立夏・原案/広瀬もりの著

第三話


 明けて月曜日。重い頭で熱を計る。大家さんが水銀計を貸して置いていってくれたのだ。37度8分という高めの数値が出る。真梨子は上着を着込むと大家さんの家まで行って、電話を借りた。会社に1日休むと告げるために。大家の家の電話を借りるのは初めての経験だった。
 電話の向こうでは早めに出勤していたらしい冴子があれこれと心配してくれる。その優しさに素直に礼を言い、多分明日になれば出勤できるだろうと付け足す。月曜日の喧噪が電話の向こうから溢れていた。1週間のうちで一番忙しい曜日なのだ。申し訳ないな、とは思うが本調子じゃない自分が行って余計邪魔になってもいけない。ここはしっかり治してしまおうと自分に言い聞かせた。
 大家さんに礼を言って、10円玉を置く。そして、自分の部屋に戻るために外階段を上がりながら、あの喧噪の中に森澤はいるのだろうかとふと考えた。彼は外回りが多いから月曜日もいるときといないときがある。山積みの書類の影からそっと覗き見る森澤の横顔を思い浮かべた。それだけで胸がきゅっと痛くなる。今までの人生で感じたことのない、痛みだった。
 甘えるのもいい加減にしなければと思う。自分はもう社会人で、お金を貰って生活している人間なのだ。少しくらい辛いことや寂しいことがあっても、自力で乗り越えていかなければ。…頭では分かっている。でもどうしても森澤が心の中から出ていってくれない。
 金曜日の逢瀬、そのわずかな時間だけが真梨子の幸せだった。森澤が真梨子のためだけに時間を使ってくれる、真梨子のためだけに言葉を綴ってくれる、それが嬉しくて。そんな時間が少しでも長く続くようにと願ったのに。森澤があと10分でも20分でも早く来てくれないだろうか? レストランで食事を作るのが遅れて、待ち時間が長くならないだろうか…?
 待つ時間は長いのに、幸せはほんの一瞬で。ハッと気付くといつでも真梨子の部屋の前にいた。

 分かっている、森澤はもうとっくに大人で。自分のような小娘になど特別の感情を抱いてはくれないことを。どんなに望んでもそれは叶わないことを。それなのに諦めきれない。どうしたら森澤がこちらを振り向いてくれるのか、それを考えていると頭がごちゃごちゃになって言葉も上手く浮かばなくなった。そんな自分が子供っぽくて嫌だった。

「…先輩…」
 会いたかった、ただ、ひたすらに。最初は金曜日のあの時間だけで充分だった。森澤が手渡してくれる花を手に部屋に戻る。その花を見るたびに彼を思い出すことが出来た。森澤は真梨子が母を思い出せるようにと買い求めてくれるのに、真梨子の心の中ではもう、花は森澤の化身になってしまっているのだ。
 だんだん陽気が良くなると花の保ちが悪くなる。自分が日中いないときは出来るだけ日陰の涼しいところに花瓶を置いたりした。花の保ちの良くなると言う方法を色々試してみた。10円玉を沈めたり、台所洗剤を一滴垂らしたり。もちろん、朝晩に水を取り替えて、そのたびに茎を少しはさんだ。それでもこの頃では月曜日まで保たせるのがやっとになっていた。花が枯れるとふたりの時間が消えてしまうようで悲しかった。
 今も真梨子の枕元に花瓶が置かれている。俯いたカーネーションと小さめの薔薇。ヒャクニチソウ。それにいくらかのかすみ草。あまり面倒を見てあげられなかったこともあって、すっかりしおれている。

「…真梨子ちゃん?」
 そのとき。コンコン、とノックの音がして、それからガチャガチャとドアが開いた。大家さんかと思ったが、戸口から顔を覗かせ、入ってきたのは会社の同僚である冴子だった。いつものようにすっきりとしたパンツスーツでさっさと部屋に上がり込んでくる。
「冴子さん…」
 先輩とは呼ばないで、同じ平社員なんだからと言われていた。だから、真梨子は冴子を名前で呼ぶことにしていた。でも、どうして? 時計を見るといつの間にか6時を回っている。日が長いのでもうそんなに遅くなっていたなんて分からなかった。
「具合はどう? どこか痛いところはない?」
 真梨子よりだいぶ年上のこの女性はてきぱきと辺りを改める。
「洗濯物があったら出してちょうだい。私、これからランドリーに行くから。一緒に洗ってきてあげる」
「え…でも…」
 風呂も付いていない4畳半一間の部屋には洗濯機などなかった。銭湯の脇に洗濯機を並べたささやかな洗い場がある。銭湯が副業でやっている。お金を払うと1回使うことが出来るのだ。
「私だって、洗い物があるの。少しくらい増えても同じだわ。汗をかいたでしょう、さあ、遠慮しないで。こう言うときはお互い様なのよ?」
 そう言いながら、持ってきた紙袋にまとめてあった真梨子の洗い物を詰めていく。こちらが止める間もないくらいの早業だった。ついでに今着ていた寝間着もはぎ取るように着替えさせられた。
「近所に住んでいるんだから、もっと早く呼んでくれたら良かったのに。大家さんに鍵を借りるときに伺ったわ、ひとりでぐったりしていたんですって?」
「…はあ」
 言葉そのものはきついが、眉を少しぴくぴくっとさせた冴子の目は笑っていた。
「簡単だけど、食事を作ってきたわ。私の分を作るついでだったけど」
 タッパーや小鍋を取り出す。鍋は火にかけて温めてくれた。クリームシチューだった。タッパーの中身は蒸し鶏とグリーンサラダ。魔法のように現れるご馳走に真梨子は目を丸くした。一人暮らしに慣れている冴子にはこの程度、朝飯前なのかも知れない。でも、真梨子は驚くばかりだった。何しろ、未だにみそ汁を作るのにも一苦労なのだ。
「ふふ、それからね…」
 冴子はもったいぶったように荷物の影からそれを取りだした。
「え…?」
 両手を広げたくらいの大きさのあるブーケだった。薔薇やカーネーションや…あと、真梨子の良く知らない花がたくさん。その全てが淡いピンクでまとめられていた。
「冴子さん、これ…」
 わざわざ買ってきてくれたのだろうか? こういう風に花束にまとめて貰ったら、結構なお値段になってしまうのではないだろうか? こんなに色々作って来てくれた上に、このようにして貰っては申し訳ない。
 戸惑っている真梨子を冴子の視線がおかしそうに辿る。それから、彼女は首をすくめてくすりと笑った。
「ふふ、白状しちゃうとね。これは私が買ったんじゃないの。そう言うことにしちゃっていいって言われたんだけど…やっぱり、シラを切るのは柄じゃないわ…」
 くすくすくす…と笑いを堪えながら、彼女はもう一つ、真梨子の前に差し出した。
「あ…」
 それを見てハッとする。だって、見慣れた、あの洋菓子屋のケーキの箱…。
「森澤君がね…」
 おかしくてたまらないと言うように、冴子が話し出す。
「私が、アパートの下まで来たら…少し向こうの電信柱の影でボーっと立ってるのよ? どうしたのかと思ったら、これを渡されてね。それなら自分で渡せばいいのにって言っても、そんなことは出来ないって…そのまま逃げるように行っちゃったの」
「え…」
 呆気にとられた真梨子が目を見開くと、冴子がにこっと笑って、花瓶は余計にある? と聞いてきた。真梨子の部屋には花瓶はひとつきりしかない。枯れかけているとはいえ、大切な花が活けられている。そう告げると、台所から小鍋を見つけてきて、きれいに飾ってくれた。
「…ふふふ、何度見てもおかしいわね。まったく、森澤君は…どんな顔してこのお花を選んだのかしら? あの、森澤君がよ? ふふふ、お花なんて…似合わないわ。ああ見えて、彼も真梨子ちゃんのことが可愛くて仕方ないのね。今日は1日何だか元気がなかったもの…」
 白いミルクパンの中にピンク色の山が現れた。甘くていい香りがする。
「じゃあ、私、そろそろ行くわね。お鍋やタッパーは後から返してくれればいいから…じゃあ、ゆっくり休んでね? お大事に」
 ぱたん、とドアが閉まる。ガチャガチャと鍵の閉まる音。この後、大家さんに鍵を返しに行くのだろう。真梨子はしばし、呆然と布団の上に座り込んでいた。何が何だか、頭が混乱している。
 それからうつろな視線をミルクパンの中に活けられた花に移した。
「…先輩が?」
 答えてくれるはずもない花に問いかける。
 先輩が? 森澤が…? 
 冴子の話では森澤は真梨子の部屋の下でいくらかの時間を過ごしていたらしい。じっと上を見上げて。…だったら、来てくれたら良かったのに。先輩が直接。冴子さんになんて頼まないで、手渡しに来てくれれば良かったのに…どうして?
『あのね、真梨子君。こんな遅い時間に、若い女の子が男を部屋に上げちゃ駄目だよ?』
 たしかに、そう言った。先輩はそう言った。でも、今はそんなに遅い時間じゃない。何だったら冴子さんと一緒に来てくれれば良かったじゃないか。どうしてそんなに遠慮するの? 私と会うのが嫌なの? それだったら、どうして今まであんな風に一緒にいてくれたの…? 本当は迷惑だったの?
 また、涙が溢れてくる。どうして、森澤は来てくれないのだろうか? もしも私のことを心配してくれるのなら、直接会って、様子を確かめようとは思ってくれないのか。花なんか、欲しくない。プリンもいらない。かたち通りの言葉なんて必要なかった。ひとりぼっちで寂しくて寂しくて。だから傍にいて欲しかった。
 あの時みたいに抱きしめてくれないだろうか? いつもそうして欲しいとは言わない。でも、こんな風に心細い時は…せめて、少しの時間だけでも。

 ひとりじゃないって…そう、思わせてくれないだろうか?

 そのまま泣きじゃくりながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。次に真梨子が瞼を開けたとき、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。薄いカーテン越しに月明かりが差し込んで狭い室内をほんのりと青く照らし出す。
 その時。ふっと誰かの気配を感じた。声がしたとか、物音がしたとか、そんな風じゃない。でも確かに人の呼吸の様なものが背後から伝わってきたのだ。真梨子は恐る恐る寝返りを打ってそちらに向き直った。
「…あ…」
 思わず漏れ出た声がかすれる。そこにいたのは、いるはずのない人。枕元に座って優しい目でこちらを見下ろしている。
「せん…ぱ…い…」
 どうして? どうして、森澤がいるのだろう? 信じられない想いでその人を見上げた。すると彼のまっすぐだった彼の口元がふっと上がる。微かな笑顔。真梨子の心の奥からはもうこみ上げてくるものがあった。視界が一瞬、きらりと流れる。次の瞬間、生暖かいものが頬を伝った。
「来て…下さったんですか?」
 それだけ言うのがやっとだった。会いたかった、声を聞きたかった。寂しくてたまらなくて、ひとりでは潰れてしまいそうで。こんな時だからこそ、傍にいて欲しかった。それを望んで、でも叶わないことだと諦めていたのに。まさか、こうして来てくれるなんて。こんなことがあっていいのだろうか?
「真梨子君が心配で、とうとう来てしまったよ」
 大好きな声が待ち望んでいた言葉を告げる。そんな、先輩が、本当に? 私のことが気にかかって来てくれたの? 応えることすら出来ずにただ涙を流す真梨子に森澤はますますやわらかく微笑んだ。月明かりに照らし出されてそれはいつもよりもどこか儚げで冷たく感じられたが、そんなことは構わなかった。
「…すみません、御心配お掛けして…」
 声を詰まらせながら、真梨子はどうにか言葉を押し出した。ふうっと目の前が霞む。
「嬉しい…」
 薄い布団をぎゅっと握りしめた。布団の端が目尻にあたって、ついっと涙を吸い取る。真梨子は嗚咽を上げながら、必死で息を整えた。手の甲で涙をぬぐい去り、森澤をひたすらに見つめる。
「今夜はずっと傍にいてあげるからね。心配しないでゆっくりおやすみ…」
 森澤の手のひらがすっと近付いてきて、真梨子の額に微かな重みと共に降りた。その指先は何故かとても冷たかった。でも指の感触も森澤のものだ。いつになく親密な態度に胸が高鳴る。そんな真梨子の心中が伝わったかのように、森澤はふうっと目を細めた。
 え…? と思った瞬間に。森澤が背中を丸めて真梨子の顔に近付いてくる。覗き込むように。顔を逸らすことも、瞳を閉じることも出来ずに、真梨子は彼の目をじっと見つめていた。
「真梨子君…」
 ふっと、熱い吐息がかかる。鼻の先に、そして唇に。身体が布団に沈み込んでしまったように動かない。そのまま意識の底に潜り込むように、そっと目を閉じた。

 カチッ、と音がして。ハッと瞼が開いた。時計の針が定時をさした音。枕元の目覚まし時計は丁度午前2時。
「…え?」
 真梨子はきょろきょろと首を左右に振った。誰もいない、ひとりきりの部屋。次の瞬間、がばっと起きあがっていた。視界の先にある上がり口の向こうのドアはしっかりと閉ざされている。四角い磨りガラスの向こうにも人影はない。枕元の畳に手で触れて確かめる。そして、ようやく今までの全てが夢であったことに気付いた。
「…あ…っ…」
 膝を抱えたまま、両手で口元を覆う。そうだ、まさかそんなはずもないのに。森澤がここに来てくれるはずもないのに…私ってば、何を考えていたのだろう…!?
 真梨子の目からは、また新しい涙がぼろぼろとこぼれてきた。膝にかかった布団に顔を押し当てる。
「先輩…っ!」
 会いたくて、会いたくて。とうとう幻まで見てしまうなんて。ありもしない事を思ってしまうなんて…そして。
 真梨子は。自分がとんでもないことを思い描いていたことに気付いた。そんなこと、望むべくもないことを。森澤が…自分の…。
「…ああ、…嫌っ…!!」
 真梨子は思わず大きくかぶりを振っていた。まっすぐの長い髪がバサバサと揺れる。その音が耳元で弾けた。
 何て浅ましいのだろう、何て女なのだろう。はしたない、そんなことまで考えてしまうなんて、森澤に失礼じゃないか。いくら望んだこととはいえ、こんなこと、あるわけもないのに。どうしてしまったのだろうか、自分は。熱を出して、気がおかしくなってしまったのだろうか?
 でも、それよりもさらに許せなかったのは。夢の中でもそれが本当になってくれればいいのにと願ってしまうことだ。もう一度、瞳を閉じたら、森澤の幻影が戻ってこないだろうか。もう一度、自分を見て、やわらかく微笑んでくれないだろうか。優しく触れて、口付けて。どこにも行かないから、ずっと傍にいるからと言ってくれないだろうか…!?
 しんしんと差し込む光が真梨子の心を凍らせていく。細い細い嗚咽が長く部屋に響いていた。

 翌朝。泣き腫らした目を開ける。そっと上体を起こしてみると、少しふらふらするものの、だいぶ楽になっていた。身体の脇に両手を付いて、立ち上がる。昨日までが嘘のように身体が軽かった。
 借りていた体温計で測ってみると、36度5分。平熱だ。真梨子は冴子が持ってきてくれた料理の残りを自宅の鍋や保存容器に移すと、開いたタッパーと鍋をきれいに洗った。お湯を沸かして身体を拭くとすっきりする。髪も念入りにとかした。
 そんな風に準備して普段通りに出勤した真梨子を冴子を初めとする社員は驚きの表情で迎えていた。
「真梨子ちゃん…まだいいのに。もう1日、大事を取った方が良かったんじゃないの?」
 紙袋に入れてきた鍋とタッパーを手渡すと、冴子が心配そうに言った。
「いいえ、もう大丈夫です。御心配をお掛けいたしました」
 真梨子はにっこり微笑んで答えた。そして、まだまだ表情を崩さない冴子にぴょこんと頭を下げる。
 熱が下がったと思ったら、もう身体が動き出していた。自分の中の心を止めることなど出来ない。森澤は決して振り向いてはくれないだろう、でも会いたい。横顔でもいい、そっと見つめていたい。出来ることなら、ひとことでもふたことでも言葉を交わしたい。花とプリンのお礼も言いたかった。
 森澤に会えないのは週末だけで充分だった。水を忘れた花が枯れるように、森澤に会えない真梨子はしおれてしまう。森澤のことを考えて、森澤を感じていくだけで、信じられないくらい満たされていくのだ。もうその想いを止めることなど出来なかった。
 どうにもならないことと知っていても、傍にいたい。出来ることなら金曜日のあのささやかな時間を繰り返し繰り返し味わいたい。真梨子君、と優しく呼んでくれる声。それを頼みに。支えられて、生きていくのだ。もうしばらくの間だけでも。
 それなのに、森澤のデスクはいつまでたっても空いたままだった。始業時間ぎりぎりにやってくるような人ではない。いつも30分以上前に出勤して、他の社員がお茶を飲んだり雑談したりしていてもせっせと仕事を進めている。口数は少ないが彼が営業でそれなりの成績を上げることが出来るのはそんな真面目で誠実な人柄が相手に認められるのだろう。
 このままでは声を掛ける暇もなく仕事が始まってしまう。そう思いかけたとき、始業のベルが響いた。次長が号令を掛け、皆は起立する。所長が10人足らずのメンバーをぐるりと見渡して「おはよう」と元気よく言った。それから今日の業務内容について事細かな指示がなされる。
 決算は来月なので月末と言ってもそれほど忙しくないらしい。真梨子に任される仕事も急を要する種類のものでもなかった。
「…それから」
 最後に次長が付け足すように言う。その視線が森澤のデスクをチラ、と見たのを真梨子は見逃さなかった。
「森澤君は今日欠勤だから、風邪を引いたらしい。休ませてくれと連絡があった」
 一同がざわつく。真梨子の入社以来森澤が病気で仕事を休むことなどなかった。でもそれ以前から彼はそう言うことがなかったらしい。皆の驚きようからそれが伝わってくる。
「真梨子君がようやく出勤したら、今度は森澤君だ。今年の風邪はしつこいようだから、皆も体調管理にはくれぐれも気を付けるように。…真梨子君も具合が良くなかったら、無理せずに早退しなさい」
 真梨子の方を向き直った次長はそれまでよりもやわらかい口調でそう告げた。その隣りで所長も同感だ、と言うように頷いている。その瞳が本当に優しくて、申し訳ないくらいだった。
 次長にも所長にも年頃の娘がいる。だから真梨子は彼らにとって本当の娘のような存在なのだろう。他の社員も同じだ。一番年少の真梨子にとってこの小さな会社はまるでたくさんの父親や兄や姉がいてくれる温かい空間だった。ここがなかったら、母を亡くしたあの悲しみから到底立ち直ることが出来なかっただろう。
 支えられ慈しまれて生きている。子供の目から見て「社会」と言うものは毅然とした近寄りがたいものに思われた。でも実際にそこに飛び込んでみると勝手が全く違う。グレイのかっちりした事務器具の中を歩き回る人々は温かい心と優しい笑顔を持った普通の人間たちだった。当たり前のように声を掛け合い、励まし合う。
 そして、真梨子にとってその一番中心的存在であったのが他の誰でもない、森澤その人だったのだ。
 森澤先輩…来ないんだ。そう思ったら、せっかくの元気がしゅううっとしぼんでしまった気がした。森澤に会いたくて頑張ってここまで来たのに、会えないなんて。ふっと顔が曇った真梨子を冴子が心配そうに覗き込んだ。
「…真梨子ちゃん、具合悪い? いいのよ、今日は…」
「あ、大丈夫です。すみませんっ!」
 真梨子はつとめて明るい笑顔を作るとそう答えた。ああ、駄目だ、心配かけちゃ。半人前なんだから、それくらいはちゃんとしなくちゃ…。
 机の引き出しから大きめの電卓を取り出す。数字のボタンが大きくて重くて軽く叩いただけでは反応しないような気難しいもので、最初のうち、真梨子は液晶画面から目が離せなかった。ようやくこの頃、紙の上の数字を追いながら叩けるようになり、効率が上がってきた。
 冴子はカチカチと鮮やかな手つきでそろばんを弾いている。電卓などよりもよっぽど効率がいいという。彼女は商業高校の出身で真梨子が聞いたことのないような難しい資格を色々所得していた。現代風の明るい外見とは対照的になかなかの有能な社員なのだ。勤務時間中は綺麗に塗られた化粧の顔にフチのないおしゃれな眼鏡を掛ける。軽い遠視なのだと言っていた。
 一度に20ほどの数値を足していき、合計を出したところでふっと視線を上げる。その先に仕事をする森澤の姿はない。それが寂しくて思わず手が止まってしまった。営業でいない日も多かったのに。それでも森澤の姿を見ているだけでとても励みになっていた。そんな自分を改めて思い知らされる。その後、ハッと気付いて仕事に戻る。でも並んでいる数字が森澤の最後に見た表情と重なっていく。
 先輩、ひとりで辛くないだろうか? 自分は熱が高くて動けなくて、本当にどうしようかと思った。大家さんの奥さんが助けに来てくれなかったら、本当にどうなっていたか分からない。
 そう言えば森澤のアパートは男ばかりの独身者向けで、大家も在住していないと聞いていた。洗濯物を外に干しっぱなしにして、何度も雨に濡らしてしまったと苦笑していた顔を思い出す。そう言うとき、真梨子のアパートだったら、大家さんが合い鍵を使って取り込んでくれる。
 もしかしたら、ひとりきりで苦しんでいるかも知れない。薬は飲んだのだろうか? 色々な考えが心の中を駆けめぐる。もう仕事など手に付かなかった。

 だから、3時のお茶の時に給湯室で、とうとう冴子から言われてしまった。
「真梨子ちゃん、もう今日はいいわ。帰って横になりなさい。まだ、きっと本調子じゃないのよ。ぶり返したら大変だわ…あの森澤君ですら倒れるような風邪ですもの…」
 森澤、という名前を耳にして、また心臓がどきんと高鳴った。こんなことを聞いていいとは思えなかった。でも…聞かずにはいられなかったのだ。
「あの、冴子さんっ!」
 真梨子はお盆を両手でぎゅううっと抱えながら、思い切って訊ねてみた。
「森澤先輩のお部屋って…ご存じでしょうか?」
「…え!?」
 やかんの沸くのを待っていた彼女は驚いた顔でこちらを向いた。眼鏡を外して、ぱちぱちっと瞬きする。
「知ってるけど…それが?」
 ずいずいっと覗き込まれて、思わず俯いてしまった。耳が熱い。
「あの…色々お見舞いいただいたし…、その、男の方ばかりの単身向けの部屋だと伺ったので…もしかしたらお困りになっていらっしゃるのではないかと思って。その…ちょっと様子を見に行こうかなとか、戻り際に…」
「まあ…」
 まさか、真梨子がそんなことを言い出すとは思いもしなかったのだろう。冴子は本当に信じられない、と言う表情だった。その口元がふふっと緩む。
「駄目よ、真梨子ちゃん。若い娘さんが男の部屋になんて行って、襲われちゃったらどうするの。よく考えなさい」
「…え…」
 そんなこと思いもしなかったから。ただ、冴子がしてくれたようにちょっと顔を見せて様子を伺うだけのつもりだったから。冴子の意外な言葉に真梨子の方が真っ赤になってしまった。そんな真梨子の頭にぽんと白い手が置かれる。
「…な〜んてね、そんなはずもないでしょう? 高熱出して倒れていたら、さすがの森澤君も手も足も出ないでしょう…と言うか、もともと彼はそんなタイプじゃないわ。堅すぎるくらい堅い男よ」
 そう言うと彼女は何ともコケティッシュに首をすくめて微笑んだ。
「私も一緒に行ってあげたいとこだけど、今日はこれからデートなの。ごめんなさいね」
 ぺろっと舌を出して。年上の人なのにとても可愛らしいと思ってしまった。冴子のような女性だったら、森澤だってその気になってくれるのだろうか? いや、それどころか…冴子と森澤の間には何かあったのではないだろうか…?
 そんな思考が頭をよぎり、考え直す。ああ、何て浅ましいのだろう。自分が振り向いてくれないからって何てことを考えるのだろう。
「いいわ、分かりやすく地図を書いてあげる。そんなに入り組んでないから、すぐに行けるはずよ…」
 真梨子のそんな心中を知ってか知らずか。冴子は何ともない感じでさらりと言った。

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