立夏・原案/広瀬もりの著

第一話


 夜が始まったばかりの街。キラキラと輝いている光の粒。この地では珍しい3階建てのビルから見下ろす階下には宝石箱をひっくり返したような色とりどりの灯りが散りばめられていた。
 誰もいなくなった職場に1人残って。とっぷり日が暮れた時間に自分のデスクのライトしか付けないで。真梨子はおでこを硝子に押し当てて、それを見ていた。自分でも気が遠くなるほどの時間。
 港で栄えた小さな商業都市。就職してここに来て、2ヶ月足らず。ひとつひとつの窓に誰かを灯すオレンジ色の光が宿る。あの光の下には誰かがいる。ひとつに…1人以上の人間が。そう思うと今まで以上に暖かく切なく思えてくる。少し向こうまで行くと光の屑が途切れる。そして湾を囲んで向こう岸にちらちらと消えそうな輝きが見えていた。
 その真ん中より向かって少しだけ左手に行ったところにひときわ高いふたつの灯りが見える。多分、送電線の鉄塔か何かのてっぺんに目印のように光らせているものなんだろう。でも遠目にはまるで空から落ちたふたつの星が浮いているように見えた。
(…あれは、何だろう?)
 そう思ったとき、視界の隅に細長い光の帯が流れていくのが見えた。この街と東京を結んでいる私鉄だ。都心では地下に潜るが、ここではまだ地上を走っている。さああっと流れていく光。あの中にもたくさんの心が揺られている。家路に急ぐ人達。様々な思惑を乗せて。でも彼らには帰るところがある。だから足が自然に向く。
 そう思った瞬間、自分の足の裏が着いている木製の床がふっと消えた気がした。そんなはずないけど、感覚ではそう思えた。ぞくぞくっと冷たいものが背筋を流れて、思わず自分で自分の身体を抱いていた。
 ひとつ、ふたつ、深呼吸。
 それから、心音を落ち着けて…くるりと向き直る。デスクに戻ってもうちょっと帳簿付けをしてしまおうと思った。

 真梨子の身の上を知っている職場の先輩方は、別にこの仕事を急いでやれと言ってはいない。もしも今日中にどうしても上げなければならない仕事だったとしたら、こうして真梨子を一人きりにはせずに、みんなが残って手伝ってくれている筈だ。
 今年の春に高校を出て、この小さな会社に就職した。本社は違うところにある。業務拡大と言うことで仮のオフィスが置かれているのだ。真梨子は地元で就職するものだとばかり思っていたので、入社した途端の職場移動には驚いた。
 今は駅を挟んで反対側にあるアパートに住んでいる。もちろん、会社の経費で借りているものだ。お風呂は付いてないが、すぐ隣りに銭湯がある。そこにはコインランドリーも併設されていて、生活には困らない。一人暮らしのその部屋に戻らずここに残っているのは真梨子の意志だった。

 がたがた。
 立て付けの悪い入り口の引き戸が急に音を立てる。椅子に座りかけた真梨子は驚いて席を立っていた。
「森澤…先輩」
 やがて戸の透き間から顔を覗かせた人にホッと安堵の言葉をかけた。もう1人で残って1時間以上になる、7時を回ろうとするオフィスに戻ってくる社員がいるとは思ってなかったのだ。
「あれ? 真梨子君?」
 相手もこちらを見て驚きの声を上げた。
「暗がりで何してるの? もう誰もいないと思った…」
 そう言いながら、手探りで電気のスイッチを入れる。次の瞬間、ぱぱっと室内が明るくなって真梨子は何度か瞬きをした。
「あ、はい…そろそろ帰ろうかなと思っていたところです」
 ハッと気付いて給湯室の方に足を向けた。
「先輩は? そのまま帰宅されると聞いてましたが。 あの、今お茶をおいれしますね?」
 そう言いながら、ようやく明るさに慣れた目で、森澤の姿を改めて見つめる。洗練させた都会の装い、と言う感じではないがこざっぱりとしたスーツはきちんと手入れされていた。小柄な真梨子から見ると山のように見える体型。短く切りそろえた髪に浅黒い肌。
「明日の会議の書類を持ち帰ろうかと思って」
 胸のポケットにキーをしまう。この時間だとビルの管理人さんは夕ご飯かも知れない。この雑居ビルの会社のフロアに付けられた鍵は守衛室の他、10名の社員がひとつずつ携帯していた。森澤はそれで入ろうとしていたらしい。
「どうぞ」
 湯飲みを差し出す。真梨子のはす向かいの森澤のデスク。彼は上着を取って、ネクタイを少し緩めていた。
「ありがとう」
 短く言ってから、こちらを見上げる。落ち着いた黒い瞳が真梨子を捉えた。何度か唇が音もなく動いてから、ようやく思い切ったように言う。
「お家の方はもう大丈夫? 急なことで大変だったね…」
「はい、御心配をお掛けして申し訳ございません」
 真梨子は丁寧に頭を下げた。この半月、腫れ物に触るような周囲の人々の視線と自分を思いやる言葉に囲まれて過ごしていた。最初は返答することすら億劫で胸が痛かったがさすがに慣れた。今もにこやかに微笑みすら浮かべて静かに答えることが出来た。
 森澤とはあまり多くの言葉を交わしたことはなかった。社内には所長と次長。それから中年の社員が数名。森澤は営業専門でほとんど外回り。デスクを空けていることが多かった。真梨子は入社当時、彼が何歳位なのか分からなかった。何かの拍子に干支の話になって…彼が自分と同じ、要するに12歳も年上であることを知った。それでも職場内では年が近い方である。彼と真梨子の間には後、20代の社員が2人。コンピューターを動かす男性社員と女性社員。それと真梨子達を含めた4人のみが独身だった。
 話をしたことはあまりなくても、何となく身近な気のするひとりではあった。ちょっと、ホッとする。
「母は長患いで診療所におりましたから…そこの荷物を受け取ったり、自宅を片づけたりしていました。もうすっきり致しました」
 10日ほど会社を休んだ。仕事の忙しい父親に代わって、ほとんどの手続きを行った。ようやく出社をし始めて1週間が終わるところだ。何だか入社以来、一番疲れた気がする。それでも社会人としてどうにか先輩社員と談笑するだけの気力は残っていた。
「あの、先輩」
 時計で時間を確認してから、真梨子はおずおずと切り出した。
「少し、席を空けても宜しいでしょうか? 2階の公衆電話まで行ってきたいんですが…」
「電話? ここのを使えばいいじゃない…」
 森澤が不思議そうに顔を上げる。
「いえ、私用ですから」
 構わないのに、と彼が言う前に廊下に出ていた。手のひらに6枚の10円玉。今日も10枚のこの銅貨がなくなったら終わりにしようと思っていた。
 非常口の緑色の灯りが照らす廊下をぱたぱたと移動する。突き当たりの階段を降りてすぐの所に公衆電話はあった。もう何度ここに来ただろう。今日だけで3度目だ。真梨子のアパートには電話がない。公衆電話も部屋からは遠い。となると、ここでかけるのが一番楽だった。
 ごくりと唾を飲み込んで、深呼吸して。受話器を上げる。ピンクの電話に10円玉を順に入れていく。もうすっかり指が覚えた電話番号を回す。いくつかの呼び出し音の後、カチリと相手が出た。
「はい、池澤荘です」
 いつもの、下宿屋の奥さんの声だ。
「あの、度々申し訳ございません。わたくし、新村と申しますが…あの、大野紀之さんを…」
「ああ、あなたね。何度も悪いわね…大野君はまだ大学から戻らないのよ、ごめんなさいね。何か言付けましょうか?」
 受話器から、何度聞いたか分からない台詞が聞こえてくる。真梨子の心の中に、諦めの思いが滲んできた。
「いえ、結構です」
「そうそう、それから。大野君は明日からまた山に行くんですって。だから電話くれてもいないわ」
「そうですか…」
 ちん、と音を立てて受話器を戻した。ざらざらと3枚の10円玉が出てくる。それを取りだし口から出す。生暖かい、機械の中に入っていたコイン。
 電話の横に小さな縦長の窓がある。ふとそこを見た。さっきまで彼女が見ていた夜景とは逆の方向になる。ごみごみとした下町の風景が広がっていた。トタンの屋根、古ぼけた外壁。時代を感じる古い街並み。
(やっぱり。今日もいなかった)
 時間的にもう一度くらい掛けてもいいと思う。でももうその気力がなかった。3枚の銅貨を残して真梨子の5日目の挑戦は終わった。
(声が、聞きたいだけなのに…)
 大野紀之は3月まで同じ高校に通う同級生だった。彼は成績が良く東京の大学に受かっていた。新年度から下宿暮らしをしている。
(そんなに、大学って忙しいのかしら)
 再会を約束して 、短いキスをして。二人は別れた。桜のつぼみが膨らみ始めた、紀之が東京に発つ日のことだった。それ以来、会っていない。GWは彼が帰省せず、真梨子は故郷にに1人で戻っていた。数日間の予定が終わってアパートに戻った。そんな彼女に訃報が届いたのが翌日のことである。勤務中、会社にその電話は来た。
 ぱたぱたぱた。妙に足音の響く廊下。ほの暗い気持ちで戻った。職場である部屋の前まで辿り着くと、細く開いた引き戸から灯りが長く漏れていた。
「…どうしたの?」
 机に向かっていた人がこちらを見て、ちょっと驚いた顔になる。どうしてそんな表情になるのか、真梨子には最初、分からなかった。黙ったまま、戸口で立ち止まる。
「お家にでも電話したのかと思っていた。お父さんがお一人でいらっしゃるの?」
「いいえ。父はもう長いこと単身赴任をしています…家には誰も…」
 静かに首を振ったとき。真梨子は冷たいものが落ちるのを感じた。手の甲に落ちたそれは、紛れもなく真梨子の目からこぼれ落ちているもの。自分が泣いていることを彼女は知らなかった。
「…あ、すみません…」
 森澤の視線を感じる。両手で顔を覆って俯いた。自分の意志とは関係なく、溢れ出るものが止まらない。
 耳が音を捉える。森澤が席を立って…こちらに歩いてきている気配を。ぎゅっと唇を噛んだが、理性が働かない。流れ続けるものをもてあましていた。
「真梨子君…」
 ふわっと、背中が暖かくなる。大きな手のひらがそっと添えられたのだ。そして、静かに促すようにさすってくれる。
 森澤は会社の先輩で。普通の状況だったら、こんな態度に出ることはない。控えめな大人しすぎるくらいの男性で、必要以上のことは話さない。奥手な真梨子にはびっくりしてしまうような状況だった。でも手のひらから感じる温度が何だかとても嬉しくて。離れる気にはならない。そのまま肩を震わせて、涙を堪えていた。
 すると、森澤がこちらに半歩分、歩み寄った。真梨子は立ったままの姿勢で彼の腕の中に包まれていく。ワイシャツからふわりと男性の体臭がした。長いこと寄り添ったことのない、記憶の中の父親のものとはどこか違っている。
「…あのね。泣きたいときは泣いた方がいいよ。いつもベソベソしているのは良くないけど…君は、お母さんを亡くしたのだから。…泣いてもいいんだよ…」
 触れるか触れないかの微妙なぬくもりが包み込む。端から見たらとんでもない光景だとは知りながら、真梨子は父親の腕の中に抱かれたように安らかな気分になっていた。年齢差がそう感じさせているのかも知れない。そう思ったら、もうたまらなくなった。真梨子は森澤の広い胸に額を押し当てると、わあっと大声で泣き出していた。

 母親の訃報が届いた。電話を取った次長に取り継がれて、電話口にでた真梨子は次の瞬間、顔色を失った。信じることは出来なかった。
 その前日、故郷の山間にある母親の療養所を訪れた。丸1日、談笑していた。面会時間が終わる頃、せき立てられるように部屋を後にする。振り向くと母親がベットの上から大好きな笑顔で手を振っていた。
「素敵に…娘らしくなったわね」
 控えめな優しい声。まだ耳に残っているのに。
 ふらふらと家に戻ろうとした真梨子を丁度、営業に出掛ける森澤が途中の駅まで送ってくれた。その時傍らにぴったりと寄り添って歩く人は終始無言だった。呆然としている真梨子に慰めの言葉をかけるでもなく、ただ別れ際に「気を付けて」とひとことだけ告げた。

 どれくらい時間がたったのだろう。どれくらい泣いたのだろう。ハナをすすりながら、何だか嘘のように呼吸が穏やかに戻っているのを感じていた。荒れ狂っていた海がすうっと凪に戻ったような安らかな心地。それを感じ取ったように包んでくれていた腕が自然に解かれて、すっとハンカチが差し出された。
「…すみません…」
 素直にそれを受け取ると、真梨子は目の周りと頬を拭った。目尻がひりひりと痛い。でも心はすっきりと爽やかになっていた。
「俺もね、もう…両親はいないから」
 何てこともない感じでさらりと言われる。真梨子は自分がひどく泣きはらした顔をしているのも忘れて、思わず面を上げていた。
「末っ子だからね、早いものでもう10年ぐらいになるかな、相次いで二人とも。まだハタチそこそこだった…もっとも親ぐらい年の離れた兄と姉がいるんだけど…真梨子君、ご兄弟は?」
「私はひとりっこですから」
「じゃあ、寂しいね。こう言うときは身内にしか悲しみを分け合えないものなのに…この頃、急に辛くなってきたんじゃない?」
「はい…」
 真梨子は大きく頷いていた。その通りだった。葬儀やその後の片づけをしている間は不思議なくらい元気だった。かえっていつもより快活な自分に思えるくらいだった。会社に出てきても以前と変わらないように振る舞うことが出来た。自分が薄情な娘に思えるほど、普通だった。
 それが…この頃ひとりで夜、部屋にいると涙が止まらなくなる。世界中でひとりぼっちな気がしてくる。ガクガクと体が震えてよく眠れない。そんな自分をもてあましていた。それもあって、部屋には戻りたくなかったのだ。かといってその感情を上手に汲み取ってくれる相手もいなかった。
「お父さんは? 単身赴任って言ったね、どこにいらっしゃるの?」
「ええと、今九州です。私、高校は親戚の家から通っていました」
「それは…遠いね…」
 小さく呟く森澤に真梨子は微妙な表情で応えた。それに気付いたのか、気付かなかったのか。森澤はふと腕時計を見た。
「真梨子君、もう上がれる?」
「はい…急ぎの仕事ではありませんから」
「じゃあ、一緒に夕ご飯を食べない? きっと二人の方がおいしいよ?」
 そう言って、にっこりと微笑む。そんな森澤の顔が今までにない親近感を伴っている気がした。穏やかに日溜まりに包まれた心地で…真梨子は自分でも気付かないうちにこくんと頷いていた。

 森澤の行く先にただ付いていく感じで商店街を歩く。大きな歩幅に置いて行かれそうになり、何度も小走りになった。真梨子のパンプスの音を耳にすると、彼はすまなそうに振り返って少し歩みを遅くした。
 いくらかの道のりを無言でいることも出来ず、年長の森澤がぽつりぽつりと共通の話題を持ち出した。今は遠く離れた故郷の話。4月のお花見、7月の終わりの七夕様。同じ市内であっても森澤と真梨子では小学校も中学校も違う。でも蛍のたくさん見られる綺麗な川面を彼も知っていた。
 心の一番上の部分をさらりとなでられるような心地よさ。母親が亡くなってからからからに乾いていた部分にしっとりと水分が補給されていく。多分、表情も少しは穏やかになってきたのだろう。接触の悪い街灯の震える光の下で自分を見つめた森澤の目に安堵の色が見えた。

 案内されたのは家庭的な雰囲気のこぢんまりとした洋食屋だった。ささやかなショーケースにスパゲッティーミートソースだのピラフだのお馴染みのメニューが並ぶ。行きつけの店なのだろう、森澤はそこには立ち止まらずさっさとドアを押して中に入っていった。
 ふわっと暖かい蜂蜜色の灯りが溢れている。店内は白熱灯の照明で占められていた。耳をすましてようやく聞き取れるクラシックの音楽。6つ7つのテーブルの半分ほどが埋まって、楽しい食事が進んでいた。
 森澤が一番奥の席まで歩いていって座ると、すぐに店の奥から中年の女性が出てきた。トレイに水のコップをふたつ乗せている。
「いらっしゃい、今日は珍しいのね。可愛らしい方をお連れして」
 角のないまろやかな口調だった。見た感じ、真梨子の両親と同じ世代の人間か。コップを置く手の甲に何とも言えない年輪を感じ取る。食材を扱う者らしくきちんとまとめて結われた髪を花模様のバレッタで留めていた。品の良いブラウスとタイトスカートの装いの上にフリルの付いた白い胸当てエプロンを付けている。真梨子はその一言でまるで森澤の家にお邪魔したような錯覚を覚えた。胸がドキドキする。
「いつもの奴を。僕は大盛りで…彼女は普通のでいいかな」
 メニューも見ずにさっさとオーダーする。社内でいつも感じている控えめな雰囲気と少し違って、真梨子は意外に思った。こちらがじっと見つめているのに気付いたのだろう。森澤が小さめの目を最大限大きく見開いた。
「あ、もしかして。何か食べたいものがあったかな?」
 初めて気付いたように茶色の革張りのメニューを手にしようとした。
「いいえ、別に。先輩と一緒ので宜しいです」
 真梨子は慌てて返事する。それは口から出任せなどではなくて、正直な気持ちだった。
 母親が亡くなってからと言うもの、何だか食事の味が分からなくなっていた。一応、体力を保持するために食事は摂る。でも会社で食べてもアパートの部屋で一人で食べても、砂を噛んでいるようにザラザラした食感で吐き気さえ覚えた。
 寝ようと思っても眠れない。食べようと思ってもおいしくない。人間の最低限の生理現象を上手く扱えない自分をもてあまして、無気力に拍車がかかっていた。きっとメニューを見せられても食べたいものを見つけることは出来なかったと思う。
「そうそう、この前。栗田次長がね…」
 向かい合って座った森澤が、何気ない調子で話を始める。周囲のテーブルでも心地悪くないトーンの談笑が行われている。室内の柔らかい空気が真梨子を包み込んでいく。正直言って、森澤の話の内容は良く聞き取れなかった。でも心地よい音色を耳にしているだけでいい気がした。淡い微笑みを頬に浮かべて、真梨子は静かに相づちを打っていた。
 やがて先ほどの女性が持ってきたのは黄色い色がとても綺麗なオムライスだった。ラグビーボール型にまとめられて、しましまにケチャップがかけられている。千切りのキャベツとトマト、ポテトサラダが添えられていた。別にコンソメのスープのカップとグリーンサラダが付いている。真梨子の目の前に置かれたものでもちょっと困ってしまうくらいのボリュームがあったが、森澤の前のものはさらに特大だった。
 スプーンを手にして食べ始めようとしている森澤をぼーっと見つめる。真梨子は今までこんなに大食の人間と同席したことがなかったのだ。子供の好物であるオムライスと自分よりずっと大人の落ち着いた森澤。そのアンバランスな組み合わせが信じられなくて。
「どうしたの? 好きじゃなかった…おいしいよ、ここの」
「あ、…はい」
 ぱくんと一口含んだ森澤に慌てて続いて、真梨子も食事を始めた。卵のはじっこを崩すようにしてスプーンを差し込んで一口頬張る。ふわっと懐かしい香りがした。それは母親が昔作ってくれたのと同じ家庭の味だった。
「…どう?」
 スプーンを止めた森澤が心配そうに訊ねる。
「あ、おいしいです」
 そうか、不安にさせてしまったのだ。改めて反省する。真梨子の返事に森澤はホッとしたようにスプーンを使い始めた。
「あの、こちらには良くいらっしゃるんですか?」
 そう言いながら向こうの皿を見る。真梨子とはだいぶ進行が違う。まだ4分の1も進んでいないこちらに対して、森澤の大振りな黄色い山は半分以上が消えている。
「良く、と言うか…出張で留守にでもしない限りは欠かさず来てるかな。夕食はここで取ることに決めているんだ」
 どちらかというと真梨子のイメージしていた森澤は和食のイメージだった。塩じゃけに酢の物、おみそ汁におつけもの…そんな食事を摂りそうな感じ。こんな風に洋食屋で背中を丸めて大きなオムライスと格闘している姿は意外で…でもとても親しみを覚えた。
「ここのを初めて食べたときにね、何だか母親の料理を食べているような気がしたんだ。年甲斐もなく懐かしくてね…」
 その言葉に真梨子は思わず身を乗り出していた。
「あのっ…あの…、私もそう思いました」
「え?」
「あ、…すみません。私も…あの、何だか母の料理に似てるかなって…」
「そう?」
 森澤はふふっと笑うと、大口にケチャップライスを消費していく。口にこそ出さないまでも、おいしい、おいしいと身体全体が叫んでいるみたいだった。
 真梨子も慌てて、食事を再開したが半分くらいまで行くとスプーンの進みがのろくなった。おなかが幸せに膨れて、何だか次の一口が入らなくなってきたのだ。
「真梨子君?」
 俯いた彼女に森澤の言葉が優しくかけられた。
「どうしたの? 進まないじゃない、やっぱり口に合わなかった?」
「…あ、あの、申し訳ありません。そう言う訳じゃないんですけど…もう、おなかいっぱいで…」
 真梨子は上目遣いに森澤をチラリと見ると、また俯いてしまった。本当に申し訳なかった。
「真梨子君は…小食なんだね」
 森澤が感心したように言う。そんなことはないと思う、この大きさはどう見ても食べ盛りの若い男の子のサイズだ。平らげられる女性は余りいない気がする。
「わたしが小食なんじゃなくて…オムライスが大きいんです。でも、どうしよう…残したら、申し訳ないし…」 そう言いながら端から綺麗に半分食べた黄色い小山を恨めしそうに見つめる。きゅっとテーブルの下でスカートを握りしめた。
「じゃあ、残りは俺が引き受けるよ?」
「…え?」
 真梨子が顔を上げる前に、お皿がふわっと宙を飛んで森澤の空になった皿の上に重ねられた。そして何でもない様子でスプーンを入れる。
「あ、あのっ…でも先輩…」
 綺麗に食べたとはいえ、自分の残したものだ。先輩である森澤にそれを押しつけるのは申し訳ない。慌てる真梨子に彼はいたずらっ子みたいな笑顔で答えた。
「…で、相談なんだけど。コレを代わりに引き受けてくれる?」
 ことんとサラダの小鉢が置かれる。こちらはまったく箸を付けたあともない。真梨子がきょとんとしてると、森澤は小声で言った。
「実のところ生野菜は苦手でね。ここの奥さんはそれを知っていて、わざわざ大盛りにしてくれるんだ。いつもとても困っているんだ…いいかな?」
 そう言ってこちらを覗き込む森澤の目は秘密を共有しようとする小学生の様だった。真梨子も何だか嬉しくなって微笑み返した。

 

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