためらう挑戦だったけど、貴彦同様、あれこれ悩むより行動に移そうと決めた。だってもう後悔したくない。
 机を壁にぴたりとくっつけて、そこに椅子を乗っける。うん、バランスさえ崩さなければ、いけそうだ。心の中でごめんなさいして、机に上る。さらにパイプ椅子に乗れば、天窓の鍵にも余裕で手が届く。それを上に外してから、横長の窓をからからと開いた。
 桟につかまって、バランスに注意しながら体を持ち上げつつ、窓から上半身をくぐらせる。頭をぶつけそうになってひやっとする。それでも椅子はぐらぐら揺れて、机から落ちてしまった。どうあっても戻れないということね。それぐらいこっちも覚悟の上だもん。
 埃で汚れている桟にお腹を乗せて、じりじりと体を横向きに。片足を外に出し、もう片方も同じようにすれば、さっきとは反対に教室を向くことになる。こんな時に冷静になるのもどうかと思うけど、すっごい恥ずかしい格好してるなあ。廊下に誰もいなくて良かった〜。
 廊下側の壁には幸い足がかりになる梁があった。そこを探り、体をきちんと固定してから、少しずつ教室から体を抜いていった。
 制服の前面は埃だらけ。あーもう、恨んでやるんだから! その時、廊下向こうの階段から、ばたばたと走ってくる足音がした。予想通り、その主は貴彦だった。
「ちょっ、真帆!? お前、何やってんだよ! 待て待て、そっから動くな!」
 やっぱり貴彦の方が早かったか。私は仕方なく、そこで大人しく彼が来るのを待った。
 貴彦があわてて私のちょうど下あたりまで来る。彼はこちらに向かって両手を広げた。
「ゆっくり、ゆっくり下りて来い。ったく、ちょっと目を離すとこのお嬢さんは…」
 びっくりしてそれ以上言葉が続かないみたい。私は彼の言うことに従って、体を下ろしていく。ある程度まで窓から抜けたところで、力強い腕が私の体をぐいと引き寄せた。勢いもあって、彼は少しよろめきながら床に膝をついた。おかげで私は、無事に廊下に出ることができた。
「ありがと、貴彦」
 そう言ってごまかすように笑いながら振り向くと、彼は、はあっ、と深いため息をついた。
「あー、ナイスアングルもぶっ飛んだ。真帆、ホント頼むよ」
 大きな手が、こちらの頭の上に乗せられた。うん? ナイスアングル? それって…下りていく時の私の足? かあっと赤くなる。中まで見えちゃったのかなあ? うわー、何してんだろう私…。恥ずかしい。
「真っ赤になるぐらいなら、あんなこと二度とするなよ? 特に、俺の前以外では」
「う、うん…。ごめん」
 しょんぼり答えつつも、それって貴彦の前でならしてもいいってこと?と思った。やめやめ、この件については考えないようにしよう。
 貴彦が立ち上がりながらこちらにも手を差し伸べて、私を立たせてくれた。
「さ。俺、家庭科室でお騒がせしちゃったから、もうすぐ誰か追っかけてくるよ。その前に逃げよう。すぐそこ以外にも階段あるよな?」
「うん、もっと廊下を先に行ったところに。そうだね、早く大野先生を止めに行かなきゃ」
「走るぞ、真帆」
「うんっ」
 私たちはなんとか地学室からの脱出を果たし、廊下を走り始めた。貴彦が使った階段の下からは、ざわめきが起きている。ごめん、と心の中で謝っておく。今は時間がない。何よりもまず、大野先生の後を追いかけなければいけなかった。
 教室や廊下といった見慣れた景色が、この時ばかりはとても無機質なものに映った。

 なんとか学校のみんながあっけに取られている間に、私たちは自転車で学校を後にした。貴彦がペダルをこいで、私は後ろの荷台に横座り。またがった方がバランス取れると分かっていても、さすがに短いスカートでそれをする勇気はなかった。
 貴彦がうまいのか、自転車はぐらつくこともなく、道路の端を走っていく。先生が向かったのはたぶんツイン・ビル。私はしっかりと貴彦の体につかまりながら、そこまでのナビを務めた。
 まっすぐの道をけっこうなスピードで走っていきながら、私はぽつりとつぶやいた。
「先生、何をするつもりなんだろう?」
 いいことじゃない、というのは分かる。でも具体的にいったい何を?
「何だって?」
 貴彦が大きな声で聞き返す。私は声を上げて、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「先生、何するつもりなんだろうって!」
 すると貴彦は一瞬沈黙し、それから息をすっと吸った。
「恨みを晴らす対象は多くないだろ? この街か、ツイン・ビルか、例の元市長だ。その中で残るのはツイン・ビルしかない」
「どうして分かるの?」
「街を破壊なんて、特撮の世界でもなけりゃ無理だろ? あと元市長を狙うとしたら、真帆を地学室に残した理由がない。いくら目が良くても、お前がそこまで見えるわけないんだからな」
「あ、そ、そっか…」
「ツイン・ビルに何かを仕掛けるとしても、遠目にもよく分かるものじゃないと意味がないってことだよ。たぶん、元市長なんかの目の前で、ド派手にビルを爆破させるんじゃないか? 目立つことができて、効果的な嫌がらせとしては一番だろ」
「爆弾!? そんなこと…先生が…?」
「俺だって外れてることを祈りたいよ! でもあいつの目、座っててもう普通じゃなかった。何か覚悟した顔だった」
 私は何も言えず、貴彦の体にしがみついた。すると、温かな手がこちらの指を一度包み、それから離れていった。
「止められるの…かな?」
「分からない。でも教室から眺めてるだけなんてごめんだ。俺たちには何もできないかもしれない。けど…だからってそ知らぬふりなんてできるか? 意味があるかもしれない、って信じて動くしかないだろ」
「…うん」
「真帆」
「なに?」
「俺がお前を守るよ。あいつからも過去からも。絶望なんてさせない。俺の言葉だけ信じてろ!」
「…貴彦…」
 私はまた彼の背中を、しっかりと抱きしめた。
 貴彦のこと、好きだよ。ありがとう、励ましてくれて。あなたの言葉、忘れない。ずっとずっと忘れないから…!
 彼の自転車をこぐスピードが、また一段と上がった。

 郷土資料館の記念式典には、意外と人が集まっていた。でも堅苦しい挨拶などを聞くためではなく、時折、空に打ち上げられる花火を見に来たのだろう。子供や若いカップルなども集まって、人ごみを作っていた。
 貴彦と顔を合わせる。
「どうしよう、こんなに人がいるんじゃ、とても先生を探すのなんて無理だよ」
 彼も厳しい表情を浮かべていた。
「式典もあと少しか。この、みんなが集まってる機会を逃すわけないしな。くそっ、どうすれば…」
 私はふと、あることに気付いて貴彦を見た。
「ねぇ、貴彦言ってたよね? 地学室からでもよく見えるように何かを仕掛けるはずだって。ってことは、この会場とかツイン・ビルの一階二階あたりも候補から外れるんじゃないかな?」
 すると考え込んでいた彼もはっと私の方に向いた。
「それだ! 教室からでもどこからでも目に入る場所…」
 私たちは打ち合わせたように一緒にビルの最上階を仰いだ。
「展望スペース!」
 混雑をすり抜けて、ツイン・ビルの足元に急いで近付く。少し人数が減ってきたところで、私たちは締め切ってある市役所を目にした。
「嘘…入れない? でもそれじゃ先生も何もできないってことだよね? 予想が外れてたのかな…」
 貴彦は入り口のガラス戸を睨みつけ、やがて首を横に振った。
「仕掛けを今日したんならな。昨日までは自由に入ることができたんだろ? 前もって準備してたんなら、今日入れなくても困らない。むしろ好都合だ」
「そんな…」
 私は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。どこまでも先生の思うように事が進んでいる。それを止めることなんて、私たちには無理なんだろうか?
「どうすれば…」
 そう言ったまま、私はビルの前で力なく立ち尽くした。
 その時だった。
「ちょっと君たち」
 急に後ろから声を掛けられて、私も貴彦も驚いて振り返った。そこにいたのは、背の高い優しそうなスーツ姿の青年。その後ろに、警備員の格好をしたおじさんがつき従うように立っていた。
 貴彦が私をかばうように自分の後ろに隠す。それでも、シルバーブルーのブレザーの肩越しに、その男の人の顔がしっかり見えていた。
「何ですか、あんたたちは?」
 貴彦が警戒の声で尋ねると、青年はスーツの前を裏返し、内ポケットから警察手帳を覗かせた。思わず私たち二人は、はっとする。刑事さんの顔が改まって、少し低音で声を発した。
「今、仕掛けがどうとか言ってたね? ちょっと話を聞かせて欲しいんだけど」

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