立夏・原案/広瀬もりの著

第二話


「…真梨子君のお母さんって、どんな方だったの?」
 お店を出て、シャッターの閉まり始めた商店街を二人で歩いた。森澤の言葉に真梨子はふうっと顔を上げる。
「え…?」
 不思議だった。どうしたんだろう? 今までそんなことを聞いてくる人はいなかった。そんな真梨子の心境を映しだした表情を見て取って、森澤が柔らかい微笑みで見つめ返した。
「ただ漠然と悲しんでいるだけじゃ、前に進めないでしょう? 俺もね、両親が亡くなった頃、引きこもりみたいに自宅に入り浸ってね…大学に行っていた頃なんだけど。兄や姉と色々な思い出話をしたんだ、本当に何でもないようなささやかな話題で。でもそう言うのを淡々と話していくだけだと、心が立ち直っていくような気がしたんだ」
 そう語る口元を見つめて、その後、もう一度視線を足元に戻した。ごくりと唾を飲み込んだ。頭の中に色々な考えが渦巻いて、まとまらない。どうしたらいいのかと思いあぐねて、唇をきゅっと噛んだ。
「…ちょっと、待っていて?」
 ふいに森澤が言うと、次の瞬間に急ぎ足で商店街に飛び込んでいく。真梨子がびっくりして顔を上げると、足を止めてくるりと振り向いて言う。
「そこに、いるんだよ?」
 真梨子は何が何だか分からないまま、その場に立ち尽くしていた。
 少しの時間がたって、森澤がアーケードの中から戻ってきた。片手に小さな取っての付いた紙の箱を持っている。
「ごめんね、お待たせ」
 年下の真梨子に丁寧に頭を下げて、彼は彼女の鼻先にその箱を差し出した。
「あの?」
「…ちょっとその辺に座ろうか」
 商店街の一角にある小さな公園。まぶしいくらいに照明が輝いているその一角に小さなベンチがあった。森澤はさっさとそこにどかっと腰掛けて、真梨子に隣りに座るように促す。おずおずと隅の方に腰掛けた。それを待って、森澤は箱を開けた。真梨子も知っている商店街でも有名な洋菓子屋さんの箱だった。珍しく夜遅くまで営業している。仕事帰りのお父さんが家族へのお土産に買って帰れるようにとの配慮だという。
 箱の中に収まっていたのはプラスチックのカップに入ったプリンだった。大きめのものが3個入っている。
 真梨子が顔を上げて森澤の顔を覗き込むと、淡い微笑みが応えてくれた。
「…先輩?」
「真梨子君、おなか落ち着いた? デザートを食べようよ」
 さり気なくそう言うと、箱からひとつを取りだして真梨子に手渡した。その後、プラスチックのスプーンも渡してくれる。自分の脇に箱を置くと、自分の分も取りだして膝に置いた。
 オムライスと森澤、と言う組み合わせも意外たっだが、今回はその上を行く。夜間照明に照らされた森澤の姿を真梨子はまじまじと見つめてしまった。
 そんな視線をどこか楽しむように、彼はぱくぱくと豪快にプリンを口に運ぶ。子供が好物を与えられて必死で食べてるみたいだ。カラメルの渋みが舌に付いたのか、ちょっと顔をしかめてから、森澤は真梨子の方を見て微笑んだ。その笑顔は口元と目尻が微妙に動くもの。でも暖かいなと真梨子は感じていた。
「これもね、母親の味」
 他に訊いている人もいないのに。内緒話をするみたいに、ひそひそ声で。その言葉に真梨子は大きく目を見開いて、それからくすくすと笑った。意識しなくても知らない間におなかの中から、嬉しい気持ちが溢れてきて。
「頂きます」
 そう言って、ぺこんとお辞儀してから、丁寧にスプーンですくった。卵とミルクの香りがする。ほんのりだけバニラの匂いも。液体になったカラメルがたくさん入っていて、そこだけちょっと大人の味がする。子供の頃だったら、母親に文句を言ったかも知れない。
 普通、スーパーで売っているぷちっと開けるタイプのプリンは、もっととろとろの甘いカラメルがかかっていた気がする。でも、この苦い味こそが、昔の食卓を思い起こさせた。
「あのね、先輩」
 真梨子はあらかた平らげると、ぽつんぽつんと話し出した。視線は遠くの照明の方を向いて。
「私の母は、お花が好きだったんです。庭にも花がたくさん咲いていて、玄関にも食卓にも…階段の途中の小窓にも、トイレにも…ちまちまとお花を飾るのが好きでした。庭に花のない時期もお花やさんで安い束を買ってきて。私、花を見ている母が好きでした」
「…そう」
 森澤は多くは答えない。一応、訊いているよと言うように相づちを打つだけで。それがとても心地よかった。 やがて2人のカップが空になると、どちらともなく席を立つ。森澤は空のカップを真梨子から受け取る代わりに、ひとつだけ残ったプリンが入った紙箱を真梨子に渡した。
「…え?」
 不思議に思って見上げると、彼は恥ずかしそうに言った。
「ふたつ下さいとは、言いにくくて。つい、余計に買ってしまったんだ。これは明日にでも君が食べればいいよ」
  え? そんな、先輩の方こそ…そう言葉が出る前に、森澤はさっさとくずかごに向かってしまう。何だか期を逃した感じで、言いにくくなってしまった。少し離れたところから、彼は戻ろう、と言うように顎で合図する。慌てて立ち上がると、真梨子はその広い背中を追いかけた。

 そう言ったわけでもないが、森澤は真梨子をアパートまで送ってくれるつもりらしい。お互いに会社の借り上げである部屋に住んでいたが、皆が同じ棟にいるわけではない。森澤の部屋は駅を挟んで反対側になる。こっちでいいんだっけ? と聞かれて、そのことに気付いた。
 戻り道も何となく気が向くと会話があるという感じで。淡々と歩き続けた。途中で、森澤がまた足を止める。そして、何かをじっと見ていた。
「どうしたんですか?」
 真梨子が背中越しに覗くと、オレンジ色の灯りが溢れる花屋の前だった。もうほとんど閉店なのだろう。店先の鉢やバケツに入った切り花を片づけている。
「100円、だって。一束」
 指さされた方向を見ると、店の端にアルミのバケツに突っ込まれた花があった。透明なセロファンに包まれている。森澤がポケットの中に手を突っ込むとちゃらちゃらと音を立てた。
「あの…? 先輩?」
「明日になれば、売り物にならないで捨てられるんだろうね。あんなにきれいに咲いているのに、可哀想だ」
 彼はそう言うと、呆気にとられた真梨子を置き去りにして花屋に入っていった。程なく、小さな束を抱えて戻ってくる。
「はい、真梨子君」
「え?」
 プリンの箱の時も驚いたけど、今回はもっと信じられなくて。かぐわしく匂うミニバラやカーネーションの束をぼんやりと眺めてしまった。
「俺は真梨子君のご飯を半分食べたでしょう? でも君はあの時、きちんと自分の分を支払ったよね?」
 ああ、そうかと思い当たった。会計の段階になって。最初は森澤が代金を持ってくれるといった。でも、そんなこと申し訳なくて出来なかった。
 世の女性には男性にお金を出させることが当然というように思う人もいる。でも真梨子はそうではなかった。それどころかこんなに暖かな時間を共有してくれた森澤に感謝して、彼の分まで払いたいくらいだった。
「600円の半分だったら、300円。だから、これは俺が食べた分。さあ、部屋に持ち帰って飾って」
 かさかさとセロファンが音を立てる。真梨子はどうしようかと思った。でも、せっかくこうして差し出されたもの、頂かなかったら申し訳ない気もした。多分、森澤は自分の倍くらいの給料を貰っているはずだ。だったら、あまり意固地になるのも失礼かも知れない。それに、明日には駄目になっちゃうお花なんだから。
「あ…ありがとうございます。申し訳ありませんっ!」
 彼は自分のためにお金を使ったのではないんだと思った。この花が一晩でもいい、誰かのために咲いた方が幸せだろうと思ったのだ。真梨子はそう感じた。
 アパートの前まで来て。街灯の前で深々と頭を下げた。
「…今日は本当にありがとうございました。楽しかったです」
 お世辞じゃなくて、心からそう思った。そのままを素直に告げた。顔を上げると森澤が微笑んでいた。
「ゆっくり休みなさい、お母さんの夢が見られるといいね…」
 それから、数歩、後ろに下がって。向こうを、向き直りながら確かに言った。消えそうな、小さな声で。
「今度から、俺も普通サイズを食べていいね。君が半分くれるから」


 その言葉の意味を。しっかりと確認するまで1週間かかった。真梨子が自分から訊ねることは出来なかったし、森澤も何も言わなかった。2人きりで食事に出たことは会社の誰にも言わなかった。別に大したことではないかと思ったが、何だか恥ずかしくて。よくよく考えると、男の人と2人で出掛けたのは社会人になって初めてだった。

 また金曜日がやってきて。その日も朝から森澤はいなかった。彼は週の半分は外回りに出ている。だから大人しくてもともといるかいないか分からない彼は、もっと存在がなくなっていた。
 その日、真梨子がまた会社のフロアにひとりで残ったのは、やはり電話をするためだった。10円玉10個分、頑張ろうと思った。金曜日なら、彼もバイトがないはずだから。でも、心の片隅に、今までの落胆した記憶が残っている。またあれを味わうのかと思うと、何となく億劫になった。
 真梨子は10円玉10枚分の山を見つめながら、ぼんやりしていた。

 電話をして、何が話したいわけではない。でも声が聞きたかった。懐かしい声を聞いたら、安心できるかも知れない。でも、真梨子のアパートには電話がない。まさか彼も会社にまではかけようと思わないだろう。真梨子がかけなかったら永遠に2人は繋がらないのだ。それで必死になっていたが、もう疲れてしまっていた。

「あれ、真梨子君」
 薄暗い廊下から、顔を出した人。彼もそれほど期待していなかったのだろう。驚きが半分の顔で真梨子を見つめた。そして。お茶を入れようと席を立とうとした真梨子を制して、静かに言う。
「残っていたんだったら、また食事に行く? これからの予定は?」
 真梨子の予定はアパートの部屋に戻って、11時までに銭湯に行くだけだ。食事だってひとりで何か作ろうと思っていた。
「はい、ご一緒させてください」
 そう答えた後、それを1週間待ち望んでいた自分にようやく気付いた。


 約束などしていない。でも、それからというもの、金曜日の夕方は外回りから戻る森澤を待っているようになった。あの洋食屋で食事して、公園でプリンを食べて。帰りにあれば売れ残りの花を買う。いつもそんな繰り返しだった。そしてそれは真梨子にとって、1週間の中で一番楽しい時間だった。
 他の先輩方とみんなで食事に行くこともある。女の先輩が部屋で一緒に食事をしようと誘ってくれることも。確かにそれは楽しい。でも、それにも増して森澤との時間は嬉しかった。母のことを思いだして、それが辛くなくて優しい記憶になる。悲しみが慈しみに変化していく。母はこの世にはもういないけど、どこかで自分を見守ってくれているような気になった。
 真梨子の瞳がだんだん明るくなってくる。笑顔も自然にこぼれるようになった。


 6月の終わりに。新入社員の真梨子にもささやかなボーナスが支給された。手取りの毎月の給料にも満たない金額だったが、それで新しいブラウスを買った。
 てろんとしたクリーム色の地に大きめの花がプリントされている大人っぽいデザインで、襟の部分がカットワークになっていた。丸い山形の縁取りにぽつぽつと穴模様も開いている。それを手持ちの焦げ茶のタイトスカートに合わせるとよく似合った。
 家に帰ってからも何度も何度も着てみた。他の服と合わせてみたり、髪型を変えてみたりして。姿見の向こうの自分を見るのが帰宅後の日課になっていた。

 それに袖を通して、初めて会社に行ったのは次の金曜日だった。…そう、真梨子は高鳴る胸を押さえながら、時間が来るのを待った。夏至を過ぎたばかりのなかなか暮れない外の風景を見ながら、誰もいなくなった終業時間後のフロアで。
 少しは大人っぽくなれただろうか? 今は亡き母親が就職祝いにプレゼントしてくれた口紅を初めて付けてみた。鏡の中からはにかみ笑いをする自分がいる。自分から化粧したい気になるなんて思わなかった。
 少しでも。そう…少しでもいいから大人みたいになりたかった。同僚の、冴子先輩はさっぱりした服装だったが、いつも嫌みなく綺麗に化粧をしていた。すっきりとひかれた口紅の赤。真梨子の母親もそんなに化粧をする方ではなかったので、そんな身近な先輩はひときわ眩しく見えた。27歳という彼女の年齢から考えれば妥当なのかも知れない。でも、羨ましかった。
 …先輩みたいに、綺麗になれたら。うずたかく積まれた書類や本の間から、向かい合った向こうの机に目をやる。冴子の机は森澤の隣りだった。いくつか年下ではあるが、冴子は彼のことを「森澤君」と呼んでいた。ボーっとして話を聞いていないのが分かると、「やだ、しっかりしてよ!?」とばしっと背中を叩いたする。綺麗な花柄のブラウスがいつも妙に印象的だった。

「真梨子君…お待たせ」
 そう言って、扉の向こうから現れた人にふっと微笑む。そんな真梨子の机の上には10円玉の山がひとつも使われないまま10枚の高さで置かれていた。


「…真梨子君?」
 カサカサと花束のセロファンが夜風に揺れる。梅雨のさなかで降ったり止んだりの天気。今は濡れた傘を畳んで、片手に持っている。アパートまで送って貰う時間だった。真梨子はこの時間が嫌いだった。まだ、一緒にいたいのに。もう少しだけ話をしたいのに…あっと言う間に部屋の下に辿り着いてしまう。
「は、はいっ!」
 知らずに俯いてアスファルトを見ていた真梨子は弾かれたように顔を上げた。群青色の夜の風景をバックに森澤はいつもと同じ表情で微笑んでいた。
「真梨子君、表情が明るく戻ってきたね。笑顔が普通に出るようになってきたし」
 その言葉に笑って答えることは出来なかった。胸がドキリとする。斜め後ろを歩いていたからその音が聞こえるはずもないのに、もっと歩みがのろくなった。
「そ、そうでしょうか?」
「もうすっかり立ち直ったみたいだって、次長も話していたよ」
 その言葉は真梨子の胸を締め付けるのに十分だった。キリキリと素手で掴まれたように圧迫されてきしんだ。その目は大きく見開いて、森澤を捉えた。
「俺も、役に立てたんだと思うと嬉しいな」
 唇を噛んで俯いてしまった自分を、森澤がどう思ったのかは知らない。でも、自分は嬉しくなかったから同意することなんて出来なかった。その次に何か言われたらどうしようかと危惧したが、すぐに話が移った。
「…真梨子君は、夏の休みはどうするの? 九州のお父さんはこちらにいらっしゃるかな? …それとも君が向こうに行くの? 今年はお母さんの新盆になるんだしね」
 その時。
 真梨子は本当に冷たい心を抱えていた。だから、自分でも信じられない言葉が口をついて出てきてしまった。森澤は普通の何気ない会話のように言ったのだろう。でも今の真梨子にはあまりにきつい言葉になっていた。
「あの、先輩」
 真梨子は力のない視線で森澤の方を見た。
「父には…母の他に女性がいるんです。今もその人と一緒に暮らしています。…多分、この夏もお盆に一度戻るだけだと思うし。喪が明けたら、その方と再婚するんです」
 こんなこと、誰にも言わなかったのに。どうして、今、こうして森澤に告げてしまったのか自分でも分からなかった。友達にさえ内緒にしていたこと。本当は自分の父親の行為を許せなかった。
 母は病弱であったが、それでも父のことを大切にしていたと思う。単身赴任先から戻る彼をいつも暖かく迎え入れていた。それなのにそんな優しい母を父はずっと裏切っていたのだ。
 真梨子は高校に入学したとき、親戚の者からそのことを聞いた。その時から父は真梨子にとってとても遠い人間になって…一緒にいても心が少しも通っていなかった。それは今回の一連の母の不幸にしてもそうである。父の手など借りたくなかった。母は真梨子だけの母だった。
「私は、父のところへなんて、行きません。…会いたくないです」
 母じゃない女性と仲睦まじく暮らす父など見たくない。自分の中の父親は母の夫であった父だけだ。今の彼は真梨子にとっては見ず知らずの他人でしかない。
「…そう」
 森澤は短くそう言うと、それきり黙ってしまった。前を歩くその背中からは何の言葉もなかった。
 当然のことなのかも知れない。こんな話、誰も聞きたくないだろう。心が寒くなる、悲しい話を好きこのんで聞きたい者などいないだろう。一体何を望んでいたのか? …同情? 慰めて欲しかった? 一体、何と言って欲しかったのだろう…?
 残り少ない楽しい時間を台無しにしてしまった自分を情けなく思った。1分でも1秒でも長く、森澤と楽しい時間を過ごしたかったのに。それをみすみす自分でひっくり返してしまうこともなかったのに。
この時間が終わってしまうのが悲しかった。だから、「明るくなったね」とか「立ち直ったね」とか言われるのも嫌だった。森澤が自分に付き合ってくれるのも、母親を亡くしたばかりの娘を哀れに思ってのことだと分かっていた。
 紳士のような立ち振る舞い、型どおりの優しい穏やかな仕草。そんなものはとっくに物足りなくなっていた。でも、それを口に出すことなど出来なかった。その瞬間に全てが終わってしまう気がして。終わってしまうのはどうしても嫌だった、いつまでもこの時間を共有したかった。
 あっと言う間に真梨子の部屋の下に辿り着いてしまう。安っぽい鉄製の外階段の下まで来ると、森澤は足を止めて真梨子の方を向き直った。その唇が別れの挨拶を告げる前に。すっと、空気をかすめたときに。真梨子はそれより早く、必死な気持ちで遮っていた。
「あのっ、先輩っ…」
 自分の声がすごく焦っている。それに自分で気付いて、一息つく。森澤も不思議そうな顔でこちらを見ている。
「買ったばかりの、変わった紅茶があるんです。宜しかったら、飲んで行かれませんか?」
 続く言葉は出来るだけ何気ない調子で言った。今思いついたように、1週間前から考えていたことを語るのは難しかったけど。
 部屋もきちんと掃除した。ちゃんと紅茶用のポットも買った。真梨子の出来る限りの知識を寄せ集めて、どうしたら森澤ともう少しだけ一緒にいられるか考えた。部屋にお茶に誘えばいいと思いつくまでにも時間がかかった。コンビニも少なくて24時間レストランもない時代に、デザートの時間を終えたあと時間を潰す店はこの街にはなかった。あったとしても居酒屋くらいで、真梨子の知らない世界だ。
 その、必死の言葉を耳に受け止めたと思われる森澤が言葉をなくしたままこちらを見ている。真梨子の想像していた以上に驚いている。真梨子の考えたシナリオでは、森澤は遠慮しながらも、すぐに同意して部屋に上がってくれる筈だった。
「あの、先輩…?」
 返事を促すように話しかける。ボーっとして見えた森澤が少し真顔になって言った。
「あのね、真梨子君。こんな遅い時間に、若い女の子が男を部屋に上げちゃ駄目だよ?」
「…え?」
 思っても見なかった答えだった。真梨子の方が今度は面食らってしまった。
「あの、私は…」
 そんなつもりはないんです、ただ、あの…。言いたいことが声にならない。もどかしかった。そんな真梨子に彼は当たり前の笑顔で答えた。
「君がそんなつもりがないのは、分かっているから。そんなの恐縮しないでいいよ? じゃあ、お休み…」
 森澤の背中が遠ざかっていく。ぽつん、ぽつんと雨粒が暗い空から落ちてきた。

 …うそ。

 この状況が信じられなくて、手のひらで頬を覆った。じわっと生ぬるい手の温度が伝わってくる。まだ、自分自身が呆然としていた。
 背中は一度も振り返ることなくもやの中に消えていく。その速度を加速させるようにふたりの間にベールのような雨の糸が無数に降り注ぐ。真梨子はその姿が視界から消えてからもずっとその場を離れることが出来なかった。とうとう今夜、話題に上がることのなかった新品のブラウスが身体に張り付いている。ぞくぞくっと、背筋を冷たいものが流れた。


 翌日。真梨子は振り替えの休日で出勤ではなかった。商社なので、休日に飛び込みの注文が入ることもある。月曜の朝イチで届けて欲しいという注文に対応できれば、社の業績アップに繋がる。よって、注文のほとんどない土曜日と日曜日は社員が交代で電話番をすることになっていた。
 今のように携帯電話があれば、24時間、365日、どこにいても連絡を受けることが出来るだろう。でも、真梨子の時代はそうではなかった。電話、と言えば会社や家にあるもの。これが持ち運べるようになるなんて当時の誰が考えただろう。

 それでもいつもの出勤時間に合わせて目覚める。昨日の雨が嘘のように窓の外には真っ青な夏空が広がっていた。休日に晴れてくれないと布団も干せない。丁度梅雨でこのところ雨続きだった。ようやくの晴れ間に色々したいことがある。でも、布団の上に起きあがった瞬間。真梨子は激しい目眩を覚えた。吐き気もある。体中が泡立ってくるような悪寒が走った。
「…え? 何…?」
 改めて昨日の晩のことを考えた。あれから森澤の消えた視界をずっと眺めていた。何だか寒気がするなとは思った。でも大したことではないと考えていたのだ。いくらか時間が過ぎて、ようやく部屋に戻る。もう、隣りの銭湯に行く気力も残っていなかった。明日の朝にでも身体をお湯で拭こうと思い、そのまま布団を敷いて倒れ込んだ。
 頭の中がぐらぐらして何も考えられない。目を閉じてもあの素っ気ない森澤の態度が繰り返し映像で浮かんでくる。真梨子にはどうして彼があんなに冷たいのか分からなかった。特別なことを思っていたわけではない。ただ一緒にお茶を飲んで、あと30分でも1時間でもいいから一緒にいたかったのだ。森澤とふたりきりの時間を少しでも引き延ばしたかっただけなのだ。
 涙がとめどなく溢れてきて、嗚咽が狭い部屋にこだまする。その静けさが自分をもっと孤独に引きずり込む。この世の中で真梨子を想ってくれる人などもう存在しないのだ。あの優しかった母はもういない。父は望んだところで真梨子の方を向いてはくれないだろう。
 森澤だけが、真梨子を救ってくれたのに。あの一番辛いときに支えてくれたのに…こうして元気になってしまった今、もう彼は真梨子を顧みてくれないのか。
 外出したままの花柄のブラウス。着替えることもしなかった。身体も服もしっとりしたまま眠ってしまったのだ。風邪を引いてしまったのかも知れない。でも一人暮らしの部屋には体温計もなく、熱を確かめることも出来ない。食欲もないので、そのまま横になることにした。

だんだん朦朧としてくる。目を開けても視界が霞む。もしかしたら、熱が上がってきたのかも知れない。
「朝、下がったからと言って、油断しては駄目よ。今日は1日、大人しくしてなさい」
 風邪が治ると決まって母がそう言ってくれた。ランドセルをしょって学校へ行く気になっている真梨子を心配そうに覗き込む。そして、白い手を額に当ててくるのだ。熱は朝にはいったん下がる。でも昼間からぐいぐいと上がってくることもある。きちんと風邪を治しておかないとぶり返すこともあるのだ。
 身体の弱い母だったから、余計に真梨子のことを気遣ったのかも知れない。母はいつでも真梨子の傍にいて見守ってくれていた。やわらかな笑顔で。
 そんな記憶が脳裏をかすめると、目尻から涙が溢れてくる。つうっと伝って耳に入ってくる。生ぬるい水。

 夕方、アパートの大家さんが管理費を取りに来た。家賃は会社が一括して支払ってくれるが、管理費の1000円は直接手渡すことになっていた。よろよろと玄関まで出ていくと、真梨子の姿を見た大家の奥さんが仰天した。そしてすぐに医者を呼んでくれ、注射を打って貰うとどうにか身体が楽になる。大家さんの作ってきてくれた、優しい味のお粥を何口かすすると、睡魔が襲ってきた。

 翌日の日曜日も布団から身体を上げることは出来ないでいた。大家の奥さんが食事を運んでくれ、薬の世話もしてくれる。こんなところに来て、他人の優しさが身に染みた。もう真梨子には頼る親もない。高校時代に世話になっていた親戚はいる。彼らも十分に真梨子に優しくしてくれた。でも有り難いと思う反面、申し訳ないなと言う気持ちが拭えなかった。
いつの頃からか、自分は居候なのだと認識していた。どんなに親しくしようとも、どんなに打ち解けようとも親戚は親戚であり、家族ではない。ならば自分はどこに行けばいいのか、母の亡き今、真梨子の行き着く場所はどこにあるのか。
 薬を飲めば、すっと熱が引く。でも少したつとまたぞくぞくと寒気がしてくる。しつこい夏風邪がなかなか身体から払えない。もしかしたら、もうずっと自分が元気になることなどないのではないかとすら思えてくる。それでもいいと思った。
 だって、熱が上がって朦朧としたときは何もかもを忘れることが出来る。冷たい森澤の態度も、…自分の中に芽生えかけた想いも。みんなみんな封印することが出来る。けだるさの中に身を沈める。横たわった身体がどこまでも浮遊した。その空間の中で、真梨子はどこまでもひとりだった。

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